私の耳は貝のから ジャン・コクトオ

2017年04月02日 17時38分42秒 | 社会・文化・政治・経済
シャボン玉の中へは
庭は這入れません
まわりをくるくる廻っています


堀口大学訳の、ジャン・コクトオの「シャボン玉」

私の耳は貝のから
海の響きをなつかしむ


「耳」というコクトオの最も短い詩である。

コクトオは作家であり、映画監督である。
ジャン・マレー主演「オルフェ」
画家でもあり、ピカソが激賞した。
バレエ作家であり、音楽家で、批評家でもあった。
俳優でもあったのだ。

コクトオは世界一周の途中で日本にも来ている。
昭和11年5月16日から5日間滞在。
折から来日していたチャップリンと共にアメリカに立った。

通訳と日本国内案内を堀口大学がした。
日本では歌舞伎や相撲を見た。
画家の藤田嗣治(つぐはる)の案内で、浅草の娼家も見学している。
また玉の井にも足を伸ばしている。

出久根達郎さんの「文学大博覧会」から引用


生誕150年 正岡子規の生涯

2017年04月02日 14時59分30秒 | 社会・文化・政治・経済
若くして結核にかかり、しばしば喀血した。
日常的に微熱がつづき、最悪な生活であった。
効果的な治療法もなく、まさに死の病に毒されている状態であった。
最晩年には結核菌が骨にまで入り、肉体を芯から腐らせた。
体にはいくつもの巨大な穴があき、大量の膿が流れ出る。
毎日、包帯を取り替えるたびに、こびりついた血と膿が激痛を走らせ、うめき声を上げずにいられない。
そして正岡子規(1867~1902)は35歳の過酷な人生をを閉じた。
だが、想像を絶する苦しみの中でも快活な精神を失わず、俳句と短歌の革新、日本語の文章の改革という大きな仕事を成し遂げた。
子規の時代は、夏目漱石と同様に「文学で国家建設」という情熱があった。
「文学報国」の明治精神である。
明治政府は「有為の人」になることを求めていたのである。
少年時代の子規は政治家を志していた。
だが、子規は賊軍松山藩の子弟であり、病身のために志は叶わなかった。
「江戸時代」を代表する俳人が一茶であり、子規は一茶から明治へつづく近代大衆俳句の中継者だった。
子規が唱えた「写生」は眼前のものを描けば誰でも俳句ができるという大衆俳句の方法だった。
神奈川近代文学館学芸員・長谷川櫂(かい)さん

自らに都合のいい情報

2017年04月02日 12時31分27秒 | 社会・文化・政治・経済
知識とは、<書き言葉>であり、活字文化である。
民主主義の根幹となる論壇を作る言葉と言い換えてもいい。
ところが、現代日本においては知識よりの情報に関心が集まる傾向にある。
読者離れが進む一方、インターネット上にあふれる<話し言葉>並みの情報に一喜一憂する人が増えている。
そこでは、客観的な正しさよりも自らに都合のいい情報がもてはやされる。
(新聞の)読者は予想外の記事によって新たな発見や気付きを得る機会を得る。
劇作家・山崎正和さん

本を読む度に心は豊かに

2017年04月02日 11時26分11秒 | 社会・文化・政治・経済
めげそうな時
「ここから、どうしていくかです。落胆して、自暴自棄になったり、諦めてしまうか。それとも、<負けるものか><今こそ信心の力を証明するのかだ>と、敢然と立ち上がるのかです>
今が試させれいる時なのだ。このままでは何も変わらない―と決意する。

師匠をもつことこそ、人生の最重要事である。
師をもつといことは、
自分の生き方の
規範をもつことであり、教育の根幹をなすものである。

本を読む度に心は豊かに―チェーホフ

互いの心の内に<仏性>を見る。
<敬いの心>に真の団結が生まれる。

<良き市民たれ>の指針を胸に。
1960年、「戦後日本史上、最悪の移民政策」といわれたドミニカ移住。
約1300人のうち8割以上が現地を去った。
それでも現地で頑張った日本人たちもいた。

