歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

船橋市・取掛西貝塚 縄文時代早期から弥生時代中期の竪穴住居跡が見つかる

2018年09月21日 | Weblog
 発掘調査が進む船橋市飯山満(はざま)町1の取掛(とりかけ)西貝塚西側で、縄文時代早期から弥生時代中期の竪穴住居跡が見つかった。縄文早期前半が7軒、縄文前期が3軒、弥生中期が6軒。
 20日に報道機関向けの現地説明会があり、市教委は「一帯は大規模集落だったことが確認され、貝塚を伴う約一万年前の縄文遺跡では全国最大級としている。 
[参考:東京新聞]

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取掛西貝塚


「縄文期で全国最大級」竪穴住居跡 取掛西貝塚で見つかる
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淡路市・五斗長垣内遺跡 復元鍛冶工房建物

2018年09月19日 | Weblog

五斗長垣内遺跡(淡路市黒谷1395)を見学してきました。
写真は、復元された鍛冶工房建物です。右写真は建物内部です。
7本柱の茅葺屋根で、内部の直径が8.5mの円形竪穴建物です。

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五斗垣内遺跡




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函南町・瓢箪山古墳 墳丘長87mの前方後円墳と確認

2018年09月19日 | Weblog
 筑波大の滝沢誠准教授と東京大、静岡大などを中心とする研究チームが、静岡県函南町平井にある天地神社近くの丘陵に、墳丘長約87m(推定)の前方後円墳「瓢箪山古墳」があることを結論付けた。
 瓢箪山古墳の存在は以前から知られていたものの、本格的な調査が行われたことはなく、2016年9月と11月に測量調査が実施された。その成果、同古墳は墳丘長約87mの前方後円墳である可能性が高いと判断された。
 築造時期は、古墳時代前期後半ごろと考えられる。西側斜面を下方に拡張している状況が窺え、西側からの見映えを意識したつくりとなっているという。
[参考:伊豆新聞、KAKEN 伊豆半島の前期古墳と東日本太平洋岸域の拠点形成に関する基礎的研究]

参考古墳
高尾山古墳(沼津市東熊堂)全長62mの前方後方墳、古墳時代最初期(230年頃)
向山16号墳(三島市北沢)全長約70mの前方後円墳、古墳時代前期前半築造
浅間古墳(富士市増川)全長約90mの前方後方墳(注1)、古墳時代中期(4世紀後半)築造




2018.11.29 訂正 (注1)前方後円墳 → 前方後方墳、
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橿原市・藤原宮跡 大極殿の北門跡を確認

2018年09月15日 | Weblog
 奈良文化財研究所(奈文研)は13日、奈良県橿原市の藤原宮跡(奈良県橿原市)で、天皇が重要儀式を執り行う「大極殿」を四方に囲む回廊の北門跡を確認したと発表した。
 北門の北側には天皇の住まいである内裏があり、天皇が政治を行う大極殿と内裏を行き来する際に利用したらしい。
 発掘調査では、門の4つの柱のうち南東隅の柱を据えた柱穴を確認した。門の南北規模は約5・8m、東西規模は約4・7mとみられる。 南門(東西約35m、南北約10m)、東門と西門(ともに南北約29m、東西約6・6m)よりもかなり小規模。
 また、大極殿院の回廊の東西規模は約116mと推定通りだった。
 現地説明会は15日午後1時半から行われる。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、読売新聞、NHK,MBS毎日放送]

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 藤原宮


奈良・橿原の藤原京跡で「大極殿北門」跡を確認 天皇の公私の空間分ける重要な門

大極殿院の北門を確認、藤原宮跡 奈良・橿原、排水で苦労も
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栃木県壬生町・愛宕塚古墳 5か所の地点から「盾持人埴輪」を確認

2018年09月04日 | Weblog
 栃木県壬生町教委は3日、東京学芸大、茨城大などが8月20日から18年度末までの予定で実施している愛宕塚古墳(壬生町壬生甲)の発掘調査で初めて周堤上の調査地点5カ所の地点から「盾持人埴輪」が確認されたと発表、これまでの調査成果を説明した。
 「盾持人埴輪」は盾を構えた人物の形をした埴輪で、古墳を守るために配置されると考えられている。 この埴輪は県内でも小山市内の桑57号墳と飯塚35号墳、下野市内の甲塚(かぶとづか)古墳でしか確認されていない。 同じ特徴がある古墳が見つかっている群馬県とのつながりを示す可能性があるとして、注目される。
 同古墳は6世紀後半に造られたとされる前方後円墳。昨年、両大の発掘調査団の発掘調査などで二重の周溝を備えた古墳であることが初めて確認され、周堤上から円筒埴輪、盾持人などの人物、馬の形の形象埴輪が発掘された。堤の上に並べられた円筒埴輪の間に数多く配置されていたことがわかり、このような事例は県内では初めてだという。
 昨年の調査では、埴輪が墳丘の平坦な部分と周溝外側の土塁に計2列あり、墳丘全体を囲んでいたと推定していたが、今回、墳頂部にも列があり、三重に配置されていたことが分かった。また、昨年は1カ所で確認された葺石が、今回の調査で3カ所で確認。前方部南側斜面に明確に残っており、群馬県にある古墳の影響を受けた特徴がみられる。
 現地説明会は8日午前10時と午後1時の2回行われる
[参考:下野新聞、産経新聞、NHKニュース]

