「知識を得ることそれ自体に意味がある」

2018年08月13日 11時15分19秒 | 社会・文化・政治・経済
『知の進化論』

野口悠紀雄著(朝日新書)

私たちはこれまで、知識は『何かを実現するために必要な手段』であると考えてきました。本書でも、多くの場合において、知識の役割をそのようなものとして捉えてきました。
経済学の言葉を使えば、『知識は資本財(または、生産財)の1つである』と考えてきたのです。
しかし、知識の役割はそれだけではありません。
『知識を持つことそれ自体に意味がある』ということもあるのです。
これを、『消費財としての知識』と呼ぶことができるでしょう。

 『知識を得ることそれ自体に意味がある』とは、現代世界で初めて認識されたことではありません。
ある意味では、人類の歴史の最初からそうだったのです。
マゼランによるマゼラン海峡の発見を思い出してください。
彼が未知の海峡を発見する航海に出た目的は、西回りでインドに達する航路の発見という実利的、経済的なものでした。
そして、彼は見事にその目的を果たしたのです。
しかし、彼が見出した航路は、インドへの航路として実際に使われることはありませんでした。
あまりに遠回りで、危険なルートだったからです。
歴史上、実用性が或る業績の倫理的価値を決定するようなことは決してない。
人類の自分自身に関する知識をふやし、その創造的意識を高揚する者のみが、人類を永続的に富ませる。
そして、ちっぽけな、弱々しい孤独な5隻の船のすばらしい冒険は、いつまでも忘れられずに残るであろう。
消費財としての知識の価値は、人工知能がいかに発達したところで、少しも減るわけではありません。
ですから、人工知能がいかに進歩しても、『人間が知的活動のすべてを人工知能に任せ、自らはハンモックに揺られて1日を寝て過ごす』という世界にはならないと思います。
研究室では、研究者が寝食を忘れて実験に挑んでいるでしょう。
歴史学者は古文書を紐解いて、新しい事実を発見することに無限の喜びを感じているはずです。
そして、親しい人々が集まって、絵画や音楽についてどれだけ深い知識を持っているかを披露し、競い合っているはずです。
あるいは、誰の意見が正しいかについて、口角泡を飛ばして議論しているでしょう。
人類にとってのユートピアとは、そのような世界だと思います。
そうした世界が、人工知能の助けを借りて実現できる。その可能性が、地平線上に見えてきたような気がします。
グーテンベルク・インターネット・人工知能。
情報技術の革新は、世界に何をもたらしたか?中世以前、知識とは、特権階級の独占的所有物だった。活版印刷の登場によって万人に開放され始めたそれは、インターネットの誕生で誰にでもタダで手に入るものとなった。そして人工知能の進化が、本質的な変革の時代の到来を告げる…。
秘匿から公開へ、有料から無料へ、そして人間からAIへ。「知識の拡散」の果てに、ユートピアは現れるのか?大変化の時代を生き抜く指針を示す、知識と情報の進化論。

『知の進化論』野口悠紀雄著(朝日新書)
「百科全書・グーグル・人工知能」というサブタイトルがついている。
グーテンベルク・インターネット・人工知能。
情報技術の革新は、世界に何をもたらしたか?中世以前、知識とは、特権階級の独占的所有物だった。活版印刷の登場によって万人に開放され始めたそれは、インターネットの誕生で誰にでもタダで手に入るものとなった。
そして人工知能の進化が、本質的な変革の時代の到来を告げる…。秘匿から公開へ、有料から無料へ、そして人間からAIへ。
「知識の拡散」の果てに、ユートピアは現れるのか?
大変化の時代を生き抜く指針を示す、知識と情報の進化論。

野口 悠紀雄(のぐち ゆきお、1940年12月20日 - )は、日本の元官僚、経済学者。
専攻は、日本経済論、ファイナンス理論。
一橋大学教授、東京大学教授、青山学院大学大学院教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学教授を経て、早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問、一橋大学名誉教授。



注目したいのは<学ぶ理由>

2018年08月13日 11時03分33秒 | 社会・文化・政治・経済
生涯学習に関する世論調査 -内閣府

「今後の人生を有意義にするため」
「教養を深めるため」

「知識が増えれば増えるほど、体験の意味と価値は増します。それによって、生活は豊かなものになる」一橋大学名誉教授・野口悠紀雄さん(知の進化論)
現実の生活の中で経験を重ねるほど、人生や社会に対する興味や問いが生まれる。
また、教育は、当たり前に見える生活や仕事に新たな気付きを与えてくれ、目にする光景の奥が広がる世界を旅させてくれる。
この学びと経験の相乗効果が、学びの醍醐味。
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「生涯学習」という言葉のイメージ
この1年間の生涯学習の実施状況
ア 生涯
学習をしている理由
イ 行った生涯学習の満足度 ... 学習の情報をどこから得たいと思う
身につけた知識等についての社会的評価の方法
地域や社会における教育」

