スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。
ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。
ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られ、特に西スラヴと東スラヴは時により北スラヴと分類されることがある。
ほとんどのスラブ人の遺伝子型は、バルト-スラブ民族に典型的なY染色体ハプログループであるハプログループR1a(R-M420)によって表される。スラヴ人はこのほかハプログループR1b(R-M343, P25)も西スラヴを中心に多く含んでいる。
中世初期の民族大移動における考古文化のプラハ・ペンコフ・コロチン文化複合は、当時のスラヴ語圏諸部族のうちウクライナにおける政治集団がポリーシャからヨーロッパ全域に拡張し各地で影響を及ぼした痕跡と考えられる。それ以前は西スラヴ語群の元となった系統の諸部族と東スラヴ語群の元となった系統の諸部族は、政治的にも文化的にも断絶が続いていた時期が長いことが判明している。
9世紀に入ると、農耕に適さず人口が希薄なパンノニア盆地の広大な草原に遊牧民のマジャール人が侵入、西スラヴ語群の諸部族が北と南に分断され、それぞれ北では西スラヴ語群、南では南スラヴ語群の諸民族が中世を通じ形成されていった。
かつてはローマ帝国やオスマン帝国に服属しており、その時にスラヴ人が奴隷として駆り出されていたため英語のSlaveが奴隷という意味で使われている。
スラヴ語の共通性を基盤とするスラヴ全体の共通性を強調する態度は汎スラヴ主義と呼ばれ、国民楽派、第一次世界大戦と民族国家、旧東欧の概念などの重要な主体性ともなったが、文化・宗教面ではスラヴ各民族ごとに異なる主体性を持っており、過去何度も繰り返されたポーランド・ロシア戦争のほか、近年では1990年代のユーゴスラビア紛争や2010年代のウクライナ紛争などのように血を流し合って対立する矛盾した面を持っている。
遺伝子型によって、スラブ人はかつて単一の言語コミュニティを形成したバルト人とフィノ-ウゴル人に近い。
移住先では元々の在来の住民と混交する形で言語的にも文化的にも、次第に現地住民を同化しつつ、在来の住民と相互に影響を与え合う形で発展していった。特にトルコの支配を受けた南スラヴ人については、スラヴ人の移住以前からのバルカン半島の土着的な要素に加えて、オリエンタル地域に由来する文化も持ち合わせている。「ブルガリア」の名前は中世のテュルク系遊牧民であったブルガール人に由来しており、ブルガール人は彼らが支配するドナウ・ブルガール・ハン国で多数派であったスラヴ人と同化してブルガリア人となった。
一方、西ヨーロッパにおいても少数ながらスラヴ民族が現在も居住している。特にドイツ東部においては、古来よりポーランドとの国境付近にはドイツ人とポーランド人との混血集団であるシレジア人を始め、エルベ川東部にもスラヴ系集団が居住し、現代に至るまでドイツ人との間で複雑な相克の歴史を持つ。現在もドイツ東部にはソルブ人が居住している。また中世以来の古い家系でありながらスラブ系やスラブ系由来の姓を持っているドイツ人は多数いる。近代以降はカナダに大量のスラヴ人が移住している。彼らは英語化し、もとの母語であるスラヴ語を失っているものの、カナダ最大の民族はアングロサクソンではなくウクライナ人やポーランド人を基幹とするスラヴ人であるとされる。また、シカゴを含むアメリカのイリノイ州の住民は圧倒的にスラヴ系が多い。
なお、スラヴ人の中で最大の民族集団であるロシアの語源については、いくつか説はあるが、現代のウクライナの首都キエフを中心としたキエフ大公国の正式国号「ルーシ」からとられたとも言われている。この「ルーシ」をギリシャ語読みすると「ロシア」となる。本来、地理的にキーフルーシがルーシ(ロシア)の名を引き継ぐべきところであるが、歴史的にモンゴル支配以降、急速に台頭してきた新興国家モスクワ公国(キーフルーシの一構成国でのちにロシア帝国となる)に「ロシア」の主導権を握られ、先を越された感がある。なお、キーフルーシはその後ロシア帝国の一構成集団として取り込まれていった後、ウクライナとして現代ロシアとは別の国家として存続している。
そのため、ウクライナ人の中には、これらの歴史的経緯からウクライナ人とロシア人は同じスラヴ民族であり、近隣同士の間柄としてともに歩んできたものの、ロシア人とウクライナ人とは一線を画している、とする論調が存在し、それが両民族の間にさまざまな軋轢をもたらしていることも、また事実である。なお、ウクライナ人自身も長い歴史の中でゴート人、ノルマン人、スキタイ人そして東スラヴ人との混血によって形成された民族集団である。