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2017.9.7  [参考:東京新聞]
 前方後円墳を大小の埴輪が2重に取り囲んでいる状態が良好な状態で残されていることが分かった。
 古墳は六世紀後半の築造とされ、墳丘部は全長約82m。墳丘部の周りに溝があり、その外側に土塁があり、その外側にも溝があり、二重の周溝を備えた古墳であることが初めて確認された。
 埴輪の列は墳丘の平坦な部分と、周溝の外側の土塁の二列あった。円筒埴輪が立った状態で出土。墳丘全体を囲んでいたと推定される。古墳の墳丘部と外側の土塁上で規格の違う埴輪列があるのは、今城塚古墳(大阪府高槻市)でも確認されているが、全国的に例は少ない。
 墳丘部の斜面表面に葺石が並んでいたことも判明。

2018.2.13  [参考:産経新聞]
 愛宕塚古墳で出土した埴輪を復元し、稲葉地区公民館(同町上稲葉)の「みぶ愛宕塚古墳出土はにわ展」で展示している。同古墳から出土した円筒埴輪9点と石見(いわみ)型埴輪、盾持人埴輪の計11点を展示。

 盾持人埴輪
 壬生町


周堤上に「盾持ち人埴輪」 栃木県内で初、複数の地点から確認 壬生・愛宕塚古墳

「盾持ち人埴輪」複数確認 「変遷知る手がかり」 栃木・壬生の愛宕塚古墳
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京都市中京区・平安京左京四条三坊十四町跡 天正の地割りで埋められた濠跡?が出土

2018年08月31日 | Weblog
 関西文化財調査会(京都市上京区)が29日、駐車場建設予定地(約520㎡)である京都市中京区元法然寺町(錦小路通烏丸東入ル)の平安京跡(平安京左京四条三坊十四町)の調査で、豊臣秀吉が16世紀末に京都で行った「天正の地割り」(土地区画整理)で埋められたとみられる濠跡が出土したと発表した。
 濠跡は幅が約4m、深さは最深部で約1・7mの逆台形。東西から北西に約120度屈曲し、「へ」の字に折れ曲がる特殊な形をしていた。洛中では、碁盤の目から斜め方向にずれた堀が見つかるのは珍しい。濠の底の両端からは橋脚の礎石とみられる石も見つかった。 濠に水が流れていたが底に泥はなく、常に清掃されていたらしい。完成時期および用途は不明だが、出土した土器から16世紀末に一気に埋められたことが判明した。このため同調査会は,秀吉が天正18年(1590)に始めた天正の地割りに伴い埋められた可能性が高いとみている。今に残る町名(元法然寺町)から法然寺の関連遺構の可能性も指摘されるが、今のところ、法然寺につながる遺物はないという。
 法然寺は、鎌倉時代の武士で後に僧に転じた武将熊谷直実が浄土宗の宗祖法然を開山に、錦小路烏丸に創建したとされるが、秀吉が天正19年、南東約800mの寺町仏光寺に移転させている。
 現地説明会は9月1日(土)午前11時から正午まで開催される。
[参考:京都新聞、産経新聞、朝日新聞]

 法然寺は、建久8年(1197)5月、蓮生(れんせい、1141-1208、熊谷直実)が、父・貞直の旧地、錦小路東洞院西に法然を開山として熊谷山法然寺を建立した。その後,天正19年(1591)豊臣秀吉により、下京区寺町仏光寺に移転。昭和36年(1961年)に現在地・京都市右京区嵯峨天竜寺立石町1に移転した。


「天正の地割り」で埋めた? 平安京跡から大規模な濠跡出土


2018.9.1 訂正
 蓮生の読みは、れんせい、れんじょう、れんしょうなどいくつかあるが、「熊谷デジタルミュージアム」および「鳩居堂の歴史」より「れんせい」に訂正する。
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青森県南部町・聖寿寺館跡 北東北で初めて犬形土製品が出土

2018年08月30日 | Weblog
 青森県南部町教委会は28日、戦国大名・三戸南部氏の居城だった国史跡「聖寿寺館跡」(同町小向)で、中世の犬形土製品が出土したと発表した。これまで国内各地の有力大名の居城跡などで発見されているが、北東北では初めてで、本州北端まで広がっているのが確認された。
 犬形土製品は、中世で安産祈願のお守りとして使用されたとされる。
 出土したのは当主が居住していたとされる中心区画。手で粘土を成形した手づくね製犬形土製品(高さ3.5cm、長さ6.5cm、幅2.2cm)で、両前脚や両後脚、耳、尾が欠損しているが、欠損箇所は摩耗し、壊れた後も大切にされていたことがうかがえるという。
 出土した周辺から、瀬戸美濃端反皿など16世紀前半の遺物が見つかっており、同時期のものと推測される。近畿地方で製作され持ち込まれた可能性が高い。三戸南部氏が畿内と直接交流していたことが分かる発見という。
 同様の製品は、南東北から九州までの各地で出土しており、東北では宮城県仙台市の仙台城跡、山形県酒田市の亀ケ崎城跡、福島県伊達市の梁川城跡などで見つかっていた。
 出土した犬形土製品は、史跡聖寿寺館跡案内所で9月1日~10月31日まで特別公開される。
[参考:東奥日報、デーリー東北新聞、毎日新聞、朝日新聞、河北新報、NHKニュース、ATB青森テレビ]