調査の目的 生涯学習に関する国民の意識を調査し、今後の施策の参考とする。 2
調査項目
(1) 生涯学習の現状
(2) 生涯学習に対する今後の意向
(3) 社会人と学校教育
(4) 生涯学習の施設と情報
(5) 学歴重視の社会から実力重視の社会への移行
小学校就学前~高校の教育で関心のあるテーマについて
高校生までの子供がいる人
乳幼児の子供がいる人
「いじめなどの対応や不登校の児童生徒への支援」
「学力の向上」「豊かな心の育成」
小・中学生の子供がいる人

教育革命がなぜ必要なのか?

2018年08月13日 10時39分54秒 | 社会・文化・政治・経済
君ならできる
この一言を証明する人生


未来を創る話をしよう

教育が変われば人間が変わる 私は、今の時代に教育革命を起こしたい!
そう心から願っています。
何で教育革命かというと、 人間一人一人を変化させるのはやっぱり教育という一点に尽きるなと思うからです。
教育が変われば人間が変わる。
人間が変われば経済・政治が変わる

経済・政治が変われば時代が変わる

時代が変われば歴史・文明が変わる

「夜学であれ、通信教育であれ、そうしたなかから偉大な人、力ある社会貢献の人材が出てこそ、本当の教育革命です」


作文のコツ

2018年08月13日 10時23分37秒 | 社会・文化・政治・経済
自分の気持ち、考えを人に伝えることができると、周囲と価値的に話し合うことができます。
察する力と同様に、自分の考えや感情を言葉にして表現する力を育てることが、子どもを守り、可能性を開くことにつながるのです。
そのためのツールとして有効なのが作文です。
作文のコツは、「自分が一番、教えたいことは何か?」を問いかけることです。
「夏休みに起きたことで、教えたいことは何かな?」など。
この問いかけで、自分の中で漠然と考えていたことや出来事の中まら、切り取たいことが浮かびます。
次に、「誰に教えたいの?」{理由は?」「どんな気持ち?」といった点を聞いてみてください。
「なぜ」との問いで、その子の率直な気持ちがさらに出てきます。
心の中の気持ちを大切にして、自分の言葉で表現した作文はとても魅力的なものになります。
本来、作文に「正しい」「正しくない」はありません。
感じていることを表現するのが作文だからです。
「自分の気持ちに価値がある」との思いは、子どもの人生を支える「大きな自信」になるのです。
作家・木暮太一さん


千葉県船橋市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。
在学中に自主制作した学生向けの経済学入門書が大学生協や一般書店で累計5万部を突破した。
大学卒業後は、富士フイルム、サイバーエージェント、リクルートに勤務。
現在はビジネス書作家として活動しつつ、企業内・組織内での講演を多数行っている。

創作欄 「宿業の人」 3

2018年08月13日 10時02分25秒 | 創作欄
2012年8 月17日 (金曜日)

