創作欄 真田と冬子

2018年08月09日 14時42分31秒 | 創作欄
2013年12 月20日 (金曜日)
 
「君には見えない部分があるんだ。それは何んなんだろうね?」
真田は30代のころ左翼運動の同士とも思われた男から言われた。
左翼運動は日本の国のあり方を変えるだろうと思われたが、真田には運動を進めるうちに違和感もあった。
真田は裏の社会で生きてきたのだから、右翼的な考えも捨てきれずにいたのだ。
真田は結局、その男と距離を置くことになるのだが、その男の愛人と親くなった。
彼女は在日2世であり「真田さんには、朝鮮の血が流れている感じがするの」と言う。
「君は朝鮮系なのか?」真田は驚いた。
真田は戦後の日本の動乱期を知ったいたので、心のどこかで朝鮮の人を警戒し蔑視しもしていたのだ。
だが、真田は女の魅力に惹かれていく。
「真田さんの子どもがほしい」と言うので、真田は応じた。
それまでの真田は家庭をもつつもりもないし、父親になるつもりもなかったで心境が変化いたのだった。
女に会いたければ会いに行く質であり、女を束縛したり、囲い込む気持ちにはなれなかった。
また、去っていく女を追うこともしなかった。
女は金山冬子と名乗っていた。
「2月生まれなの。真田さんは?」
「俺も2月に生まれた」
「そうなの。どうりで波長が合うとなと思ったのよ」
冬子は真田の手をとり胸にあてがうようにした。
「波長か」真田は胸の温りをまさぐる。
「私の鼓動が伝わるかしら」
冬子は真田の胸に身を強く寄せた。
「私ね。妊娠したみたいなの」 冬子は嬉しそうに微笑んだが、真田にそれを喜ぶ表情はなかった。
冬子は敏感に読み取って「産んでもいいんでしょ?」と念を押すように言う。
真田は「ああ」と答えるしかなかった。
「愛してくれているのよね」
「ああ」
「愛していると言って!」
冬子は波長の狂いを懸念したようであった。
「愛しているさ」真田は冬子の瞳を見詰めた。
「この胸に誓える」冬子の目が潤んできた。
「誓う」真田は冬子を強く抱きしめた。
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<参考>
韓国でも日本でも歴史教育現場では、 日本人を「加害者」、朝鮮人を「被害者」という側面でしか教えられていませんが 実は、戦後に朝鮮人が「戦勝国民」「朝鮮進駐軍」と自称して日本全国で狼藉を働いたこと、 朝鮮半島でも朝鮮人が多くの日本人に対し虐殺や強姦などしていた加害者としての歴史があるのです。
日本が敗戦した後、日本国内にいた朝鮮人達は、「我々は戦勝国人であり、連合国人である。」と称し、「われわれは二等国民で、日本国民は四等国民となった。したがってわれわれは日本国の法律に従う義務はない。日本国民より優遇されるのは当然であることを、あらゆる方法で日本人に知らせなければならない。
戦争中われわれを虐待した日本人は、戦犯として制裁を加えなければならない」と称し、その通り実行しました。
彼らは武装解除された日本軍の武器と軍服を着て武装し 徒党を組み多くの日本人を無差別に殺しました。
GHQの記録に残っているだけで4千人以上の日本人が餌食になりました。
それは、各地における暴行、略奪、窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、人民裁判などであり、それは酷いものであったと言います。
朝鮮人たちはやりたい放題で、駅前の一等地は朝鮮人に占領されました。
当然、日本人は在日を強く憎むようになりました。
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「田岡一雄自伝・電撃編」 1982年 徳間文庫 (「韓国のイメージ」鄭大均 より) 
 彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。
通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。
善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。
警官が駆けつけても手も足もでない。
「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。
警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
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堪りかねた警察が密かにやくざに頼み込み「濱松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻發した 
最後の頼みの綱は聯合國軍であったが、遂には其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った 
其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担當してゐた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙ひをつけ、漸く鎮圧した 我々は其火器の煌めきを間近に見た 

 此時、聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」

と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである

 だから、外國人差別用語な筈は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか

 聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、對日理事會や極東委員會に氣を遣はねばならぬ外交センスの要る役職であった 何人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い

