大江の猟師Kさんから鹿肉をいただいたので燻製にしてみた。
血抜きしてあるとはいえ、やはり置いておくと血が滲み出てくる。最初に少し塩水に漬けて血抜きが必要だ。市販の牛肉や豚肉はほとんど血の気がない。どうやって抜いているのだろう?
鹿肉は、ベーコンにする豚バラのような脂身はほとんどない。臭みはハーブで消せるが、脂身が少ないためかややパサパサした感じの食感だ。端の方や小さく切り分けた肉は乾燥してジャーキーのようになってしまう。やはり燻製には適度に脂身のある肉の方が合っているようだ。
原油先物価格が上昇している。今でこそガソリン価格はリッター150円前後だが、先物価格が影響してくる来年にはもっと上がるだろう。「風が吹くと桶屋が儲かる」ではないが、原油価格が上がれば、USAでは飼料穀物のバイオエタノール作物への転換も進むだろうし輸送コストも上昇し、結果食肉価格も上がる。話題にはなっても今一つ現実感を持ってとらえられていなかった食糧不足が切迫したものとなってくるだろう。
鹿なども蛋白源として確保できるように今から準備しておこう。
映画そのものは、ゾンビ、サスペリア、マッドマックスなどをない混ぜにした、マッドサイエンティスト&スプラッターものでグロいB級テイストだった。これではせっかくのミラの目と脚の魅力も半減以下だ。アメリカ映画もだいぶ行き詰っているのかな、と感じさせられた。
次の“Ⅳ”でもう一儲けを、と引っ張るストーリーは見え見えで、「バイオハザードⅣ」では、お互いにエスパー的怪物に「進化」した、<アリス(ミラ)生みの親のサイエンティスト>VS<アリスとそのクローン達>の最終決戦となるであろう余韻を残して終わる。アラスカに逃げた生き残り達がどう絡むのかも“Ⅳ”へ引っ張る伏線となっている。
それにしてもアメリカ映画というのは、どうしてこうも銃をガンガン撃ちまくるのか。銃社会を固定化しようと企むアメリカの闇勢力の意図を感じざるを得ない、一種の「サブリミナル映画」なのだろう。
あまりのグロテイストに閉口して、口直しに「雲南の少女 ルオマの初恋」という、中国版純愛映画も見てきた。ストーリーそのものは他愛もない典型的な「純愛映画」で、まあ口直しにはちょうど良かった。
ただ、映画の舞台となっている山間の民、ハニ族の村の棚田風景は圧巻だった。日本の棚田とはスケールが違う。主演の少女もハニ族とのことだったが、笑顔がとてもかわいいなかなか魅力的な少女で、民族衣装が良く似合っていた。「バイオハザードⅢ」のアリスとは好対照で、それだけでも見るべきところのある映画だった。
季節がらこのところマツタケネタばかりである。
今日は、宇治田原マツタケ研究会、まつたけ十字軍、それに小豆島マツタケ研究会から視察にお見えの森川さんも交えて、山本山で新しい施行候補地のキノコ発生調査を行った。残念ながらマツタケは発見できず、他のきのこも少なかった。
調査でおなかがすいたところで山本さんからマツタケご飯の提供があり、皆でおいしくいただいた。
山へ行く途中、稲刈りも終わった田んぼに、藁葺きで3~4階建ての巨大なやぐらがいくつも組まれていた。秋祭りの準備かと思っていたのだが、地元の茨城さんの話によると、宇治田原特産の古呂柿を干すためのやぐらであった。
作るのに手間がかかるため近年は作る人も少なくなって、出来上がった古呂柿もほとんど地元の人同士で年末年始の縁起物・贈答品として直接取引されるため、市場にはほとんど出回らない幻の品なのだそうだ。
12月初旬頃、少しは農協の市などで販売されるそうなので、その頃買いに来ようと話していると、茨木さんが自宅に保存してあるものをわざわざもってきてくださった。皆で少しずつ分けていただいたが、よくある干し柿特有の粘りつくような濃い甘さではなく、さっぱりとした上品な甘さでいくつでも食べられそうであった。
マツタケもさることながら、こうした地域の伝統ある特産品も大事にしていきたいものである。
集合場所風景。わざとピンボケにしてある。
で、ムスメがマツタケを「見つけた」 \(^o^)/\(^o^)/ \(^o^)/
ようやく今年初めてのマツタケにありつけた。
お吸物と茶碗蒸しでありがたくいただいた。おいしかった。
さて、どうして町名を明かせないのかというと、別に公表を止められているわけではない。
今回の収穫も、実は自分達で見つけたのではなく、見つけさせてもらったのだ。
案内されたマツタケ山の情況は、それは悲惨なものだった。まつたけ十字軍でマツタケ山再生の勉強をさせてもらっている身からすると、とてもマツタケが採れるとは思えない、はっきり言ってすでにマツタケ山としては死んでしまっている山だった。しかし、都会暮らしでマツタケの取れる山がどんな山かも、現在の里山の荒廃のこともよく知らない人達、とりわけ子供達は何も知らず無邪気に一生懸命マツタケを探していた。
そりゃー、他にいくらかでもマツタケが生える、もう少しましな山もあるのだろう。「そんな山に素人を入れてシロを踏み荒らされてはたまらん」という気持ちも分からないではない。けれど、マツタケ狩り参加者を新聞で一般募集し、参加費も取った上にそんな山に案内して100%ありもしない自生マツタケを空しく探させる。いくら単なるお祭りイベントだといってもこれはあまりにヒドイ。
それでも一応、数人はマツタケにありつける仕掛けはある。いわゆる「置きマツタケ」だ。主催者側であらかじめ他で採れたマツタケを山の数ヶ所に置いてあるのだ。参加者はおよそ150人くらいだから30人に一人くらいは当たる計算。
