釈迦、孔子、ソクラテス、イエスの四人をあげて世界の四聖と呼ぶことは、だいぶ前から行なわれている。
たぶん明治時代の我が国の学者が言い出したことであろうと思うが、その考証はここでは必要でない。
とにかくこの四聖という考えには、西洋にのみ偏かたよらずに世界の文化を広く見渡すという態度が含まれている。
インド文化を釈迦で、シナ文化を孔子で、ギリシア文化をソクラテスで、またヨーロッパを征服したユダヤ文化をイエスで代表させ、そうしてこれらに等しく高い価値を認めようというのである。
ではどうしてこれらの人物が、それぞれの大きい文化潮流を代表し得るのであろうか。
どの文化潮流も非常に豊富な内容を持っているのであって、一人の人物が代表し得るような単純なものではないはずである。
しかも人がこれらの人物をそれぞれの文化潮流の代表者として選び、そうしてまた他の人々がそれを適切として感ずるのは、何によるのであろうか。
自分はそれを、これらの人物が「人類の教師」であったという点に見いだし得ると思う。
この答えは一見したところ矛盾に見えるかも知れない。
なぜならこれらの人物はそれぞれ異なった文化潮流の代表者とせられるのであるから、それぞれその文化潮流の特異性を表現していなくてはならない、しかるにその代表者たるゆえんは人類の教師たるにあってその特異性の表現にあるとはせられないのだからである。しかしこれは決して矛盾ではない。
それを矛盾と感ずるのは、いかなる特殊な文化にも彩られない普遍的な人類の教師とか、全然普遍的な意義を担わない特殊な文化とかというごとき抽象的な想定に囚とらわれているからである。
現実の歴史においては、いずれかの文化の伝統によって厳密に限定せられているのでない人類の教師などというものは、かつて現われたこともないし、また現われることもできないであろう。
また普遍的な意義を現わすがゆえにまさに文化として存立するのだということの言えないような特殊の文化などというものも、かつて形成せられたことはないし、また形成せられ得ないであろう。
最も特殊的なるものが最も普遍的な意義価値を有するということは、何も芸術の作品に限ったことではない。人類の教師においてもそうである。
我々はここに人類の教師という言葉を用いるが、それによって「人類」という一つの統一的な社会を容認しているのではない。
現代のように世界交通の活発となった時代においてさえ、地上の人々がことごとく一つの統一に結びついているというごとき状態からははるかに遠い。
いわんや如上じょじょうの四聖が出現した時代にあっては、彼らの眼中にある人々は地上の人々全体のうちのほんの一部分であった。孔子が教化しようとしたのは黄河下流の、日本の半分ほどの地域の人々であり、釈迦が法を説いて聞かせたのもガンジス河中流の狭い地域の人々に過ぎぬ。
ソクラテスに至ってはアテナイ市民のみが相手であり、イエスの活動範囲のごときは縦たて四十里横二十里の小地方である。が、それにもかかわらず我々は彼らを人類の教師と呼ぶ。その場合の人類は、地上に住む人々の全体を意味するのでもなければ、また人という生物の一類をさすのでもない。
さらにまた「閉じた社会」としての人倫社会に対立させられた意味での「開いた社会」をさすのでもない。
それぞれの小さい人倫的組織を内容とせずには人類の生活はあり得ないのである。
実際においても人類の教師の説くところは主として人倫の道や法であって、人倫社会の外なる境地の消息ではなかった。彼らが人類の教師であるのは、いついかなる社会の人々であっても、彼らから教えを受けることができるからである。
事実上彼らの教えた人々が狭く限局せられているにかかわらず、可能的にはあらゆる人に教え得るというところに、人類の教師としての資格が見いだされる。
従ってこの場合の「人類」は事実上の何かをさすのではなくして、地方的歴史的に可能なるあらゆる人々をさすにほかならない。
だから人類は事実ではなくして「理念」だと言われるのである。
人類の教師の持つ右のごとき普遍性は、その教師の人格や智慧ちえにもとづく、と通例は考えられる。
もしそうであるならば、これらの教師の活動を目前に見た人々の内には、直ちに
それを人類の教師として洞察し得る人もあってしかるべきである。だからこれらの教師の伝記を語る人々は、これらの教師が周囲から認められず、迫害や侮蔑を受けている最中にも、すでにこれらを人類の教師として承認している少数者を描くのである。
