創作欄 徹の青春

2018年08月07日 17時12分16秒 | 創作欄
2012年3 月 7日 (水曜日)
創作欄 徹の青春 1
高校生の徹は、ある大学の芸術学部を目指していた。
映画界や芸能界にその大学の出身者が多く名を連ねていた。
また、その大学の芸術学部の出身者には、いわゆるマスコミ関係者も多い。
徹が住む材木町の近所に住んでいた先輩の一人がその大学に合格し、帰郷した時に大学の話を誇らしげにしたのを徹は羨望の目で聞いた。
徹は群馬県の沼田の高校生であった。
高校生の徹は将来に夢を抱き、映画や絵画に興味をもち多感だった。
沼田城址で度々、1年後輩の彼女とデートを重ねながら、未来に夢を馳せていた。
その日、秋の夕陽は徐々に傾き子持山に隠れようとしていた。
紅葉した桜の葉が風に舞っていたのを、徹が見詰めていた。
沼田城の石垣だけが、いにしえの名残を留めていた。
「私のこと将来、お嫁さにしてくれる?」
握りしめていた加奈子の手に力がこもった。
徹は加奈子の体を再三求めていたが、それまで拒絶されていた。
徹は同級生たちから性の体験を聞かされていたので、実体験を欲していたのだ。
だが、人生には何が起きるか分からないものだ。
このことは、徹に実に暗い影を落としたが、後で徹の美登里宛の手紙の形式で記す予定だ。
17歳の徹には、14歳の妹が居た。
昭和20年、父が硫黄島で戦死して、母は戦後に父の弟と再婚した。
そして妹の君江が生まれた。
妹は徹のことを子どもの頃からとても慕っていた。
徹が嫌がっていたが、妹が一緒に風呂に入りたがっていたし、寝床にも潜り込んできた。
それは、妹が初潮を迎えてからも続いていた。
「お前は、女の子なんだ。もう、一緒に風呂へ入るのはよそうな」
ある日、囲炉裏傍で徹は、炭を足しながら言った。
突き放された君江は、悲しそうに徹を見つめていた。
鍋の煮物から香ばしい匂いが漂っていた。
当時、母は僅かな田で米を収穫したり、畑に色々野菜を栽培いた。
また、蚕も育ており、それが我が家の収入源となっていた。
2012年3 月 8日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 2
徹は義父から尾瀬沼のことを聞かされいた。
明治23年(1890年) 平野長蔵が、沼尻に小屋を設置した、これが尾瀬開山の年とされる。
そして、 昭和13年(1938年)日光国立公園特別地域に指定された。
昭和31年(1956年 )国指定天然記念物になり、ブームが起こったが、尾瀬沼は、徹の父の世代は観光地ではなかった。
「お前の親父さんと、俺と沼田中学の先輩と3人で、尾瀬沼へ行ったことがあるんだ。バスなんか当時はないから、尾瀬沼まで沼田から歩いていった」義父は囲炉裏端で煙草のキセルを吹かしながら誇らしげに語った。
「印象に残っているんだが、ともかく熊笹が多かったな」
義父の話に妹の君江が目を輝かせた。
「私、尾瀬沼へ行ってみたいな。兄ちゃん行こう」
君江は何時も囲炉裏端で、兄の徹に寄り添っていた。
そして甘えるように膝を密着させてきた。
徹はその膝の感触に戸惑う。
義父の話で初めて分かったのであるは、沼田中学の先輩は偶然にも加奈子の父親であった。
徹の父は硫黄で戦死し、加奈子の父親はガダルカナル島で戦死していた。
二人は旧制沼田中学の同期生であったのだ。
加奈子は父親が戦死した翌年の昭和20年3月に生まれた。
徹の同級生たちには、父親が戦死し母子家庭に育った生徒たちが少なくなく、それぞれが憂いを秘めたように寡黙であった。
徹が加奈子に心が惹かれたのは、その寡黙さと下向きな感情であった。
徹が高校生の2年の6月、加奈子と妹の君江と3人で尾瀬沼へ行く。
中学生の時、授業で「日本の植物学の父」といわれた牧野 富太郎の存在を知った。
牧野は多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。
長蔵小屋の名で知れる平野長蔵は、日本最高の植物学者である牧野富太郎が駒草の花を大量に採ってきたとき怒鳴り叱ったとされる。
あの日、徹たち3人は、長蔵小屋に泊まった。
2012年3 月 9日 (金曜日)
創作欄 徹の青春 3
バスが老神温泉を過ぎたころ、「あ、順子だ」と声を発して加奈子が立ち上がって、左側の前の席へ向かった。
声を掛けられて、お下げ髪を結った少女が振り向いた。
顔立ちが加奈子に似ていた。
「今日、帰ってきたん?」
つり革につかまりながら、加奈子が笑顔で問いかけた。
少女はうなずくが、笑顔を見せなかった。
「お母さん、もう、ダメだって・・・」
少女は深く頭を垂れた。
「おばさんが?」
少女は顔を上げずにうなずいた。
つり革から手を離した加奈子は、口に右手をあてがい涙ぐんだ。
そして、加奈子は席へ戻ってきて、「私、次のバス亭で降りていい」と徹に聞く。
「何故?」徹は驚いて聞く。
「おばさんが、死にそうなの」
徹は言葉を失った。
妹の君江は座席にもたれて寝ていた。
加奈子は少女の席へ向かった。
だが、意外な反応が起きた。
「ダメ! おかさんは、誰にも会いたくないて言っているの!」
少女の声は甲高くなった。
加奈子は絶句した。
死を迎えた人が、「誰にも会いたくない」ということがあるのだろうか?
だが、少女の母親は骨肉腫の手術で顔面を大きく損傷していたのだ。
少女は次のバス亭でボストンバックを抱えて降りていった。
バス停には、少女の4人の妹や弟が待っていた。
「あの人は、誰なの?」徹は背後を振り返って聞いた。
左右に田圃が広がる1本道であり、バスの窓から少女たちの姿がいつまでも見えた。
「私の従妹なの。中学を卒業して、東京の大田区の町工場で働いているの」
加奈子に聞くとこころによると少女の父親も戦死し、母親に育てられていた。
その母親も、徹の母のように再婚していた。
3人の楽しいはずの尾瀬沼行きに暗い影を落とした。
2012年3 月10日 (土曜日)
創作欄 徹の青春 4
バスは沼田から老神温泉~鎌田~戸倉を経て鳩待峠に到着した。
鳩待峠(はとまちとうげ)は、群馬県利根郡片品村にある峠である。
尾瀬ケ原や尾瀬沼に行くには山を超えて向かう道程がある。
旧制沼田中学の学生であった徹の父と加奈子父のたちが、熊笹を分け入って行ったとされる登山道を辿るのである。
「父たちも昔、この道を行ったのね。胸がとても高鳴る」
加奈子は足をとめて群生した熊笹を見つめた。
脇を歩いていた徹の妹の君江は、「加奈子さんは、鳩胸だね」と言った。
14歳の君江は、自分の薄い胸を意識しながら、16歳の加奈子の豊かな胸に眼をやった。
セーラー服ではそれほど目立たなかったが、黄色のセーターを着た加奈子の胸に徹は改めて目を留めた。
君江と加奈子は同じようなポニーテールであり、ニットの帽子をかぶっていた。
君江の帽子は水色で、加奈子の帽子は紺色であった。
啄木鳥がブナ林の中で鳴いていた。
3人は自然を満喫し、深呼吸をしながら一歩また一歩と山道に足を運んだ。
原生林には、立ち枯れの木もあり、自然の姿に圧倒され、癒され、穏やかな血流が体にしみわたっていくようであった。
太古の昔からの自然の営みを想った。
自然に朽ちていく樹木もあれば、雷に打たれた木もあるだろう。
「戦死した父たちの分をも生きたい」
徹が鳥の声に耳を傾けていると、加奈子が独り言のよう呟いた。
バスの中で偶然出会った加奈子の従妹も父を戦争で亡くしていた。
「僕らは、特別の世代かもしれないね」
17歳の徹を含め、父親を戦争で失った世代がまさに青春を迎えているのだ。
君江は母が徹の父の弟と再婚して、戦後に生まれたのであった。
鳩待峠から山の鼻に至る山道ではミズナラの木が見られた。
どれくらい歩いたのだろうか?
3人はあいにく腕時計を持っていなかった。
尾瀬ヶ原の入口・山ノ鼻に到着した。
6月の尾瀬は水芭蕉などが咲き誇って、凄くキレイであった。