過去の関連ニュース・情報
 聖寿寺
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須賀川市・団子山古墳 埴輪を有する前方後円墳と判明 周溝も確認

2018年08月29日 | Weblog
 須賀川市と福島大行政政策学類考古学研究室が26日、現地説明会を開き、発掘調査の成果を報告した。
 これまでの調査で、円墳と考えられていたが、全長65m程度の前方後円墳となることや、古墳時代前期(4世紀代)の埴輪を有する古墳であることが判明している。
 8月からノ浦遺跡調査では、後円部の北側に周溝が確認され、埴輪片が出土した。
 同古墳が造られた年代は4世紀中ごろから後半とみられることがより明確になったという。
 市によると、同時期の埴輪を持つ古墳は県内では3例ある。
[参考:福島民友新聞、須賀川市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2017.11.18 南陽市・南森古墳(仮称) 東北で最大級とみられる全長161mの前方後円墳が見つかる
 2017.5.17 いわき市・塚前古墳 東北最大の古墳時代後期前方後円墳
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平城京跡で数回の巨大地震の痕跡が見つかる。

2018年08月26日 | Weblog
 今月8月25日の読売新聞では、「平城京跡で4回の巨大地震の痕跡、南海トラフか」、そして、7月21日の産経新聞では「南海トラフ? 平城京を襲った巨大地震の遺構を発見」と報じている。
 調査地が同じかと思ったが、前者は平城京の西に隣接する、6月に新庁舎が完成した奈良文化財研究所(奈良市二条町2丁目9-1)の建設中の現場であり、後者は、2016年に調査した平城宮朱雀門跡の南約100mの地点である。
前者は、3回の痕跡が見つかっている。
 1-1. 8世紀前後の平城宮造営の頃。
 1-2. 平安時代の9~12世紀
 1-3. 室町時代の14世紀頃。正平16年(1361)6月24日の正平南海地震(推定のマグニチュード(M)8・4前後)が知られる。

後者は、4回の痕跡が見つかっている。
 2-1. 684年の白鳳地震
 2-2. 887年の畿内・七道地震か、938年の京都・紀伊地震
 2-3. 1707年の宝永地震か、1819年の伊賀・近江地震
 2-4. 1854年の安政東海・南海地震か、同年の伊賀上野地震の可能性が高いと判明した。

 両者を合わせてみると、6回以上の痕跡が現れたことになる。

[参考:1918.7.21産経新聞、1918.8.25読売新聞]

過去の関連情報・ニュース
2014.8.23産経新聞
 奈文研の庁舎建て替え現場で、地震による液状化現象で地下から砂や水が噴き出す噴砂(ふんさ)の跡が見つかったと発表した。8世紀以降と14世紀以降の2回起きており、南海トラフ巨大地震の痕跡とみられるとしている。



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愛媛県越智郡佐島・宮ノ浦遺跡 4世紀頃の鞴の羽口が初出土

2018年08月21日 | Weblog
 愛媛大考古学研究室と町教育委員会は20日、上島町弓削佐島の宮ノ浦(みやんな)遺跡で、古墳時代前期中頃(4世紀)の鍛冶に使用された鞴(ふいご)の羽口(はぐち)が出土したと発表した。
[参考:愛媛新聞]

過去の関連ニュース・情報
宮ノ浦遺跡



上島・宮ノ浦遺跡 鞴の羽口 初出土 古墳時代前期 鍛冶に使用
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南方熊楠が夢を見た波木井九十郎は東京物理学校のはじめての卒業生

2018年07月25日 | Weblog
無断にかかわらず転載を禁止します。 内容について裏付けが取れていない部分があります。氏名は敬称を略しています。

 
(左写真) 東京理科大学近代科学資料館(明治39年に本学ゆかりの地である神楽坂に建設された東京物理学校の木造校舎の外観を復元)
(右写真) 東北大学 旧制第二高等学校正門

南方熊楠が夢を見た波木井九十郎は東京物理学校はじめての卒業生だった。

1.早稲田中学校時代の数学教師・波木井九十郎
 2018-06-24付「谷中霊園 堀切善次郎の墓」で書いたように、堀切善次郎は明治31年15才の時に上京し、早稲田中学に2年に編入し、明治35年に卒業した(第4回生)。
 「早稲田中学校創立60周年記念録」(発行兼編集 堀切善次郎 昭和30年11月発行 (資料1))の中で、堀切は「当時の先生方で印象の深い方は沢山ありますが、波木井九十郎といふ数学の先生は教え方が非常に上手でした。」と書いている。堀切は入学が決まると、体操教師岡田英定が喜久井町一番地の自宅に主宰する精華塾(寮)に入った。そこは、夏目漱石が誕生した家であったらしい。
 明治33年卒(第2回生)高梨耕幣(元樺太工業株式会社重役)は、「数学は元二高の教授であった波木井九十郎先生の教授を受けたのですが、其の教へ方が明達で実に判り易く、非常に実力がついた。」 さらに、人試出願のことを相談したら、三高を勧められたこと、そして三高に入学が決まったときには、「三高の教頭玉名程三先生(注1)に紹介して下さったばかりでなく、保証人まで頼んで下さいましたので非常に心強く思って京都へ行きました。」と書いている。
 明治34年卒(第三回生)山縣武夫(元海軍中佐・宮内省式部次長)は、「私の在学中の先生で後に有名になられた方は数多いが、その中の数氏を挙げて見ると、英語の安部磯雄、島村瀧太郎(抱月)、佐伯好郎(文博)、博物の宮島幹之助(理博・医博)、化学の片山正夫(理博)、漢文の菊池三九郎(晩香)の諸先生などで、二高の教授として令名のあった波木井九十郎先生は五年生の時三角術を教えられた。四年間連続して数学が落第点の前後で進級の際屡々教員会議の問題になった私がいつしか数学に興味を持ち成績が向上するようになったほど教授法が巧妙な方であった。」と書いている。
(注1) 玉名程三(1861-1937):東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人(当時の名は名村程三)。明治33年(1900)に第三高等学校物理学教授。東京物理学校時代は波木井九十郎の先生でもあったろうと推測。
 資料1の年表には、下記が記されている。
  明治33年(1900) 6月1日 第二高等学校教授波木井九十郎氏(数)を聘す。
  明治35年(1902) 4月6日 辞任・波木井九十郎氏(数)