しかし少数者のみがそれを真の教師として認め、大衆がそれを認めない時に、果たしてその教師は人類の教師であり得るであろうか。いついかなる社会にも、少数の狂信者に取り巻かれた教師というものは存在するのである。
目前の我々の社会においてもその例は数多くあげることができるであろう。それらは世界の歴史においては幾千幾万となく現われ、そうして泡沫ほうまつのごとく消えて行った。
だから少数者の洞察などというものも、当てにならない方が多いのである。
では大衆が直ちに目前の教師の人格や智慧を礼讃し始めた時はどうであるか。
その場合には生前からしてすでに人類の教師となるはずではないか。しかるに事実はそうではないのである。大衆は必ずしも優れたもののみを礼讃しはしない。天才と呼ばれている人々が生前に大衆の歓迎を受けたという例はむしろまれである。
いわんや人類の教師とも言わるべき人々がその時代の大衆に認められたなどという例は、全然ない。
人類の教師たり得るような智慧の深さや人格の偉大さは、大衆の眼につきやすいものではないのである。
大衆の礼讃によって生前からその偉大さを確立した人々は、人類の教師ではなくして、むしろ「英雄」と呼ばるべきものであろう。もちろんこの場合にも大衆の礼讃した人々がことごとく英雄となるのではない。
大衆はしばしば案山子かかしをも礼讃する。しかし生前すでに大衆の礼讃を獲得し得なかったような英雄もまた存しないのである。この点において人類の教師と英雄とは明白に相違する。
人類の教師であると否とは同時代の大衆の承認によって定まるのではない。
では人類の教師が人類の教師として認められるに至るのはいかなる経路によるのであろうか。
言いかえれば、人類の教師はいかにしてその普遍性を獲得したのであろうか。
通例伝記者の語るところによれば、人類の教師は皆よき弟子を持った。その中には十哲とか、十大弟子とか、十二使徒とかと呼ばれるような優れた人物があった。
そうしてそれらの弟子は、その師が真に道の体得者であり、仁者じんしゃであり、覚者かくしゃであることを信じ切っていた。
同時代の大衆がいかにその師を迫害し侮蔑しようとも、この信頼は決して揺るがなかった。
が、これだけならば前に言ったような狂信者に取り巻かれた教師と異なるところがない。大切なのはこれから先である。
師が毒杯とか十字架とかによって死刑に処せられた後に、あるいは生涯用いられることなく親しい二、三の弟子の手に死ぬことに満足した(『論語』子罕一二)後に、弟子たちはその師の道や真理を宣伝することに努力した。
この努力がたちまちに開花し結実したのはソクラテスの場合である。弟子プラトンと孫弟子アリストテレスとは、師の仕事を迅速に完成して西洋思想の源流を作った。これらの偉大な弟子の仕事が人々に承認せられれば、その弟子の仕事の中にその魂として生きているソクラテスが、一層偉大な教師として承認せられないはずはないのである。
他の場合には弟子たちの努力は一世代や二世代では尽きなかった。現在残っている最古の資料は、いずれも孫弟子の手になったものと考えられる。釈迦については阿含経典あごんきょうてんの最も古い層がそうである。
イエスについてはパウロの書簡も福音書もそうである。孔子に関しても同様のことが言えるであろう。
『論語』は孫弟子の記録よりも古いものを含んではいない。
そうして孫弟子たちは皆さらにその弟子たちを教えるためにこれらの記録を作ったのである。
だから最古の記録によってこれらの教師に接しようとするものでも、曾孫ひまご弟子の立場より先に出ることはできない。
このことは教師たちの人格と思想とが、時の試練に堪たえ、幾世代もを通じて働き続けたことを意味するのである。
しかも彼らは働き続けるほどますます感化力を増大した。
たといその生前にわずかの人々をしか感化することができなかったとしても、時のたつにつれてその感化を受ける人々の数はふえて行く。
従って同時代の大衆を動かし得なかった教師たちも、歴史的にははるかに多く広汎な大衆を動かすこととなるのである。
かくして彼らは偉大な教師としての動くことのない承認を得て来た。
が、これらの偉大な教師が人類の教師としての普遍性を得来えきたるためには、さらにもう一つの重大な契機を必要とする。
それはこれらの偉大な教師を生んだ文化が、一つの全体としてあとから来る文化の模範となり教育者となるということである。それは逆に言えば、これらの古い文化が、その偉大な教師を生み出
