「なんとと申しましょうか」

2018年10月10日 22時02分13秒 | 医科・歯科・介護
野球解説小西さんの口癖

小西 得郎(こにし とくろう、1896年7月10日 - 1977年6月9日)は、昭和期のプロ野球監督、野球解説者
1955年(昭和30年)5月からNHKのプロ野球中継の解説者を担当した。
志村正順アナウンサーとのコンビが当たり、「そりゃーもう、なんと申しましょうか」という小西の口癖は流行語となった。
プロ野球の放送のスタイルは1953年(昭和28年)前後に始まったアナウンサーと解説者の形が定着していくが、小西はその先駆者であった。
「おい、なんでお前は宿題してこないんだ」と先生が叱責。
「なんと申しましょうか。眠くて・・・」
教室に笑いが起こった。
「バカ野郎!廊下に立っていろ」先生は青筋を立てて怒る。
沼田利根は小学校時代のことを思いだして苦笑した。

「陛下は靖国を潰そうとしてる」

2018年10月10日 20時28分12秒 | 社会・文化・政治・経済
靖国神社トップが「皇室批判」

9/30(日) 16:00配信 NEWS ポストセブン

小堀邦夫宮司(共同通信社)
 天皇が「深い悲しみを新たにいたします」と述べた平成最後の終戦記念日、靖国神社(東京・九段北)には安倍晋三首相はじめ現役閣僚の姿はなく、中国や韓国も一頃ほど神経をとがらせなくなった。しかし、その落ち着きの裏で、靖国神社は“爆弾”を抱えていた。来年、天皇の「代替わり」と創立150年が重なる大きな節目を目前に、前代未聞の問題発言が神社トップである宮司から飛び出したのだ。

問題発言の音声データを公開(動画)

◆「そう思わん?」「わかるか?」

 靖国神社では今、来年の創立150年に向け、境内のいたるところで改修工事が行なわれている。だが、その内部では、修復不可能なほどの“綻び”が生じていた。

 6月20日、靖国神社の社務所会議室で行なわれた「第1回教学研究委員会定例会議」で、その重大事は起きた。今年3月に第十二代靖国神社宮司に就任した小堀邦夫氏(68)が、創立150年に向けて新たに組織したのが「教学研究委員会」だった。これからの靖国神社がどうあるべきかを考えるとして、第1回の会議には、小堀宮司以下、ナンバー2である権宮司など職員10人が出席したことが当日の議事録に残されている。

 その会議の場で、靖国神社のトップである小堀宮司から、驚くべき発言が飛び出した。

「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。違う? そういうことを真剣に議論し、結論をもち、発表をすることが重要やと言ってるの。はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」

 さらに発言は、代替わりで次の天皇となる皇太子夫妻にも向けられた。

「あと半年すればわかるよ。もし、御在位中に一度も親拝(天皇が参拝すること)なさらなかったら、今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」

 静まり返る会議室で小堀宮司の高圧的な口調の“独演”と、速記のキーボードを打つ音だけが響く──。
この会議は、小堀宮司の意向もあって複数の出席者が記録のために録音していた。宮司の「総括」から始まる110分に及ぶ音声データを本誌は入手した。

 小堀宮司が語気を強めたのは、今上天皇が即位以来、一度も靖国を参拝したことがない一方、かつての戦地を訪れ、戦没者の霊を慰める旅を続けてきたことを指しているとみられる。皇室ジャーナリストの久能靖氏はこう言う。

「今上天皇が靖国を参拝されない理由はわかりません。が、あえて推察すれば、昭和天皇が1978年のA級戦犯合祀以来、靖国においでにならなくなった、その思いを咀嚼されたのではないかと考えられます。今上陛下は戦争体験をお持ちで、戦中の国民の苦しみは直接ご存じでした。だからこそ、国内外にわたるすべての戦地で慰霊を行ないたいというお気持ちになられていたと思います。天皇陛下の慰霊の旅は、強い信念に基づいて行なわれているものでしょう」