2.波木井九十郎の出身地と生年
 九十郎の経歴を調べるのに史料・資料が不足している。その中でも、生年を記しているのは、立教大学名誉教授公田藏(こうたおさむ)氏である。同氏の書かれた、「京都大学学術リポジトリ 数理解析研究所講究録1317 巻2003 年190-204 日本の数学教育とベクトルこの百二十五年」(資料2.)には、「波木井九十郎(慶応3年(1867)–大正8年(1919)) は明治18年(1885) に東京物理学校を卒業し, 当時(明治30年頃)は第二高等学校の数学の教授であった、と記している。それにより、夏目漱石(1月5日生)、正岡子規(9月17日生)、南方熊楠(4月15日生)と同じ慶応3年の生れであると考えていた。それが、間違えであった。最近、慶応2年(1866)8月4日生れであることがわかった。
 熊楠の日記に登場する波木井九十郎と、物理学校第一回卒業生の波木井九十郎はおそらく同一人物と考えていたが、出身地が和歌山とわかり、さらに確信できた。
 南方熊楠の日記1893年10月17日(火)に、「夢に波木井九十郎、川崎虎之助二氏と船にて高野辺を下る。(略) 波木井九十郎は(明治)十三年頃の校友也。」 さらに、土宜法龍宛書簡の中でも、「(明治26年12月21日夕七時から書き始め、)夢に旧友波木井九十郎というものと船にのりて、高野山を北に見て紀川を西へ下る。(略) 今より十一年前、父母および弟と高野に詣し、(略)波木井というは、その二年前に小生と友たりしが、東京に遊学せり。」 ともに、明治13年(1880)に熊楠と九十郎は校友、旧友、友であったことを記している。
 熊楠は明治12年(1879) 12才の時に、和歌山県立和歌山中学(現在、和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)に入学している。同年3月1日 に開校したばかりである。 九十郎13才もこの時入学をしたが、校友であったとしても、同級あるいは同期か否かはわからない。

 九十郎は、多田(源)満仲→源頼義→義光→義清→清光→(加賀美)遠光→(南部)光行→(波木井)実長と続く家系の後裔なのであろうか。 南部(波木井)実長は、鎌倉時代中期の御家人で、南部光行の子。光行から甲斐国にある波木井郷(現在の身延町梅平一帯)を割譲され波木井氏を名乗った。日蓮に帰依し、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、郷内の身延里、現在の身延川上流に庵室を造った。これが現在の身延山久遠寺である。波木井の読みは、往時は「はきり」だったらしい。武田信虎の時代に、紀州、江州、甲州等に多くの分家を残していると記されているが、九十郎はその紀州へ移った波木井氏一族の後裔なのであろう。(参考:身延町史)

3.二高(第二高等中学校)時代
 資料2.の註に、「波木井九十郎は明治18年(1885) に東京物理学校を卒業し, 当時は第二高等学校の数学の教授であった. 後に仙台に開設された第三臨時教員養威所で中心となって数学教員の養威に当たり, 大正3 年に広島高等師範学校教授となる. 現在の日本数学教育学会の前身である日本中等教育数学会の設立の主唱者(5 名) の中の一人であったが, 会の創立(1919) を待たずに急逝した。」と記されている。

 明治18 年(1885) 「数学教育で活躍した卒業生たち」(理学専攻科雑誌 片野善一郎 東京理科大学1998)(資料3)より…。(物理学校の)第1回(明治18年)卒業生は九十郎ただ一人である。創立当初は、終業年限は2年だった。(略) 彼は仙台の第二高等中学校教授、臨時教員養成所長などを歴任しているが、詳しい経歴は不明である。臨時教員養成所長をしているとき、東北帝国大学の助手をしていた小倉金之助(注2)は彼に頼まれて講師をしたという。
(注2)小倉金之助(1885-1962):明治38年(1905)、東京物理学校を卒業。東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)に入学するが、家業を継ぐために中退し、山形に戻る。林鶴一のもとで数学を学び、明治44年(1911)東北帝国大学の助手となる。大正5年(1916)に微分幾何の研究で理学博士の学位を取得。私学出身で日本初の理学博士としても知られる。