すとともにその絶頂に達してひとまず完結してしまったということを意味する。ソクラテスを生んだギリシアの文化は、彼の弟子と孫弟子とがこの師の偉大さをはっきりと築き上げたころに、すでにその終幕に達した。
そのあとにはこのギリシア文化を世界に伝播でんぱする時代、すなわちヘレニスト的時代が続き、次いでこの文化の教育の下に新しいローマの文化が形成されてくる。
それが東方の宗教に打ち克かたれた後にも、キリストの教会内の哲学的な思索は、ソクラテスの弟子と孫弟子の指導の下にあった。
さらにこの東方の宗教の専制を打ち破った近代のヨーロッパにおいては、哲学の模範がソクラテスの弟子と孫弟子とに認められたのみでなく、この新しい文化の魂がギリシア文化の再生にあるとさえも考えられた。
このような事情の下に、アテナイの偉大な教師であったソクラテスが、人類の教師としての普遍性を得て来たのである。
同様にまたイエスを生んだユダヤの文化も、パウロがその神学を築き上げたころには、ローマの世界帝国の中に影を没してしまった。それは影を没しつつも決してその存在を失わない不思議な文化ではあるが、しかし旧約のさまざまな文芸を作りつつあった時代、またとにもかくにも死海のほとりにその本拠を持っていた時代に比べると、パウロ以後のユダヤ文化はすでに完結して旧約の中に保存せられたものという趣おもむきを呈して来るのである。
しかもこのユダヤの文化はイエスの福音と結びついてローマ帝国を征服した。さらに中世に至ればヨーロッパ全体を征服した。
そうしてヨーロッパの諸民族にその背負っている伝統を捨てさせ、ただ旧約の所伝のみが唯一の正しい人類の歴史であると信じ込ませた。
一つの民族の文化が他の民族を教育する場合にこれほど徹底的な感化を与えた例は他には存しないのである。この感化は近代に至ってギリシア文化が再生した後にも容易に衰えない。
あるいはヨーロッパにおいて衰えただけを世界の他の諸地方において回復したとも言えるであろう。こういう事情の下にユダヤ人の救世主であったイエスが人類の救世主としての普遍性を獲得して来たのである。
では釈迦はどうであるか。釈迦を生んだインドの文化は、彼のあとにひとまずその終幕に達したであろうか。
しかりと自分は答える。そのためには我々は「インド」が何であるかを反省してみなくてはならない。
インドとはギリシアとかローマとかのような国の名あるいは文化圏の名ではなくして、ヨーロッパというごとき地域の名なのである。この地域の内に種々の民族が住み、さまざまの国が興亡し、さまざまの文化が形成せられた。
釈迦が現われたのは、このインドの地域に西方から侵入したアリアン人が、ガンジスの流域に落ちつき、ヴェダからウパニシャドまでの文化を形成した後であった。
そこには固い四姓制度が行なわれ、貴族政治による小さい国々が分立していた。
釈迦はこの古い文化の伝統に対する革新者としてバラモンの権威に挑戦し、アートマンの形而上学を斥しりぞけ、四姓制度の内面的な打破を試みたのである。
ここに我々は釈迦を、永い古い文化の言わば否定的な結晶として見いださざるを得ない。
果たして彼の死後五十年(あるいは百五十年か)のころには、アレキサンダー大王の影響の下に、インドの地域にかつて作られたことのない大帝国が建設せられた。これは古来武士階級を抑えていたバラモンの権威の顛覆てんぷくである。
インドの社会は釈迦以前と異なるものになったのである。次いで北西インドにはギリシア人が侵入し、ギリシア風の都市と国とを建設した。さらにそのあとにスキタイ人が北から入り込んで、ガンジスの上流にまで及ぶ強大な国を建てた。
釈迦に至るまでの古い文化はこれらの時代に一応中断せられたと認めざるを得ない。しかも古い文化の結晶たる釈迦の教えは、この新しい国々を教育した。
仏教興隆によって有名なアショカ王がいかに深く仏教に心酔したかは、彼の残した碑文が明らかに示している。それは四姓の別を打破し、慈悲を政治によって実現しようとしたものである。
さらにギリシア人がインドに入るとともに仏教に化せられたことは、有名な『ミリンダ王経』(那先比丘経なせんびくきょう)がこれを証示する。次のスキタイ人が仏教に化せられたこともまたカニシカ王の事績を見れば明らかである。
もっとも仏教は、かく新しい国や民族を教化することによって、自らもまた新しくなった。