でも同じ人が何本も見つけたり、見つけ残しがあったりしてはうまくない。そこで、置いたマツタケを一人が何本も見つけないように、また残らず発見されるように、頃合を見計らって先回りしていたスタッフが自分の持ち場の置きマツタケが見つけられるように適当に参加者をそれとなく手招きしたり、声をかけたりして誘導するわけだ。
写真はスタッフの手助けで1本ゲットしたムスメ。ヒモで囲まれたマツタケ狩り許可領域はすでにアカマツの墓場状態だ。生き残っているアカマツはわずか10本余りで腐植も厚く積もっている。これではまつたけが生える方が不思議なくらい。私は早々にガッカリしてあきらめた。
もうお分かりだろう。町名を明かせない理由も、私達がマツタケを1本手にできたわけも。スタッフも男、採る気満々のオジサンやオバサンよりはどうしても若い女性や子供達を喜ばせたくなるのは人情というものだ。で、わがムスメはスタッフに手招きされて首尾よく1本ゲットできたというわけなのだ。まあ、例え「置きマツタケ」だろうとマツタケはマツタケ、ありがたくいただいて帰りおいしくいただいた。
しかしマツタケのおいしさとは逆に、この後味の悪さは何だろう。たまたま若いムスメを連れて行ったから他の参加者を出し抜いてゲットできたというバツの悪さもさることながら、こんな詐欺まがいのことをやっていたのでは、参加者の田舎の町に対する印象も悪くなりこそすれ決して良くはならないし、里山の荒廃と対策の必要性に対する都会の人たちの理解も得られない。
実際、このイベントはもう数年続いているそうだが、今年は募集500人に対して参加者はわずか150人程度だった。参加者の大半がマツタケにありつけず、ありつけても全て「置きマツタケ」で他人を出し抜くかスタッフの気を引かないとゲットできないとあっては、いささか白けムードが漂っていたのもしかたない。このままではこのイベントも、「置きマツタケ」探しの出来ゲームだと割り切って参加してくる人だけしか来なくなり年々ジリ貧となっていくことだろう。もちろん私達ももう二度と行くことはない。
爽やかな秋らしい天気だった。いつもにもましてバイオエタノール飲料に食べ物の差し入れが多く、恒例の“朝ミーティング”は少々長引いてしまった。私も昨日作ったベーコンを持っていったがまあまあ好評でホッとした。
今日の作業は西側屋根(写真右)の垂木の隙間にさらに垂木を追加。隙間があるとなんとなく間が抜けた感じだったが、埋まるとなかなかログらしい屋根の姿が見えてきた。とくに中側のロフトから見た屋根は秋の日差しと影とのコントラストが美しい。
今日は参加者が少なく、途中で帰らねばならない人もいて、みなフル回転しても残念ながら目標の野地板張りまではいけなかった。
初めて屋根に上っての作業にも大活躍の2期生福山さん。ご希望の記念写真、しっかり載せておきました。
福山さん、「2期生はログビルダーというより大工さんみたい」とおっしゃっていた。確かに2期生は、1期生が積んだログ壁に屋根を作るところから参加したため、まだログ壁積みを経験していないので、いわゆるログハウスを作っている実感は少ないかもしれない。
しかし1期生の私としては、屋根作りを経験してからログ壁積みに取り組めるのも案外良かったのではないかと思う。なぜなら1期生は、トラス作りや屋根工事の経験無しにログ壁積みから始めた(手順通りだから当然なのだが)ので、先の工事を見通してどの工程は慎重、正確にやらなければならず、どの部分は多少想定外でもなんとかなるのかが分からなかったからだ。やはり、ログハウスの本を読んだり説明を聞いたりしただけでは分からない、実際に工事してみて初めて分かるところも結構あるからだ。
久しぶりの正ちゃん(中島)、屋根で大活躍。
今日の参加者はタイトル画像のメンバー(桜井、足立、中島、福山、吉川、宮崎)に、途中まで参加の片岡さん(鹿肉、きゅうりにパプリカ差し入れありがとうございました)、こちらも久しぶりの榎原さんでした。
「まつたけ十字軍」の友軍でマツタケ山再生活動をされている方からまつたけ発生の喜びの一報が入った。
収穫されたマツタケの写真を見ると、まだつぼみのものも多い。思わず「まだ傘も開かないつぼみのうちに採ってしまったのでは胞子も飛ばず、来年以降の増産が見込めなくなってしまうのでは?」と苦言を呈してしまった。しかしこれには次のような事情があったのだ。
報告をくれた方によると、同じ思いでつぼみのうちから採ってしまうことには反対したのだが、地元のメンバーから「知らない人が山をうろついている。どこから情報が漏れたのか。早く採っておかないと盗られてしまう。」という声が上がって、やむを得ずつぼみのものも採集した、とのことであった。
マツタケをめぐって地域の人たちが疑心暗鬼になってしまうような現状は、里山荒廃やマツタケの減少以上に悲しいことだ。山が荒れるのは人の心の荒みの反映なのかもしれない。
このこと以外にも、最近いろいろな場面や事件で人の心が荒んできていると感じさせられることが多くなっている気がする。人間も「マツクイムシ」ならぬ「ヒトクイムシ」にとりつかれてしまったのだろうか。どうしてこんなことになったのか。本当の豊かさ、心のゆとり、豊かさ、思いやり、言うのは簡単だが、実現するには何が求められているのか、何をしなければならないのか考えないといけない。