 「第三國人」の語は、國際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない 
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“浜松事件”は、1948年(昭和23年)4月に静岡県浜松市で発生した抗争事件。
“浜松大紛争”とも呼ばれた 事件の発端

戦後、市内の国際マーケットは在日朝鮮人が押さえていたが、闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家(服部)が押さえていた。
県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」小野近義であった。

在日朝鮮人らは、在日本朝鮮人連盟の威光を背景に、地元の自治体警察であった浜松市警察の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。
小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。

1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。
小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。

事件の概要
4月4日夕方、朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。
小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。
浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。
5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。浜松市警は岐阜軍政部にMPの出動を要請し、400人のMPが浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。

その後の顛末
この事件により、増長していた朝鮮人の評判は地に落ち、逆に小野組は浜松市民有志から50万円の見舞金が送られた。
同年8月4日、静岡地方裁判所浜松支部は17人に懲役6ヶ月~4年を言い渡した。

            

創作欄 徹の青春 7

2018年08月09日 14時07分58秒 | 創作欄
2012年3 月13日 (火曜日)

「私たちの罪ね」
加奈子は肩を激しく震わせて、徹の腕の中で豊かな胸を当てて泣いた。
沼田城址の桜の木立で競うように蝉が鳴いていた。
陽は子持山に隠れようとしており、時折遠雷が聞こえ風は激しく木立を揺らした。
徹は人影を感じていたが、加奈子を強く抱き寄せて加奈子の唇を吸った。
加奈子はポニーテールの頭を振るようにして、徹の口を避けた。
徹は欲情を抑えらないので、激しい息遣いのなかで再び加奈子の頭を両手で押さえて顔を強引に引き寄せた。
「ヤメテ、今日はダメ!」加奈子は激しく身を捩った。
徹は加奈子の女心を理解していなかった。
話は前後するが、尾瀬のハイキングで長蔵小屋に泊った日、徹は加奈子の豊かな胸を弄った。
妹の君江が隣で寝息を立てていた。
加奈子は、しばらく徹の手をそのままにしていたが、「もう、ヤメテ」と強く手を払った。
「おばさんが、死にそうなの。それを考えると私寝られないの」
加奈子は徹に背を向けて、咽び泣いた。
徹は身を起して、「悪かったね」と加奈子の背向かって声をかけた。
人生には、何が起こるかわからないものだ。
尾瀬のハイキングから、2か月が過ぎていた。
沼田の祇園祭は全国各地の祇園祭の例に見られるように、京都の八坂神社祇園祭に端を発している。
沼田祇園祭を「おぎょん」と呼んでいた。
加奈子と君江を誘って徹は、おぎょんへ行く。
加奈子の浴衣姿は豊かな胸を一層際立たせていて、徹は欲情を駆り立てられた。

「おぎょん」と呼ばれた沼田祇園祭は、8月3・4・5日の3日間開かれていた。
“蚕すんだら沼田のまつりつれていくから辛抱おしよ”と唄われていた。
勇壮豪快な御輿が並んで街を練り歩くが、優美華麗な山車運行が祭りの主役でもある。
この山車のことを「まんどう」と呼ぶのも沼田の独特である。
その日も200軒を越える露店が集まっていた。
群馬県沼田の夏祭りは、この「沼田まつり・おぎょん」で終止符を打ち、『おぎょん』を境にして農家は農繁期に入るのである。