大帝国を教化するに当たっては、釈迦の時代に思いも及ばなかった「転輪聖王てんりんせいおう」の理想が作られている。
ギリシア人やスキタイ人を教化した際には、かつてインド人の思いも及ばなかった仏像彫刻が作られ始めた。
ヴェダやウパニシャドにおいて、思想を表現するにも抒情詩風の形式をしか用いなかったインド人が、この時以来戯曲的構成を持った雄大な仏教経典を作り始めた。
かくして仏教の中から溌剌はつらつとして大乗仏教が興り、華麗な芸術と深遠な哲理とを展開したのである。
そうしてこの大乗仏教が、インドから北へ出て中央アジアに栄え、さらに東してシナに広がり日本に及んだのである。
これらの事情の下に、四姓制度の社会における覚者であった釈迦が、人類の覚者としての普遍性を得て来たのである。
しからば最後に孔子はどうであるか。孔子を生んだシナの文化が孔子の後にその幕を閉じたなどとは何人も認め得ないであろう。インドは中世紀以後モハメダンの蹂躙じゅうりんに逢い、仏教は地を払った。
仏教のインドは全然の過去である。しかしシナにおいては孔子の教えは漢に栄え、唐宋に栄え、明清に栄えたではないか、と人は言うかも知れない。
しかし自分の見るところはそうではない。孔子を生んだ先秦の文化は戦国時代にひとまずその幕を閉じたのである。ここでも我々はインドと同じく「シナ」が単に地域の名であって国の名でもなければ民族の名でもないことを銘記しなくてはならない。この地域において種々の民族が混融し交代し、種々の国々が相次い
で興亡したことは、ちょうどヨーロッパにおいてギリシア、ローマ相次ぎ、種々の民族が混融し、近代の諸国家が興ったのと、ほとんど変わるところがない。
先秦の文化が伝説にいう周の文化として完成せられ、その末期の春秋時代に至って反省せられ、次いで戦国の時代の混乱と破壊とによって次の新しい文化に所を譲ったことは、ちょうどギリシアがローマに変わったことと同じ意味に解せられねばならない。
戦国時代における夷狄いてきとの混淆こんこうは顕著な事実である。そうして終局において大きい統一に成功した秦はトルコ族や蒙古族との混淆の最も著しい国であった。この統一の事業をうけついだ漢もまた異民族との混淆の著しい山西さんせいより起こった。すなわちここで黄河流域の民族は一新したのである。そうしてその社会構造をも全然新しく作り変えたのである。
もちろん漢代においても先秦の文化は引きつがれている。しかしローマはギリシアを征服することによって文化的には逆にギリシアに征服せられたと言われる。先進の文化が後来の民族を教化することは、いずこにおいても同じである。同様にローマの文化がギリシア文化の一つの発展段階と見られないように、秦漢の文化もまた先秦の文化の一つの発展段階なのではない。
ギリシア文化に教育せられつつローマ文化がローマ文化として形成せられたように、先秦の文化に教育せられつつも秦漢の文化は秦漢の文化として形成せられたのである。この関係を正視すれば、孔子もまた一つの文化の結論として出現したということは、何ら疑いを容れないのである。
シナの民族はしばしば「漢人」と呼ばれる。しかし漢はシナの地域における一時代の国名であって、シナの地域の民族の名とすべきものではない。
漢代の黄河流域の民族は、周の文化を作った民族の中へ周囲の異民族の混入したものであるが、しかしそれも四、五百年間続いただけであって、漢末より隋唐に至るまでの間には再び大仕掛けな民族混淆に逢っている。蒙古民族、トルコ民族、チベット民族などがはいって来たのである。この際には前と違って異民族が自ら黄河流域に国を建てた。五胡十六国と言われているようにその交代は頻繁であったが、蒙古民族たる鮮卑せんぴの建てた北魏のごときはかなり強大であった。こういう状態が二、三百年も続いて、それで民族が新しく作り変えられないはずはないのである。だからそのあとに来た隋唐の統一時代のシナが、文化の上から言っても漢文化と著しく異なっているのは当然である。
美術や文芸の様式などは実に徹底的に違っている。この統一時代が三百年続いたあとで、唐末五代のころには再びトルコ民族が黄河流域にはいって国を建てた。次いで宋の時代になっても、北辺の蒙古民族契丹きったんの国ははなはだ強大であって、西方からシナを呼ぶに Kitai→Cathay をもってせしめるほどであった。この情勢は満州民族を蹶起けっきせしめ、ついに満州より黄河流域にわたる強力な金の建国となって、北方シナに満州民族の血を注ぎ入れた。