 その慰霊の旅が、小堀宮司の目には靖国神社を否定する行為に映っていると、靖国神社関係者が言う。
「小堀宮司からすれば、英霊の御霊は靖国にこそあり、戦地にはない。にもかかわらず、今上天皇は靖国よりも慰霊の旅を選んでいるとなると、靖国の存在意義を否定することになってしまうという思いがあったのではないか」

 しかし、この発言は靖国神社内でも問題視された。

「勅祭社(天皇が例祭などに勅使を派遣し、奉幣を行なう神社)としての靖国神社の性格を考えると、天皇陛下を批判するような発言は、宮司として問題ではないかという声が上がっています」(同前)

◆「お前の説教、聞きたくないよ」

 靖国神社は来年までに天皇の参拝を実現させようとしていた。靖国神社職員はこう語る。

「平成の御代のうちに天皇陛下にご参拝をいただくことは、私たち靖国神社からすると悲願なのです。小堀宮司は、“平成の御代に一度も御親拝がなかったらこの神社はどうするんだ”と口にしていました。そうして宮内庁に対し、宮司自らが伺って御親拝の御請願を行なうための交渉を内々にしているのですが、まだ実現の目処は立っていない」
小堀宮司は専門紙「神社新報」で、〈(創立)五十年目に大正天皇が行幸され、百年目には昭和天皇が皇后とお揃ひで行幸されてゐます。そして来年、百五十年といふ大きな節目の年がやってくることの重大さは、御代替りと相俟って深刻に考へてゐます〉(7月30日付)と語っていた。

 天皇の参拝を求める焦りが発言の背景にあったのだろうか。問題発言に至るやり取りを見ると、小堀宮司の真意が分かる。

 この日の会議は、靖国の創立百五十年史略年表の作成・出版などについて話した後に「戦犯に対する誤解や東京裁判の不当さについて調査考証する」という議題に入った。そこで出席者の職員が「富田メモ」について言及したことが、小堀発言に繋がった。

 富田メモとは、富田朝彦元宮内庁長官(在任は1978~1988年)が昭和天皇の非公開発言を記したメモで、靖国にA級戦犯が合祀されたことに関し、「だから、私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」との記述があった。2006年に日経新聞がメモの存在をスクープすると、「昭和天皇の真意が分かる超一級史料」と評価される一方、「陛下の真意とは限らない」と否定的意見も上がり、真贋をめぐる大論争となった。それに伴い、A級戦犯の靖国神社への合祀の是非や、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝議論も過熱した。

 靖国神社はこの富田メモについて、現在に至るまで一切コメントしていない。だが、実際は“深い棘”として刺さっていたようだ。

 この富田メモについて、職員が、「もしそれが本当の昭和天皇の発言だったらどうするんだ、ということで私は真剣に考えましてですね」と言い出し、合祀の経緯を振り返った上で、こう熱弁を振るった。

「このまま時代を50年、100年経過していったときにどういうふうな説明をして、国民が理解していけるのか、というところの先読みしたような考え方を持っていく必要があるんじゃないか」

 ところがこの職員の発言を、小堀宮司はいきなり遮り、切って捨てた。
「お前の説教、聞きたくないよ。しょうもない。お前のどこに戦略があんねん。『これ知ってます、私はこれ知ってます』っていう話ばっかりやないか。どうやって戦うかを考えるんがこの仕事やないか。何も恐れる必要はない。間違ってたら間違ってたと言えばいい。

(中略)戦略を考えるのは俺が考える。君らが考えんでいい。一番大きな問題はあの慰霊の旅です。気がつかないのか君たちは」

 そうして、冒頭の発言が飛び出した。つまり、小堀発言は富田メモから連なる、天皇と靖国の“複雑な関係”が伏線にあったのだ。

「富田メモについては靖国神社の中でも“タブー扱い”されてきた。昭和天皇、今上天皇の御親拝が途絶えている真意についても触れないできたわけです。

 小堀宮司は、そうした空気の中で、トップとしての風格を見せる狙いもあってああした物言いをしたのではないか。『戦う』『戦略』といった言葉からは、どんな事情が背景にあるにせよ、とにかく天皇の御親拝を実現させたいという強い意思を感じます。しかし、それが実現しないことの不満となれば、天皇陛下への批判となってしまう。靖国神社が抱えるジレンマが、ついに噴出してしまったということでしょう」(前出・靖国神社関係者)