2012年3 月11日 (日曜日)
創作欄 徹の青春 5
徹は、詩人・小説家の室生犀星の抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句に出会って、室生犀星に興味を持った。
そして、『性に目覚める頃』も本屋で買って読んだ。
その小説は、寺の子として育った青少年の「性」の目覚めと葛藤を描いた作品である。
作家の実体験をもとに書かれていた。
そして犀星が幼少の頃に過ごしたとされる雨宝院が登場する。
徹は犀星と同じような「性」の目覚めと葛藤を覚えていた。
たぎるほどの性への衝動とそれを抑制するために、常に葛藤もしていた。
小説には作家・室生犀星の赤裸々な実体験が書かれており、その体験の赤裸々さはそのまま徹にも色濃く投影されたのだ。
だから、妹の君江と加奈子の3人で尾瀬へハイキングに行くことにした。
加奈子と二人きりになったら、徹は性の衝動を自制することが出来ないと自分を怪しんだのだ。
思春期の男の子のように、女の子も「性」に目覚め、葛藤することがあるのだろうか?
徹は度々想ってみた。
話は前後するが、1956年に売春防止法が制定され、1958年4月1日から完全施行された。
それは徹が中学校3年になった14歳の時であり、近隣の高校生までが、いわゆる売春宿が廃業する前に、駆け込み的に性の体験を求めて売春婦を求めて沼田にもあった色街へ行ったのだ。
そして、19歳の徹の従兄の浩までが売春宿へ足を運んで、性の体験談を自慢話として徹たち中学生に聞かせていた。
みんなが固唾を呑んで、その体験談を聞いていた。
「お前たち、まだ中学生で残念なことをしたな」
従兄の浩はタバコを吹かしながら、みんなの顔をニヤニヤしなが見回した。
17歳になった徹は、16歳の加奈子の体を求めたが拒絶されていた。
「結婚前は、ダメ」
その時の加奈子の表情は、言い知れぬ悲しい表情をしながらポニーテールの頭を振った。
それが1960年(昭和35年)ころの高校生の女の子の普通の貞操観念であった。
貞操観念とは、異性関係について純潔を守ろうという考えのことを指す表現。
2012年3 月12日 (月曜日)
創作欄 徹の青春 6
尾瀬は果てしなく広がる湿原地帯だった。
そこから3人の尾瀬沼一周ハイキングのコースが始まった。
尾瀬を訪れる観光客や登山客たち全員湿原の草の上を歩いたら貴重な植物は失われてしまうだろう。
環境保全のため、歩いて良いのは湿原の上に作られた木の板の歩道のみであった。
木道を歩みながら加奈子と君江が「夏の思い出」を歌った。
「加奈子さん、歌がうまい」
先頭を歩く君江が感嘆して振りかえった。
徹は加奈子が歌うのを始めて聞いた。
徹はラジオ世代で育ったので、声にはとても敏感である。
1952年(昭和27年)、NHK連続ラジオドラマ『君の名は』が放送開始された。
徹が9歳の頃であったが、番組の冒頭で「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」という来宮良子のナレーションが流れ、「忘却とは忘れ去ることなり」は流行語にもなった。
そして、主人公の氏家真知子役の阿里道子の美しく可憐な声は今も徹の耳に残っている。
徹は改めて加奈子の甘美な声に魅せられた。
徹の母親は、戦死した夫の思い出を重ねるようにして、ラジオドラマに耳を傾け涙を流していた。
戦争の最中空襲で男女が偶然に出会い、その後は運命に翻弄されるドラマは、戦後まだ7年が経過した歳月の中であり、国民の多くの人たちの心を揺さぶるドラマとなった。
思えばラジオから流れる声が人々の想像を駆り立てるように、加奈子の美しい歌声は徹の胸に深く響いた。
水芭蕉は満開で丁度見頃であり、尾瀬は気持のよい至福の時間であった。
「きれいね」と君江がかがんで水芭蕉を眺めた。
澄んだ水を湛える尾瀬沼に至仏山が映じていた。
あるいは、時々小川のせせらぎの音がかすかに聞こえてきたので、加奈子は耳を傾けるように立ちどまった。
悠久の歴史を秘める尾瀬は、特有の貴重な植物群落が見られ昭和31年に天然記念物に、徹たちが尾瀬を訪れた昭和35年には特別天然記念物に指定された。
尾瀬沼が見える手前に分岐があった。
この分岐で右回りか左回りかを決定する。
ここから沼の折り返しとされる沼尻休憩所まで、右回りの場合約3kmで1時間要し、左回りは約4kmで1時間20分。
この分岐で左に行く人が多かったのでそれに付いて、3人は長蔵小屋のある方向へ行った。
尾瀬ヶ原には、相対するように二つの山が有る。
至仏山(2,228m)と燧ケ岳(2、346m)だ。
両山とも深田久弥の日本百名山に選定されている。
歩き始めてから1時間ほどで3人は長蔵小屋のある休憩所に到着した。
長蔵小屋は昭和9年に建築されたが、こば板葺きの屋根や黒光りする木の廊下など、落ち着いた風情が漂っていた。
徹はが確認したら収容人員は約300人であった。
3人は長蔵小屋に泊まることにした。
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「江戸しぐさ」の正体とは