それは高校2年の夏の出来事であった。
佐々木勉は1年生の時から街のボクシングジムに通い日増しに腕力に自信を深めていた。
瘠せてはいたが身長は175㎝になっており、父親の禿げ頭を見降ろしていた。
「勉、テメイ、親をなめるんか!」
晩酌の日本酒が進んでいた父親はほとんど鬼の形相となり、茶ぶ台を両手でひっくり返した。
卓上の物が畳の上に散乱し、心優しい母親は言葉を失いおろおろするばかりであった。
勉は冷笑を浮かべ、楊枝を口にくわえたまま父親を三白眼で睨み据えていた。
「勉よ、その態度はええ、何なんだよ!」
父親は100㌔を超えた巨体で飛びかかってきた。
勉のシャツのボタンが二つ千切れ飛び、シャツは引き破られそうに張り、襟首が勉の頸動脈に食い込んできた。
勉の右のパンチが父親の鼻頭に炸裂し、鼻骨が崩れるような感触が拳骨に残った。
左のパンチは父親の耳の上を完全にヒットした。
夥しい鼻からの出血に、父親は驚愕し言葉を発することなく、倒れた茶ぶ台の上に覆いかぶさるように身を崩した。
過去のドス黒い鬱屈した憤りが堰を切った状態となり、勉は倒れ込んだ父親の後頭部に左右のパンチを更に加えた。
その時になって、優しい母親が勉に小柄な体を武者ぶるようにしてしnがみ着いてきた。
それはほとんど子どものように非力で軽い衝撃でしかなかった。
母親は身長150㎝足らずで、しかも長崎に投下された原爆の後遺症で体調不良が続いており痩せ細った身であった。
「これ以上、やめてな、お父さん死ぬよ」
母親は咽ぶような泣き声で哀惜の感情を勉にぶつけた。
「殺してやる」
叫んでいた勉は、母親の声を耳にするといっぺんに力が萎えてしまった。
肩で大きな呼吸を繰り返しながら、白髪頭の母親を見下ろしていた。
勉はその夜から家には二度と戻らず、高校を中退して無頼の徒となった。
やがて勉は長崎から大阪へ出て、キャバレー勤めをする中で、広域暴力団の下部組織の組員となった。
佐々木組長は、松田健三に肩を揉ませながら過去の同じ場面を何時ものように回顧していた。
これまでの無頼の徒の身には何でもありであった。
「お前さん 東京にも居たそうだな」
松田はギョッとした。
その驚きは指圧の指先にも敏感に反映した。
「何を驚いているんや。わいは千里眼やないで、情報やて。わいらの凌ぎは、後手に回ったら勝てん。常に先手先手に必勝やで、お前さん、うちの若い衆(もん)にならんか。いい体しとるし、胆力がある。わいには分かるんや。だが、自惚れたら困るぜよ。ひとかどの者におさまるには胆力やてのう」
佐々木組長は何時になく上機嫌であった。
松田は大分の別府ごときで、埋もれるつもりはさらさらなかった。
「今は緊急避難の身だ。否(いや)、将来の飛翔に備えての充電期間だ」
松田は指先に力を加えながら心の中で叫んでいた。
「お前さんには見込みがある。別格扱いにしてやるで。これは糊塗(こと)ではないで」
「こと(糊塗)ではない?」
「そや、この場の誤魔化しではないちゅうことや」
佐々木組長のその一言に心が動いた。
松田は組に一時、厄介になる腹づもりとなった。
それも経験の1つで、将来、大きな組織の頂点二立った時に何らかの役に立っかと思った。
佐々木組は、西日本一、二の増渕組傘下の武闘集団で、220名余の組員で構成されていた。
若衆兼組長専属の指圧師松田健三は一年近く、佐々木組長の側近にあって、人の動かし方、懐柔策、そして恫喝、資金の運用にまで身近で垣間見る結果となった。
2012年8 月16日 (木曜日)
創作欄 「宿業の男」 2
「わたしは、ある種のパワーを得まして、不思議なんですよね。今までと、どこがどう違うのかって、明確に言えませんが、この指の先からエネルギーが出ているんですよ」
それは指圧師として、まだ半人前であることをカバーするために松田健三が思いついた単なるハッタリであった。
だが、多くの人々は、それを容易(たや)くし信じてしまった。
いわゆる、不定愁訴は厄介であり苦しんでいる人は藁にもつかまりたい気持ちでいた。
「成せばなる」
松田健三はそれを座右の銘にしたと思った。
ハッタリから出た彼のハンドパワーは、噂が噂を読んだ形となり、全国的広域暴力団の支部組織の組長の耳にも届く結果となった。
九州大分県別府市は、国体が開かれるのを機にクリーンな街づくりに努め、それが功を奏した時期もあったが、M組が関西から本格的に進出してから、新しい街づくりを嘲笑するように、暴力団排斥運動はなし崩しになってしまった。
佐々木組佐々木勉組長は、ひどい肩凝り症であった。
それは頚椎の歪みに起因していたが、佐々木組長は指圧やハリ治療でそれを何とか凌ごうとしていた。
それがどれほどの効果があったのかというと否定的で、指圧師や鍼灸師の出入りの多さが物語っていた。
そんな折りである、松田健三の指圧の腕の評判は狭い別府の街なので佐々木組長の耳にも届いた。
「花菱の旦那さん、評判の指圧師に出会ってから、すっかり腰痛が治ったそうですよ。その指圧師まだ、24歳か25歳らしですよ」
「その按摩、凄腕なのに、そんなに若いんか!」
佐々木組長は女房の君江に肩を揉ませながら、振り向いた。
左目の脇から頬にかけて10cmほどの刀傷があった。
「あんさん、一度、試してみますか」
別府市内に3店のパチンコ屋を経営している花菱豪は在日2世であり、松田健三とは幼馴染であった。
君江は30分以上、肩を揉まされ続けていたので、いい加減うんざりしているところであった。
寝室の柱時計に目をやると午前2時を回っていた。
佐々木組長は君江と性交行為に及んだ後であり、身には何も着けていなかった。
君江は肩から腰までの彫り物の夜叉の黄色い角の部分を赤いマニキュアの指で撫で上げた。
「あんさんは、何故、そんなに肩が凝るんでしょうね」
「親父もひどい肩凝り症でな。遺伝と違うか」
佐々木組長は中学まで、その親父に殴られ続けてきた。
彼は身長が175cmになっていたが痩躯であった。
中学一で中三の番長の座を脅かすほどの胆力があったが、親父には簡単に捻られていた。
彼の父親は168cmほどの身長であったが、体重は100㌔を超えていて、体力で何事も押し切ろうとしていた。
しかも、癇症であり1日中何かに当たり散らしていた。
「いつか殺してやる」
佐々木は父親に対して、憎悪の炎を燃やし続けていた。
2012年8 月 9日 (木曜日)
創作欄 「宿業の男」 1
不覚にも警察に逮捕されたのは、薬事法違反の容疑であった。
あの時は上昇機運であり、勘も冴えて良い方へ向かいつつあったのだから、拘置された身は甚く(いた)屈辱的な体験であった。
「俺は、将来の国家元首であるべき人間だ」
捜査官の執拗な取調の中、松田健三は予備校時代の猛勉強の日々を回顧していた。
「1日15時間、これだけ勉強したのだから、東京大学の試験に受かるだろう」
確信して臨んだが、3年目も不合格となった。
松田は帰りに、赤門の太い柱を握り拳で「クソ! クソ! クソ!」と吼えながら叩いた。
その時の拳の痛さと衝撃の音が忘れられない。
「松田! コラ!今日は絶対に黙秘は許さんぞ!」
捜査官が机を拳で「ドン、ドン、ドン」と3回叩いた。
松田は薄めを開けながら不敵な笑みを漏らした。
松田は「フン」と呟き、眼蓋を閉ざした。
「この野郎!」
捜査官は青筋を浮かべて松田を睨み据えた。
松田は視力が弱かったため、幼いことから苛めにあってきた。
「コラ!松田!眼を開けろ! ふざけるな!」
低音だが響く怒り声が、狭い部屋の重苦しい空気を振るわせた。
この時、松田は薄めを開けて捜査官を見た。
過去の多くの苛めっ子の眼をそこに重ね見る重いがして、松田は歯軋りをした。
「警察のおっさん、お前に、俺の辛さが分かるか。お前の眼は鋭い光を放ち良く見えそうだな。俺の片目には磨りガラスがはまっているんだ。もう片方の目だって、ほとんど遠くは見えず、全てがぼやけて見える。失明の危機に怯え続ける中で、俺は俺なりに、この世に生を受けてきたことの意味を問い続けてきたんだ」
松田は言いたいことを飲み込んだ。
そして、松田は重かった口を開いた。
「おまわりさん、あんたは幸せかね」
松田は太太しい笑みをもらした。
「コラ!松田!お前、余計な口きくな!」
怒鳴り声が再び響き渡った。
松田は相好を崩すと薄気味悪い大きな顔に、親しみと愛嬌が湧く。
それがこの男の特徴の一つで、他人はそこに心を許し油断をした。
彼は誇大妄想狂であり、詐欺師だった。
その片鱗は九州の大分時代の指圧師の仕事でも遺憾なく発揮された。

