どんな僅かな時間も良いことに使える

2023年03月06日 11時09分00秒 | その気になる言葉

▼<必ず勝利する>という強い気持ち。

勝つために重ねる「準備と努力」が信条。

▼「最大限の準備と努力をやり切った上で、勝てば確信をつかめる。

負けても課題が見つかる。

一方、準備と努力に手を抜いたなら、勝てば慢心を起こし、負ければ後悔を残す。

▼厳しい戦いの時こそ、自身が試される。

逆境であればあるほど、人生の勝負と決めて、挑戦し抜いていくことだ。

▼大事なのは行動だ。何もしなければ、何も変わらない。

行動を起こしていくところから、すべてが始まる。智慧も生まれる。

▼一つの大きな目標を掲げつつ、その実現のための具体的にイメージできるほど、実現の可能性が上がる。

▼どんな僅かな時間も良いことに使える―哲人・ヒルティ

カール・ヒルティ(Carl Hilty、1833年2月28日 - 1909年10月12日)は、スイスの下院議員を務め、法学者、哲学者、著名な文筆家としても知られる。

 

 


女を書けない文豪たち イタリア人が偏愛する日本近現代文学

2023年03月06日 10時36分06秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
古典超訳の次に挑むは、日本近現代文学史上に燦然と輝く文豪とダメ主人公!

『舞姫』『こころ』『真珠夫人』etc.
ああも女心をわからないのは、なぜ??
古典文学ではあんなに巧みだったのに(嘆)
日本文学を偏愛し、恋愛下手も自認する翻訳者が文学史の誇る「最もくどくてどうしようもない男」たちから謎に迫る。

近現代文学はロマンチックラブとの格闘史だ!
<愛>の在り方が変わった近代。
名作を誰もが持つロマンスの黒歴史から読み直すと、偉い「文豪」でなく、恋愛下手で頭にもくるけど可愛らしい「男」たちの素顔が見えてくる。
古典文学の超訳で知られる著者だが、最も読み込んできたのは近現代文学。
文学史の誇る「最もくどくてどうしようもない男」たちを、誰もが持つロマンスの黒歴史から読み直し、日本人の恋愛史まで浮かび上がらせる。
未読でも既読でも楽しめる、ロマンスで読み解く日本近現代文学。

【目次】
まえがき
第一部 恋に恋してるだけ 泣き止めばケロッとするオトコたち
元カノって、忘れなきゃダメですか――『舞姫』
ママの呪縛――『不如帰』
妄想こそはオジサンの生きる道――『蒲団』

第二部 結局のところ、俺様が主人公 意識高い系の憂鬱に悩むオトコたち
大人のこころの謎解き――『こころ』
妖婦は男性によって創られた――『痴人の愛』
男性重視はどうにも隠せない――『ヴィヨンの妻』
女を・棄てた・遠藤周作――『わたしが・棄てた・遠藤周作』

第三部 とことんウザい いつまでも諦めないオトコたち
ロマンチック・ラブという「病」――尾崎紅葉『金色夜叉』
「新しい女」まで後一歩は本当か?――菊池寛『真珠夫人』
ほんとうに怖い恋愛の話――江戸川乱歩『人でなしの恋』
あとがき
参考文献一覧
 

著者について

●イザベラ・ディオニシオ:1980年、イタリア生まれ。
ヴェネツィア大学で日本語を学び、2005年に来日。お茶の水女子大学大学院修士課程(比較社会文化学日本語日本文学コース)修了後、現在まで日本でイタリア語・英語翻訳者および翻訳プロジェクトマネージャーとして活躍している。
日本の古典文学、近現代文学を偏愛し、研究対象としていたのは森茉莉、幸田文。東洋経済オンラインでの連載「イタリア女子がはまった日本人の知らない古典の読み方」の超訳が話題となり、『平安女子は、みんな必死で恋してた イタリア人がハマった日本の古典』を刊行。
 
 
恋愛偏差値の低い日本の作家たちの文学作品
つまり、日本の男性たちは一様に女心が分からないようなのだ。
その要因は、明治になって入ってきた「恋愛」という西洋製の新たな「観念」のゆえんだ、と著者は指摘している。
 
 
まさに筆致が同じで「一刀両断たたき切り」タイプの小気味よいけれども愛情ある評論集です。
「古典とは読まれずにその名だけが流布する」(by斎藤美奈子)という視点の下で選ばれた小説がまさにその通りでした。