2018年08月07日 16時48分56秒 | 社会・文化・政治・経済
【著者インタビュー】虚偽で形づくられた「江戸しぐさ」の正体とは
歴史研究家/偽史・偽書専門家
原田 実
「こぶし腰浮かせ」と「傘かしげ」の捏造
 公共広告機構(現・ACジャパン)のマナー啓発広告に取り上げられたこともある「江戸しぐさ」は、2014年度から小学校の道徳教材「私たちの道徳」に取り入れられました。文部科学省認定の教材にも出てくる江戸しぐさとは、どんなものなのでしょう。
 江戸しぐさの淵源は、1980年代に芝三光(しばみつあきら)という人物が考えついた江戸っ子の言動や行動パターンです。芝の晩年に弟子入りしたノンフィクション作家・越川禮子氏は、江戸しぐさを整理してマニュアル化しました。
 江戸しぐさとして語られる代表的なものは、「傘かしげ」(人とすれ違うときに傘を傾け、雨や雪がかからないようにする)や「こぶし腰浮かせ」(人のために長イスを空け、席を譲る)です。
 和傘と洋傘の構造の違いを知っていれば、「傘かしげ」のおかしさにすぐ気づきます。
和傘にはスプリングがついていませんから、洋傘のように一気に全開で固定されるのではなく、すぼめた状態に調整しやすいのです。
 すぼめた状態にしやすいのですから、狭い路地で人がすれ違うにしても、傘を横に傾ける必要なんてありません。
さらに言えば、江戸時代の家は土間が路地に面する構造です。雨の日に狭い路地で傘を不用意に傾ければ、人さまの家の土間に水をぶちまけることになります。
そんな「傘かしげ」が、推奨されるべきマナーであるはずがありません。
「こぶし腰浮かせ」も完全なウソです。
現代人は横長の座席がついた乗り物を日常的に使いますが、江戸時代には電車や乗り合いバスのような構造の乗り物は存在しませんでした。腰をかけられる長イスがついた乗り物がないのですから、立っている人が近くにいたとしても席の詰めようがないのです。
 渡し船には、座席に見えるものがついた例もあります。ただしそれは、下に荷物を置いて整理するために使う小さな台です。渡し船には荷物だけでなく馬も一緒に乗せ、ついでに人間も運ぶわけですから、貨物の邪魔になる座席なんて造りません。
 考えてもみてください。渡し船とは、川の岸から岸へ渡るためのものです。途中で駅やバス停のような場所はありませんし、乗客が新たに船に乗りこんでくることなんてありません。何人も横に並んで座れる渡し船は存在せず、「こぶし腰浮かせ」による席の詰めようがないのです。