宋は揚子江流域に圧迫せられつつ同時に南方の諸民族の同化につとめ、ここにも有力な民族混淆をひき起こした。こういう状勢のあとでジンギスカンの統率する蒙古人が北から圧迫を始め、ついに金を亡ぼし、南宋を亡ぼして、シナ全土に強力な元の支配を築いた。
シナに侵入してシナの民族を統治する場合に、シナの文化に化せられないで、あくまでも己れの風習をシナの民族に押しつけようとしたのは、この時の蒙古人が初めである。元の支配は百年ほどに過ぎなかったが、しかしシナの在来の知識階級を徹底的に抑圧し、あるいは殲滅せんめつしたと言われている。元末に起こった反抗運動はすべて土民の手によって起こされたものであって、処士のこれに加わったものは一人もなかった。
こういう連続的な異民族の侵入が三百年ほども続いたあとで、再び明の統一が打ち立てられたとき、その文化がまた唐の文化と著しく異なったものとなったのは当然であろう。
唐の制度は永い間模範として用いられていたが、明はこれを根本的に改めて、極端に君主独裁的な制度を作った。律令も兵制も改定された。社会組織も更新された。
現代にも存続する郷党の制度はこの時の振興にもとづくと言われている。
さらに唐宋の豊麗な詩文に対して、明は『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』のごときを特徴とする。
唐宋の醇美な彫刻絵画に対して、明は宣徳せんとく・嘉靖かせい・万暦ばんれきの陶瓷とうじ、剔紅てっこう、填漆てんしつの類を特徴とする。
ただ学術においては、唐宋における仏教哲学や儒学の隆盛に対して、明は創造力の空疎を特徴とすると言うべきであろう。この傾向は清朝を通じて現代に及んでいる。
以上のごとく見れば、同じシナの地域に起こった国であっても、秦漢と唐宋と明清とは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国と近代ヨーロッパ諸国とが相違するほどには相違しているのである。
ヨーロッパに永い間ラテン語が文章語として行なわれていたからと言って、それがローマ文化の一貫した存続を意味するのでないように、古代シナの古典が引き続いて読まれ、古い漢文が引き続いて用いられていたからと言って、直ちに先秦文化や漢文化の一貫した存続を言うことはできない。にもかかわらず先秦と秦漢と唐宋と明清とが、一つの文化の異なった時代を示すかのごとくに考えられるのは、主として「漢字」という不思議な文字の様式に帰因すると考えられる。
文字は元来「書かれた言葉」として「話された言葉」に対立するものであるが、かく言葉を視覚形象によって表現するには、直接にその意味を現わす形象を用いることもできれば、また意味を現わすに用いられている音声を表示する記号を用いることもできる。
現代世界に最も広く用いられているのはフェニキアに始まった音表記号であって、一々の文字は単に音を示すに過ぎず、それが相寄って一定の音の連関を表示するとき初めてそこに話される言葉の表現が成り立つのである。だから一々の文字が共通であっても、それによって表現せられる言語は全然異なったものであり得る。のみならずそれは発音に忠実であるために同一の言語を分化せしめる傾向さえも持っている。
たとえば同じラテン語が地方によって異なった訛なまりを帯びて来る。
それを発音通りに書き記せば、ラテン語と異なったイタリー語やフランス語が成立して来るというがごときである。
が、このような分化の傾向は古き文化の伝統を保持するに不便であるために、先行の文化語の文字的表現をそのまま持続しつつ、一々の文字の音表的作用を変化して行く場合もある。
フランス語がラテン語からの由来を保持するためにラテン語の音綴おんてつをそのまま襲用しつつそれによって異なった音の連関を表示し始めたごときがそれである。
近世の初めにラテン文からの解放を望んで自国語の文章を書き始めた時、フランス人はその音声に忠実な綴字を用いようとしたことがあった。
が、それは己が文化の根源たるラテン文化からほとんど離別するがごとき観を呈した。だからその運動はまもなく逆転して、できるだけ忠実にラテン語の綴つづりを保持する運動に変わったのである。テンプス(tempus)とほぼ同じく temps と綴りながら、タンというフランス語を現わすというごときがそれである。