徳富蘇峰「不如帰」、田山花袋「蒲団」は作者とタイトルの暗記のみだけだったし、太宰治「ヴィヨンの妻」ではなく「人間失格」「津軽」、夏目漱石「こころ」ではなく「坊ちゃん」「三四郎」「吾輩は猫である」だった。
江戸川乱歩は当然ながら子供向けの「少年探偵団」「怪人二十面相」、遠藤周作は「沈黙」「狐狸庵先生」だった。

菊池寛「真珠夫人」は昼ドラでやっていたような記憶のみだし、尾崎紅葉「金色夜叉」は勝手に「前途ある学生の将来を思い、お金持ちの旦那を選んだふりをして身を引く芸者さんの物語」と思い込んでいました。

結局、読んだことがあるのは森鴎外「舞姫」だけでしたがこんな繊細な文章だったことに初めて気づきました。

まさか、斎藤美奈子さんのペンネームではないと思いますが、ぜひ、近現代からもっと足を延ばして村上春樹ぐらいまでのさらなる続編をお願いいたします。
 
 
 
言われてみれば、たしかに『舞姫』のエリスも、『蒲団』の女弟子も、その女性本人の気持ちはどうなのか、どんな考えの持ち主なのか、ほぼどこにも書いてない。
あるのは関わった男の迷走、妄想、社会的地位の保持、そんなものばかり。
『こころ』のお嬢さんの心中は不明。『
痴人の愛』のナオミの思想も不明。
ジェンダーの視点から見れば、明治以降の「名作」は、こんなに偏っている
。女は、ストーリー展開の引き金、記号の域を出ていないのでは。
1980年生まれのイタリア人、イザベラさんの筆になる本書は、日本の奇妙な男性社会を鮮明に描き出す。語り口は「女子会」のノリで、まったく違和感がない
当時の社会背景への目配りも充分あり、おそらく国文学科のプロゼミに最適。ブンガク部に在籍していた小生も、『不如帰』や『金色夜叉』のストーリーを初めて知った。
蘆花先生も紅葉先生も、あの世でイザベラさんに感謝しているにちがいない。読了が辛い本。
 
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女を書けない文豪たち イタ


ウクライナ正教会、ロシア正教会から独立へ

2023年03月06日 10時15分25秒 | その気になる言葉

平成30年9月14日

昨今,ウクライナ正教会独立問題が話題となっていますが,なかなか日本語の良い解説がないので,私なりにこの問題をまとめて紹介したいと思います。

  8月31日から9月4日までコンスタンティノープル(イスタンブール)において,正教会主教会議(シノド)という重要な会議が行われましたが,そこでバルトロメオ一世・コンスタンティノープル正教会総主教は,ウクライナに2人のコンスタンティノープル総主教代理(エクザルフ)を派遣する重要な決定(トモス)を行いました。

これは,ウクライナ正教会の独立に向けた大きな進展であります。

現在,ウクライナにおいて正教会は,大きくいうとモスクワ系とキエフ系に分かれていますが,これを統一して独立した正教会を作りたいという動きは,1991年のウクライナ独立の時からありました。
 
  歴史を遡ってみますと,988年に当時のキエフを支配していたウラジーミル大公がビザンチンから派遣された司祭によって洗礼を受けて以来,キエフ府主教庁(メトロポリス)はコンスタンティノープルの管轄下に置かれるとともに,現在のモスクワを含む東スラブを代表する大主教座でありました。
 
  その後,12世紀にタタールの侵略を受け,東スラブにおける正教会の拠点は,キエフからウラジーミルを経てモスクワに徐々に移っていきましたが,例えば,15世紀(1438年)にフィレンツェにて開催されたカトリックと正教会の合同に関する公会議に出席したのは,モスクワの大主教ではなくキエフの大主教であり,この時点においても東スラブの代表はモスクワではなくキエフにあると考えられていました。
 
  最終的には,17世紀後半(1686年)に,ロシア正教会はウクライナ正教会をモスクワ聖庁の下に置くとの決定をコンスタンティノープル総主教に認めさせたとしていますが,今回の教会法上の争点は,この決定をコンスタンティノープル総主教(注:1453年のコンスタンティノープル陥落によりビザンチン帝国は消滅し,実質的な権限は失われていましたが,その後もコンスタンティープル総主教が各国の正教会の首位を占めるとの認識は正教内において共有されてきました)がどこまで認めたかにあります。