関東大震災を予知した江戸っ子
 江戸しぐさには「時泥棒は十両の罪」(遅刻や長居によって人の時間を無駄に奪うべきではない)という言い方もあります。
江戸時代では、夜間と昼間では一時(いっとき)の長さが違いますし、季節によって時間の数え方は複雑に異なりました。
「その複雑な時刻制度を使いこなすくらい、江戸時代の人は時間に厳格だった」と江戸しぐさのマニュアルは言うわけですが、実際は逆です。人々が時間にルーズだったため、時刻制度が複雑でも誰も不自由を感じませんでした。精密な機械時計は世の中に普及していませんでしたし、細かい分刻みの時間なんて確かめようがなかったわけです。
 江戸しぐさには、「ロクを磨く」「六感しぐさ」というオカルトの要素もあります。
前出の越川禮子氏は「関東大震災の朝、多くの江戸っ子が地震を予知して東京を離れた」と主張しているのです。
 江戸時代には仏教でいう「六識」が認識論の基礎にありますから、そもそも「第六感」という数え方が間違っています。
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に続く六番目の認識とは、超感覚としての第六感ではなく意識そのものです。
仏教の認識論は六識に加えて末那識、阿頼耶識と続きますから、越川氏が言うような超能力を差し挟む余地はありません。
 江戸しぐさには「三脱の教え」(職業・年齢・学歴で人を差別しない平等思想)もあります。越川氏は「江戸時代には、初対面の人に年齢・身分・職業を聞くのは失礼とされていた」と言うわけですが、武士や商人、農民だとひと目でわかるような服装や髪形にしていなければ生活できないのが、江戸の身分社会でした。
失礼も何も、相手の身分など言わずもがなでわかったわけです。
 このようにウソでウソを塗り固めて作られた江戸しぐさが、なぜマナー啓発広告や道徳教材に使われ、多くの人々に受け入れられているのでしょう。
文化や社会が異なれば、生活の基本が変わるのは当たり前です。
ところが人々は「自分たちにとって当たり前のことが、昔の人にとっても当たり前だった」と、どこかで思いこんでいるのでしよう。
 江戸時代の常識と私たちの常識は、大きくかけ離れています。
現代人にとって実用的なことが、江戸時代の人にとっても等しく実用的であるはずがありません。江戸しぐさを信奉する越川氏は、こともあろうに「幕末・明治期に江戸っ子狩りが行われた」というフィクションまで説いています。
 越川氏はベトナムのソンミ村虐殺(※注1)、アメリカ先住民のウーンデッド・二ー虐殺(※注2)引き合いに出し、江戸しぐさを知る江戸っ子が皆殺しにされたと言います。そのせいで史料や伝聞が途絶え、特定の個人しか江戸しぐさを知らないと言うのです。
一つのウソを守るために、さらなるとんでもないウソをつく。
このような歴史の捏造を認めるわけにはいきません。