ロシアについては、歴史的に民族の行き交う十字路に位置しており、古代にはスキタイ人やサルマティア人、フン人そしてハザール人を始めとする遊牧民族、中世にはモンゴル人やタタール人等による支配を経験している。その後、ロシアが領土を中央アジアからシベリア、極東方面へ大きく拡大し周辺の諸民族を征服する過程で、これらの民族と言語的、文化的に混交、同化していった経緯から、ロシア人はコーカソイドを基調としながらも、東へ向かうにつれてモンゴロイド人種の特徴を含む人々も見られ、人種的に相当なばらつきがあるといわれている。
国旗
スラヴ人が多数派を占める国々の国旗には、赤、青、そして白色からなる配色による構成が見られる。この配色は汎スラヴ色と呼ばれ、自由と革命の理想を象徴したものである。
汎スラヴ色を国旗の意匠とする国々は、ロシア、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、セルビアなどであり、南スラヴ族のモンテネグロ人を主要民族とするモンテネグロも2004年7月まで、汎スラヴ色を基調とする国旗を使用していた。また、同じ南スラヴ族のブルガリア国旗についても、青色の配色が農業を表す緑色に置き換えられているが、汎スラヴ色に分類される。
ポーランドとウクライナは他国とは異なり、ポーランドの国旗はかつてポーランド・リトアニア共和国として大国だった時代にコモンウェルスの軍旗として使用されていた紅白旗を一貫して用いている。正式には国章の白鷲が付く。 ウクライナの国旗は空とウクライナの大地を表したものとなっている
遺伝子
スラヴ人は、ハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。
ロシア人(ベルゴロド州)に59.4%[4]、ポーランド人に55.9%[5]などである。
いっぽうでバルカン半島では欧州最古層のハプログループI (Y染色体)が高い頻度で見られる(ボスニア人に42.0%[6]など)。
また全域にわたってハプログループR1b (Y染色体)が見られる他、ロシア北部ではウラル語族に関連するハプログループN (Y染色体)もよく見られる。
ヨーロッパのY染色体ハプログループの分布[7]
西ヨーロッパ 南ヨーロッパ 北ヨーロッパ 東ヨーロッパ
R1b 50.5% 41.5% 53.0% 9.0%
R1a 9.5% 6.0% 9.5% 43.5%
主なスラヴ民族
東スラヴ人
ウクライナ人
ベラルーシ人
ロシア人
西スラヴ人
スロバキア人
チェコ人
シレジア人
ポーランド人
カシューブ人
ソルブ人
南スラヴ人
南西スラヴ人
スロベニア人
クロアチア人
セルビア人
モンテネグロ人
ボシュニャク
ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られ、特に西スラヴと東スラヴは時により北スラヴと分類されることがある。
ほとんどのスラブ人の遺伝子型は、バルト-スラブ民族に典型的なY染色体ハプログループであるハプログループR1a(R-M420)によって表される。スラヴ人はこのほかハプログループR1b(R-M343, P25)も西スラヴを中心に多く含んでいる。
中世初期の民族大移動における考古文化のプラハ・ペンコフ・コロチン文化複合は、当時のスラヴ語圏諸部族のうちウクライナにおける政治集団がポリーシャからヨーロッパ全域に拡張し各地で影響を及ぼした痕跡と考えられる。それ以前は西スラヴ語群の元となった系統の諸部族と東スラヴ語群の元となった系統の諸部族は、政治的にも文化的にも断絶が続いていた時期が長いことが判明している。
9世紀に入ると、農耕に適さず人口が希薄なパンノニア盆地の広大な草原に遊牧民のマジャール人が侵入、西スラヴ語群の諸部族が北と南に分断され、それぞれ北では西スラヴ語群、南では南スラヴ語群の諸民族が中世を通じ形成されていった。
かつてはローマ帝国やオスマン帝国に服属しており、その時にスラヴ人が奴隷として駆り出されていたため英語のSlaveが奴隷という意味で使われている。
スラヴ全体に関する様々な学問をスラヴ学という。その語源となったスラヴ語本来の「スラヴ・スロボ」の意味は、『言語』、『言葉』を意味するもの[注釈 2]である[要出典]。近隣の(非スラブ人)の人々は、スラブ人によって"nemets"と呼ばれ、"ミュート"、"話すことができない"という意味である。この意見は、マックス・ファスマーなどの多くの言語学者によって共有されている。
政治・文化
