tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

ぼくらの冒険旅行、原題 Le Dangereux Voyage

2007-04-18 20:05:54 | cinema

・・・眠りに就いた少女の手から、大事に握り締めていたりんごが落ちた。少女の手から離れて床に転がったりんごをだれも気がつくことはなかった。・・・

だれにでも、ふるさとの味覚の記憶があるだろう。年少の頃に慣れ親しんだ味は、どんなに時が離れても強く記憶に染み付いている。サケが生まれた川の匂いをたどって遡上するように、時として人はふるさとの味覚を思い出し懐かしむものなのだろう。りんごは古くから世界中で栽培されてきた。その品種は世界中で25,000種以上あると言われている。数多く品種があり味に違いがあるからこそ、人は自分の国のりんごとして認識する。日本でも外国から品種導入が行われ、これまでに1000種以上が導入されたと言う。しかし、日本の気候・風土や日本人の嗜好に適したものは20種程度とごくわずかにすぎない。
日本で今日のようなりんごがつくられ始めたのは、明治初期に欧米から輸入されてからである。何種類かのりんごの中で、国光(Rall's Janet)と紅玉(Jonathan)が約100年にわたって日本の代表的なりんごとして親しまれてきた。昭和の初めには新品種の育成が国によって開始され、近年になりその成果が現れ始めて様々なりんごが出回るようになってきた。その結果、昭和初期にりんごといえばその首座は「国光」あるいは「紅玉」であったが、次第に新しい品種のりんごであるデリシャス系へ、ついでふじに取って代わられた。紅玉はその酸味が焼き菓子にちょうど良いことでまだ根強い人気があるのだが、国光はもう経済品種として復活することはないだろう。かくして「国光」は希少品種となり、いまはなかなか口にするのは難しくなってしまった。国光は、リンゴらしいリンゴだった。ちょっと酸っぱく、硬い・・・。(今の林檎は甘ったるいばっかりで酸味も香りも足りないような気がする。)

表題の「ぼくらの冒険旅行、原題 Le Dangereux Voyage」は、幼い頃に6歳年上の兄に連れてってもらって見た映画だ。調べてみるとテレビシリーズを再構成したカラー版の『鉄腕アトム』劇場版と併映されたようだ。1964(昭和39)年7月26日、日活系で封切公開。
第二次大戦中、ナチ軍隊の占領下で、ユーゴスラビア人の強制収容所にその少女はいた。少女は病気だった。同じ村から来た少年は、故郷のリンゴを食べたいという少女の願いを聞いて、同じ収容所にいた別の孤児の男の子を誘って故郷のリンゴをとりに収容所を抜け出す。
ナチドイツの収容所というと残虐なことが日常茶飯事だったような印象があるが、調べてみるとそうでもないのかもしれない。幼い少年2人がやすやすと収容所を脱走できたのも、それ以外にも収容所を脱走したという話をネット上で数多く見掛けるのも、さほどに収容所での収監が厳しいものではなかったのだろう。ドイツ映画の「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」でも、ナチスのヨーロッパ支配を否定して国家反逆罪により21歳で処刑されたゾフィー・ショルの最後の日々を描いているが、アジア各国の映画で見かける暴力的な取調べのシーンは一切なかった。弱者に対して、権力や力を誇示したがるのはアジア人やアメリカ人の特質なのだろうか。
どうやら、ナチス親衛隊が収容者たちを虐待することは犯罪だったらしい。かの有名なアウシュヴィッツ収容所では、親衛隊員すべてが「私はいかなる囚人も傷つけたり殺害することを許されない」という内容の宣誓書に署名させられていた。
話はそれるが、これまでの定説によれば、ナチスの人種差別政策を占領地においても実行し、劣等人種としたユダヤ人やポーランド人を主とするスラヴ系住民に対して強制移住・強制収容所への収容・大量殺戮を行った。各地からアウシュヴィッツをはじめとする多くの強制収容所へ送られたユダヤ人は、労働に耐えうる強健な者は強制労働に服させ、そうでない者は毒ガスで殺されたというのが一般的だ。しかし、どうだろうか?それならば、何故アウシュウィッツでは囚人同士の結婚式が認められていたのだろう。産科病院に3,000 人の出産記録があり、託児所には母親が子どもを預けることができたという史実があり、これらは定説に矛盾する。
また、連合軍の無差別爆撃で70万人のドイツ人が亡くなっている。軍需工場で働かされていた多くのユダヤ人が死んだであろうと推測されるのに連合軍は追求されていない。これは、連合軍が残虐非道のナチスからユダヤ人を救った救世主だと大衆に植え付けることに成功したからだろう。いずれにおいても、戦争はいまいましい記憶しか残さない。