2012年3 月14日 (水曜日)
創作欄 徹の青春 8
「おぎょん」と呼ばれている沼田の祇園祭は、徹と加奈子に大きな黒い影を落とした。
お囃子が聞こえてくると胸が深く痛んだ。
あの日の夜、「2人が熱くなっている。お兄ちゃん私、消えてやろうか?」
徹と加奈子に何か気配を察したのだろうか、君江が悪戯っぽく笑みを浮かべて突然言う。
「この金魚、死んでは困るから、私、先に家へ帰る」と金魚すくいで捕った金魚2匹が入ったにニール袋を2人の目の前に掲げた。
「気をつけて帰りな」
徹の心配は口先だけで、内心ほくそ笑んでいた。
君江は浴衣姿の裾を肌蹴るようにして、駆け出していく。
「1人で帰って、大丈夫かしら?」
加奈子は人影に隠れて行く君江の行方を危惧していた。
「大丈夫さ、人が一杯居るじゃないか」
徹は大胆になって加奈子の腰に手を回していた。
祭は徹の血をたぎらせていた。
浴衣姿の加奈子は16歳であったが、思いのほか豊かな腰をしていた。
「私、嫌な予感がするの。私たちも帰りましょう」
加奈子は徹の手を押しのけるようにした。
御輿の還御を待って繰り広げられる最後の夜の各町の「まんどう」の優雅に奏でるお沼田祇園囃子の競演が見ものであった。
徹が住む材木町の山車、加奈子が住む上之町の山車、原新町の山車、下之町の山車、西倉内町の山車、東倉内町の山車、清水町山車、馬喰町の山車、鍛冶町の山車などが集合してきた。
午後10時から須賀神社境内で行われるみこしと祭囃子の競演では、人の波と熱気につつまれ、祭は最高潮に達する。
「まんどうの祭り囃子の競演を少し見てから帰ろうか?」
徹は懇願するように、加奈子の手を握り締めた。
「それなら、少しだけね」
加奈子は念を入れるように徹の手を握り返した。
「徹さんの手熱い。熱でもあるようね」
加奈子は徹の顔に目を注いだ。
徹は加奈子のきらきら輝くような瞳を見つめて、「この子と結婚することになるのだろうな」と想ってた。
それは予感のようなものであった。
徹の従姉の香苗は中学校を卒業し、15歳で川場村の親戚の農家に嫁いだ。
相手の勝雄は20歳で、父が戦死していたので、沼田農業高校を卒業して農家を継いでいた。
徹は母の実家が川場村にあるので、子どものころから勝雄を知っていた。
勝雄の家系は、美男美女を輩出しており近隣でも知られていた。
顔立ちに気品もあった。
蔵が4つもある村では一番の資産家であったが、農地解放で多くの田畑、山林などを失っていた。
徹の父、加奈子の父も戦死していたので、勝雄の存在は気になっていた。
従姉の香苗は16歳で男の子を産んだ。
加奈子の年で母親になったのだ。
香苗のことを思うと加奈子と徹が結婚しても不思議ではない。
だが、運命の悪戯で徹と加奈子に別れがやってきた。
あの夜、先に帰ったはずの君江は帰宅していなかった。
徹の母は川場村の実家へ帰っていた。
義父は農協の旅行で新潟県の湯沢温泉に行っていた。
両親が家に居なかったので、徹の気持ちは解放された気分になっていたので、加奈子を自宅に誘ったのである。
だが家の電灯は1つも灯っていなかった。
「私、胸騒ぎがする。警察に届けましょう」
加奈子は悪い想念を払うようにポニーテールの頭を振って、両手で豊かな胸を押さえた。
「イヤ、君江は友だちに出会っているんじゃないか?」
徹は最悪な事態など少しも考えずに楽観していた。
「徹さん!心配じゃないの! 私、交番へ行く」
加奈子は下駄音を高鳴らせて駆け出して行った。
「加奈子の取り越し苦労だ」
徹は縁側にしゃがみ込み、苦笑を浮かべながら月空を仰いでいた。
2012年3 月15日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 9
検事調書によると、藤沢勝海は昭和11年、東京・大田区蒲田に生まれた。
父は中国の満州へ軍属として行っていたが、行方不明となった。
多分、戦死したのであろうが、確かなことは分かっていない。
昭和20年、戦争が本土空襲に及んだことから日本政府は「縁故者への疎開」を奨励したが、学校毎の集団疎開(学校疎開)も多く行われた。
勝海たちは山梨県の甲府へ学校疎開した。
1945年(昭和20年)3月10日に行われた大空襲で、母との兄、弟、妹3人のを失った。
終戦後、国民学校の先生の配慮で、勝海は母の妹一家に育てられ孤児にならずにすんだ。
だが、群馬県の北部月夜野の学校ではイジメにあった。
孤独な勝海は1人で何時も川で遊んでいた。
北には遠く谷川連峰が見えており、魅せられるように仰ぎ見ていた。
近くには大峰山、三峯山が迫るように見えており、何時か登りたいと思っていた。
そして月夜野は清流である利根川と赤谷川の合流に囲まれた山紫水明の地であった。
きれいな澄んだ水と緑が濃い森林に勝海は心を和ませられていた。
学校疎開で住んだ山梨県の甲府とは違った趣が月夜野にはあった。
作家・石原慎太郎の短編小説『太陽の季節』が芥川賞を受賞し話題となり、この小説をもとに、1956年に映画化され人気を博した。
さらに石原慎太郎原作の『処刑の部屋』(1956年)、『狂った果実』(1956年)が公開され、「太陽族映画」と称していた。
勝海はそれらの映画を観て強い衝撃を受けた。
事実、この時代の背景として「太陽族映画」を観て影響を受けたとして、青少年が強姦や暴行、不純異性行為など様々な事件を起こし社会問題化した。
中学を卒業した勝海は、大工となっていた。
そして、仕事が休みの日は、太陽族のような派手な服装をして沼田の繁華街をうろうろしていた。
「女なんかな、顔を二発、三発は叩いてから、やるもんだ。女はな、初めは抵抗するさ。でもな、女だって気持いいこと知っているから、すぐに抵抗しなくなる。中にはな、ヨガってしがみついて、俺の体を離さない女もいるぜ」