◆「皇太子さまは輪をかけてくる」

 発言の主である小堀宮司とは、どんな人物なのか。

 小堀宮司は、3つの大学、大学院を出たあと伊勢神宮に奉職。以来、伊勢神宮一筋で、宮司を補佐する禰宜(ねぎ)という要職に登り詰めた。

 靖国の前宮司・徳川康久氏が、戊辰戦争の“賊軍”である幕府軍や会津軍の戦死者も合祀に前向きな姿勢を示したことなどが問題視され、「一身上の都合」で辞任したのを受けて、靖国の宮司に就任した。

 伊勢神宮時代には、メディアにも何度か登場している。2016年に天皇が生前退位の「お気持ち」を表明された際には、中日新聞(2016年8月9日付)の取材に、〈苦心されてお言葉を選ばれたのだろう。天皇陛下が『伝統の継承者』であり続けるため、現行制度の問題を問い掛けているのでは〉と賛同する姿勢で答えていた。
ところが、教学研究委員会では、まったく別の意見を述べている。

「あのビデオメッセージで譲位を決めたとき、反対する人おったよね(中略)正論なんよ。だけど正論を潰せるだけの準備を陛下はずっとなさってる。それに誰も気がつかなかった。公務というのはそれなんです。実績を陛下は積み上げた。誰も文句を言えない。そしてこの次は、皇太子さまはそれに輪をかけてきますよ。どういうふうになるのか僕も予測できない。少なくとも温かくなることはない。靖国さんに対して」

 生前退位に反対だったという本音をにじませ、皇太子に代替わりしても靖国との距離は広がるばかりだと危惧しているように聞こえる。

◆「僕、出てませんよ」

 一連の小堀宮司の発言について、宗教学者の島田裕巳氏はこう読み解く。

「伊勢神宮は神社の世界では別格扱いで、そこにいたという自負が小堀宮司にあるはず。その感覚には少し浮き世離れした部分があり、発言がどのような問題を引き起こすかを認識しないまま思った通りに本音を話してしまったのではないか。

 ただし、現在の天皇が靖国神社を参拝されないのは、好き嫌いの問題ではなく、政教分離の問題が大きいはず。なにより宮内庁が止めるはずです。昭和天皇の参拝が途絶えた経緯においても、A級戦犯の合祀より、当時の中曽根康弘首相が国際社会の反発を予想せずに公式参拝したことの影響が大きい。それは安倍首相が強行した参拝も同様で、首相参拝へのハレーションが、ますます靖国神社と天皇の距離を遠くしているという状況がある。果たして小堀宮司はそうした複雑さを理解した上で発言しているのでしょうか」

 本誌は一連の発言の真意を確認するため、9月26日早朝、小堀宮司の自宅前で本人を直撃した。

──6月20日の教学研究委員会で話されたことについてお聞きしたい。
「何も知らないですよ」

──いや、小堀さんが話されたことですよ。
「教学研究委員会、僕、出てませんよ」
──教学研究委員会ですよ。
「ええ、出てませんよ」

 そう質問を遮って、迎えの車に乗り込んだ。

 靖国神社に会議での発言について見解を求めた。

「教学研究委員会は、社外公開を前提としたものではございませんので、各委員の発言を含め会議内容などの回答は控えさせていただきます。また当委員会では、世代交代が進む御遺族・崇敬者のみならず、多くの人々に当神社をご理解いただくべく、神社運営や教学について研究・協議を始めたばかりです。その過程において、協議内容の一部分を抽出し、神社の見解とすることはございません」(広報課)

