天台宗 滝尾山正眼院太平寺 那須烏山市滝395
境内に立つ那須烏山市教育委員会の案内板には、
「延暦22年(803)、坂上田村麻呂が、蝦夷討伐の大願成就を祈願してこの地に堂宇を建立し、千手観音菩薩を安置したことに始まり、嘉祥元年(848)、慈覚大師円仁により再興されたと伝わっています。
中世以降、この地を領有していた那須氏により崇敬され手厚い庇護を受けました。(中略)
天正18年(1590)、那須氏(注1)が小田原戦役への遅参を理由に豊臣秀吉より改易されます。その後、領主が短期間に交代する状況が江戸時代の中頃まで続きますが、本寺は歴代の烏山藩主の信仰を受け繁栄しました。特に享保10年(1725)、大久保常春が江州三雲より入封の後は、大久保家の菩提所となり高五石の黒印(注2)を領しています。(略)」
(注1)那須資晴(1557-1610)の時。
(注2)将軍の発行する朱印に対して藩主の発行する黒印。

写真は左から 参道、 山門(仁王門)
山門(仁王門)の扁額は「観音」と思ったら「観普」の文字であった。「観普」とは、大乗仏教の経典『法華三部経』の『無量義経』、『妙法蓮華経』、『仏説観普賢菩薩行法経』からとったものか。

写真は左から 観音堂、 観音堂扁額「観世音」、 観音堂棟に飾る大久保藤紋
山門の奥には本堂(観音堂)がある。扁額には「観音」、右には「天正13年甲子7月吉日」と書かれているが、天正13年(1585)の干支は甲子でなく乙酉であり、明らかにいたずらにより大正13年(1924)年甲子の「大」を「天」に書き換えたものである。本堂の屋根の棟には、左右には右上の写真「上がり藤に大紋」(注3)、真ん中には「卍紋」が飾られている。 一方、山門はどうだったかと調べてみると、左右の紋は同じく「上がり藤に大紋」であるが、真ん中には「九曜紋」が飾られている。 「九曜紋」は下野大久保家の副紋でもあるらしい。
(注3)同様な紋に「大久保藤」「那須大久保藤」などがあり、花弁の模様、数に違いがあり、見極めが難しい。 また、飾っている紋自身の間違いがある場合もある。

写真は左から 蛇姫墓、 蛇姫墓石
太平寺には烏山藩2代藩主大久保忠胤(ただたね)の四女・於志賀姫(おしかひめ)の墓がある。法名は志徳院殿雅山妙耀大姉。寛政4壬子年(1792)7月8日49歳で亡くなった。
この於志賀姫が川口松太郎の小説「蛇姫様」のモデルとなった人物の一人といわれている。

太平寺のそばには、龍門の滝がある。