戦下のドイツから旧ユーゴスラビアまで800kmに近い道のりを、幼い少年達が国境を超え故郷のリンゴを取りに行く旅。途中で犬も同行し、いろんな苦難を乗り越える。途中にリンゴはあるのだが故郷のリンゴでなければと、旅を続ける。目的地に着いて銃弾の中、夢中でリンゴを拾い集める。そして、最後は女の子にリンゴを持って帰る。
この映画は、映像にかかわるぼくの原体験となるものだ。途中に出てくるのだが、飯ごうにカエルをたくさん捕まえて夕食に焚き火であぶって食するシーンがいまでもはっきりと思い出される。だから、このようなシーンがある映画(裸足の1500マイルなど)には非常に弱い。映画を観ていて強い郷愁を感じてしまう。
最後に寝入った少女の手からリンゴが落ちるが、記憶があやふやでこのシーンの意味が残念ながら不明だ。この映画は当時、文部省推薦だったと思われることから、このリンゴが転がるシーンには深い意味はないのかもしれない。ただ単に少女が眠りに落ちたのだと思いたい。

いま、ぼくのささいな夢の一つに、なつかしい国光を思う存分食べること、旧ユーゴスラビア(現在のセルビア・モンテネグロ)に行き、映画に出て来た小ぶりのリンゴを味わって見ることがある。たわいもない夢ではあるが、いつしか、頑張ってかなえてみたいと思う。

手に汗にぎり、泣いて笑った「ぼくらの冒険旅行」。兄とともに見た、地平線の彼方を目指して戦火の大地を駆け抜けた夢のような映像をぼくは忘れられない。(この映画は日本版はもちろん、アメリカのThe Internet Movie Database (IMDb)でも作品そのものの登録がないので、まず入手は不可能だろう。国内に上映出来るプリントが存在する可能性も無いだろうと思う。)

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忘れ雪(終わり)

