tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

てか映画の中でしかそんなの起こらんぞ

2007-04-23 19:57:56 | cinema

「まあ、所詮フィクションさ」って、出来の悪い映画に対するいつもの感想。
在り得ねーって設定が積み上げられると、なんだかな・・・・・・orz 
<てか映画の中でしかそんなの起こらんぞ>

Only in the movies......
http://www.nostalgiacentral.com/features/20moviethings.htm

わはははは。・・・・・・確かにそうだよね。
1. It is always possible to find a parking spot directly outside or opposite the building you are visiting.
駐車したい時に駐車スポットがいつも空いているのは不思議だよね。
3. Television news bulletins usually contain a story that affects you personally at the precise moment it's aired.
テレビをつけると、タイミングよく気がかりな事件のニュースが流れるのはなんで?
7. All bombs are fitted with electronic timing devices with large red digital displays so you know exactly when they are going to explode.
時限爆弾のデジタル時刻表示だけじゃなく、タイムマシンもそうかな。
9. Once applied, lipstick will never rub off. Even while scuba diving.
スクバダイビングに限らず、サーフィンした直後に髪の毛が濡れていないでセットされた状態って・・・・・・。
31. Plain or even ugly girls can become movie star pretty simply by removing their glasses and rearranging their hair.
みにくいアヒルのコは、コンタクトとヘアメイクで映画スターになりましたとさ。


エターナル・サンシャイン

2007-04-22 16:43:33 | cinema

ずっと心の奥にしまっておきたい、大切な映画の一本。

甘く切ない記憶。恋は、切なさと楽しかった記憶が表裏一対になっているものかもしれない。楽しければ楽しいほど逢えない時間の切なさが増し、切なければ切ないほど強く記憶に残っていく。
そして失恋の苦しさは、幸せだった日々に確実に比例するのだろう。幸せが深ければ深いほど、それを失った時の心の痛手はより大きくなる……。 食事も喉を通らず、夜も眠ろうとしても眠れない。重たい気持ちを抱えて過ごす毎日。だれも分かってくれない長い夜を迎える。フロイトは、つらい記憶に対処するために記憶を抑圧するという説をとなえた。しかし、最近の研究、(ダルハウジー大、カナダ)によれば、楽しい出来事は不幸な出来事よりも思い出されにくいという。だから、なかなか忘れられないんだね・・・・・・。涙が止まらないなら、誰かに頼ってもいい。 助けてと言える勇気が必要・・・・・・ 失恋鬱の苦しさを解ってくれる人に助けを求めること・・・・・・。
失恋による心の痛手は、種にとって不可欠のことなのだろう。この痛みゆえに、より愛が深まり、そして種の保存につながっていく。

もしも、記憶喪失になったとしてオレが彼女と再会したなら、自分はなんと思うのだろうか?やっぱり、さいこーの女と思うのだろうな。こんなに素敵なレディがオレを思ってくれてたなんて・・・・・・。
映画「いま、会いにゆきます」で未来にタイムトリップした澪は、記憶を失くしつつも将来の自分のダンナと出会う。しかし、澪は自分の日記を読まない限り、彼らの出会いは出会いじゃなくなっていたのだろうか?
そして、映画「潮風のいたずら」では、女性の記憶喪失をいいことに工賃を踏み倒された恨みを晴らすため、自分の妻だと偽って身柄を引き受ける。記憶がリセットされれば、なかなか現実をそのまま受け入れるのは難しいのだろうか・・・・・・。

同じ忘却であっても、かすかな記憶に濁りがあれば、それは不幸かもしれない。5年前に亡くなった母方の叔母はアルツハイマー症だった。年少の頃の記憶は鮮明なのだが認知機能は低下しており、我々とは異なる異空間にいるようだった。彼女と話していて、彼女の目の前には明らかにオレとは異なる人物がいた。誰が会いに行っても、彼女を現世に引き戻すことは難しかった。彼女にしてみれば、家の中の全員が他人なのだろう・・・・・・。そして、もう一人の叔母も、夢と現実の区別が無くなりつつある。

もしも、認知症になったとして、やっぱり、さいこーの女と思いたい。こんなに素敵なレディがオレを思ってくれてたなんて・・・・・・。


夢駆ける馬ドリーマー

2007-04-21 17:38:48 | cinema

You May Say I'ma Dreamer But I'm Not the Only One - John Lennon
ぼくだけじゃないよね。きっと、これを読んでいる貴方も・・・・・・