明治20年(1887)4月 旧制第二高等中学校が宮城県仙台区(現・仙台市)に設立された。略称は「二高」(にこう)。
明治27年(1894)9月 第二高等学校と改称
明治29年(1896)3月6日 第二高等学校教授正八位 波木井九十郎 陛叙高等官七官
明治29年(1896)6月15日 明治三陸地震津波(注3.)の被害に対して、奥羽日日新聞が、●本縣下海嘯罹災 救恤義捐金人名として 金四拾錢 波木井九十郎を載せている。(「津波ディジタルライブラリィ」より)
(注4.) 明治三陸地震津波:三陸沖で発生した大地震(マグニチュード8.2)に伴う大規模な津波(最大波高38.2m)により、三陸沿岸を中心に死者約2万2千人、流出、全半壊家屋1万戸以上という被害が出た。
明治30年(1897) 「東北大学関係写真データベース・東北大学史料館」(資料4)に第二高等学校二部工科記念撮影が残る。澤柳政太郎(注5)、木村駿吉(注6)、波木井九十郎などが写っている。
(注5) 澤柳政太郎(1865 - 1927)文部官僚、教育者、貴族院勅選議員。1897年第二高等学校校長、1898年第一高等学校校長、1911年東北帝国大学初代総長、1913年京都帝国大学総長を歴任。
(注6) 木村駿吉(1866-1938)木村芥舟(軍艦奉行木村摂津守)の三男として江戸で生まれる。東京大学予備門を経て、1888年帝国大学理科大学物理学科を卒業し、さらに
大学院で学ぶ。第一高等中学校教諭を務めた後、1893~1896年アメリカに留学し、ハーバード大学院・イェール大学で学ぶ。帰国後、1896年9月から第二高等学校教授を務めた後、1900年3月、海軍に奉職し、海軍教授・無線電信調査委員となった。
明治30年(1897) 「四元法講義第一巻緒論」(木村駿吉述, 波木井九十郎編輯内田老鶴圃, 1897)を出版。
序文に木村駿吉が、「玆に出版する四元法講義録は第二高等學校内逢原會に於て有志者の爲に講義したる稿本を修正したるものにして(略)、本講義録の編輯及印刷中校正の事は同僚學友たる波木井九十郎君の任じて之に當られしものにて同君の丁寧綿密なる穿鑿と注意とに因て多數の疎漏を補修するを得たり玆に同君に向て深謝の意を表す」と記している。

1899明治32年8月28日 文官分限令第十一條第一項第四号に依り休職を認可す。(内閣) 理由:病気による。

4.臨時教員養成所時代
 「第三臨時教員養成所一覧」(第三臨時教員養成所 大正元年発行)(資料5)より、
 明治35年4月、臨時教員養成所を第二高等学校内に設置し其学科を数学科と定めらる。4月17日休職第二高等学校教授波木井九十郎本所教授に任せらる。4月22日教授波木井九十郎主事を命セラル
 1項で、明治35年(1902) 4月6日早稲田中学を辞任した波木井九十郎は早速17日に臨時教員養成所教授を任せられ、さらに22日には主事を命じられている。早稲田中学赴任時代は、第二高等学校休職扱いとなっている。

1905明治38年11月22日 第三臨時教員養成所教授従六位勲六等 波木井九十郎 陛叙高等官四官

 「東北大学関係写真データベース・東北大学史料館」(資料6)に写真が残る。
◆明治37年(1904)3月29日 第三臨時教員養成所第1回卒業記念(二高構内)三好愛吉、波木井九十郎などが写る。
第三臨時教員養成所は明治35年(1902)二高内に併設された中等教員養成機関。
◆明治39年(1906)3月24日 第三臨時教員養成所第2回卒業記念(二高構内)波木井九十郎主事などが写る。
◆明治41年(1908)3月24日 第三臨時教員養成所第3回卒業記念(二高構内)三好愛吉、波木井九十郎などが写る。
◆明治44年(1911)3月24日 第三臨時教員養成所第4回卒業記念(二高構内)三好愛吉、波木井九十郎などが写る。
◆大正3年(1914)3月24日 第三臨時教員養成所第5回卒業記念(理科大学構内)林鶴一、三好愛吉、北條時敬、波木井九十郎、川北靖などが写る。東北帝大開学後は帝大への併設となる。

<波木井九十郎著による教科書>
① 大正元年(1912) 幾何学教科書 平面部 第三臨時教員養成所主事 波木井九十郎著 同文館
② 大正2年(1913) 幾何学教科書 立体部 第三臨時教員養成所主事 波木井九十郎著. 同文館
③ 大正5年(1916) 中等教育代数学教科書 上巻 波木井九十郎著 同文館
④ 大正5年(1916) 中等教育代数学教科書 下巻 波木井九十郎著 同文館

 上記4冊とも、序を東北帝国大学初代総長 澤柳政太郎が書いている。
 ①の序に於いて末尾に、「大正元年九月 東京目黒近藤重蔵氏旧邸に於いて 波木井九十郎」 と記している。蝦夷地調査、開拓に従事した近藤重蔵は1829年に既に亡くなっており、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒)に広大な遊地を所有していたが、大正時代にも旧邸が残っていたかは興味のあるところ。
 「小倉金之助 生涯とその時代」(阿部博行、1992法政大学出版局)に九十郎の一端が書かれている。
 1913年、第三臨教の波木井九十郎主事の依頼をうけ講師になり、2年間代数を教えた。臨時教員養成所は,1900代の中等学校の普及で生じた中等学校教員の不足を補うために、1902年に設置された二年制の学校である。第二高等学校に付設の第三臨教のみが、後に三年制になった。第三臨教は1911年から生徒募集を停止しており、東北帝大に移管された1914年には、最上級のみ在籍していた。翌1915年3月に卒業生を出し廃止されている。東北帝大移管時代はわずか1年である。開所から廃止まで唯一の専任教授が波木井主事であった。各地の養成所がすでに廃止された中で、第三臨教が存続したのは波木井など職員の努力が大であった。