2007-04-17 20:41:23 | プチ放浪 山道編

そして、翌日。朝から風が強く、ゴンドラは運休。ヒロコさんをたきつけて、理津子とヒロコさんは2人きりで振り子坂ゲレンデでモーグルの練習へ。コスギくんとマリコさんは、天狗山ゲレンデでショートターンの練習。コスギくんがぴったりくっ付いて、手を取り足を取りマリコさんにコーチしていた。田中さんは、朝起きたら花粉症によるアレルギーがひどく、くしゃみが止まらないためスキーはお休み。かれは午前中、温泉めぐりして帰ると言う。ぼくとルソーくんは、またしても二日酔いの頭を抱えながら、天狗山でてきとーに滑ってお茶をにごすことにした。天狗山のゲレンデには、イズミさん親子がボードで滑っていた。娘さんも、奥さんもそこそこ滑れるようだ。時折、斜面で彼らを追い越すたびに、「おさきにー!」と声をかける。その度にイズミさんが、「転ぶなよ」とか「頭洗ったか?」とか「はぁ~どっこいしょぉ~っ」てな感じで返事をくれる。
天狗山を滑るぼくとルソーくんにくっついて来てくれたのは、ユミちゃんだった。彼女は、昨年の12月にひざを痛めて数日入院したらしい。それまでは、モーグルのワールドカップを目指して、冬はスキー三昧の生活だったとのこと。ひざを痛めたのはゲレンデ内の事故。「膝の靭帯損傷」。志賀高原でスキースクールのコーチをやっていてスノーボーダーに後ろから追突されたらしい。ぶつかった瞬間に膝に衝撃が走り、その時は骨折したと思うほどの痛みを感じたとのこと。その後はスノーモービルの後部座席に乗せられ医務室に連れていかれ、医務室ではとにかくアイシング。なんとか歩くことができるぐらいに痛みは治まり、階段で地獄の痛みを堪え新幹線で帰宅・・・・。翌日、地元の日赤救急病院でレントゲンを撮り、いろいろな間接の動きをチェックしてもらった結果、「内側側副靭帯損傷」の診断。一時は、もうスキーはできないかもと諦めたらしい。病院では、包帯でテーピングをしてもらい、安静しているようにとの指示。一人暮らしの生活で、かなり不便を味わいながらも、派遣先の会社へ毎日足を引きずりながら出勤する毎日だったとのこと。
ようやく治って、膝を曲げても痛くないほどに回復したのが、ついこの前。暖冬で、今シーズンのスキー場の営業終了の知らせが続く中、先日降り出した忘れ雪のニュースに誘われて一緒にスキーに行くメンバーを探していたのだった。昨日はケガからの復帰、第一日目。初すべりが、ぼくらとのフォーメーションスキーだったらしい。とにかく、諦めかけていたスキーがまたできた喜びに、昨日は思わず涙してしまったとのことだった。
・・・そうだったのか。モーグルの選手だったのか。それで、あんなにかっこいいエアを決められたのか・・・。でも、慣らし運転にしては大きなエアを飛んだものだ。それで、昨日の出だしは慎重に体のいろんなところに気を配りながらすべっていたのか・・・。最後のフィニッシュで、ぼくらが止まり切れずにぶつかってしまった時に痛そうにしていたのは、怪我した時のことを思い出したからなのか・・・。
ぼくはメンバーと別れて草津を出発するまでに聞きだした彼女の話は、こんな感じだった。四国生まれという彼女。関西出身のスキーヤーは、どうしても東北、北海道出身のスキーヤーと比べて見劣りがする。小さい頃のスキーの経験の有無が、そのまま埋められない経験の差になってしまうのかもしれない。でも、やっぱり、同じスポーツのプレーヤーとして是が非でも彼女を応援したくなる。だって、ぼくが学生時代に初めて愛した女性は、四国生まれだったからなあ・・・。
別れの時が近付くにつれ、ぼくは無口になっていった。ルソーくんともユミちゃんとも目を合わせないようにしていた。別れが事務的にすんなりとできるように・・・。みんなとの別れの時が、つらくなりそうだったからだ。きっと、ぼくは嫌な奴だったに違いない。すっかり引きこもりのおタクのようだった。ただ、最後に宿からみんなと出る時に、握手して別れの挨拶をしたルソーくんの視線をどうしても避けることができなかった。手を握りながらたまらない気持ちでルソーくんの目を見つめたら、彼の目には大粒の涙が浮かんでいた。合理主義者とばかり思っていたフランス人も、こんな時に涙もろくなるんだ。しかも、ぼくよりもコイツは泣き虫だった。彼は来週、成田を発ってフランスに戻る。フランスではリクルート活動が待っているはずだ。きっと、彼なら、良い企業に入社して出世するだろう。ぼくにできることは、彼の幸運を祈るしかない。もっと素敵な新しい仲間が君を迎えてくれるよ・・・。