 前述の富田メモは、靖国問題についての昭和天皇の「本音」が記されていたとして議論を巻き起こした。

 それに対する靖国トップの「本音」と言うべき小堀発言は、どのような波紋を呼ぶのだろうか。

*音声データは「News MagVi」(https://twitter.com/News_MagVi)にて公開中。

※週刊ポスト2018年10月12・19日号

福光時代の棟方志功

2018年10月10日 16時33分32秒 | 医科・歯科・介護
信仰と美の出会い 

人生を変えた奇跡の土地・富山県福光
「南無阿弥陀仏」から「世界のムナカタ」への胎動の6年間
棟方芸術の源泉がここに結実

昭和20年、40代の棟方が疎開した富山県福光での6年間は、民藝の柳宗悦、河井寬次郎、濱田庄司らとの交流が深まり、浄土真宗の地で「自己覚醒」するなど、後年世界を舞台に活躍する棟方に多大な影響を与えた日々であった。
この時期の作品を中心に、図版約400点、 絵入りの外箱・書簡など珍しい資料約50点も収録。
信仰から人生観まで人間・棟方に迫る。
時代を超越するインパクト!
福光疎開時代の作品から見えてくる
世界のムナカタへの飛翔の道程

谷崎潤一郎をして「奇人である」と言わしめた異能の巨匠・棟方志功。
棟方自身「大きないただきものを致しました」というように、疎開先の真宗王国富山・福光で過ごした6年8ヶ月はその後の作家人生に大きな影響を与えた。
この「充電の時期」の作品約400点を集め、民藝の柳宗悦、河井寬次郎、濱田庄司や土地の人々との交流、信仰的な側面からも検証。
世界のムナカタ揺籃期を概観しつつ、人間・棟方に迫る。

福光美術館 展示会図録より

「そう、この版画のように、自分の言い放題、思い放題言ったって、案外そういう僕が、今、あの目の赤い、頭の皿の水がいっぱい、亀の子のような腹をして、小さい子供のような格好のあの河童に化かされているんじゃないかなぁ。
いや化かされたっていいですよ、そんな、うん。ねえ、いい気持ち、仕事も話もできたんですもの、ありがたいと思わなくちゃ。うん、ほんとー。
ちょっとあの法林寺の鐘が鳴って、いいじゃありませんか。ここらのもやもやした夕暮の空気をもっと穏やかにしているではありませんか。蛍も法林寺蛍というと大きい、普通の源氏蛍じゃないですものねぇ。
そういう景色の中に、あの瞞着川のそばでしゃがんでいるうちに、またひき込まれる(注=河童は人間を川に引 き込んでおしりを抜くといわれる)ような気がしますから、もうここを立ちましょう。」
現在、福光では画伯の作品などの偉業を通して、画伯の人となりを良く知り、町民の一人として、自らが学び、そして身近な人や、中心商店街を訪れた人に少しでも伝えていきたいと、様々な活動をしています。その活動を紹介します…。

まるでこの世の皆様へのお別れの言葉のようですね…。


展覧会情報
釧路市立美術館 2018年7月7日〜8月26日以降、全国巡回展が決定
日本橋三越 2018年12月26日~2019年1月7日
棟方志功の福光時代

棟方志功研究家 石井頼子さん

1956年東京生まれ。
棟方志功研究家。棟方志功の初孫(長女・けようの長女)。
棟方と生活を共にし、制作風景に接しながら育つ。慶應義塾大学を卒業後、2011年の閉館まで棟方板画美術館に学芸員として勤務。
展覧会監修や執筆活動、講演などを通じ、知られざる棟方の紹介に努めている。
日本民藝館運営委員
『信仰と美の出会い 棟方志功の福光時代』より

元気な<脳の>育て方

2018年10月10日 16時14分58秒 | 医科・歯科・介護
脳の学校

◆脳の画像から、脳の健康状態や個性(得意・不得意分野など)を診断し、
 脳を成長させるための、あなただけの脳番地トレーニングや生活習慣を
 アドバイス致します。  
◆アルツハイマー型認知症などの“加齢型認知症”が気になる方
 脳疾患や交通外傷による後遺症に対し、今後の方針を相談・検討したい方
 セカンドオピニオンを受けたい方への脳画像診断は、
 併設の加藤プラチナクリニックにて対応しております。
脳トレーニング講座
能力開発として、また認知症の予防として注目される脳トレ。
脳トレは、机上だけでなく、生活の中にあります。生活の中で実践する脳トレをするためには、脳の基礎的なことを知ることがかかかせません。
そこで、脳の基礎知識からトレーニングまでの情報を発信していきます!
脳の学校は、胎児から高齢者の脳を研究し、診断・育成する専門機関です。
「脳はいくつになっても成長する」
私たちは、この事実を脳画像を使って示してきた“唯一の機関”です。
健康な脳の経験の蓄積を読み取ることも、得意・不得意を知ることも、一般的な医療分野では行われていません。健康な脳の読影には高度な技術が必要です。