勝海は遊び仲間に自慢気に強姦を吹聴していた。
勝海は強姦されたことを警察に訴える女性が1人もいなかったので、すでに8人の女性たちを強姦してきた。
何時も単独で犯行を重ねてきていた。
おぎょんの日、15歳の君江は勝海たちの不良仲間3人に強姦されたのだ。
君江は男たちに犯されながら、母が熱心にしていた宗教の題目を涙声で唱えていた。
その声は初めは男たちには聞こえていなかった。
だが、男の1人が気づいたのである。
「こいつ、何か唱えていやがる、成仏させれやるか」
男の1人が君江を犯しながら首を絞めたのである。
「ああ、殺されるんだな」
やせ細り非力な君江は抵抗を諦め、覚悟を決め題目を唱えた。
だが、男は突然、激しい腹痛に苦しみだしたのである。
急性虫垂炎であった。
「殺すことないよ!」と17歳の少年が背後で男を制した。
君江の首を絞めた男は19歳であった。
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2012年3 月15日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 10
「友だちの妹が、おぎょんから先に帰ったのに、家に居ないんです。
探してください」
加奈子は肩で息をしながら、交番の前に立つ40代と思われる警官に訴えた。
「友だちの妹、いくつだ?」
「15歳です。中学3年生です。何かがあったのかもしれません」
「15歳だな。遊び盛りだ。まだ、おぎょんは終わっていない。どこかで祭を見物しているんだろう」
「とても心配でなりません。探してください」
警官は威圧するように鋭い目を加奈子に注いだ。
「まだ、事件が起こったわけではないんだろう。探せだとふざけるな!」
警官は左手で帽子のつばを押さえ、右手で警棒を握りながら、胸を突き出し仁王立ちのようになると、左手で加奈子を追い払うような仕草をした。
「こうなったら、徹さんと二人で君江さんを探すほかない」
加奈子は踵を返して、駆け出して行く。
胸騒ぎが高まるなかで、涙が込み上げてきた。
だが、信じがかいことに、徹はそ知らぬ顔をして居間で萩原朔太郎の詩集を読んでいた。
「徹さんは、心配ではないの。きっと、君江さんに何かがあったのよ。探しに行きましょう」
やれやれという表情を浮かべると徹は、さも面倒くさそうに詩集を閉じた。
「この人を何故、恋したのだろう?」
加奈子は、無神経な徹の態度に呆れ返った。
そして、いっぺんに恋心が覚めてゆくのを感じはめていた。
17歳の徹はまったく新聞を読んでいない。
いわゆる新聞の3面記事を読んだ記憶がなかったのだ。
読むのは詩や短歌、俳句、小説であり、世間の動きにはまったく疎かった。
ある意味で純粋でもあるが、厳密に言えば無知蒙昧である。
徹は強姦という犯罪があることすら知らなかった。
彼が読んでいた文字のなかに、強姦という文字は一度も出てこなかったのである。
2012年3 月16日 (金曜日)
創作欄 徹の青春 11
藤沢勝海は昭和11年生まれであるので、君江を強姦した時は24歳だった。
検事調書によると、最初に強姦をしたのは16歳の時であったが、14歳の被害者は警察に届けていない。
性癖としては、幼児に興味をもっており、小学校の6年生の時には5歳の女の子を赤谷川に連れて行き性器に小石を詰める悪戯をしている。
また、幼児の男の子の性器を扱いてみたりしていた。
学校でイジメにあっていたため、同年代の子どもたちとはほとんど遊んでいない。
何故か義母は勝海を実の子ども以上に溺愛していてた。
義母は勝海が学校でイジメにあっていることを知ってから不憫に思い、度々担任教師に訴えていたが、「その事実が把握できない」と取り合ってもらえなかった。
中学1年生の時に、義母と義父が性行為をしているを目撃してから、自慰を繰り返すようになる。
中学を卒業すると、月夜野の家を出て建築業を営んでいた沼田の義父の家へ住み込み大工見習いとなった。
そして翌年、14歳の中学生学の女の子を麦畑へ連れ込み最初の強姦をしたのである。
勝海は君江を強姦した翌月も17歳の女子高生を強姦している。
「お前の顔は確り、覚えておくからな。警察に届けたら殺すぞ。分かったな!」
強姦に及んだ後の勝海の常套文句であった。
だが、その女子高生が警察に被害を届けたことから勝海は連続強姦犯として逮捕されのだ。
勝海を溺愛していた義母は、マスコミの取材攻勢に堪えられなくなり、勝海が逮捕された2週間後に農薬を飲んで自殺してしまった。
徹はそれまで新聞をまったく読まなかったが、早朝に新聞が届くと食い入るように読んでいた。
徹は犯罪者である藤沢勝海を殺してやりたいくらい激しく憎んだが、一方ではどのような人間であるのかと興味をもった。
検事調書によると君江は勝海に3回犯され、19歳の男に2回、17歳の少年にも2回犯されていた。
強姦された場所は自宅に近い寺の墓地の中だった。
君江を探しあぐねていた徹と加奈子は午前4時ころ、寺の墓地に倒れていた君江の泣き声に気づいたのである。
それまで沼田公園や学校の校庭、近隣の林、桑畑や麦畑などを探し回っていた。
「私、死にたい」
うつ伏せになって、君江は慟哭していた。
「誰にやられたんだ!」」
状況が初めて飲み込めて、徹は怒り狂った。
それは自分に対する怒りでもあった。
「俺は、甘かったんだ!」
徹は怒りを爆発させて拳骨で墓石を叩いた。
さらに、墓石を蹴りつけた。
「ダメ、墓石に当たって、どうするの」
加奈子が制止したが、徹の怒りは収まらない。
加奈子は裸同然の君江を抱き起こして、浴衣を整えていた。
「私たちが悪かったのね。可哀想なことをさせてしまった」
加奈子は君江を抱きしめて泣き出した。
その嗚咽は徹の耳に深く記憶をとどめた。
君江も加奈子の胸に顔を埋めて泣き続けていた。