創作欄 続・芳子の青春 4)

2018年08月13日 09時48分49秒 | 創作欄
2012年9 月 8日 (土曜日)

芳子は人から美しいと賞賛されていた。
戦死した父の遺影をみて、芳子の父親はいわゆる希に見る美男子と想われた。
そして、母親も人から綺麗な人だと言われてきた。
芳子は両親のそれぞれ良いところを受け継いでいた。
だが、それはもって生まれたものであり、才能ではない。
アパートの隣には、東京・新宿歌舞伎町のナイトクラブで働くホステスの佐々木淑子が居た。
淑子は色白で典型的な秋田美人であった。
秋田県を含む日本海側の女性は肌が白いので美人に見えるという説がある。
淑子は仙北市角館の出身であった。
角館には武家屋敷等の建造物が数多く残されており、年間約200万人が訪れる東北でも有数の観光地として知られ、「みちのくの小京都」とも呼ばれている。
淑子とは神田川に近い銭湯で度々、顔を合わせていた。
「芳子さん、学校で何を勉強しているの?」と問われた。
「社会学です」と芳子は答えながら、淑子の漆黒の大きな瞳を見詰めた。
「社会学? 芳子さんは意外と難しそうな勉強をしていなのね。文学でも学んでいるのかな、と想っていたの」
微笑を浮かべた淑子の浴衣姿は、大正ロマンを想わせた
芳子は卒論に「明治・大正の社会風俗と女性」を取り上げようとしていた。
近代女性の系譜を辿る意義を芳子は感じていた。
かつては一部高等子弟にだけ許された教育。
いわゆるエリートの男性中心の集団が社会を形成しを日本のあらゆる方面で指導的役割を担ってきた。
だが徐々に一般庶民へも教育は拡大した。
また、《青鞜社》は明治44年(1911年)、当時の男尊女卑の象徴でもある、家父長制度から女性を解放するという思想であった。
女性の近代的自我の確立を目指し、平塚雷鳥の呼び掛けによって賛同した女流文学者たちが集まり、平塚雷鳥を中心にして女性だけによる文学的思想を持つ文芸結社となった。
文芸機関誌『青鞜』の発刊第1巻第1号に、平塚雷鳥が著した「元始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」が創刊の辞として発表されて有名になった。
そして、明治から大正となると個人の自由や自我の拡大も叫ばれる。
進取の気風と称して明治の文明開化以来の西洋先進文化の摂取が尊ばれてきた。
新しい教育の影響も受け、伝統的な枠組にとらわれないモダニズム(近代化推進)の感覚をもった青年男女らの新風俗が、近代的様相を帯びつつある都市を闊歩し脚光を浴びるようになった。
「私、教養がないけれど、大正ロマンはいいなと想うの」淑子は芳子を羨むように見詰めた。
「コーヒー、ご馳走するので、私の部屋に来てね」
淑子は親しみを込めて誘った。
芳子は黙って肯いた。
2012年9 月 6日 (木曜日)
創作欄 続・芳子の青春 3)
再び桜の季節が巡ってきた。
23歳で早稲田大学の二部に入学した芳子にとって、これまでの大学3年間は長かったようで、短かったとも思われた。
昼休み芳子は芳野教授に誘われ、戸山公園へ行った。
芳子にとっては、桜は故郷の沼田城址公園の桜と重なった。
芳子は不本意にも刑務所へ入って依頼、母親とも徹とも沼田高校の恩師とも連絡を絶っていた。
母親には一度だけ、「元気にやっています」とだけ記した葉書を書いている。
故郷との断絶、芳子の心は頑なになっていた。
「先生は再婚なさらないのですか?」
噴水の前に来た時に、芳子は唐突に問いかけた。
芳野教授は無言で芳子の瞳を見詰めた。
「失礼なことをうかがい、申し訳ありませんでした」
芳子は自分の思慮のなさを恥、目を伏せた。
突然、風が渦を巻き桜の花びらが夥しく舞い散る。
芳野教授は花びらが散るのを原爆で死んだ娘と重ね合わせて見詰めていた。
「もしも、娘が生きて居たら・・」思えば涙が込み上げてきた。
芳子は目を伏せていたので、芳野教授の涙に気がついていない。
「再婚は考えていませんが、養女になる人が居ればいいと思っています」
それは芳子への問いかけだった。
だが、芳野は思惑を断ち切るように「芳子さん、専門分野をもちなさい。10年続ければ専門家になります。20年間続ければ大家です」と諭すように言った。
芳子は社会学を学びながら、サークル活動では街に出て聞き取り調査をグループで実践していた。
「机上の空論に終わらないのが、社会学」先輩たちは後輩に街に出て、社会の実相に触れることを奨励していた。
2012年9 月 5日 (水曜日)
創作欄 続・芳子の青春 2)
夜半の雨はジェット機の轟音のような遠雷をともない激しさを増していた。
芳子は東京・中野区中央のアパートの部屋で勉強をしていた。
1964年(昭和39年)に23歳になっていたが、奨学金を得て早稲田大学戸山キャンパスの第二文学部の社会科で学んでいた。