これまで、創業者の加藤俊徳は、日本・米国で胎児から100歳の超高齢者までのべ数万人に及ぶ脳画像の読影、また、健康な人から重度の障害をもつ方まで様々な方の脳の機能と成長に関する研究から、脳の成長と老化の仕組みについて確認してきました(代表 加藤俊徳のプロフィール)。
その研究成果をもとに、一人ひとりの脳を診断し、“一人一人がどう生きるべきか”という疑問に、MRIによる脳画像診断で1つの筋道をお示しすることができると考えています。

脳の学校では、脳を一生元気に保って楽しく生きる新しい人生観や文化を創造することを目指しています。そのために、脳の健康を保ち、能力を向上させるためのアドバイスやトレーニングの提供・実践を行っています。

※脳に病気がある方の診療は「加藤プラチナクリニック」にて行っております。

加藤 俊徳(かとう・としのり)

 新潟県生まれ。医師/医学博士/脳科学者。
 
 株式会社「脳の学校」代表。加藤プラチナクリニック院長。
 昭和大学客員教授。

 発達脳科学・脳機能生理学・MRI脳画像診断・脳機能計測の専門家。
 小児科専門医。

14歳のときに「脳を鍛える方法」を知るために医学部への進学を決意する。

1991年、脳活動計測「fNIRS法」を発見。
現在、世界700カ所以上で脳研究に使用され、新東名高速道路走行中の脳活動計測にも成功。

1995年から2001年まで米国ミネソタ大学放射線科MR研究センターで
アルツハイマー病や脳画像の研究に従事。

帰国後、慶應義塾大学、東京大学などで、脳の研究に従事。胎児から超高齢者まで
1万人以上のMRI脳画像とともにその人の生き方を分析。

2006年、株式会社「脳の学校」を創業。2013年、加藤プラチナクリニックを開設。
ビジネス脳力診断、発達障害や認知症などの予防脳医療を実践。

著書に35万部を越えるベストセラー『脳の強化書』シリーズ(あさ出版)、『脳が知っている怒らないコツ』(かんき出版)、『人生が劇的に変わる脳の使い方』(PHP研究所)などがある。

 


世界精神保健デー

2018年10月10日 16時08分26秒 | 社会・文化・政治・経済
世界精神保健デー
1992年以来毎年10月10日が世界精神保健デーWorld Mental Health Day と定められ、世界精神保健連盟WFMHが中心となって、メンタルヘルスについての意識啓発と偏見をなくすための活動が行われています。
止まらぬ「心の病」の増加。
多くの職場や学校では、うつ病の増加に直面して対処に悩み、メンタルヘルスが組織の大きな健康課題となっています。
また、東日本大震災や台風など災害が続く中で、災害後のメンタルケアの課題も大きくクローズアップされるなど、心の健康へのニーズがますます高まっています。
大震災後の心理社会的対応についてはWHO月報(Bulletin)9月号にも日本からの報告記事が掲載されています。
当協会の2010年の機関誌「目で見るWHO」第43号でも、「心と健康」を特集し、「うつ病はこころの風邪?」渡辺洋一郎氏による講演録、「こころの病気について」松浦玲子氏による解説記事を掲載しています。

社団法人日本WHO協会 事務局

優れた才能 それを見抜く人

2018年10月10日 15時58分50秒 | 社会・文化・政治・経済
優れた才能も、それを見抜く人によって、初めて発揮される。
自分を認め、信じ、勝利を待ってくれている人がいる-そう気付けば、自らの殻を破り、新たな一歩を踏み出すことができる。
友の力を引き出す名伯楽でありたい。