ホキ美術館 写実絵画が人気

2018年08月09日 13時06分38秒 | 社会・文化・政治・経済
ホキ美術館( Hoki Museum)は、千葉市緑区あすみが丘東にある美術館である。
主に現代の日本人画家による写実絵画の細密画を専門に収集・展示している。
美術館は昭和の森公園に隣接しており、ホギメディカルの創業者保木将夫によって収集された写実絵画作品、約450点を収蔵・展示している。
収蔵作家の大部分は日本人であり、日本最大となる森本草介のコレクション36点のほか、野田弘志 、中山忠彦、磯江毅、青木敏郎、原雅幸、大矢英雄、島村信之、生島浩、諏訪敦、石黒賢一郎、五味文彦、小尾修、大畑稔浩、藤原秀一、塩谷亮、木原和敏、山本大貴 (画家)、安彦文平、渡抜亮、卯野和宏、永山優子、廣戸絵美、など約50名である。
コレクションのうち、約130点が、地上1階、地下2階の三層の回廊型ギャラリーに展覧されている。
透き通るような肌、みずみずしい唇、たおやかな絹の質感…描く女性像
思わず引き込まれてしまう描写力や繊細さ。
作家の個性、美意識、表現力。
そして哲学。
日本と並び写実絵画がさかんな国はスペイン。
スペインに留学して細密表現を学んだ画家たち。