5.広島高等師範学校時代
 資料2.の註に、「波木井九十郎は明治18年(1885) に東京物理学校を卒業し, 当時は第二高等学校の数学の教授であった。後に仙台に開設された第三臨時教員養威所で中心となって数学教員の養威に当たり、大正3年(1914)に広島高等師範学校教授となる. 現在の日本数学教育学会の前身である日本中等教育数学会の設立の主唱者(5 名) の中の一人であったが, 会の創立(1919) を待たずに急逝した。」と記されている。
 2項で九十郎の経歴を調べるのに史料・資料が不足していると書いたが、3項でも片野善一郎氏が詳しい経歴は不明としている。 ところが、今月初めに「臨時教員養成所 養正会報 第十三号 三好先生・波木井先生追悼号」を見つけた。弔詞と、広島高師 森義一が波木井九十郎から聞き取ったものが載っていたため。これまで、不明だった部分を埋める記述がみつかった。これを一部、南方熊楠の履歴と併せて整理してみることにする。

<波木井九十郎年表> (熊楠など人名が記してない記述は、すべて九十郎に関するものである。)
1866慶応2年(丙寅)8月4日 和歌山縣和歌山區廣瀬南細工町に於いて生まれる。(平民)
 南細工町の地名は今でも残っており、和歌山城の東約800mのところである。
1867慶応3年5月18日 熊楠が和歌山市橋丁で生まれる。 和歌山城の北北西約800mの所であり、二人の生家の距離は約1400mほどである。
1873明治6年、熊楠(6才)は、新設の雄(おの)小学校に一期生として入学する。
1875明治8年秋、小学校に入学。3年で卒業。 小学校名が不明であるが、現在の和歌山信愛中・高等学校がある場所にかつてあった広瀬尋常小学校かもしれない。 九十郎の家からはおそらく200~300mの距離である。
1879明治12年 熊楠(12才)、九十郎(13才)ともに和歌山中学に入学。 同年3月1日 - 和歌山県立和歌山中学校(現在、和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)が開校する。九十郎は数学を得意としていたが、反対に熊楠は数学が苦手であったとか。互いが校友であったとしても、同級あるいは同期か否かはわからない。
 南方熊楠の日記、1893年10月17日(火)の条に「夜早く臥す。夢に波木井九十郎、川崎虎之助二氏と船にて高野辺を下る。(略)」と記される。明治十三年の話としている。
 同じ内容を、熊楠は土宜法龍宛書簡の中でも語っている。明治26年(1893)12月21日夕七時から書き始め、
 「波木井というは、その二年前に小生と友たりしが、東京に遊学せり。さてその母かなしんで、やがて父と共に三味線工を止め、東京へ引っこしたりとのことにて、子を愛する人なりとて毎度その近傍のもの来たり小生の家で話す。小生もその人を知ること久しかりしゆえ、いつもこの人のこと思えり。(略)」
 1880明治13年 九十郎は和歌山中学を退学し、藩侯が建てた自修私学校(注5.)に通う。和歌山中学の退学理由はクラスチーチイングの弊害を馬鹿らしく思ったことからという。
(注7) 明治8年旧藩主德川侯及び慶応出身者らにより、私学校自修舎が設立される。自修舎から自修学校となり、次いで自修私学校-徳修学校と変遷していく。数年を経て資金欠乏し、濱口梧陵らの援助を得て囘復した。明治の初年は慶應義塾の教師をしている和歌山出身の者が、半年交代で行っていた。第4代慶應義塾塾長となった鎌田榮吉(1857 -1934)も教師として参画している。日本初のシェイクスピア劇翻訳者である、和歌山の英学者・河島敬蔵(1859-1935)は明治12年4月より14年10月まで、和歌山自脩私学校にて数学科の教師をしたとの履歴書が残り、この河島より数学を習った可能性がある。九十郎は、有馬中将(注8)もこの私学校出身だと述べている。
(注8) 有馬良橘(ありまりょうきつ、1861-1944):軍人。最終階級は海軍大将。和歌山市出身。明治6年4月、広瀬尋常小学校入学 明治9年3月同校卒業 同年4月私立自修舎入学。

 1882明治15年 九十郎は故郷に別れを告げ上京する。親戚の家に世話になるが、帰国せよと迫られたので、発奮しこの家を出て、苦辛惨憺の結果番町の方圓社(注9)という私塾に入る。そこで、学びながらも助教という仕事を得た。16才にして教鞭を執った初めである、そして、2,3年の間は昼は方圓社で助教を務め、夜になると東京物理学校(注10)に通って勉強した。
(注9)方圓社: 明治9年に和田善左衛門により愛宕下町に設立された方圓社がある。(「私立中学校一覧表(明治十一年)『文部省年報』港区教育史下巻より」 山崎敏行が数学を教えていたらしい。