世界のホームラン王・王貞治選手を育てた名伯楽、荒川博さん
王の「一本足打法」誕生はいかにして生まれたのか?
王貞治氏(76=現ソフトバンク球団会長)に「一本足打法」を指導し、日本刀を使用。当時の毎日の選手だった荒川氏が散歩中に東京・隅田公園の野球場で試合をしている当時中学2年生だった王少年を見かけた。

高校野球界を代表する名伯楽と言っていいだろう。
松坂大輔(ソフトバンク)や筒香嘉智(DeNA)ら多くの名選手を育てた小倉清一郎さん(73)

新井宏昌さんと言えば、オリックスの打撃コーチ時代にイチローを指導したことで知られる名伯楽です。
現役時代の実績も素晴らしく、近鉄時代の1987年には打率3割6分6厘で首位打者を獲得しています。
なお、このシーズンにマークした184安打は、130試合制では当時のシーズン最多安打記録でした。

清原和博、松井稼頭央を育てた名コーチの土井正博。
山内一弘、中西太といった打撃コーチに続く、最後の職人気質のコーチ。

人間の価値を根底にした新たな文明

2018年10月10日 15時42分12秒 | 社会・文化・政治・経済
「私たちに必要なのは、仲間意識や共感といった、人間の価値を根底にした新たな文明を築くことです。ぜひ一緒に始めましょう」
グラミン銀行の創設者 ムハマド・ユヌスさん

グラミン銀行(ベンガル語: গ্রামীণ ব্যাংক、英語: Grameen Bank)とは、バングラデシュにある銀行でマイクロファイナンス機関。
「グラミン」という言葉は「村(gram)」という単語に由来する。
本部はバングラデシュの首都ダッカ。
ムハマド・ユヌスが1983年に創設した。マイクロクレジットと呼ばれる貧困層を対象にした比較的低金利の無担保融資を主に農村部で行っている。
銀行を主体として、インフラ・通信・エネルギーなど、多分野で「グラミン・ファミリー」と呼ばれるソーシャル・ビジネスを展開している。
2006年ムハマド・ユヌスと共にノーベル平和賞を受賞した。
グラミン銀行の起源はチッタゴン大学教授であったムハマド・ユヌスが銀行サービスの提供を農村の貧困者に拡大し、融資システムを構築するための可能性について調査プロジェクトを立ち上げたことにさかのぼることができる。
銀行の創設者であるムハマド・ユヌスは、アメリカ合衆国のヴァンタービルト大学で経済博士号を取得した。
1974年、バングラデシュで飢饉があった際、ユヌスは42の家族に総額27ドルという小額の融資をした。
それは高金利のローンによる圧迫で、売り物のための小額の支出にも金貸しに頼らざるを得ないという負担を無くすためである。
ユヌスは、そのような(金利は年率20%近く、複利ではなく単利である。利子の総額は元本を上回ることがない。)小額融資を多くの人が利用できるようにすることで、バングラデシュの農村にはびこる貧困に対して良い影響を及ぼせると考えた。
グラミン銀行総裁、ムハマド・ユヌス





並みの回答ではない 作家 高橋源一郎さん

2018年10月10日 14時53分47秒 | 社会・文化・政治・経済
毎日新聞の「人生相談」の作家 高橋源一郎さんの回答を楽しみに読んでいる。
並みの回答ではない。

静謐で豊かな生活に誰しも憧れます。
けれども、愚かと知りながら、陥らざるを得ない「修羅」の道もあるのだと思います。
このまま、苦しみもがいていてください。
でも、知っていますか。
人間にとって、一番悲しいのは、忘れ去られることです。
あなたは憎むことによって、夫を忘れられない存在にしたのです。
愛すると同じように。

第72回二紀展に松尾治さん入選

2018年10月10日 14時06分09秒 | 【お知らせ】
今回の作品は、長崎県天然記念物、五島列島の「樫の浦のアコウの大木」を題材に描いた100号の油絵。
今年の出品で松尾さんの弟 松尾在時さん(東京・画家)も入選し、兄弟同時入選となった。