<自分たちの中に平和を見いだすならば、そして人類の仲間と共に平和を見いだすならば、それは実現できる>
人類の普遍性を信じ、その実現に不動の確信を持つ。

人のために行動する青年の<連帯>

2017年04月02日 11時21分33秒 | 社会・文化・政治・経済
―仏法では「同苦」を説き、目の前の一人の悩みに寄り添うことを重視している。

「国家や社会の真価は、軍事力でも経済力でもなく、<最も苦しんでいる人のために何ができるか>の一点にこそ現れるます」との一節が心に響きました。
「自らも被災しながら、人のために行動する青年の<連帯>にも期待しています。その輪を広げ、みなさんの熱と力で熊本を元気にしてほしい」
熊本県立美術館館長・田崎龍一さん

阪神救援が陣乱調 守りのミス響く

2017年04月02日 10時54分19秒 | 日記・断片
マツダスタズアム3万1609人
阪神420 002 000 0 8
広島300 022 100 1 9

赤ヘル乱戦競り勝つ

延長10回安部が決着の内野安打

観ていて、阪神のエラーが目立った。
同時に阪神の主力が勝負の段階で歩かされた。
それも広島の作戦の範囲であっただろうか?
怖い打者とは勝負せず歩かせる。
特に1回に丸選手に3ランホームラン。
これで流れは広島へ向かったと想わせる展開となる。。
ともあれ、エラーが多かったことも阪神の敗因だった。
勝てた試合を落とした阪神は、3日目どうなるか?

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虎が球史に残る泥仕合を演じた。9回で両軍合わせて26四球のプロ野球記録に並び、延長の末、27四球と1死球が乱発した大乱戦は、延長10回にサヨナラで敗戦。「勝たせてあげたようなもの」。5時間24分のタクトを終えた金本監督は、怒りを通り越してあきれ顔だった。
 延長戦に入っても自滅の連続だった。無死一塁からドリスがけん制悪送球で1死二塁とすると、遊撃で途中出場のドラフト5位の糸原が平凡なゴロをファンブルした末に一塁悪送球。1死一、三塁とピンチを広げ、ジ・エンドとなった。昨季はリーグワーストの97失策の守乱に泣いたが、今季は開幕戦の3失策に続く4失策で数字上は500失策ペースだ。

 試合後の指揮官が名前を挙げて糾弾したのは、高山と上本だった。高山は8回無死、菊池の左飛を落球。上本は6回無死一塁の安部の二盗で、梅野のアウトのタイミングのストライク送球を取り損ねた(記録は失策つかず)。「自分の範囲のノーバウンドはノー文句で捕らないと。最後の糸原はルーキーだし、あれは責められないと言えば、責められない」と、攻撃面では開幕から好調の1、2番コンビに猛省を促した。

 さらに報道陣に自軍の与四球の数を逆取材し、13の数字に「ハ~ッ」と深いため息をついた。開幕戦を62年ぶりの2ケタ得点で飾った勢いを生かせないミスの連鎖。「勝ってもおごらず、負けてもくじけず」が今季のモットーだが、あまりにもダメージの深い黒星だった。(島尾 浩一郎)

(スポーツ報知)


阪神は、3月31日の開幕戦3失策に続き、2戦目も4失策。
張本氏は「喝だ!阪神の守備、金本(監督)の顔を見られないよ、気の毒で。両チームの投手も26四球。ゲームにならないよ」と開幕直後の締まりのないゲームに落胆していた。


「山の上ホテル」の追憶

2017年04月02日 05時54分14秒 | 日記・断片

毎日新聞に「山の上ホテル」が紹介されていた。
大学や出版社などが集まる東京・神田駿河台。その丘の上に立つ山の上ホテル。
「携帯電話も電子メールもない頃のこと、私たちスタッフが、先生(作家)と編集者の取り次ぎ役でした」。
現在はホテル総支配人の中村淳さん(62)は、入社間もない1970年代後半、フロント係りとして勤務していた。
編集者は基本的に部屋に上がることは許されず、作家への連絡手段はフロントからの内線電話のみ。
池波正太郎、常盤新平、山口瞳ら、当代の売れっ子作家たちがホテルを定宿にしていた。

日本医師会、東京都医師会、佐々木研究所(吉田富三所長)、取材先の各病院などが近隣にあり、「山の上ホテル」で食をしたり、コーヒーなどを記者仲間たちと飲んだことが思い出される。
20代~30代のことだ。
後年は歯科関係者とも度々利用した。
使い込まれたソファーとテーブル。
赤いカーペットと木製の壁。
玄関を入って右手のロビーは、ホテルと言うよりも、古い洋風の応接室のようだった。