そこまで来ていた春に抵抗するかのように降り積もった神の雪。ぼくらの3月17日の草津はまだ冬のさなかだった。厳しい冬がようやく終わりを告げ、春の息吹が感じられるころ忘れたように降る雪。それを忘れ雪と言う。天候に左右される商売に携わる人たちには何とも皮肉で恨めしい雪なのだろう。
ヘリスキー。はじめての体験だった。コース前半は林間の緩斜面。映画「私をスキーに連れてって」を当然のように思い出す。あの映画で撮影に使われたコースは、なだれの心配があり実際にはすべることはできないらしい。いたるところにパウダースノー。アイスバーンに積もった粉雪はさらさら軽く、まるでスキーをしていると言うよりは空中を滑空しているような感覚すら覚えた。休憩地点の芳ヶ平ロッジで昼食をとり、自分達が滑ってきたルートを一望に見る。此処に来た者にしか分からない物があった。・・・最高だった。
そして、発表会。多くの出逢いがあった。イズミさんのうれし泣き。ユミちゃんのゲレンデに落とした涙。ルソーくんの別れの涙。また明日から、それぞれの人生がスタートする。ぼくは理津子を乗せて、携帯にユミちゃんとの通話履歴を大切に残したまま帰途についた。帰りの車の中、理津子がつぶやいた<もう今シーズンは終わりですね>と言う言葉が胸にしみた。この後に続く5月の連休の春スキー、夏の月山スキーは気持ちの上では来シーズンということになる。

あれから4ヶ月が過ぎた。去年の12月にみつまたに理津子とスキーに出かけてスキー映画の話をした後、インターネットの掲示板で激しい勢いで書き込みしていた嵐のような日々が何年も前の出来事のように思えてくる。やはり、あれもまた、ひとつの祭りだった。そして、撮影会、発表会に集まったぼくも、みんなもその祭りの小さな神輿の担ぎ手だったのだろう。いま、祭りが幕を閉じた。
木々の影を濃くする、春の日の朝、ぼくは会社に向かう。気の早いヒラタアブと、花びらの開ききった菜の花と、駅に向かう人々もまた、あふれる春の陽を浴びている。事務的に手足を動かして改札を抜け、定刻に到着した電車にのり込む。昨日までの雪国は、長旅であったけれど幕切れはあっけない。電車の発車のベルひとつで現実の世界に収監される。今シーズンの思い出すら遠ざかるように、日常の中へ背中を押される。さあ、春はすぐそこだ。季節はどんどん、移り変わっていく・・・
終わり

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忘れ雪(さあ、春はすぐそこだ)

2007-04-16 20:16:36 | プチ放浪 山道編

TVクルーと別れて散策から帰って、ホテルの露天風呂につかり一日の疲れを癒す。そして和洋中バイキングの夕食。部屋での飲み会。部屋の真ん中のテーブルの上に、田中さんが持ってきた幻の焼酎やら、サントリーからの差し入れの缶ビールやカクテル、バーボンウィスキー、日本酒、ワインや、来る途中のコンビニで買ってきたのだろう大量のつまみが並んだ。最初は缶ビールで乾杯。至福の瞬間。
「生きててよかった」 と隣りに座った理津子がはちきれんばかりの笑顔で言う。暖房の効いた部屋の中で、3月の降雪のニュースをTVで見ながらスキー仲間と酌み交わすお酒は最高だった。今日の渋峠はめちゃくちゃ寒かった。ロックグラスにタップリの氷を入れて、持ってきた灘の1級酒を注ぐ。そして、そこにレモンをたっぷり絞ってよく混ぜる。これがぼくのマイブームだ。たっぷりの氷とレモンで飲みにくい日本酒が大変身する。日本酒版のアルティメート・アークティック・マティーニみたいな、しゃれた味になる。ルソーくんが、ぼくの飲む日本酒に興味しんしんだった。同じものを作ってあげると、結構ハイピッチで飲んでいた。また、この前みたいに二日酔いで苦しまなければいいのだが・・・。
この至福のときを迎え、ぼくはマリコさんを相手にチャン・イーモー監督の「至福のとき」を話題にしていた。真っ直ぐで純粋で人の温かさ、優しさが感じられる作品。たしか、映画のヒロインは5万人ものオーディションから選ばれたんじゃなかったかな。理津子、マリコさん、ユミちゃん、並んで座っている3人が、3人とも映画のヒロインよりも飛び切りの美人に見える。酔ったせいなのかな。