ボートでスラブ人を燃やす異教の儀式。
多くのスラブの戦士がしばしばドイツ人とギリシャ人に雇われたことが知られている。いくつかのスラブ戦争は、アラブ商人の傭兵としての役割を果たした。
スラヴ語の共通性を基盤とするスラヴ全体の共通性を強調する態度は汎スラヴ主義と呼ばれ、国民楽派、第一次世界大戦と民族国家、旧東欧の概念などの重要な主体性ともなったが、文化・宗教面ではスラヴ各民族ごとに異なる主体性を持っており、過去何度も繰り返されたポーランド・ロシア戦争のほか、近年では1990年代のユーゴスラビア紛争や2010年代のウクライナ紛争などのように血を流し合って対立する矛盾した面を持っている。
遺伝子型によって、スラブ人はかつて単一の言語コミュニティを形成したバルト人とフィノ-ウゴル人に近い[1]。
移住先では元々の在来の住民と混交する形で言語的にも文化的にも、次第に現地住民を同化しつつ、在来の住民と相互に影響を与え合う形で発展していった。特にトルコの支配を受けた南スラヴ人については、スラヴ人の移住以前からのバルカン半島の土着的な要素に加えて、オリエンタル地域に由来する文化も持ち合わせている。「ブルガリア」の名前は中世のテュルク系遊牧民であったブルガール人に由来しており、ブルガール人は彼らが支配するドナウ・ブルガール・ハン国で多数派であったスラヴ人と同化してブルガリア人となった。
一方、西ヨーロッパにおいても少数ながらスラヴ民族が現在も居住している。特にドイツ東部においては、古来よりポーランドとの国境付近にはドイツ人とポーランド人との混血集団であるシレジア人を始め、エルベ川東部にもスラヴ系集団が居住し、現代に至るまでドイツ人との間で複雑な相克の歴史を持つ。現在もドイツ東部にはソルブ人が居住している。また中世以来の古い家系でありながらスラブ系やスラブ系由来の姓を持っているドイツ人は多数いる。近代以降はカナダに大量のスラヴ人が移住している。彼らは英語化し、もとの母語であるスラヴ語を失っているものの、カナダ最大の民族はアングロサクソンではなくウクライナ人やポーランド人を基幹とするスラヴ人であるとされる。また、シカゴを含むアメリカのイリノイ州の住民は圧倒的にスラヴ系が多い。
なお、スラヴ人の中で最大の民族集団であるロシアの語源については、いくつか説はあるが、現代のウクライナの首都キエフを中心としたキエフ大公国の正式国号「ルーシ」からとられたとも言われている。この「ルーシ」をギリシャ語読みすると「ロシア」となる。本来、地理的にキーフルーシがルーシ(ロシア)の名を引き継ぐべきところであるが、歴史的にモンゴル支配以降、急速に台頭してきた新興国家モスクワ公国(キーフルーシの一構成国でのちにロシア帝国となる)に「ロシア」の主導権を握られ、先を越された感がある。なお、キーフルーシはその後ロシア帝国の一構成集団として取り込まれていった後、ウクライナとして現代ロシアとは別の国家として存続している。
そのため、ウクライナ人の中には、これらの歴史的経緯からウクライナ人とロシア人は同じスラヴ民族であり、近隣同士の間柄としてともに歩んできたものの、ロシア人とウクライナ人とは一線を画している、とする論調が存在し、それが両民族の間にさまざまな軋轢をもたらしていることも、また事実である。なお、ウクライナ人自身も長い歴史の中でゴート人、ノルマン人、スキタイ人そして東スラヴ人との混血によって形成された民族集団である。
ロシアについては、歴史的に民族の行き交う十字路に位置しており、古代にはスキタイ人やサルマティア人、フン人そしてハザール人を始めとする遊牧民族、中世にはモンゴル人やタタール人等による支配を経験している。その後、ロシアが領土を中央アジアからシベリア、極東方面へ大きく拡大し周辺の諸民族を征服する過程で、これらの民族と言語的、文化的に混交、同化していった経緯から、ロシア人はコーカソイドを基調としながらも、東へ向かうにつれてモンゴロイド人種の特徴を含む人々も見られ、人種的に相当なばらつきがあるといわれている。
国旗
スラヴ人が多数派を占める国々の国旗には、赤、青、そして白色からなる配色による構成が見られる。この配色は汎スラヴ色と呼ばれ、自由と革命の理想を象徴したものである。
汎スラヴ色を国旗の意匠とする国々は、ロシア、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、セルビアなどであり、南スラヴ族のモンテネグロ人を主要民族とするモンテネグロも2004年7月まで、汎スラヴ色を基調とする国旗を使用していた。また、同じ南スラヴ族のブルガリア国旗についても、青色の配色が農業を表す緑色に置き換えられているが、汎スラヴ色に分類される。