国立新美術館
10月17日~29日
東京メトロ千代田線「乃木坂駅」6出口美術館直結。
日比谷線「六本木駅」4a出口から徒歩約5分。



阪神最悪甲子園で39敗、やり場のない怒り充満

2018年10月10日 10時55分37秒 | 社会・文化・政治・経済

10/10(水) 7:38配信 日刊スポーツ
阪神最悪甲子園で39敗、やり場のない怒り充満
阪神対巨人 渋い表情で投手交代を告げる金本監督(撮影・上田博志)
<阪神4-9巨人>◇9日◇甲子園

阪神が甲子園で球団ワーストとなる39敗目を喫し、本拠地にはやり場のない怒りが充満した。

グラウンドに投げ込まれた金本監督2000安打記念メガホン
試合後、外野席では虎党同士のけんかが発生。
帰り際の坂井オーナーには「いつ辞めるんですか?」と罵声が飛んだ。
野村監督が指揮した01年以来のシーズン80敗に王手がかかった。
11戦連続本塁打なしに金本監督は「ちょっと長打力が課題ですね」と疲労を隠せなかった。

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カネモト!いつ辞めるんだ」虎最下位にファン怒声

[2018年10月9日7時10分 ]

スタンドのファンも頭を抱える中、ヤクルトに敗れぼうぜんとする金本監督

最下位となり、疲れた表情で神宮球場から引き揚げる

<ヤクルト6-5阪神>◇8日◇神宮 スポーツ

阪神が8日のヤクルト戦(神宮)に敗れ、野村監督時代の01年以来、17年ぶりの最下位が決定した。
先発才木浩人投手(19)が2回6失点でKO。
打線は終盤追い上げたが、1点及ばなかった。
来季4年目となる金本知憲監督(50)は屈辱からの反撃を期す。

金本阪神にとって、つらく悲しい夜になった。
必死にヤクルトに追いすがり、1点差まで迫ったが力尽きた。01年以来、17年ぶりのシーズン最下位決定。
野村克也監督が指揮を執った時以来の屈辱にまみれた。敗戦後の三塁側ファウルゾーン。
容赦なき怒声が金本監督の背中に突き刺さる。
「カネモト!! いつ辞めるんだッ!!」。
口を真一文字に結んで、責任を一身で背負うしかなかった。

5点を追う敗色濃厚の8回には4安打を集中し、4点を奪取。だがあと1歩、及ばなかった。金本監督は悪夢の最下位を直視。「それはね、やっぱり現実を受け止めないと。
本当に申し訳ない気持ちですね、ファンには」。
力なく謝罪するのが精いっぱいだった。指揮官にとっても、広島で現役だったプロ2年目の93年以来となる最下位。主力に成長してから初めての試練だった。
2月、沖縄・宜野座キャンプの最終日に「3年間の中のチームでは、一番強い」と言い切ったが、結末は思いも寄らなかった。

金本監督は就任3年目の今季、新たに3年契約を結んでおり、すでに来年の続投も決定。谷本球団副社長兼球団本部長も試合後、あらためて「(続投方針は)変わりません」と明言した。
全日程終了後の15日以降、大阪市内の電鉄本社で坂井信也オーナー(70=電鉄本社相談役)にシーズン終了報告をする。
その際に、同オーナーから正式に続投を要請される形だ。

最後まで上位進出を目指したが10月の5連敗発進が誤算だった。140試合目で60勝78敗2分け。今季最多の借金は18に膨れた。悔しさ、もどかしさ、やるせなさ…。すべての思いを胸に秘め、歴史的失態から出直すしかない。【酒井俊作】

◆01年の阪神 野村監督3年目の01年は開幕20試合を10勝10敗の五分でスタートも、4月25日から7連敗で借金生活へ。
最終的に57勝80敗3分け、勝率4割1分6厘で、吉田監督時代の98年から球団史上初の4年連続最下位となった。
2桁勝利を挙げた投手がおらず、チーム打率2割4分3厘と90本塁打がリーグワースト。
明るい話題は、ルーキー赤星が39盗塁をマークして新人王と盗塁王を獲得したことぐらい。オフに野村監督が退団し、星野新監督が誕生した。

10月9日(火)のつぶやき

2018年10月10日 03時13分37秒 | 医科・歯科・介護