だから音綴文字といえども、必ずしも音声の表示に徹底しているというわけではない。文化の伝統がこの徹底をさまたげる。そうしてちょうどここに文字の他の様式、すなわち直接に意味を現わす形象が、その独特の生命を保持し得るゆえんも存するのである。かかる文字の一つの様式としては、フェニキアに近いエジプトにすでに古くより象形文字が存していた。が、それはフェニキアの音綴文字に駆逐くちくせられて死滅してしまった。
実用的に言ってとうていフェニキア文字の敵ではなかったのであろう。しかるに漢字は、もと象形文字に端を発したかも知れないが、やがて象形文字の直観的煩雑はんざつ性を克服し、半ばは音表文字の作用をも勤めつつ、直接に意味を現わす形象として、異常な発達を示して来たのである。
これは一つにはシナの地域において文化を作った民族の言語が単綴語であったことにも関係するであろう。が、最も有力な原因は、文字の本質が視覚形象によって意味を表現するにあるという点に存すると思う。言語は必ずしも音声によって表現せられねばならぬのではない。従って音声を表示する記号のみが文字なのではない。音声の媒介を経ずに直接に意味を現わしても、それは文字としての資格に欠くるところはない。
もしかかる形象が使用上においても大なる不便なく作り出されるならば、それは文字としてはむしろその本質に忠なるものと言わねばならぬ。漢字は直観性と抽象性との適度なる交錯によって、ちょうどかかる形象として成功したものなのである。そうしてひとたびかかる文字が成立するとともに、それは音綴文字とはなはだしく異なった効用を発揮し始める。
すなわち同一の文字が音声的に異なった言語を表現し得るということである。言語が地方的にいかに異なった訛なまりを帯びて来ようとも、文字的表現においては常に同一であり得る。また時代的に発音が変遷して行っても、文字は毫ごうも変わらないでいることができる。かかる漢字の機能のゆえに、シナの地域における方言の著しい相違や、また時代的な著しい言語の変遷が、かなりの程度まで隠されていると言ってよいのである。現代のシナにおいて、もし語られる通りに音表文字をもって現わしたならば、その言語の多様なることは現代のヨーロッパの比ではないであろう。
またもしシナの古語が音表文字をもって記されていたならば、先秦や秦漢や唐宋などの言語が現代の言語と異なることは、ギリシア語やラテン語やゲルマン語が現代ヨーロッパ語と異なるに譲らないであろう。
しかるに漢字はこれら一切の相違を貫ぬいて共通なのである。すなわち「書かれた言葉」が地方的時代的に同一なのである。言いかえればシナの地域においては二千数百年の間同一の言語が支配した。これは一つの文化圏の統一を示すものとしては、無視することのできない有力なものに見える。
ここに我々は先秦の文化や漢文化が一つの文化の異なった時代と考えられる窮極の根拠を見いだし得ると思う。
しかしこのような文字の同一は、漢字という文字の様式に帰因するのであって、必ずしも右のごとき緊密な文化圏の統一を示すものではない。
フェニキアの音綴文字を襲用した諸文化国がフェニキア文化の圏内に統一せられていると言えないように、漢字を襲用した我が国の文化もシナの文化圏に統一せられているのではない。
漢字はその性質上、言語として全然異なっている我が国語さえも表現することができる。ヤマを山の字によって、カワを河の字によって現わすという類である。
が、かかる事態が直ちに我が国の文化とシナの文化との統一を示すのではない。それと同じく文字の同一は、直ちに先秦や、秦漢や、唐宋などの文化の異質性を消すことはできないのである。
我々は孔子が人類の教師として普遍性を得て来たことを理解するために、右の事態を正視することが必要であると考える。
孔子は先秦の文化の結晶として現われながら、それと質を異にする漢の文化のなかに生きてこれを教化し、さらにまたそれと質を異にする唐宋の文化のなかに生きてこれを教化した。
もちろん漢代に理解せられた孔子と、宋代に理解せられた孔子とは、同一ではない。
また漢の儒学はその孔子理解を通じて漢の文化を作ったのであり、宋学もその独特な孔子理解を通じて宋の文化を作ったのである。が、これらの歴史的発展を通じて魯の一夫子孔子は人類の教師としての普遍性を獲得した。この点においては他の人類の教師と異なるところはないのである。