第二学部は1949年に早稲田大学が新制大学として再出発した時、各学部に夜間で学ぼうとする人たちに門戸を開き設置された。
その精神と歴史を忠実に守り伝えているのが第二文学部であった。
“どうしても早稲田で学びたい”という強い意欲をもった学生が集うため、学部は、もっとも早稲田らしさの残る学部といわれていた。
作家、俳優、映画監督、タレント、ジャーナリスト、シンガーソングライター、アナウンサーなど各分野に多彩な人材を輩出した。
講義は、第一文学部との合併科目が設置されている5限および6限と7限に行われるため、開講時間は、5限=16時20分〜17時50分、6限=18時〜19時30分、7限=19時40〜21時10分。
当時の学部長はフランス文学者である新庄嘉章教授、アンドレ・ジッドなどを研究、数多くのフランス文学の翻訳を行っていた。
芳子は学友の一人として大川直樹と親しくなった。
直樹は留年して7年目であった。
芳子は千葉まで帰る直樹と大久保駅まで一緒に歩いて帰ることが多かった。
通称居酒屋講義に参加する学生もいたが、芳子は酒が飲めないし、居酒屋の喧騒に馴染めなかったので、寄り道はしない。
直樹は年中「金がない」とぼやいていた。
それでいてアルバイをしない。
「まあ、物臭と妹は言うが、俺はのんびりしたいんだ」
「なぜ、卒業しないのですか?」
芳子は不躾だと思ったが聞いてみた。
「働きたくないこともあるが、大学の雰囲気に何時までも馴染んでいたい」
芳子は可笑しさが込み上げてきた。
芳子は本を閉じて、駅で別れた直樹のことを想ってみた。
不思議な感じがする男であった。
「芳子さん、俺が映画監督になったら、主演女優に起用してあげよう」
「映画監督志望なのですか?」
「まあ、今のところは、そのうち化けることもある」「化ける?」「そう、人間は時に化ける」
直樹は幼児のような表情をした。
「子どもに好かれるので、児童映画をやりたいな」
人を警戒させない雰囲気があり、お地蔵さんのような円満な表情を浮かべた。
2012年9 月 1日 (土曜日)
創作欄 続・芳子の青春 1)
芳子は広島から帰ってから、大学の図書館へ足を運ぶようになった。
あるいは、早稲田通りにある古本屋へ足を向けることもあった。
「なぜ、日本は戦争をしたのだろうか?」
そして、原爆の投下へ至った経緯を知りたいと思った。
同時に、未だアメリカの軍政下にある沖縄についても関心を深めていった。
アメリカに対する理解も深めていきたいと考えていた。
「パパは何でも知っている」 は人気テレビ番組の一つだった。 
芳子は父が戦死しているので、父親を知るらない。それだけに、テレビで見た父親像に憧れを抱いた。
テレビ映画で知ったアメリカは、生活がとても豊かで魅惑的な憧れの国のようにも映じていた。
そのようなテレビの世界を嘲るように、事態は大きく転換した。
第35代アメリカ合衆国大統領のジョン・フィッツジェラルド "ジャック" ケネディが、1963年11月22日、遊説先のテキサス州ダラスで暗殺された。
その衝撃的な映像が日本のテレビでも放映され、芳子は驚愕を覚えた。
「アメリカは、どのような国なのだろう?」
銃を規制できないアメリカ。
ある意味でそれは宿命的であり、アメリカには深い闇が横たわっていて、暗殺の謎は深まるばかりであった。
芳子は文学もいいが、社会学を学びたいと考えはじめていた。
社会は、政治、経済、科学技術、文化など様々な面で世界との結びつきがある。
人間社会においては様々な利害が重なり複雑に絡み合っている。
「多くの問題を解くカギは社会学にあるのではないだろうか?」
芳子は大学の食堂で出会った大学院生の梅村早苗から、共産党への入党を勧められた。
「共産党が、日本の社会を大きく変えるのよ」確信に満ちているように早苗が語る。
いつも微笑みを絶やさない早苗は、いわゆる「好い人」と思われた。
1963年、早稲田大学には社会科学部はまだなかった。
社会科学系専門分野は当時、政治経済学部、法学部、商学部といった学部に分科された形で教育が行われていた。
早苗は政治経済学部の大学院生だった。
芳子は早苗の話を聞きながら、実社会で学ぶべきか大学で学ぶべきかを考え始めた。
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<参考>
パパは何でも知っている(原題:Father Knows Best)は1949年4月25日から1954年3月25日までアメリカのNBCラジオで、同年10月3日から1960年9月17日までNBC(テレビ)とCBSで全203話が放送され、人気を博したロバート・ヤング主演のテレビドラマ。
シチュエーション・コメディ。