ポーランドとウクライナは他国とは異なり、ポーランドの国旗はかつてポーランド・リトアニア共和国として大国だった時代にコモンウェルスの軍旗として使用されていた紅白旗を一貫して用いている。正式には国章の白鷲が付く。 ウクライナの国旗は空とウクライナの大地を表したものとなっている
遺伝子
スラヴ人は、ハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。ロシア人(ベルゴロド州)に59.4%[4]、ポーランド人に55.9%[5]などである。いっぽうでバルカン半島では欧州最古層のハプログループI (Y染色体)が高い頻度で見られる(ボスニア人に42.0%[6]など)。また全域にわたってハプログループR1b (Y染色体)が見られる他、ロシア北部ではウラル語族に関連するハプログループN (Y染色体)もよく見られる。
ほとんどのスラブ人の遺伝子型は、バルト-スラブ民族に典型的なY染色体ハプログループであるハプログループR1a(R-M420)によって表される。
スラヴ人はこのほかハプログループR1b(R-M343, P25)も西スラヴを中心に多く含んでいる。
中世初期の民族大移動における考古文化のプラハ・ペンコフ・コロチン文化複合は、当時のスラヴ語圏諸部族のうちウクライナにおける政治集団がポリーシャからヨーロッパ全域に拡張し各地で影響を及ぼした痕跡と考えられる。
それ以前は西スラヴ語群の元となった系統の諸部族と東スラヴ語群の元となった系統の諸部族は、政治的にも文化的にも断絶が続いていた時期が長いことが判明している。
9世紀に入ると、農耕に適さず人口が希薄なパンノニア盆地の広大な草原に遊牧民のマジャール人が侵入、西スラヴ語群の諸部族が北と南に分断され、それぞれ北では西スラヴ語群、南では南スラヴ語群の諸民族が中世を通じ形成されていった。
分布
ロシアとフランスの人類学者ジョゼフ・ドゥニケールは、スラブ人を北方人種(ゲルマン人種といくつかのフィン・ウゴル人種と一緒に)に帰した。
スラブ人の最初の祖先の家はバルト海の北にあり、そこからスラブ人は現在のポリーシャの領土に移住したと考えられている[1]。
その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、6、7世紀頃まで言語としてある程度の一体性を持っていた[2][3]ものが、次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といった緩やかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史を持つ。
遺伝子型によって、スラブ人はかつて単一の言語コミュニティを形成したバルト人とフィノ-ウゴル人に近い[1]。
移住先では元々の在来の住民と混交する形で言語的にも文化的にも、次第に現地住民を同化しつつ、在来の住民と相互に影響を与え合う形で発展していった。特にトルコの支配を受けた南スラヴ人については、スラヴ人の移住以前からのバルカン半島の土着的な要素に加えて、オリエンタル地域に由来する文化も持ち合わせている。「ブルガリア」の名前は中世のテュルク系遊牧民であったブルガール人に由来しており、ブルガール人は彼らが支配するドナウ・ブルガール・ハン国で多数派であったスラヴ人と同化してブルガリア人となった。
一方、西ヨーロッパにおいても少数ながらスラヴ民族が現在も居住している。特にドイツ東部においては、古来よりポーランドとの国境付近にはドイツ人とポーランド人との混血集団であるシレジア人を始め、エルベ川東部にもスラヴ系集団が居住し、現代に至るまでドイツ人との間で複雑な相克の歴史を持つ。現在もドイツ東部にはソルブ人が居住している。
また中世以来の古い家系でありながらスラブ系やスラブ系由来の姓を持っているドイツ人は多数いる。近代以降はカナダに大量のスラヴ人が移住している。彼らは英語化し、もとの母語であるスラヴ語を失っているものの、カナダ最大の民族はアングロサクソンではなくウクライナ人やポーランド人を基幹とするスラヴ人であるとされる。また、シカゴを含むアメリカのイリノイ州の住民は圧倒的にスラヴ系が多い。
なお、スラヴ人の中で最大の民族集団であるロシアの語源については、いくつか説はあるが、現代のウクライナの首都キエフを中心としたキエフ大公国の正式国号「ルーシ」からとられたとも言われている。この「ルーシ」をギリシャ語読みすると「ロシア」となる。本来、地理的にキーフルーシがルーシ(ロシア)の名を引き継ぐべきところであるが、歴史的にモンゴル支配以降、急速に台頭してきた新興国家モスクワ公国(キーフルーシの一構成国でのちにロシア帝国となる)に「ロシア」の主導権を握られ、先を越された感がある。なお、キーフルーシはその後ロシア帝国の一構成集団として取り込まれていった後、ウクライナとして現代ロシアとは別の国家として存続している。