(※注1)ソンミ村虐殺…ベトナム戦争中の1968年、米軍がソンミ村で非武装の住民504人を殺害した事件。
(※注2)ウーンデッド・二ー虐殺…1890年、米国サウスダコタ州で約300人のスー族が殺されていた事件。

「非実在江戸っ子」を信じる人々
 現代人のマナーとして「傘かしげ」や「こぶし腰浮かせ」のようなことを教えるのであれば、問題はありません。
しかしそれが「江戸しぐさ」であるという時点で、江戸時代への理解を阻害する欺隔になります。
これは江戸の文化・伝統に対するタチの悪い冒濱です。
 私は「江戸しぐさはUFO墜落よりもありえない」と言っています。
私たちは、他の星に文明があるのかないのか知りません。
宇宙は人間にとって未知の領域ですから、いつの日か宇宙船が地球に墜落してくることが、100%ありえないとは言えないわけです。
 江戸時代についてはどうでしょう。
私たちよりほんの数世代前の江戸時代については、たくさんの記録や書き物が残っています。
ところが江戸しぐさの信奉者は、それらの史料に基づかないウソを江戸の文化・伝統として伝承しようとしているのです。
空飛ぶ円盤の墜落よりも、江戸しぐさのほうがもっとありえない。
本当に荒唐無稽な話です。
〝非実在江戸っ子〟〝脳内江戸っ子〟と、実在の江戸っ子を混同してはいけません。
 道徳教育を学んだ小学生が、江戸しぐさのウソについて知ればどうなるでしょうか。
ウソを前提にしなければ成り立たないものを道徳教材に取り入れれば、マナーが向上するどころか、学校教育への信頼そのものが崩壊してしまうでしよう。
 下村博文・文部科学大臣は、江戸しぐさの信奉者(高橋史朗・明星大学教授)を勉強会に招いて講義を受けたことがあります(2013年7月)。
その下村大臣のもとで道徳教材に江戸しぐさが新たに導入されたのですから、大臣はよほど自信をもっているのでしょう。江戸しぐさの誤りに、下村大臣や文部官僚は早く気づいてほしいものです。
 公教育の現場で道徳教育をするならば、捏造された江戸しぐさではなく、たとえば西洋式の本格的なマナーであったり、茶道や華道を教えればいいのです。

<月刊誌『第三文明』2014年12月号より転載>
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江戸しぐさ なぜ広がったか

2018年08月07日 16時43分02秒 | 社会・文化・政治・経済
江戸しぐさ なぜ広がったか。
碓井真史/新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科教授(社会心理学)
2015/6/26(金) 7:30

■江戸しぐさとは
江戸の町民たちが行っていた、日常生活のマナーだそうです。
NPO法人「江戸しぐさ」理事長 越川禮子さんが、主張しています。
傘かしげ、肩引き、時泥棒、こぶし腰浮かせなど。
公共マナーのポスターになったり、公共広告機構(ACジャパン)に取り上げられたり、道徳の教科書にまで載っています。

■TBSの「NEWS23」でも話題に
6月25日のTBSテレビ「NEWS23」でも話題になっていました。
歴史の研究家らにインタビューして、江戸しぐさの矛盾点を指摘していました。
偽史についての本を書かれている原田実先生も、江戸しぐさの問題を語っています。

原田先生は、関連本も出されています。『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統 (星海社新書) 』

江戸しぐさに関する歴史的資料は何もありません。
なぜ何もないかといえば、「江戸っ子大虐殺」があって資料が全て焼き払われ失われたと、NPO法人「江戸しぐさ」理事長 越川禮子さんは説明します。
資料は失われたけれども、口頭による伝承だと説明します。

歴史学者によれば、そんな虐殺が行われた証拠は何もありません。
番組としては、江戸しぐさに関して「疑問がある」という少し大人しいスタンスでしたが。
■TBSの「NEWS23」では説明されませんでしたが
明治新政府による江戸っ子大虐殺が起き、江戸しぐさを伝えるものは、ことごとく抹殺されます。
その中で、どうしてNPO法人「江戸しぐさ」理事長 越川禮子さんには、江戸しぐさが伝わったのか。
そこには、劇的な物語があります。