日本では1958年8月3日から1964年3月29日まで日本テレビ系列で日本語吹替版で放映された。
アメリカ中西部の架空の街、スプリングフィールドのメープル通り南607番に住む中流家庭、アンダーソン一家(ゼネラル保険会社の部長で営業マンのパパと賢明なママ、3人の子供達:ベティ、バド、キャシー)に巻き起こる事柄を描いた、1話:25分のホームドラマ。

創作欄  キンモクセイ(金木犀)が咲く季節

2018年08月13日 09時36分52秒 | 創作欄
2012年10 月25日 (木曜日)
キンモクセイ(金木犀)が咲く季節になると、遠い過去が思い出される
キンモクセイは中国南部が原産で江戸時代に渡来したそうだ。
キンモクセイは東京・大田区田園本町の桜坂の下の、幼馴染の洋ちゃん(清水君)の家の庭にもが2本あり、秋になると芳香を放ち小さいオレンジ色の花を無数に咲かせた。
洋ちゃんの家は近隣でも大きく、屋敷と形容した方がいいだろう。
その広い敷地は貝塚がある小高い台地まで続いていた。
屋敷の離れの部屋には、洋ちゃんのお姉さん(12歳前後であっただろうか?)が結核で寝ていた。
そのころ結核は死の病で、洋ちゃんのお姉さんの自宅での療養生活は世間から隔離されているような状態であった。
「あの部屋には近づかないようにね」と洋ちゃんのお婆ちゃんが言う。
洋ちゃんの父親は大東亜戦争・支那事変(日中戦争)で亡くなっていた。
洋ちゃんの家のとなりが駐在所で、そこのお巡りさんが進駐軍のジープに撥ねられ亡くなったのも秋であった。
洋ちゃんの母親は、どこかに働きに出ていて、お婆ちゃんが家事はじめ近所付き合いをしていた。