この映画。復活がテーマだ。主人公は馬・・・・・・といったらダコタ・ファニングの熱烈なファンから石を投げつけられること必至。ちょっと前に似たような映画を観たよなあ・・・・・・と、「シービスケット」を思い出す。あの映画も、怪我をした競走馬が復活を遂げる実話をベースにした映画だ。むしろ、あっちの映画こそ馬が主役、そして最後に一気に感動。涙に誘われるのはシービスケットの方かもしれない。どうも、家族愛や騎手の復活など感動要素を盛り込まれると、ついつい涙が分散してしまって集中砲火ができないんだよね。

実は競走馬の復活については、日本でも感動の実話があるようだ。競馬にはまったく疎いがこの馬の名前だけは知っている。
オグリキャップはその競走成績以上に日本の競馬界に様々な影響を残した馬である。
主な勝ち鞍は有馬記念2回、マイルチャンピオンシップ、安田記念等。ハイセイコー以来のアイドルホースで、競馬ブームを巻き起こした。1990年JRA年度代表馬。

岐阜県の笠松けいばから中央競馬に移籍し、ハイセイコー以来の競馬ブームの立役者となったアイドルホース・怪物オグリキャップ。怪物と言われた馬だが、現役最後の6歳の年の春は安田記念に優勝したものの、宝塚記念ではオサイチジョージの2着に敗れ、秋には天皇賞を6着、ジャパンカップを11着と見せ場もない大敗が続き、限界説が囁かれた。「・・・・・・もう負けるオグリは見たくない」と。そして、その年の最後の重賞レースの有馬記念。オグリキャップのファン達は、オグリキャップの引退レースと決まっていた有馬記念にファン投票1位で送り出したのだった。

オグリキャップは、1985年3月27日の深夜、ホワイトナルビーの6番仔として誕生した。誕生時には、右前脚が大きく外向しており、すぐには自力で立てず、人の助けなしには初乳も飲めないほどであったらしい。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、障害を抱えた仔馬に対する願いもあって、幼名は「ハツラツ」と名付けられた。
当時のオグリキャップは、ホワイトナルビーの乳の出が悪かったこともあり、痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかし、削蹄の効果で次第に脚の外向が矯正され、雑草もかまわず食べるなど食欲も旺盛だったことから、2歳の秋頃には、他馬に見劣りしない馬体に成長し、負けん気の強さも見せ始めた。
1986年の10月には、岐阜県美山町(現山県市)にある美山育成牧場に移り、3ヶ月をこの地で過ごした。賢く人なつっこい馬だったが、調教時には、人間を振り落とそうとするなど勝負を挑んでくることもあったらしい。他馬に対しては、一歩引いたようなところがあり、自分から喧嘩を仕掛けて怪我をするような真似は一切しなかった。

引退レースの有馬記念(12月23日)。当日の中山競馬場には中山競馬場史上最高の17万7779人のファンがつめかけた。オグリキャップとしては過去最低の4番人気にまで落ち、単枠指定にもならなかった。レースはスローペースで展開。オグリキャップは、武豊に導かれて落ち着いたレースぶりで中団を追走。3コーナーから徐々にペースを上げ、4コーナーで外から先頭に並びかけると最後の直線で抜け出した。そして、大歓声の中、2着のメジロライアンに4分の3馬身差をつけてゴールに飛び込み、見事に優勝。「奇跡の復活」、「感動のラストラン」といわれる勝利を収めた。レース後、スタンド前でウイニングランを行うオグリキャップに17万大観衆の「オグリコール」が贈られた。つめかけた観客は感動で涙した。

馬が自分の意思で走っているとは知らなかった。騎手のムチで無理やり走らされているものと思っていた。サラブレッドは走るために生まれてきて、走るために進化を続けているのだろう。それが、自らの種を存続させるための選択肢として。だから、競馬は感動を生むのかもしれない。

♪今でも同じように見果てぬ夢を描いて 走りつづけているよね どこかで♪
加藤登紀子の「時には昔の話を」の一節。
「見果てぬ夢」という言葉の意味を知らなかった。「尽きることのない夢」という意味だと思っていた。その意味が、「実現不可能な事柄」というものであることをはじめて知った。
Yes, I am a dreamer.......


ユー・マスト・コム

2007-04-20 20:11:55 | lesson

英語と言えば、笑っちゃうほど典型的なジャパングリッシュを話す日本人の旅行者が、ネイティブたちと充分にコミュニケーションしているのを見かけて愕然とすることがある。会話するのに格好つける必要なんてないのだ。度胸が大切なのだ。

