歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

安芸高田市 弥生時代後期(3世紀)の四隅突出型墳丘墓1基が出土 市内初

2013年05月28日 | Weblog
 安芸高田市教委は27日、 同市吉田町下入江の赤柴山の中腹(標高285m地点)で、弥生時代後期(3世紀)のものとみられる「四隅突出型墳丘墓」1基が見つかったと発表した。 「四隅突出型墳丘墓」は広島、島根、鳥取、北陸地方などで約100基が確認されており、広島県内では江の川流域を中心に三次市、庄原市、北広島町で17基の出土例がある。山の中腹で見つかるのは珍しいという。
 市教委によると、「四隅」は南北方向に広がり、2カ所の突出部が見つかっている。突出部を含めて縦13m、横10m、高さ1.5m。 2~3段の階段状に積み上げた大小の貼石(はりいし)が表面を覆っており、下部には石が敷かれていることも分かった。
 また、突出部の約15m北で縦2m、横1mの箱形の石棺も見つかった。約30個の平たい石で覆ってあり、石棺の内部を調査する。
 現地説明会は6月8日午前11時から開かれる。
[参考:5.24中国新聞、5.28読売新聞]

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 安芸高田市・甲立古墳(全長77mの前方後円墳、4世紀後半築造)
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奈良県斑鳩町・中宮寺跡 7世紀の平瓦片に「難波津の歌」の一部が万葉仮名でヘラ書

2013年05月28日 | Weblog
 斑鳩町教委は27日、2010年度の調査で国史跡・中宮寺跡で出土した7世紀中頃~後半の瓦片に、平安時代の「古今和歌集」の仮名序で手習いの手本として引用した「難波津の歌」の一部が刻まれていることがわかったと発表した。 木簡や土器に書かれたものは30数例出土しているが、瓦からの出土は山田寺跡(桜井市)の7世紀後半のもの(注1)に続き2例目で、難波津の歌が古くから広まっていたことを示す例としている。
 平瓦の破片(長さ12cm、幅10.2cm、厚さ1.6cm)の側面に、長さ約9cmにわたって「ツ尓佐久移己(つにさくやこ)」(注2)とヘラで刻まれていた。仁徳天皇の治世の繁栄を願って詠んだ「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」という「難波津の歌」を、万葉仮名で表記した一部という。
 工事の職人や監督者が、手近な瓦で字の練習をしていたのでは、あるいは屋根瓦に書くことで火よけなど呪術的な願いを込めたのではないかとみている。
 中宮寺は聖徳太子の建立とされ、これまでの調査で、創建は7世紀前半と推定されている。
 瓦片は、6月25日まで斑鳩文化財センター(同町法隆寺西1丁目)で開催中の春季企画展で展示される。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞]

(注1)「奈尓皮」とヘラ書き
(注2)「佐久移」と書かれた木簡が石神遺跡(飛17)で出土している。 ・奈尓皮・□(止?)佐久移
(注3)古今和歌集真名序に「至如難波津之什献天皇、富緒川之篇報太子」(訳: 難波津の什(じふ)を天皇に献じ、富緒川(とみのをがは)の篇を太子に報ぜし)と書かれている。「難波津之什」とは前述の「難波津の歌」であり、「富緒川之篇」とは聖徳太子と片岡山の飢人との問答歌「いかるがや富緒川の絶えばこそ我が大君の御名を忘れめ」(拾遺集巻二十ならびに日本霊異記第四. 聖徳太子の異(くす)しき表(しるし)を示したまひし縁 1.聖徳太子と病める乞食)と考えられている。 「難波津の歌」が「いかるが(斑鳩)」の聖徳太子あるいは母・穴穂部間人皇后が建立した中宮寺の瓦にヘラ書きされていたとは奇遇である。
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