「小学校へ入学しても、洋ちゃんと遊んでね」とお婆ちゃんに言われていたが、自分はその後、洋ちゃんを避けるようになった。
なぜ、避けたのか?
いつも鼻を汁を垂らしている洋ちゃんが疎ましくなっていた。
そして、内科医の娘であった奈々子ちゃんと通学するこことなった。
秋になると中学を卒業して直ぐに、大田区役所の支所で働きだした清水君のことが思い出される。

創作欄  「屈辱」

2018年08月13日 09時31分44秒 | 創作欄
2012年10 月30日 (火曜日)
 
「存在することに意義がある」
奈々瀬幸雄は、その言葉を拠り所に今日まで生きてきた。
左の目の視力を失い片目となった時は忌々しい思いに苛まれた。
慣れない間は駅のホームの柱に頭をぶつかったこともあった。
毎日のように人ともぶつかった。
それで、苛立ちをぶつけ人と喧嘩にもなった。
肩が触れたという些細なことに過ぎなかったが、傷害事件にも発展した。
その日は、大事な営業の話で取引先へ急いでいた。
東京・丸の内の新築ビルの窓枠の製作を請け負う交渉であった。
相見積り(提案書と見積書の提出)を依頼されたのだ。
だが、殴った相手は何時ものように反撃してこなかった。
「あれ、どうしたんだ?!」幸雄は改めて右目を相手の眼前に据えた。
「傷害罪、現行犯逮捕する」その体格のいい男は毅然とした声を発した。
信じ難かったが、殴った相手は唇の脇に少し傷ができた私服警官だった。
警察署に連行される間に幸雄は、「これで仕事を失うな。何て運が悪いんだ」と歯ぎしりをしていた。
「オイ、お前、何時までも黙っていて、済むと思うなよ」
2人の若い警官に尋問された。
20代の後半と想われる1人の警官は、定期券を取り上げ中を調べていた。
「この女は、誰だ!」
定期券から愛人の優子の写真が出され、幸雄の鼻の先に突き付けられた。
幸雄は黙って冷笑を浮かべた。
「ウン、女(愛人)か」警官は冷笑を浮かべた。
それは屈辱であった。
もう1人の30代前半と想われる警官は、バックの中を探っていた。
「オイ、お前は47歳だな。分別もあるだろう。理由もなく人を殴るんじゃないよ」
「悪かったです」
幸雄は苦笑した。
「人を殴っておいて、薄ら笑いか。オイ、ふざけるな!」
バックを探っていた警官が怒声を発した。
「前科はあるのか?」若い警官は幸雄の顔色の変化を探るように聞きながら睨み据えた。
「ありません」
「オイ、嘘をついても、分かるんだからな」
バックの中身を全部机の上に出しながら、警官は鋭く言い放った。
前の会社でリストラされた幸雄は、今の企業に勤めてまだ1年余であった。
前職では部長で年収は約800万円あったが、今はその半分以下となっていた。
「こんな若造の警官になめられる身か。口も利きたくない。情けない」
一刻も早く解放されたいと思ったが、甘くはない。
調書を取られ、指紋も採られ、会写真も撮られ、幸雄は形式のとおりに傷害罪で送検された。