暴力の世界では忍耐が必要です

2018年08月09日 12時40分43秒 | 社会・文化・政治・経済
アドルフォ・ペレス=エキベレさん
ただ聞こえているのと、「聴く」ことは違います。
目が開いていることと「見る」ことは違います。
そこから建設を始めるのです。
暴力の世界では、忍耐が必要です。
皆さんは暴力への順応者ではなく、反抗者であるべきです。
不正に対して反抗すべきです。
他人が傷ついているなら、立ち上がるべきです。
そこから平和は始まります。
平和は人と人の間、そして民衆と民衆のダイナミックな関係の中に生まれるものです。
ゆえに、互いを理解し合い、見つめ合うことができれば、世界を変えることが可能です。

アドルフォ・ペレス・エスキベル(Adolfo Pérez Esquivel、1931年11月26日 - )はブエノスアイレス出身の人権活動家。
1980年度のノーベル平和賞受賞者。
米州自由貿易地域に対する抗議を指導し、またナチス・ドイツのヒトラーユーゲントと対比してアルゼンチン警察が子供を準軍事組織の分隊に強制的に入れていることを非難した。
1960年、ペレス・エスキベルはラテンアメリカのキリスト教徒平和主義者のグループで働くようになった。1974年には教師をやめ、非暴力でラテンアメリカの貧者の開放を目指す組織の理事に選ばれた。
1976年のホルヘ・ラファエル・ビデラの軍事クーデターの後に組織の弾圧が強まると、彼は人権を守る為、また汚い戦争の犠牲者の家族を支援するために、組織同士のつながりと財政状況の改善のために奔走した。
彼の作った組織El Servicio de Paz y Justicia(奉仕、平和と正義の組織)は軍事政権の行った残虐行為を国際世論に向けて糾弾することで人権を守る活動をした。

1975年、エスキベルはブラジルの軍事警察に拘留され1976年に南北アメリカの司教とともに投獄された。1977年にはブエノスアイレスで連邦警察に逮捕されて拷問にかけられ14ヶ月に及ぶ裁判にかけられた。収監されている間に、彼はヨハネ23世から平和記念賞を贈られた。1980年には人権を守ったことに対してノーベル平和賞が授与された。受賞に際しては、『私の兄弟姉妹たちのうち、最も貧しく小さな人々の名において』、賞を受け取るとした[1]。彼は賞金を慈善団体に寄付している[2]。1999年には、1963年のヨハネ23世の回勅にちなんだパーチェム・イン・テリス賞を受賞した。
1995年にはCaminando Junto al Puebloという著書を著し、彼自身の経験を南米の非暴力運動としている。


「関係性」によっても人生は変わる

2018年08月09日 10時36分47秒 | 沼田利根の言いたい放題
神奈川県相模原市から茨城県取手市に越して来て、いわゆる集合住宅の住民となる。
自治会があり、それまで経験したことがない濃密な人間関係が生まれた。
5階建て住宅なので、まず、同じ階段10軒の住民と関わる。
回覧板を回すことと自治会費を集める階段責任者の役割、さらに棟の責任者にも順番でなる。
子どもの居る家庭は子ども会との関わりがあった。
月1回の行事があり、その準備と運営もあった。
運動会、夏祭り、カラオケ大会、バレーボール、ソフトホール、ドッチボール、バザー、防災訓練、集合住宅の行事のほかに台宿の運動会、夏祭りもあった。
囲碁・将棋クラブのほかにマージャン同好会は自治会館で。
自治の役員として自治会館での葬儀にも関わった。
改めて思うのであるが、自分を取り巻く「関係性」によっても人生は変わる。
生きやすくもなれば、生きづらくもなる。
楽しかった思い出や辛いこともあった。
親子が亡くなったり、事故死や自殺者も出たり、親しい友人がポックリ亡くなったり、いろいろあったものだ。