そのため、ウクライナ人の中には、これらの歴史的経緯からウクライナ人とロシア人は同じスラヴ民族であり、近隣同士の間柄としてともに歩んできたものの、ロシア人とウクライナ人とは一線を画している、とする論調が存在し、それが両民族の間にさまざまな軋轢をもたらしていることも、また事実である。なお、ウクライナ人自身も長い歴史の中でゴート人、ノルマン人、スキタイ人そして東スラヴ人との混血によって形成された民族集団である。
ロシアについては、歴史的に民族の行き交う十字路に位置しており、古代にはスキタイ人やサルマティア人、フン人そしてハザール人を始めとする遊牧民族、中世にはモンゴル人やタタール人等による支配を経験している。その後、ロシアが領土を中央アジアからシベリア、極東方面へ大きく拡大し周辺の諸民族を征服する過程で、これらの民族と言語的、文化的に混交、同化していった経緯から、ロシア人はコーカソイドを基調としながらも、東へ向かうにつれてモンゴロイド人種の特徴を含む人々も見られ、人種的に相当なばらつきがあるといわれている。
国旗
スラヴ人が多数派を占める国々の国旗には、赤、青、そして白色からなる配色による構成が見られる。この配色は汎スラヴ色と呼ばれ、自由と革命の理想を象徴したものである。
汎スラヴ色を国旗の意匠とする国々は、ロシア、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、セルビアなどであり、南スラヴ族のモンテネグロ人を主要民族とするモンテネグロも2004年7月まで、汎スラヴ色を基調とする国旗を使用していた。また、同じ南スラヴ族のブルガリア国旗についても、青色の配色が農業を表す緑色に置き換えられているが、汎スラヴ色に分類される。
ポーランドとウクライナは他国とは異なり、ポーランドの国旗はかつてポーランド・リトアニア共和国として大国だった時代にコモンウェルスの軍旗として使用されていた紅白旗を一貫して用いている。正式には国章の白鷲が付く。 ウクライナの国旗は空とウクライナの大地を表したものとなっている
スラブ諸語は、言語系統上インド・ヨーロッパ語族に属するスラブ語派を構成し、かつて存在したと推定されるスラブ祖語(共通スラブ語)から分化と進化を遂げて今日に至ったと考えられている。スラブ民族の現住地とその起源をめぐる問題は、インド・ヨーロッパ語族の言語・文化・習俗などをめぐる諸問題の中核をなすほどむずかしく、学問的には未解決の側面を残すが、おおむねカルパティア山脈の北方、現在のポーランド、ベラルーシ、ウクライナ北西部にまたがる地域が原スラブ人の故地とされ、そこから周辺地域に拡散する過程で大きくは東スラブ・西スラブ・南スラブの3群に分化しつつ、隣接諸民族との接触や交渉を繰り返すなかで、多様な民族国家を形成してきた。
東スラブ・西スラブ・南スラブの3群を通じて、民族国家形成における最初の大きな画期点をなす時代は9世紀である。すなわち、東のドニエプル川流域ではバルト海と黒海を結ぶ交易の発展を基盤にしてキエフ・ロシアが誕生し、西の現在のチェコを中心とする地域ではフランク王国の東方進出に対抗して大モラビア国が建設され、南のバルカン半島ではアジア系遊牧民のブルガール人が言語的・文化的にスラブ化するなかでブルガリアが形成された。ギリシア人宣教師キュリロス・メトディオス兄弟がモラビアのスラブ人に対しスラブ語の典礼を布教したのも、同じ9世紀である。モラビアはのちにラテン式典礼の導入によってローマ教会の影響を受けるようになるが、864年にブルガリア国王ボリス1世はギリシア正教に改宗し、10世紀末にはキエフ・ロシアのウラジーミル公が正教を国教とした。東および南スラブにおける正教会の影響は今日に及んでいる。スラブ系とされる諸民族は言語的には近親関係にあるものの、宗教的・文化的には不均一であり、むしろ正教のロシア対カトリックのポーランドというように対立面が顕著である。