ごくわずかな生き残りが、様々な困難を乗り越えて、江戸しぐさを伝え、理事長の越川禮子さんに伝わりますが、そこには歴史上の有名人や大きな組織が登場し、秘密結社なども現れます。
とてつもない裏の歴史、ものすごい隠れた真実であり、これが本当なら、越川理事長は非常に特別な存在ということになります。
ただし、歴史学的には、何の証拠もありません。

■江戸しぐさはなぜ広がったか
「江戸しぐさ」。
なかなかすばらいネーミングです。
そのマナー自体は、悪いことではないでしょう。
マナーといったものは、法律や数学ではありませんから、絶対的なものではありません。しかし、マナーを教えたいとは思います。
効果的に、感動的に、興味深くマナーを教えるための道具は何かないかと思っていた時、「江戸しぐさ」に出会ったのでしょう。
江戸しぐさは、誰かに伝えたくなる、「イイ話」でした。

原田実先生の本によれば、江戸しぐさが最初に世に出たのは、1981年読売新聞の「編集手帳」だそうです。
これをきっかけに、徐々に広がっていったようです。
歴史学者が取り上げたわけではありませんが、ちょっと良い話として広まっていきます。新聞に載ったのですから、信頼できる話とみんなが思ったことでしょう。

歴史的検証がされることもなく、とても奇妙な物語が語られていることが確かめられることもなく、広まっていきました。

難しい歴史学的検証は素人にはできなくても、奇妙で壮大な物語を聞けば、おかしいとは思えるはずなのですが。
ただ、歴史に関する都市伝説を明確に否定するのは、簡単ではありません。
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立秋は8月7日/今日は25度

2018年08月07日 16時11分47秒 | 日記・断片
2018年の立秋は8月7日。
高校野球が開催中、暑さもピークを迎える時期。
暦の上では「秋に入る日」とされており、立秋を基準としてそれ以前に出すのを暑中見舞い。
以降はあいさつは「残暑見舞い」となる。
立秋を一言で言うと、秋のはじまりの日。
二十四節気※のうちの最初、第13番目にあたる。
※一年を24の時期で区切った季節名のこと。
具体的には、8月7日前後~8月22日前後の期間(処暑(しょしょ)の前日まで)を指す。
今日は25度、信じ難い涼しさで、半そでシャツなので寒いくらいに感じられる。
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ピカソ作「ゲルニカ」

2018年08月07日 15時05分22秒 | 医科・歯科・介護
ナチスによる初の戦略爆撃
無差別殺戮の非道を糾弾


『ゲルニカ』(Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画である。
ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。
20世紀を象徴する絵画であるとされ、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある。
発表当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。
ゲルニカは、「偉大な神が降りた」とも言われる。
中央に大きな長方形、左右に小さな長方形と、画面は3枚の長方形からなり、中世の教会に飾られた三連祭壇画を連想させる。
右側の長方形には3人の女が描かれている。
左上の女は灯火を手に窓から身を乗り出し、右の女は燃え盛る家から落下(もしくは爆発によって吹き飛ばされて)しており、左下の女は中央に駆け寄っている。
左側の長方形には女と牡牛が描かれている。
女は子の屍を抱えて泣き叫んでおり、牡牛は女を守るかのように立っている。
中央の長方形には馬と戦士が描かれている。
馬は槍で貫かれて頭を上方に突き出し、戦士は折れた剣を握りしめて死んでいる。
中央の長方形は大きな三角形で仕切られており、その頂点には女が持つ灯火が配置されている。
三角形の左斜線は馬の首元から馬の右脚や戦士の腕で構成され、逆側の斜線は駆け寄る女の身体で構成されている。
灯火の左脇には目のような形の光源があり、その左下には上方に羽ばたきながら口を開けている鳥が描かれている。
色彩はモノクロームに近いが、無色に近い灰色、紫みがかったり青みがかった灰色など、様々な色合いの灰色が用いられており、光と闇の効果を高めている。
要素は単純な形態で描かれ、絵画の普遍的性格を強めている。


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渋滞学  なぜ渋滞は起こるのか

2018年08月07日 14時40分59秒 | 社会・文化・政治・経済
どうすれば渋滞は
なくなるのか。
「渋滞学」の第一人者、東京大学の西成活裕教授
そもそも「渋滞」ってどうして起こるんだろう?
そんな渋滞について独自
に研究し新しい学問「渋滞学」を提唱する。