1885明治18年 東京物理学校卒業(第1回卒)・・「東京物理学校50年小史」(1941,東京物理学校発行)より。
 九十郎1名のみが記載されている。第1、2回卒は出身地が記載されていない。
(注10)東京物理学校 <東京物理学講習所~東京物理学校~東京理科大学へ>
1881年6月13日 寺尾寿ら東京大学理学部物理学科の初期の卒業生などにより私塾「東京物理学講習所」として設立。9月開校。
1883年9月 東京物理学校と改称。
1885年 明治18年第一回卒業生 数学科 波木井九十郎
1949年 学制改革により東京理科大学を設置。1951年まで、東京理科大学と、東京物理学校(専門学校)が混在。
1951年3月31日 東京物理学校は廃校となる。

1886明治19年 文部省検定試験の数学全部に合格し、中等教育数学科教員免許状を受く。
 独逸協会学校(獨逸学協会によって1883年に設置された私立の旧制学校)、東京英語学(その当時、官立(東京開成学校進学課程))と私立(日本橋学園前身)があったが、どちらか不明)などで教鞭を執った。
1887明治20年 第二高等学校にて教鞭を取る
1888明治21年3月31日 第二高等中学校助教論に任ぜられる。(正式採用?)
1889明治22年4月1日 同校教諭
1890明治23年10月15日 同校教授
1899明治32年9月2日 文官分限令第十一条第一項第四号により休職
1900明治33年6月1日 早稲田中学校 第二高等学校教授波木井九十郎氏(数)を聘す。
1902明治35年4月6日 早稲田中学校を辞任
1902明治35年4月 第三臨時教員養成所を第二高等学校内に設置し其学科を数学科と定めらる。 17日休職中の第二高等学校教授波木井九十郎、本所教授に任せらる。 22日教授波木井九十郎主事を命セラル。
1905明治38年11月22日 第三臨時教員養成所教授従六位勲六等 波木井九十郎 陛叙高等官四官
1915大正3年3月28日 第三臨時教員養成所教授波従五位勲五等 波木井九十郎 叙正五位
1907明治40年9月10日 二高を解嘱となる。(第三臨時教員養成所主事は継続)
1914大正3年9月 広島高等師範学校講師となる。(第三臨時教員養成所と兼務?)
 従四位勲五等に叙せられる。 (広島高等師範学校教授になった時期が不明。)
1915大正3年 第三臨時教員養成所が廃止。
1919大正8年1月8日午後7時流行性感冒に肺炎を併発し逝去。 52才。
 同年1月11日 広島市左官町の妙頂寺(日蓮宗)に於いて葬儀
 同年8月3日 池上本門寺(日蓮宗)にて追悼会
 同年10月5日 池上本門寺にて遺骨埋骨式 聖廟そばの波木井家墓に埋骨される。
 毎朝読経を怠られなかったほど熱心な日蓮宗の信徒であった。

6. 知るよしもがな
 南方熊楠が夢の中にまで見た波木井九十郎は、九十郎が東京へ行った後,一度も便りや音沙汰などなかったのだろうと思っている。ところが、熊楠が海外に渡ってあった人の中に、九十郎と関係があった人物が何人かいる。おそらく、九十郎のことは話の中には出てこないと思う。
 一人は木村駿吉、もう一人は鎌田栄吉である。ともに、ロンドンで出会っている。
 木村駿吉は、明治26 年(1893 ) 8月に米国に渡り、ハーバード大学大学院へ留学し、翌年にイエール大学大学院へ移る。1895年8月 夏季休暇中に英国、オランダへ旅行。その時、ロンドンで熊楠に会っている。翌1896年5月に博士号を取得、9月に帰国し第二高等学校教授に就任した。明治30年(1897)、前述のごとく「四元法講義第一巻緒論」(木村駿吉述, 波木井九十郎編輯)を出版した。
 鎌田栄吉は、九十郎が自主的に和歌山中学を退学し、その後通った自修(私)学で教えた時期がある。調べてみると、明治11年(1878)から1881年に薩摩の造士館の教頭に招聘されるまでに、自修学校長をし英書を教授したと。九十郎は明治13年(1880)から明治14、5年までそこに通っているので、当時の校長が鎌田栄吉だったわけである。

追記・訂正など
2018.7.26 <波木井九十郎著による教科書> 養成部 → 養成所 に訂正
2018.7.31 6項を追記
2018.10.4 整理
2019.9.16 国立公文館資料により追記
明治29年(1896)3月6日 第二高等学校教授正八位 波木井九十郎 陛叙高等官七官
明治32年(1899)8月28日 文官分限令第十一條第一項第四号に依り休職を認可す。(内閣) 理由:病気による。
明治38年(1905)11月22日 第三臨時教員養成所教授従六位勲六等 波木井九十郎 陛叙高等官四官
大正3年(1915)3月28日 第三臨時教員養成所教授波従五位勲五等 波木井九十郎 叙正五位



キーワード:波木井九十郎、南方熊楠、堀切善次郎、夏目漱石、波木井実長、小倉金之助、澤柳政太郎、木村駿吉、濱口梧陵、河島敬蔵、鎌田榮吉、有馬良橘,寺尾寿、近藤重蔵、安部磯雄、島村抱月
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橿原市・藤原京跡 唐三彩の破片が見つかる