14世紀には南スラブのセルビア王国が最盛期を迎え、15世紀に入ると西スラブではヤギェウォ朝のポーランドが繁栄をみた。東スラブの動きとしては、キエフ・ロシアの衰退後にモスクワ・ロシアが13世紀から15世紀にかけてのモンゴルの支配を脱し、16世紀なかばにはボルガ川中流域のカザン・ハン国を併合した。これ以後ロシアは東方の広大な領域を支配下におき、18世紀初頭にバルト海沿岸の要地ペテルブルグに遷都してロシア帝国を国号とするようになるが、この間に西スラブの諸国は西隣のドイツ人、北隣のスウェーデン人との抗争によって弱体化し、南スラブの諸国はオスマン・トルコの支配下に入った。18世紀後半には3次にわたるポーランド分割などによってロシア帝国は西方にも領土を拡大した。それらの結果、19世紀のなかばにバルト海からアドリア海と黒海に至る東欧地域のスラブ民族でロシア、プロシア、オーストリア・ハンガリー、トルコの支配を受けずに国家の独立を保っていたのは、モンテネグロなどわずかな例外だけであった。
ドイツ人やトルコ人の支配を受けた地域ではスラブ民族意識の高揚がみられ、それを背景として、18世紀末から19世紀前半にかけての時代にスラブ文献学が生まれた。その創始者の一人でチェコの学者ヨセフ・ドブロフスキーJosef Dobrovsky(1753―1829)が1792年に著した『ボヘミアの言語と文学の歴史』はスラブ文献学の出発点をなした業績として知られている。スラブ文献学を基礎にして20世紀、とくに第二次世界大戦後、スラブ研究という学問分野が発展した。
スラブ民族意識の高揚は、ロシアを盟主とする政治理念としてのパン・スラブ主義(汎スラブ主義)と結び付いた。1877~1878年のロシア・トルコ戦争は、ロシア側からはトルコに隷属するスラブ同胞の解放戦争であり、パン・スラブ主義の理念を体現する戦争であったが、バルカン半島をめぐる諸列強の勢力抗争としてのロシア・トルコ戦争は、新たな国際対立を生み、それが第一次世界大戦の誘因となった。
第一次および第二次世界大戦では、スラブ民族の居住するロシアから東欧にかけての広い地域を戦場として激戦が繰り広げられ、両大戦の結果はこの地域に大変動をもたらした。第一次世界大戦の結果、ポーランドは独立し、西スラブのチェコとスロバキア、南スラブのセルビア、クロアチア、スロベニアは統合によってスラブ人国家を新たに形成した。東スラブのロシア、ウクライナ、ベラルーシは、旧ロシア帝国の領土をほぼ継承する社会主義国家としてのソ連邦の根幹的な構成共和国を形成した。第二次世界大戦後は、西スラブ、南スラブを含むスラブ民族の諸国家がソ連邦を事実上の盟主とする社会主義圏を形成する結果となった。
さらに1991年のソ連邦崩壊を頂点とする社会主義圏諸国の体制変動によって、旧ソ連邦と東欧諸国の間にあった社会主義的国際関係も崩壊し、ヨーロッパ連合(EU)の東方拡大とも相まって、スラブ民族の居住地域としての旧ソ連・東欧地域には大きな亀裂が入るようになった。また、ソ連邦だけでなく、チェコスロバキア、ユーゴスラビアという連邦国家も崩壊し(チェコスロバキアは1993年、チェコとスロバキアに分離し、ユーゴスラビアは1991~1992年にスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア(現、北マケドニア共和国)が独立、新ユーゴスラビアを構成していたセルビアとモンテネグロは2003年に連合国家セルビア・モンテネグロを樹立した後2006年にそれぞれ独立国家となった)、歴史上かつて例をみないほど多数の独立国家が並び立っているのがこの地域の現在の特徴である。
スラブ諸語は、言語系統上インド・ヨーロッパ語族に属するスラブ語派を構成し、かつて存在したと推定されるスラブ祖語(共通スラブ語)から分化と進化を遂げて今日に至ったと考えられている。スラブ民族の現住地とその起源をめぐる問題は、インド・ヨーロッパ語族の言語・文化・習俗などをめぐる諸問題の中核をなすほどむずかしく、学問的には未解決の側面を残すが、おおむねカルパティア山脈の北方、現在のポーランド、ベラルーシ、ウクライナ北西部にまたがる地域が原スラブ人の故地とされ、そこから周辺地域に拡散する過程で大きくは東スラブ・西スラブ・南スラブの3群に分化しつつ、隣接諸民族との接触や交渉を繰り返すなかで、多様な民族国家を形成してきた。
東スラブ・西スラブ・南スラブの3群を通じて、民族国家形成における最初の大きな画期点をなす時代は9世紀である。すなわち、東のドニエプル川流域ではバルト海と黒海を結ぶ交易の発展を基盤にしてキエフ・ロシアが誕生し、西の現在のチェコを中心とする地域ではフランク王国の東方進出に対抗して大モラビア国が建設され、南のバルカン半島ではアジア系遊牧民のブルガール人が言語的・文化的にスラブ化するなかでブルガリアが形成された。ギリシア人宣教師キュリロス・メトディオス兄弟がモラビアのスラブ人に対しスラブ語の典礼を布教したのも、同じ9世紀である。モラビアはのちにラテン式典礼の導入によってローマ教会の影響を受けるようになるが、864年にブルガリア国王ボリス1世はギリシア正教に改宗し、10世紀末にはキエフ・ロシアのウラジーミル公が正教を国教とした。東および南スラブにおける正教会の影響は今日に及んでいる。スラブ系とされる諸民族は言語的には近親関係にあるものの、宗教的・文化的には不均一であり、むしろ正教のロシア対カトリックのポーランドというように対立面が顕著である。