自分だけの人間関係

2018年08月13日 09時14分47秒 | 社会・文化・政治・経済
平和は、今いる場所で一人の友達との友情から始まる。

戦争は<絶対悪>である。

人を多いやる心が平和につながる。

不断の努力のかに、信頼が育まれ、強い人間の絆が生まれる。

一人一人に「私にしかない人間関係」があるはず。
家族、親戚、友人、知人など、他の誰とも代わることができない自分だけの人間関係が。

レイチェル・カーソン 『沈黙の春』

2018年08月13日 08時57分58秒 | 社会・文化・政治・経済
『沈黙の春』(Silent Spring, ISBN 978-4102074015)は、1962年に出版されたレイチェル・カーソンの著書。
DDTを始めとする農薬などの化学物質の危険性を、鳥達が鳴かなくなった春という出来事を通し訴えた作品。
自然を忘れた現代人に魂のふるさとを思い起こさせる美しい声と、自然を破壊し人体を
蝕む化学薬品の浸透、循環、蓄積を追究する冷徹な眼、そして、いま私たちは何をなす
べきかを訴えるたくましい実行力。
発売されて半年で50万部も売れ、特にBook of the Month Club(高名な合衆国最高裁判所判事のウィリアム・O・ダグラスの推薦文が同封された)やニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに選ばれてからよく売れた。
幼少時は作家を志しており高校の成績も極めて優秀であった。
ペンシルベニア女子大学では英文学を希望していたが、生物学の授業を受けたことで生物学分野の科学者を志望するようになった。
ジョンズ・ホプキンス大学の修士課程で遺伝学を学ぶ。
当時、女性が一生働ける職業は少なく、特に理系の分野においては看護師か教員しか就ける仕事がなかった。
そのため科学者という選択は非常に珍しいことであった。
大学院でも男子学生の中に紅一点という状況であった。

海が失うものはない

2018年08月13日 08時50分12秒 | 社会・文化・政治・経済
夏は地域行事など近隣の方々と交流を深める好機。
人と人との絆こそ、安心と繁栄の礎。

自然災害の危険「自分は大丈夫」の心が危機を招く。
油断を廃止安全を。

「必要なのは<何も変わらない>という<あきらめの壁>を乗り越えることだ。

「海が失うものはない。あるものは死に、あるものは生き、生命の貴重な構成要素を無限の鎖のように次から次へとゆだねていくのである」
レイチェル・カーソン「潮風の下で」(上遠恵子訳)

江戸時代の古文書が国内に推計20億点

2018年08月13日 08時17分53秒 | 社会・文化・政治・経済
実際には、江戸時代の識字率というのは 70% くらいあったんではないかと言われてます。
国内にある古文書は推計 で20億点以上、その9割が民家の蔵などに眠っているとみられている。
代々庄屋を務めてきた家などに。
江戸時代にも猛暑の夏があった。
この気候区分は、数百年。
また、1780年代には両国川や浅草川が結氷したという記述も古文書に残っている。
過去の自然災害の被害状況が分かり、防災の基礎にもつながる。
「地域社会にこえだけの古文書が残っている国、地域は他にない」と横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院の吉原直樹教授は指摘している。
歴史資料の修復・保存が必要。

輪子の競輪日記

2018年08月13日 03時14分57秒 | 未来予測研究会の掲示板
取手競輪場のバンク1コーナー手前の観客席に、地元選手の応援席がある。
輪子の競輪仲間の女性たちに交じって、普段見掛けない人たちがたくさん居た。
「この人たちは?」と輪子は気にかけた。
地元の戸邉裕将選手が案内役を務めていた。
戸辺選手に聴けば分かるはず、でも輪子は好奇心から後について行く。
すると、1階の食堂を抜けるとエレベーターに乗って特別観覧席へ向かっていく。
輪子は入場券を買っていないので、そこで見送る。
それから、その人たちは最終レースが終わると正門前に集まっていた。
戸邉選手は記念撮影に応じながら、談笑していた。
そして、観光バスに乗り込んで行く。
旅行ツアーで競輪を見学に来たようだ。
また、この日、12レース
宮倉勇選手(54)の高校の同級生/都立葛飾商業高校(1982年卒業 東京都 葛飾区)、男女10数名が応援に来て、大きな団扇などで声援を贈っていた。
「年に1回のこと、まるで宮倉人気があるみたいだな」と笑い合っていた。
「勇頑張れ」
「宮倉、落ち着いて行け」
「勇さん」
「いい位置だ。やれよ」
「今だ、行け」
絶叫の声援がすごい!
「皆さん54歳なのね」と輪子は脇から微笑んで見守っていた。
レースは本命7-8-3-4の東京・埼玉・群馬ライン
そして対抗は9-1-5の南関東ライン(神奈川・千葉)
第三のラインが6-2東北ライン(宮城)
1番宮倉選手(千葉58期)は9番植木和広神奈川98期)の番手
結果は、7-8-3ラインが先行
中断に9-1ラインが着けていたのに、少しも伸びないで、中断のまま。
後方から6-2が追い上げていたが伸びずに後退。
本命の3-8-7ラインで決まり、同級生たちが熱い声援を贈った宮倉選手は6着。
「宮倉、良くやったぞ」
「次、頑張れ」
「勇さん、またね。また応援に来るからね」
輪子は愉快な気分となる。
「54歳で頑張っているのね」とつぶやき、コール前スタンドから「頑張って」と声援を贈った。
「S級から落ちても、まだやれそう」とその後ろ姿を見送った。