<海外旅行に行って英語が通じなくてどんだけ苦労したことか!!>しばらく前まで日本でも良く耳にする話であった。ぼくも初めての海外旅行で、イギリスのホテルにて、門限に遅れたぼくは、ロックされたホテルの外の公衆電話からフロントに電話したことがあった。
「ユー・マスト・コム」
この<コム>という、聞きなれたはずの単語の意味が何であったのか思い出せずにあせっていた。・・・聞いたことのある簡単な単語・・・。
それが<come>であることに気づいたのは、とりあえず、ホテルのドアまで行った時であった。深夜、エレベータの電源を入れてぼくを部屋まで連れて行ってくれた年配のフロント・マンに、おずおずとチップを差し出すと<いらない>とつき返されてしまった。とにかく、はじめての経験ではいろいろな気苦労がつきまとう。

最近、日本人の海外旅行における言葉の失敗を耳にしなくなったのは、そういう機会が減ったためであろうか。団体のパック旅行が主流となり、飛行機の中はもちろんのこと、ホテルや土産物店まで、日本語が通じる場合が少なくない。だから、旅行中、ほとんど外国語を聞かずに過ごすこともできる。あえて、日本語を話すホテルのクロークで外国語を話す必要はない。
その半面、勝手気ままに海外を旅行する人が減ってきた。むろん、ヒッチハイカーなど、無謀な冒険をする若者が全くいなくなったわけではないが・・・。1年間有効の航空券であるオープンチケットを片手に、何の準備もせず出たとこ勝負で放浪し近い旅をする若者がかつては随分いた。そして、ヨーロッパの都会の片隅で、日本人の長期旅行者が集う日本人を形成していた。しかし、最近はどうなのだろう。格安のチケットが簡単に手に入るようになったことから、短いツアーを数多くこなす人が増えてきたような気がする。そして、インターネットの発達が、事前の情報収集を可能としている。あれこれと現地のことを調べ、わかった気になって出かけてゆく。もちろん、海外旅行の数をこなすから、簡単な日常会話はお手の物である。そのせいで、プリミティブな失敗談は少なくなっていると思われる。
情報入手の容易さから世界が狭くなってきていることは、民族間の理解を深めるので良いことなのだろうが、これから未知の世界へ向かうという胸躍る期待を抱くこともなくなってしまった。事前にインターネットで調べれば、衛星から取られた上空写真により町並みはおろか、道に駐車する車まで観ることができる。観光スポットはもちろんのこと、多種多様な写真の情報で、先行した擬似体験をすることができる。これが、スマートな海外旅行のやり方なのだろうが、自分だけの旅行をするとなると、日本人のだれもが行かないような海外の僻地を目指すしかないのだろう。
南の島の無人島でサバイバル生活を送るか、アラスカの果てで釣りをしてその場でバーベキュー生活をするしかないのかもしれない。


サマータイム・マシンブルース

2007-04-19 20:00:52 | cinema

30年後の自分はどうしているだろう。ぼくが大学生の頃は、中年になった自分がイメージできなかった。・・・・・・中年の年齢まで、生きながらえるとは思っても見なかった。世の中の進歩は目覚しく、そうした意味でも30年後を想像するのは難しいのだろう。音楽レコードが技術革新で音楽CDにその地位を取って代わられる・・・・・・なんて思いもしなかった。シリコンミュージックプレーヤーなんて、SFの世界にもなかったかもしれない。

写真フィルムや印画紙など銀塩写真用の資材が、つぎつぎに生産中止になってきている。写真の世界でも、時代はアナログからデジタルへ。もはや、数年先にはフィルム巻き上げメカのついた旧式のカメラを目にすることはないかもしれない。だから、今から30年後の世界のタムラくんが持っていたフィルム駆動式のアナログカメラは、あり得ない話となってしまう・・・・・・のかな。一方、エアコンは冷媒のフロンが禁止されても、代替品が出てきて現在のマシンでも使い続けることができるかもしれない。なにしろ、30年後未来は予測不能なのだ。
と言う具合に、タイムマシーンものは時代考証やタイムパラドックスのわなに陥りやすく、重箱のすみをつつけばきりがない。

さて、タイムトリップが可能だとすると、タイムパラドックスと呼ばれる問題が起こる。映画でも出てくるが、「過去に戻って自分の親を殺した場合、自分も生まれないことになり、そうすると親を殺すことも出来なくなる」といった矛盾が生じるのだ。また、過去の自分に会うだけでもパラドックスになる。というのも、過去にタイムマシーンで未来からやってきた自分に会った事が無いにもかかわらず、過去の自分に会ってしまった場合に、本人の記憶に矛盾が発生する。
このようなパラドックスを回避しようとして、SFでは以下の4つのパターンが用いられる。概念上とは言え、パラドックスを完全に回避することができればそれは現実世界での真に相当するのかもしれない。