田中さんがマリコさんに、宮崎の麦焼酎「百年の孤独」のウンチクを垂れようとする。
「これ、なかなか手に入らない幻の焼酎なんですよ」
「私、焼酎はダメなんです。ゴメンなさい」
「あ、ぼくも嫌いなんだ。・・・だれだよ、ショウチュウなんか持って来たヤツは・・・」
田中さんがあわてている。田中さんは、どうやらマリコさんに夢中のようだ。だれだっけ、前回の志賀高原で焼酎のお湯割をガブガブ飲んでいたのは・・・。
・・・っていうか、「百年の孤独」って1万円以上する酒じゃなかったっけ。全国の愛飲家垂涎の的の、宮崎でしか飲めない幻の麦焼酎のはずだ。ぼくは、最初は遠慮がちにコップに少しだけついで味見をさせてもらう。オークの樽で3年~5年熟成されたその酒は、尖がったトップノートがすっかり抜け、非常にマイルドなさらさらした味だった。遠慮しているのだろう、だれも、この銘酒に手を出さないので、すっかり出来上がっていたルソーくんと二人でしだいに大胆にガバガバ飲んでしまっていた。
飲んでいる間、例によってコスギくん、ヒロコさんがノートパソコンを立ち上げて、なにやら書き込みをしていた。どうやら携帯電話を介して2ch掲示板の読み書きをしているらしい。彼らによって発表会の第一報は、すでに記事として書き込まれているに違いない。だけど、土曜日のこの時間だ。掲示板を覗きに来る人は少なく、あまり、反応はないのかもしれない。
ヒロコさんのパソコンで、さっきダウンロードした掲示板のログを見せてもらうことにした。他人のパソコンを使うのは、まさに個人の秘密に触れるようでドキドキしてしまう。はじめて使う2chブラウザなので勝手が分からずに、適当にクリックしていると、ヒロコさんの書き込みの履歴が出てきた。

投稿者:333・334
メール:sage
投稿日:2007/03/17 21:00:12
本 文:
 
>>333
>>334
今日、一緒にヘリに乗った(>ω<)。気持ちを打ち明けたいけど、できなかった...orz。どうすればいい?

----------

これって、いったい!?ヒロコさんと一緒にヘリに乗ったのはぼくだった。後のグループにイズミさん、田中さん、コスギくん、ルソーくんが乗っている。ぼくは、これはまずいことになっちまったと思った。<なんで俺なんだYo!!>
かれに気持ちを打ち明けられたらどうしよう・・・。悪いけど、ぼくにはそんな趣味はない。これがマリコさんのパソコンだったら、最高に幸せなんだろうけど・・・。ぼくは、すぐに書き込みログのウィンドウを閉じると、それを見なかったことにした。ブラウザをスクロールして、興味を引く書き込みを読む。今回の理津子の参加は、かなり話題になっていた。そして、理津子がこの掲示板を読んでいるとの書き込みを誰かがしたようだ。掲示板ではその住人達が上へ下への大騒ぎがあって、言葉遣いがあらたまって、理津子に関する書き込みが異常に増えていた。きっと、理津子は自宅に帰ってから2chを覗いて、そこに自分のことが書かれているのでびっくりするに違いない。ぼくも、今回の発表会について、簡単に記事にまとめて投稿させてもらうことにした。酔っ払っているため、いつもの乱文がさらにひどくなっているが速報だ。きっと、パソコン画面の向こう側で大勢の読者達が草津温泉に思いを馳せ、映画化の後押しをしてくれることだろう。そのためにも、もっともっと、盛り上がって電車男を超えるスレッドに育って欲しい。
いつの間にか、コスギくんとマリコさんが2人並んで仲良く2人だけでお話をしている。ルソーくんが、酔っ払って真っ赤な顔をしてユミちゃんに話しかけている。田中さんが、親父ギャグを連発して理津子を笑わせている。ヒロコさんが、ぼくの書き込みが終わるのを待っていたのか、嬉しげに焼酎のボトルを傾けてぼくのグラスについでくる。<なんで俺なんだYo!!>
そして夜も更けて。女性陣が部屋へ引き上げた後、布団を敷いて全員で就寝。洗面所へ歯を磨きに行くと、うしろからヒロコさんに呼び止められた。ヤバイ。キター!!。
おずおずと近づくヒロコさん。
「理津子さんて、カレシがいるんですか?」
なんだ、そうかYo。・・・そう言えば、今朝のヘリでは理津子も同じ便だった。やや男勝りところがある理津子だけど、優しいヒロコさんとはうまく行くかもしれない。
「実はよく知らないんだ。でも、頑張ってアタックしてみなYO」
ぼくは、ほっとした気持ちで、今度はヒロコさんをけしかけた。考えてみれば理津子のプライベートをほとんど知らない。
「アプローチされて嬉しくない女の子なんていないよ」
実はこのセリフ、映画「私をスキーに連れてって」で、主人公の同級生の女友達が彼女の電話番号を聞くように主人公をたきつけてるときのものだ。これは女性のホンネなんだろうか。だったら、もう少し違う青春を送るべきだった。
・・・と思い込んでいたのは、若いころだった。
必死の思いでアプローチすることが、それまでの友達関係を壊すことを知ったのは、かなりたってからだった。
結局、星の数ほど振られたなあ・・・。