西成研究室では、様々な場所に現れる「渋滞」現象のメカニズムを物理学的な視点から研究しています。
対象は車だけに限らず、細胞内蛋白質やアリ、人間の群集や物流など多岐に渡ります。
「江戸しぐさ」を例えにしながら、
「ちょっとした他人への心遣いの欠如、つまり『我先に』という人間の心理こそが渋滞の ...
はかどらない仕事は会社の渋滞をまねきます!
なぜあなたの仕事は「渋滞」するのか?!
残業? やめなさい!
最大限に力を発揮?
やめなさい! 電話応対は丁寧に?
8時間働くなら2時間余裕を。
仕事は全力の7割。
電話応対は交代制に。
最先端研究から目からウロコの「渋滞学」
「個人」「部内」「会社」の効率を良くし、ムダを取り、赤字を黒字に変える極意を伝授する。
仕事も、手順の「流れ」で成立しているために 「流れのつまり(渋滞)」の生まれるポイントは 交通渋滞とほとんど変わらない。

無駄学

話題の『渋滞学』が進化した!
トヨタ生産方式の「カイゼン現場」訪問などをヒントに、まったく新しい学問が誕生。
無駄とは何か?
そのメカニズムとは?実践篇では社会や企業、家庭にはびこる「無駄」を徹底検証し、省き方を伝授、さらにポスト自由主義経済の新経済システムまで提言する。
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皇民化教育とは

2018年08月07日 11時58分43秒 | 社会・文化・政治・経済
大日本帝国の統治地域における日本人以外の民族に対し日本、皇室への忠誠及び同化を指導した政策を指す。
内地・外地を問わず用いられる。
皇民化政策、皇民化運動とも言う。
教育現場においては方言や各民族語の使用は控えられた。
徴兵や植民地支配強化を目的とした政策である。
皇民化教育は特に外地や占領地域においてそれぞれの民族の伝統や文化を無視し、ときには破壊した。
民族浄化政策として自覚的に行われたと疑う論調もある。
同化を謳いながら、日本本土との差異を残して差別をするという矛盾した政策である
皇民化政策は思想と言語統一によって他民族を日本人化することで、日本人と植民地住民を対等に扱おうとするものであった。
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「ありったけの地獄を集めた」沖縄戦

2018年08月07日 11時53分54秒 | 社会・文化・政治・経済
1945年3月23日から沖縄への攻撃を開始、26日には慶良間諸島に上陸。
4月1日には沖縄本島に無血上陸。
以後、まさに地獄のような地上戦が、およそ3か月にわたり繰り広げられた。
米軍が行った砲爆撃は「鉄の暴風」」「鉄の暴風雨」と称され、地形を変容させるほどだった。
1か月の間に約680万発の砲弾、銃弾が撃ち込まれた。
これは住民一人当たり50発という、信じられない数の攻撃だった。
米軍の戦史「ありったけの地獄を集めた」沖縄戦
米軍の戦史に「ありったけの地獄を集めた」と刻まれる、とてつもない悲劇がここに始まった。
沖縄戦の最大の教訓は「軍隊は住民を守らない」である。
自国民への虐殺や集団自決が発生。
敵の砲弾にあたって死んだ人、猛烈な機銃掃射のなか、日本軍によって壕から追い出さた住民たち。
沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。
その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。


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正常性バイアス

2018年08月07日 11時04分30秒 | 社会・文化・政治・経済
正常性バイアス(英: Normalcy bias)とは、認知バイアスの一種。
社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。
「自分は大丈夫」と思い込む。
様々な要素で構成される人間心理(psychology)。
実際に東日本大震災の際などにもこの正常性バイアスによって犠牲になった方が多くいる。
自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとってのリスク。
深夜、コンビに行き犯罪に遭うことも。
女性の一人旅。
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西日本豪雨の検証

2018年08月07日 10時51分33秒 | 社会・文化・政治・経済
特別警報が出された異常事態を「大したことない」と過少評価し、平静を保とうとする心の働きを心理学では「正常バイアス」と呼ぶ。
「大雨では避難勧告や指示が出ても実際に被害が生じないこともある。
このため「今回も大丈夫」と思い込んでしまう。
このため、避難せずに屋内で犠牲になった人が5割を超した。
過去の被災が風化する。
災害を記憶にとどめ、教訓を継承しにといけない。
毎年の避難訓練で防災意識を高める。
危険な地域に住む人は、まだ災害に遭っていないだけで、将来災害が起こる確率が高い<未災>の場所であることを認識し備えるべきだ。

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離婚後共同親権

2018年08月07日 10時27分45秒 | 医科・歯科・介護
離婚してもなお、父母は子に対し共同親権を行う、すなわち、子の親権について父母双方が共同し権利と義務を有するという考えを言う。
片親が単独で親権を行使することはできず、離婚した両親の合意に基づき親権は行使される。
離婚後共同親権、および離婚後共同監護は今後議論されるべき家族法の問題であり、現在も離婚後共同監護については法的には可能という考えも存在する。