2018年07月20日 | Weblog
 奈良県橿原市教委は20日、同市四条町の藤原京跡から藤原宮期(694~710年)の唐三彩を施した陶器の破片(縦2.6cm、横4.3cm、厚さ0.5cm)が見つかったと発表した。中国・唐代の陶器で、破片は陶器の「枕(ちん)」の一部とみられ、遣唐使が日本に持ち帰ったものの可能性があるという。
 藤原京跡での出土は2例目で、枕は初めて。

 出土した場所は、藤原京右京五条六坊西南坪・七坊東南坪で、鎌倉時代の耕作溝の中から見つかった。
 調査地の南側に古代寺院「山本寺」の可能性がある地があり、その遺物とする見方もあるらしい。
 国内で最も古い唐三彩の出土例は、藤原京跡の右京二条三坊(橿原市醍醐町)や縄生廃寺(三重県朝日町)で、今回も同時期のものである。
 大宝2年(702)に出国し、慶雲元年(704)に帰国した遣唐使が持ち帰った可能性があるという。
  粟田真人が遣唐大使(執節使)に任命され、702年出国、704年に帰朝している。道慈は702年出国だが、帰朝は718年であった。
[参考:毎日新聞、産経新聞、奈良新聞、NHK]

過去の関連ニュース・情報
 唐三彩

2014.11.26 大安寺(奈良市)の旧境内から唐三彩80点出土
 2013年12月から2014年1月まで奈良市文化財調査センターが行った発掘調査で、「唐三彩」の破片約80点が見つかった。過去の調査と合わせて計約300点が出土。見つかった唐三彩はほとんどが、「陶枕(とうちん)」とみられる。大安寺は、遣唐使として唐に渡った道慈(702年唐へ渡り718年帰朝)が造営に関わっていることから、道慈が唐から持ち帰ったものの可能性もあるとしている。
[参考:産経新聞]



最古の唐三彩 奈良の藤原京跡で出土 遣唐使が持ち帰ったか

最古級「唐三彩」の破片出土 遣唐使が持ち込む? 藤原京跡 


2018.7.27追記



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豊橋市・吉田城 出土していた桐紋鬼瓦が池田輝政が城主だった時代のものと発表

2018年07月13日 | Weblog
 豊橋市教委は10日、吉田城から出土したとされる「桐紋鬼瓦」が、池田輝政が城主だった時代(1590~1600年)の遺物だと発表した。桐紋は権威の象徴で、当時、豊臣秀吉政権下にあり、輝政が重要な大名だったことがわかる。
 鬼瓦は、市美術博物館で21日から始まる企画展で初めて公開される。
[参考:東愛知新聞、NHK]
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奈良市・西大寺旧境内 巨大な柱根(直径約0.7m)が見つかる 「幢幡」の支柱?

2018年07月11日 | Weblog
 奈良文化財研究所の調査で、西大寺旧境内で、古代から中世かけての巨大な柱根(直径約0.7m)が奈良文化財研究所の調査で見つかった。「幢幡(どうはん)」の支柱の可能性があるという。
 柱根は直径約0.7m、残存長約1.5mのヒノキ材。東西約2.2m、南北約2.6mの柱穴の西壁に寄せて建てられていた。
 宝亀11年(780)に作成された古文書「西大寺資財流記帳」にも、回廊南側に「幢」が6基あったと記述している。
[参考:奈良新聞]

過去の関連ニュース・情報
 西大寺
 大安寺 奈良期の錦幡を新調し再現
 藤原宮跡 幢幡を支えた柱穴が出土

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京都・祇園祭 長刀鉾の2代目長刀の銘文を分析

2018年07月04日 | Weblog
京都国立博物館(京都市東山区)が2日、祇園祭の前祭(17日)の山鉾巡行で先陣を切る長刀鉾の2代目長刀に刻まれた銘から、その来歴や作者が分かったと発表した。9月から始まる特別展「京(みやこ)のかたな」(読売新聞社、NHKなど主催)で長刀を初公開するにあたり、京都国立博物館が柄(つか)に収まる部分に刻まれた銘文を分析した。長刀の来歴は地元で伝承されてきたが、調査で裏付けられた。
茎(なかご、刀身の柄に被われる部分)の表裏に銘があり、
表に「平安城住三条長吉作/大永二年六月三日」の銘がある。
 (意)大永二年(1522)六月三日、京都の刀鍛冶、長吉(ながよし)が製作した。
裏には「去年日蓮衆退治之時分捕仁仕候於買留申奉寄附感神院江所也 願主江刕石塔寺/之麓住鍛冶左衛門太郎助長 敬白 天文六丁酉歳六月七日」の銘がある。
 (意)昨年(天文5年)の天文法華(てんぶんほっけ)の乱で略奪に遭ったが、近江の石塔寺(いしどうじ、現東近江市)の麓に住む助長という刀鍛冶が買い戻して翌天文6年(1537)6月7日に感神院(現八坂神社)に奉納した。
[参考:京都新聞、読売新聞、産経新聞、毎日新聞、NHK]


祇園祭2代目長刀は天文法華の乱で略奪、刀鍛冶が買い戻す−銘文で伝承裏付け 京都国立博物館 

長刀鉾の長刀、戦乱で略奪 京都・祇園祭、銘に経緯
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