14世紀には南スラブのセルビア王国が最盛期を迎え、15世紀に入ると西スラブではヤギェウォ朝のポーランドが繁栄をみた。東スラブの動きとしては、キエフ・ロシアの衰退後にモスクワ・ロシアが13世紀から15世紀にかけてのモンゴルの支配を脱し、16世紀なかばにはボルガ川中流域のカザン・ハン国を併合した。これ以後ロシアは東方の広大な領域を支配下におき、18世紀初頭にバルト海沿岸の要地ペテルブルグに遷都してロシア帝国を国号とするようになるが、この間に西スラブの諸国は西隣のドイツ人、北隣のスウェーデン人との抗争によって弱体化し、南スラブの諸国はオスマン・トルコの支配下に入った。18世紀後半には3次にわたるポーランド分割などによってロシア帝国は西方にも領土を拡大した。それらの結果、19世紀のなかばにバルト海からアドリア海と黒海に至る東欧地域のスラブ民族でロシア、プロシア、オーストリア・ハンガリー、トルコの支配を受けずに国家の独立を保っていたのは、モンテネグロなどわずかな例外だけであった。
ドイツ人やトルコ人の支配を受けた地域ではスラブ民族意識の高揚がみられ、それを背景として、18世紀末から19世紀前半にかけての時代にスラブ文献学が生まれた。その創始者の一人でチェコの学者ヨセフ・ドブロフスキーJosef Dobrovsky(1753―1829)が1792年に著した『ボヘミアの言語と文学の歴史』はスラブ文献学の出発点をなした業績として知られている。スラブ文献学を基礎にして20世紀、とくに第二次世界大戦後、スラブ研究という学問分野が発展した。
スラブ民族意識の高揚は、ロシアを盟主とする政治理念としてのパン・スラブ主義(汎スラブ主義)と結び付いた。1877~1878年のロシア・トルコ戦争は、ロシア側からはトルコに隷属するスラブ同胞の解放戦争であり、パン・スラブ主義の理念を体現する戦争であったが、バルカン半島をめぐる諸列強の勢力抗争としてのロシア・トルコ戦争は、新たな国際対立を生み、それが第一次世界大戦の誘因となった。
第一次および第二次世界大戦では、スラブ民族の居住するロシアから東欧にかけての広い地域を戦場として激戦が繰り広げられ、両大戦の結果はこの地域に大変動をもたらした。第一次世界大戦の結果、ポーランドは独立し、西スラブのチェコとスロバキア、南スラブのセルビア、クロアチア、スロベニアは統合によってスラブ人国家を新たに形成した。東スラブのロシア、ウクライナ、ベラルーシは、旧ロシア帝国の領土をほぼ継承する社会主義国家としてのソ連邦の根幹的な構成共和国を形成した。第二次世界大戦後は、西スラブ、南スラブを含むスラブ民族の諸国家がソ連邦を事実上の盟主とする社会主義圏を形成する結果となった。
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さらに1991年のソ連邦崩壊を頂点とする社会主義圏諸国の体制変動によって、旧ソ連邦と東欧諸国の間にあった社会主義的国際関係も崩壊し、ヨーロッパ連合(EU)の東方拡大とも相まって、スラブ民族の居住地域としての旧ソ連・東欧地域には大きな亀裂が入るようになった。また、ソ連邦だけでなく、チェコスロバキア、ユーゴスラビアという連邦国家も崩壊し(チェコスロバキアは1993年、チェコとスロバキアに分離し、ユーゴスラビアは1991~1992年にスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア(現、北マケドニア共和国)が独立、新ユーゴスラビアを構成していたセルビアとモンテネグロは2003年に連合国家セルビア・モンテネグロを樹立した後2006年にそれぞれ独立国家となった)、歴史上かつて例をみないほど多数の独立国家が並び立っているのがこの地域の現在の特徴である。
スラブ系→大きく言えばスラブ系言語を話す民族。
(文化的特徴)
スラブ系民族が支配する国はロシア、ポーランド、チェコ、スロバキア、ブルガリア、ウクライナ、ベラルーシ
彼らの話す言葉(ロシア語、ポーランド語など)をスラブ語派(通称、スラブ系言語)と呼びます。
ただしこのスラブ系言語はすごく似ているため、会議などでは通訳が一応いますが何もしなくてもコミュニケーションがとれます。
(外見的特徴)
スラブ系民族の多くは白色人種であり
歴史的経緯から混血が進んでいるため人くくりには言えませんが髪型は薄い茶色(亜麻色)~黒。
