一昨日の新聞に「日本傷痍軍人会 解散へ」と言う記事が載っていました。
「傷痍軍人」と言う言葉自体、知っている方が少ないのではないでしょうか?
戦争で戦地に派遣され、戦闘で亡くなった方が「戦死」、戦死をまぬがれて身体的な損傷を負って帰還した方が「傷痍軍人」です。太平洋戦争では多くの傷痍軍人が生まれました。
戦後、帰国したものの身体的なハンデがあるため、働くこともままならず、国家的な保障もろくにないまま苦しい生活を続けてきました。こうした負傷した軍人らで作られていたのが財団法人日本傷痍軍人会(略称 日傷)です。
この会も、会員の高齢化が進み、組織活動が困難になったため来年11月に解散することになったそうです。
会員は、発足時には35万人いましたが、現在では5,100人だそうです。その平均年齢も91歳を超えているとのことで、組織解散はやむを得ないかもしれません。
国が日本傷痍軍人会に運営を委託している、戦傷病者の資料を展示する「しょうけい館」という展示施設が水道橋にあります。私はここを一度見学に行き、改めて戦争の愚かさ、悲惨さを知りました。
その展示のなかにはこんなものもありました。
終戦後、傷痍軍人が繁華街の駅頭で、通行人に物ごいしている姿です。左側の方は右足を折損、義足ですが、アコーディオンを弾いています。真ん中の方は左腕折損ですが、右手でハーモニカを吹いています。右側の方は歩くこともままならないので、募金箱の前で頭を下げ、ひたすら義援金をお願いしています。
こんな姿が池袋などの駅頭でよく見かけました。
敗戦の年の1945年、私は小学校2年生でした。
考えてみると、私がアコーディオンと言う楽器を初めて見たのは傷痍軍人の方が抱える姿のような気がします。
傷痍軍人の組織もなくなり、またひとつ戦争体験を語り継ぐべき人たちが姿を消しそうです。それに反比例するように「憲法をかえて軍隊をもつ国つくりを!」の声が広まっています。
私は、再び、戦死者や傷痍軍人を作るような国にしてはいけないとつくづく感じました。
「傷痍軍人」と言う言葉自体、知っている方が少ないのではないでしょうか?
戦争で戦地に派遣され、戦闘で亡くなった方が「戦死」、戦死をまぬがれて身体的な損傷を負って帰還した方が「傷痍軍人」です。太平洋戦争では多くの傷痍軍人が生まれました。
戦後、帰国したものの身体的なハンデがあるため、働くこともままならず、国家的な保障もろくにないまま苦しい生活を続けてきました。こうした負傷した軍人らで作られていたのが財団法人日本傷痍軍人会(略称 日傷)です。
この会も、会員の高齢化が進み、組織活動が困難になったため来年11月に解散することになったそうです。
会員は、発足時には35万人いましたが、現在では5,100人だそうです。その平均年齢も91歳を超えているとのことで、組織解散はやむを得ないかもしれません。
国が日本傷痍軍人会に運営を委託している、戦傷病者の資料を展示する「しょうけい館」という展示施設が水道橋にあります。私はここを一度見学に行き、改めて戦争の愚かさ、悲惨さを知りました。
その展示のなかにはこんなものもありました。
終戦後、傷痍軍人が繁華街の駅頭で、通行人に物ごいしている姿です。左側の方は右足を折損、義足ですが、アコーディオンを弾いています。真ん中の方は左腕折損ですが、右手でハーモニカを吹いています。右側の方は歩くこともままならないので、募金箱の前で頭を下げ、ひたすら義援金をお願いしています。
こんな姿が池袋などの駅頭でよく見かけました。
敗戦の年の1945年、私は小学校2年生でした。
考えてみると、私がアコーディオンと言う楽器を初めて見たのは傷痍軍人の方が抱える姿のような気がします。
傷痍軍人の組織もなくなり、またひとつ戦争体験を語り継ぐべき人たちが姿を消しそうです。それに反比例するように「憲法をかえて軍隊をもつ国つくりを!」の声が広まっています。
私は、再び、戦死者や傷痍軍人を作るような国にしてはいけないとつくづく感じました。