上野公園の清水観音堂の裏手に立つ、この二つの石碑は、5世紀初、日本に『論語』『千字文』を伝えたという百済人・王仁を記念して建てられた「王仁博士記念碑」と、その由来を記した副碑である。
日韓には約2000年もの交流の歴史がある。
本碑の建立経緯は次のとおりである。
昭和11年(1936)、趙洛奎という朝鮮人が、四宮憲章(国文学者・皇明会長)のもとを訪ねた。
趙は、王仁の事蹟を聞き、彼を顕彰するための碑を建てたいとして、その自作の碑文を示し、四宮に添削を請うたのである。
四宮はこれを受け、建碑のための後援会を組織し、井上哲次郎・中山久四郎を主唱者に立てて寄付金を募った。
この結果、協賛者として、近衛文麿・徳富蘇峰・林銑十郎・頭山満ら、特別賛助者として、水野錬太郎・鈴木貫太郎・宇野哲人・白鳥庫吉・韓相龍といった錚々たる顔ぶれが集まることになり、昌徳宮(李垠)から下賜金も交付された。
また、同碑は、かつて弘文院や孔子堂などの儒学関連の建造物があったという由緒をもつ、上野公園の桜ヶ丘に建てられることが決まった。
その後、博士王仁碑は無事建立され、昭和15年(1940)4月にはその除幕式が挙行された。
各大臣、朝鮮総督、東京府知事、東京市庁が祝詞を送り、来賓祝辞として荒木貞夫や林銑十郎が挨拶を行うなど、除幕式は官主導で大々的に行われた。
同碑は、将来的に、王仁の生誕地と見なされた扶余(朝鮮)や、伝王仁墓(大阪)にも建てられる予定であったが、戦局の悪化により、計画が頓挫してしまったようである。
〔以上、先賢王仁建碑講演会編『紀元二千六百年記念 博士王仁碑』、1940年を参考〕----------------------------------
王仁(わに、生没年不詳)は、辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である[1]。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した中国人であるとされ、この場合姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解がある。
韓国や在日韓国人社会においても、王仁は日本の文化を育み、発展に大きく貢献した人物として扱われ、日韓両国で王仁に関する催し物が開かれている。
王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立していないことなど史料解釈上実在を疑問視する説も多数存在する。
王仁に関しての記述が存在する史書は『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などである。それぞれの記述は以下のようになっている。 日本書紀
王仁に関するもっとも詳細な記述は日本書紀のものであり、百済からの使者阿直岐(あちき)を介して、来朝したという。
古事記
天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて〔百済が〕献上した人の名は和邇吉師(わにきし)という。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。〔この和邇吉師が、文首(ふみのおびと)の始祖である〕
王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡出身の中国人系の学者とされ、百済に渡来した中国人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。
313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼすと王氏は百済に亡命した。
日本が369年に新羅を征討すると、百済が日本へ政治的保護を求めた際に文化を日本に輸出し、こうした背景のなか王仁も訪日したともいわれる。