ゲルマン系民族と比べて顔が丸く彫が浅い。高身長ではないが骨格に厚みがある。
スラヴ人
印欧語に属する、6世紀以降、東ヨーロッパに広がる民族。次第に南スラヴ・西スラヴ・東スラヴに分かれる。現在もロシアをはじめとして、スラヴ人の民族意識は強く残っている。
スラヴ人、スラヴ民族 は Slavs なので、スラブとしないこと。現在、東ヨーロッパに広く分布しているスラヴ語系の言語を話す人々。スラヴ語はインド=ヨーロッパ語族の一つである。原住地はよく判らないが、カルパチア山脈の北のヴィスワ川からドニェプル川にかけての一帯で、狩猟・農耕生活を行っていたらしい。
4世紀からのゲルマン民族の大移動と東側の遊牧民族の動きと密接に関係しながら、移動・拡散を続け、6世紀以降にバルカン半島やロシアの草原に広がり、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を脅かす存在となった。ビザンツ側の記録では、579年にスラヴ人の一部がドナウ川を越えてトラキアに進出、580年にはマケドニアを占拠している。さらに現在のオーストリア北部やボヘミアに定住している。彼らの東ヨーロッパへの拡散は主要河川流域に沿って行われ、その結果、次のような大きく三つの系統に分かれた。
西スラヴ人 北はバルト海沿岸、南はドナウ川中流まで、東はヴィスワ川流域から西はエルベ川流域まで。
南スラヴ人 バルカン半島
東スラヴ人 ドニェプル川上・中流を中心としたロシア平原西部
居住地が異なることによってそれぞれ方言群にわかれながら、その後も移動を繰り返し、相互に混合し、次第に民族としての意識を形成していった。
7世紀にはブルガリア人(本来はトルコ系で非スラヴ人だがスラヴ人に同化した)のブルガリア王国やチェック人のモラヴィア王国などがビザンツ領内に国家を形成し、9世紀にはロシア草原に最初のロシア人(ノルマン系の征服者がスラヴ系民族に同化した)国家ノヴゴロド国が出現した。
10世紀にはポーランド王国が建国、東ヨーロッパの強国となっていく。ビザンツ帝国領内に建国したスラヴ系諸民族は、ビザンツと抗争しながらその影響を強く受け、ギリシア正教を受け入れていく。ロシアもギリシア正教を受容し、ビザンツ滅亡後はその保護者となる。ビザンツの影響の薄かった地域のスラヴ民族はフランク王国を通じてローマ=カトリック教会を受容したが、東ヨーロッパはギリシア正教とローマ=カトリック教会が布教を競う場となった。
Episode Slavesの意味
スラヴ人は英語で Slavs という。
また奴隷を意味する英語は Slaves である。
これは955年にドイツのオットー大帝がマジャール人を討った時、その地にいたスラヴ人を捕らえ、多数が奴隷として売られてから、ヨーロッパでは「スラヴ」が「奴隷」と同じ意味に使われるようになったからだ、という。
東スラヴ人
ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ(白ロシア)人。
9世紀にスウェーデン系のノルマン人(彼らはルーシと言われた)が移住してきて東スラヴ人と同化してノヴゴロド国、ついでキエフ公国を作った。これがロシアの起源となった。ロシア人など東スラヴ人の多くは、ギリシア正教を受容した。ビザンツ帝国滅亡後はロシア教会がギリシア正教の正統を継承したとしている。
南スラヴ人
セルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人・マケドニア人・モンテネグロ人・ブルガール人(本来はトルコ系だが南スラヴ人に同化)。
このうち、ブルガール人=ブルガリア人以外の南スラヴ人は近代に連邦国家であるユーゴスラヴィア(「南スラヴ人の国」の意味)をつくったが、現在は分裂して個別の国家を作っている。
南スラブ人の中のセルビア人はギリシア正教の信者となったが、オスマン帝国の支配がバルカン半島に及んだことによって、イスラーム教徒(ムスリム)となった人々も多い。
また、クロアティア・スロヴェニアはフランク王国に接していたので、ローマ=カトリック教会を受け入れ、カトリック信者が多い。
西スラヴ人
ポーランド人・チェック(チェコ)人・スロヴァキア・ソルブ人(ドイツ東部の少数民族)・カシューブ人(ポーランドのグダンスク西方に住む少数民族)。西スラヴ人の居住地には、12世紀ごろから西方のドイツ人による東方植民が行われ、ポーランドやチェコにはドイツの領土的野心の対象となっていく。
西スラヴ人は西ヨーロッパのローマ=カトリック教会圏と接していたので、その影響を受け、カトリック信者となる人が多かった。