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佐々木研究所吉田富三所長
病院新聞時代のことだったが、20代の当方は、毎週、佐々木研究所へ行っていた。
吉田富三所長の話を聞くためだ。
医療人の鑑のような尊敬すべき人であった。
日赤武蔵病院の神崎三益院長から「一人前の記者になるなら、富三さんに会って勉強しなさい」と助言されてきたからだ。
当方は未熟でつまらない質問もしたと思う。
それでも吉田富三所長は、誠実に諭すように意見を述べていた。
作家の森鴎外についても聞いてみた。
「一高時代に鴎外の小説は読みましたが、乃木希典の殉死に影響されて書いた「興津弥五右衛門の遺書」や史伝「澁江抽斎」に鴎外の真価が表れていましたね」と語った。
それから晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任したことを評価していた。
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吉田先生は昭和2年(1927)に東京帝国大学・医学部を卒業、昭和4年(1929)に佐々木研究所に研究員として赴任。
当時の佐々木研究所は関東大震災で壊滅した後、応急建築での研究が再開された直後で、お世辞にも研究所と云える状態ではなかったとのことであるが、そこで生涯の師となる佐々木隆興先生と巡り会い、佐々木先生の指導のもとで、あの有名なアゾ色素によるラット肝癌の発生の実験がなされた。
吉田先生はその後長崎医大教授、東北帝大教授、東京大学教授を歴任されたが、恩師・佐々木隆興先生の要請により、昭和28年(1953)東大教授を兼任して第2代佐々木研究所長に就任され、逝去されるまで所長を務められた。
昭和48年4月27日、杏雲堂病院で亡くなられた(享年70才)。


競輪好きだった坂口安吾

2017年04月02日 02時49分48秒 | 未来予測研究会の掲示板
「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」随筆『堕落論』坂口安吾
「健全なる道義から堕落し、裸となって出発する必要がある」
安吾は国家などまったくあてにできない、と切り捨てる。
安吾の言動は、戦中も戦後も不思議と首尾一貫していたのだ。
国家総動員体制に従い、国民が振り回される中、安吾は古代から現代に至るまで変わることのない、人間の本性というべきものを見据えていた。
戦後、欲望を第一に生きる国民、「武士道」や「天皇制」に従順だった人々の姿を見て「人間は本来そういうものだ」と突き放している。
軍部指導者は武士のように腹を切らずに白を切るのである。
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宮元武蔵は若い頃、坂口安吾に共鳴していた。
ある意味で、覚めた男であったのだ。
「競輪は、当たらないと愚痴を言う人間が多いが、毎日、競輪をやっていては当たらないよ。競輪は的さえ絞れれば取れる。10点も買うのは邪道だ」。
「記念レースは、あまり手を出すべきではないね。的がしぼれない。どの選手からも買える」
確かに武蔵の指摘する通りである。
「2車単で2000円以上のレースには手を出すべきではない。的が絞れるレースではないんだよ」
「3連単では、3点買いだ。それ以上手を広げな。それで外したら、諦めるんだ」
常に10万円を持って、競輪場へやってくる武蔵は、1目5000円か1万円。
後半の3レースのみを買う。
10レースが的中すれば、最終レースは1目2万円とする。
日刊新聞とスポーツを購読しており、まず、日刊新聞を1時間かけて読む。
それから、スポーツ新聞を30分かけて読む。
さらに、競輪欄でその日に勝負できるレースがるかを1時間かけて検討する。
確信は持てなければ、競輪専門チャンネルを観ていて、自宅に待機している。
3日か、4日に1回、競輪場へ足を向ける。
テレビは、相撲、野球、ニュース、時代劇やドラマなど。
「娯楽番組は全く観ないな」と輪太郎に告げていた。
「あんな番組は、バカが観て笑っていればいい」と切り捨てる。
「料理番組も観る気がしないな」
輪太郎も同感である。
「国会中継は観るよ。政治家のレベルが見えるからな」とニヤリとする。
輪太郎は、若い頃、コンプレックスの塊であった。
だが、国会中継を観て、「天下の東大出も、あの程度か」と心が和んだものだ。
輪太郎は坂口安吾が、わずかな時期であるが取手に在住していたことを知り、ますます安吾に傾倒していった。
安吾が立ち寄った酒屋で、輪太郎も酒を飲んだ。
無論、取手に隣接する藤代生まれの武蔵も安吾のことを知っていた。
取手図書館で「坂口安吾展」が開かれた時、二人は観に行っている。

4月1日(土)のつぶやき

2017年04月02日 02時14分29秒 | 医科・歯科・介護