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ダイニングテーブル(6)みがき

2007-04-15 16:55:47 | 日記

引き続き、テーブルトップの研磨でやんす。今日は番手を上げてナイロンミックスホイール#120での研磨でやんした。この番手では、鑿の痕を残しつつ、切削表面をある程度、綺麗にできそうでやんす。ま、基本は電動工具を使わずに紙やすりでゴシゴシということでやんしょうね。結局、紙やすりで消せない木目の小さな穴は、との粉を使って埋めることにしやした。砥粉を塗ってオイルステンで仕上げて完成。さて、完成まで何日かかることやら。せめて、来年の夏までには終わらせたいでやんす。がんばれ>ぢぶん

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つばめがえし

2007-04-14 20:04:02 | プチ放浪 都会編

今年もつばめがやってきた。気が付いたのは、2,3日前だが、もう少し早く来ていたのかもしれない。バス停でバスを待つ頭の上をひょいひょい飛び回っていた。ツバメの飛翔を目で追うも、速すぎてついていけない。
その昔、佐々木小次郎は福井市にある一乗谷で「秘剣つばめ返し」を身につけたとされている。巌流と呼ばれる流派を創始し、小次郎は小倉藩の剣術師範となる。1612年(慶長17年)に刃長三尺三寸(約90.9センチメートル)の野太刀「備前長船長光 」、通称物干し竿を使用して、宮本武蔵と巌流島(船島、山口県下関市)で決闘し、敗れた。4月13日のことだった。
物干し竿は秘剣”燕返し”にはなくてはならないアイテムだ。”燕返し”の枢要は、相手との間合いをいかに見切るかにある。長い刀を持つ小次郎は、相手の間合いに入る前に己の間合いで刀を振ることができた。小次郎は相手が己の間合いに入る直前に初太刀を振るう。それを相手は難なくかわす。勿論相手はしめたとばかりに打ち込む。だが小次郎の最初の一撃はフェイントなのだ。相手は打ち込もうにも小次郎への間合いが僅かに遠い。次の瞬間、空を切った小次郎の刀が猛烈な勢いで跳ね上がってくる。それを避ける手立ては相手にない。一方、宮本武蔵は”敵を知り、己を知らば、百戦危うべからず”の兵法の忠実な実践者だった。武蔵はニ天一流、つまりニ刀流に加え、船の櫂(かい)を削って長い得物として対抗した。秘剣も対策練られたら秘剣ではなくなってしまう。結果はご存知の通り。

さて、我が家のジュンベリー。満開となった。この木の原産地はアメリカのミシガン、カンサス州らしい。学名:Amelanchier laevis Wiegand、科名:Rosaceae(バラ科)。ヨーロッパのサービスベリーに似ていることから、Serviceberryとも呼ばれる。その訳は、この木の新芽や若葉がうさぎやくまの大好物であること、6月に実るこの木の実を鳥が待ち焦がれていることから来ている。

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