1.過去は変えられない
この場合は、タイムパラドックスは発生しない。映画「サマー・タイムマシーン・ブルース」でつじつま合わせに翻弄したのは、このため。過去を変えるようなことをすると、時がそのパラドックスの原因を消去するということが起こるらしい。たとえば、過去にタイムトリップして自分を殺そうとすると、過去にタイムトリップした殺し屋の自分は消される。消されることから、現在の自分はいなくなる。周りから見れば、ある日突然、誰かが蒸発してしまうことになる。その結果は未来に影響を及ぼすと考えられるが、それはあらかじめ決められていた運命だったというわけだ。
一方、映画「ターミネーター」では、未来からやってきた殺人マシーンが、機械に支配される未来の世界でそれに抵抗する人類を率いるリーダーの母親となるべき女性を殺そうとする。結局は、その女性を殺そうとする試みは失敗するのだ。そして、彼女を守るために未来からやってきた男が人類のリーダーの父親になる。つまり、過去へのタイムトリップも含めて、すべては運命だったというわけだ。

2.過去は変えられる
過去を変えることが可能で、それによって未来も変化するという考え方だ。この場合に、タイムパラドックスは発生する。
映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」では、「親を殺すパラドックス」が起こりかける。主人公の両親の出会いを邪魔した結果、両親から生まれたはずの彼は消えかけてしまう。ぎりぎりのところでこのパラドックスは回避されるのだが、過去が変わったために未来も変ってしまう。主人公の記憶と未来は食い違いがあるのだから、タイムパラドックスが発生しているといえる。このバック・トゥ・ザ・フューチャーのシリーズでは、タイムトラベルした人の記憶は変らないという設定だ。また、映画「ターミネータ2」では、1作目と異なり未来を変えることが出来るという設定になっている。この設定で、シュワちゃんが暴れることが正当化されている。

3.時がパラドックスを阻害する
続作「ターミネータ3」では、「ターミネータ2」で阻止しようとした人類に対する攻撃が別の日にちで行われる。運命は絶対で、変えることができないという設定だ。小松左京原作の映画「戦国自衛隊」では、史実とは異なる過去に対し、未来の自衛隊員が送り込まれて史実に沿うように「修正」が起こる。すなわち、パラドックスには許容できるものとできないものが存在し、できないものに対しては神が思いもよらない方法で修正を施すという説明だ。この場合、「親を殺すパラドックス」は、その後の歴史の変化の大小で許される場合もあり、これが許されない場合は、例えば殺した親に対して別の人間の代理が出現するなどの処置が施されることになる。

4.過去を変えた時点で世界が多元化する
過去を変えると、過去がそのままの世界と過去を変えた世界というように世界が分岐するというものである。過去を変えてもその結果変るのは別の世界であり自分の世界は影響を受けないので、この場合はタイムパラドックスは発生しない。タイムトリップは別世界と繋がり、自分が2人いる世界を継続することが可能だ。それと同時に、自分がいない世界が別に存在することになる。これをパラレルワールドと呼ぶ。

現在、SFの世界でタイムパラドックスを回避して、タイムトリップをどうにか説明できているのは4番目の「分岐型のパラレル・ワールド」である。この「パラレルワールド」の概念の元になっているのは量子力学という学問での考え方である。
量子力学では、いくつかの異なる状態の重ねあわせで表現する。これは、どちらの状態であるとも言及できないと解釈し、観測によって実現する事象の取扱い方に関しては「コペンハーゲン解釈」と「多世界解釈」のふたつがある。
コペンハーゲン解釈では、主体である観測者の観測によって、無数の可能性がひとつに「収縮」される。一方、多世界解釈では、無数に存在する世界で、無数の観測者がそこでの結果を観測(体験)するというものである。つまり、コペンハーゲン解釈では観測者(自分)はひとりであるのに対し、多世界解釈では、その数だけ自分が存在することになる。この多世界解釈を適用すれば、もし、違う世界間を移動することができれば、そこで別の世界の自分を殺すことは可能だということになる。

ならば、多世界において、ひとつの世界から別の世界に移動が可能であろうか。別の世界に新たな自分がもう一人増加するとすれば、今度は「質量保存の法則」に引っかかってくる。別世界と言えども、その世界にあるもの全ての合計質量が変わることは許されない。「別の世界から来たもう一人自分」の質量が増加することになると、それは「ありえない」ことになる。
・・・・・・もし、別の世界にあるばらばらの原子から、自分の完全一致のコピーが合成されたら・・・・・・
映画「ハエ男の恐怖(The Fly)」で、合成装置に紛れ込んだハエが悲劇をもたらした。この方法で記憶までをも再合成できるとすることで、新しい次元のタイムトラベル小説を書くことができる・・・・・・はずだ。・・・・・・ただ文才がない・・・・・・orz。

(表題「サマータイム・マシンブルース」は、めっきりカタカナの単語に弱くなったことによるもの・・・・・・他意はありません)