子どもを中心とする
親が自分の利益を主張し合えば意見は対立するが、子どもの真の利益を最優先にすれば、意見の対立は少なくなる。
子どもの本心を聞き、他の多くの子どもの平均的な意見を参考にして、子どもの権利条約など子どもの専門家の意見を参考にする。
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虐待 「共同親権」なら

2018年08月07日 10時15分25秒 | 社会・文化・政治・経済
全国の児童相談所に寄せられた相談件数は、2016年度12万件を超えている。
5年前と比べて、倍増。
虐待により、年間約80人の子どもが亡くなっている。
アメリカやカナダの研究では、両親ともに実親だった場合に比べ、一方が義理の親だったケースでは虐待数で10倍程度、幼い子どもが殺される危険性は数百倍であることがわかっている。
日本では、夫婦が離婚するとどちらかが親権をもつことになる。
これが「単独親権」。
欧米では、夫婦関係の有無にかかわらず両親が親権をもつ「共同親権」が主流になっている。
共同親権では、子どもが母親と暮らしていても、別れた父親に子どもと面会する権利が保障されると同時に、養育費を支払う義務が課せられる。
単独親権の日本では、ほとんどのケースで父親が親権を失うので、義務感までなくなって、2割弱しか養育費を払わないという異常なことになっている。
再婚相手の父親が虐待する場合、「共同親権」なら、虐待を受けている我が子を実の父親が発見できるはず。
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日系人の強制収容

2018年08月07日 05時46分14秒 | 医科・歯科・介護
(英: Japanese Internment)とは、第二次世界大戦時においてアメリカ合衆国やアメリカの影響下にあったペルーやブラジルなどのラテンアメリカ諸国の連合国、またカナダやオーストラリアなどのイギリス連邦において行われた、日系人や日本人移民に対する強制収容所への収監政策である。
1942年から1946年に亘って実施された。
日系アメリカ人と日本人、ドイツ系アメリカ人とドイツ人、イタリア系アメリカ人とイタリア人に対して「敵性市民」としての監視の目を向けることになった。
日本海軍の艦艇10隻程度によるサンフランシスコへの砲撃が予定されていたが、日本海軍司令部が「クリスマス位は静かに送らせてやれ」という態度を取ったために、最終的に中止するに至った(なお中止の理由には諸説ある)。
「日本軍によるアメリカ本土上陸が近い」、「日本軍による空襲が行われる」と噂され、政府上層部がその対応に追われるなど、アメリカ人の反日感情はピークに達していた。
「日系アメリカ人などを本土上陸後にスパイとして使う」などの作戦が情報として含まれていたとの説が有力である。
アメリカが経済的・政治的に大きな影響力を持っていたメキシコやペルー、コロンビアなどの中南米諸国でも、アメリカ政府からの圧力を受けて、日系人のみならず、ドイツ系やイタリア系のユダヤ系を含む移民とその子孫が一時的に強制収容された。
ドイツ系やイタリア系移民とその子孫は1942年中盤には釈放されたが、日系移民については、その後もその多くが釈放されないままであった。
さらに日系移民だけに対しては、その後不動産や自動車などの私有財産を含む全ての財産の放棄や、強制収容所への長期にわたる収容が行われることとなる。
強制収容者の住居にあてがわれた建物は、いずれの強制収容所においても急ごしらえの木造の「バラック」というべき粗末なもので、その後もきちんとした建物に建て替えられることはなかった。
また暖房も冷房もなく、さらに砂塵などが部屋の中にも容赦なく吹き込んだ。
また、家具も粗末なものしかあたえられず、トイレの多くはしきりすらなかった。
また、このように衛生管理が不十分であったため、集団食中毒や集団下痢などが多発した。 僻地にある粗末な強制収容所に収容され、行動や表現の自由だけでなく、仕事も社会的地位も奪われた日系人の不満は鬱積し、強制収容所内ではハンガーストライキや暴動が多発した上、盗難や殺人などの犯罪も数多く起きた。
また、強制収容所での生活に嫌気がさし、脱出しようとし射殺されてしまった者もいた。
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誤り認め 正すのが米国

2018年08月07日 05時20分07秒 | 医科・歯科・介護
日系人強制収容謝罪から30年

米政府が第二次大戦中、日系人12万人以上を「敵性外国人」として10か所の強制収容所に入れた。
日系人は戦時中に差別された。
レーガン大統領当時、収容の原因は「人種差別」「戦時ヒステリー」「政治指導者の失政」だったと誤りを認め、連邦議会は「市民の自由法」を制定した。
そして「重大な誤りだった」と公式に謝罪し、生存者1人当たり2万㌦(約220万円)が補償された。
日本政府は「旧優生保護法」の誤りを公式に謝罪し、補償するのであろうか?
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