1991年にウクライナが独立した際,ウクライナの正教会の中には,モスクワから独立して独自の正教会を設立するとの動きがありました。モスクワは,そのような独自の正教会を宣言した聖職者を破門にし(キエフ聖庁独立問題),その他の国の正教会にも,この動きを認めないよう要請しました。

モスクワによるウクライナ正教会の管轄権をコンスタンティープル総主教が認めていなかったとすれば,コンスタンティープル正教会が,引き続きウクライナ正教会に関する管轄権を有しているということになり,モスクワが行った破門もそもそも無効ということになります。
 
  これまでロシア正教会は,正教会の中における最大の勢力として,モスクワは第3のローマであるという立場を公にしてきており,例えば,2016年クレタにおいて開催された正教会公会議(ソボール)においても,ウクライナ正教会問題を議論することを不満であるとしこれをボイコットするなど,コンスタンティノープル総主教の権威にチャレンジする行動をとっていました。

これに関し,バルトロメオ1世・コンスタンティープル総主教は,これを好ましく思っておらず,このような両総主教座の確執が今回の総主教代理の派遣決定の一つの要因であると考えられます。
 
  今回派遣される2人の総主教代理(ダニエル大主教(米国),ヒラリオン主教(カナダ))は,ウクライナ正教会独立の地位(アウトケファリア)の付与に向けて派遣される特別代表であり,ウクライナ正教会の統一に向けた議論の状況をコンスタンティノープルに報告したり,ウクライナ正教会からの相談に応じたりするのがその役割です。
 
  総主教代理派遣の決定は,ウクライナ正教会独立の決定(トモス)に大きな道が開かれたことを意味しています。

現在,ウクライナ正教会はモスクワ聖庁,キエフ聖庁及び自治独立系の三教会に分かれていますが,コンスタンティノープル総主教がウクライナ正教会の独立を認めれば,ウクライナにおいて,モスクワ聖庁の下ではなくキエフを中心としたロシアと対等な正教会がウクライナに誕生することを,教会法上コンスタンティノープル総主教が認めることになるのです。

ロシア正教会にとって,ウクライナ正教会を失うことは,正教会最大の勢力であるという立場を失う可能性があり,ロシア正教会がキリストの使徒である聖アンドレアによって設立された使徒教会である(注:ウクライナ正教会は,その起源を10世紀のウラジーミル大公の洗礼ではなく,聖アンドレアのキエフ訪問にさかのぼるとしています)との点を失うことを意味します。
 
  こうしたことから,ロシア正教会はこのような動きに反対の立場を取っています。8月31日には,キリル・ロシア正教会総主教がコンスタンティノープル(イスタンブール)に赴き,そのような反対の立場をバルトロメオ1世・コンスタンティノープル正教会総主教に伝えたことは,ロシア正教会としてウクライナ正教会を失うことに対する危機感がいかに大きいかを表しています。
 
  ロシア及びウクライナにおいて,正教会は政治的にも強い影響力を有しているので,このウクライナ正教会の独立(アウトケファリア)は,教会内部の問題に留まらず,大きな政治的意義を持つ問題なのです。

 

古来の儀式を守るウクライナ正教会

ウクライナ正教会、古来の儀式を守る 

古代から伝わる正教会の聖体礼儀や図像は、ウクライナとロシア双方の歴史とアイデンティティにとって不可欠だ。  ロシア正教会から、ウクライナ正教会が独立する見通しだ。

ロシア正教会は、2億6000万人強の信者を擁するキリスト教東方正教会のなかの最大派閥。

先日、東方正教会幹部によって明らかにされたこの決定は、300年以上前に確立された教会の基盤を揺るがすほど大きな意味を持っている。

 コンスタンチノープル総主教のバルトロメオ1世(正教会高位聖職者の位階制において「平等の中の首位者」とされる)が招集したシノド(主教会議)は、1686年以来モスクワの宗教当局者の管轄下にあったウクライナ正教会に対し、独立する権利を承認した。

 ウクライナ正教会は、26年前のソ連崩壊後に設立されて以来、これまで正式な承認を得られずにいたが、今回のシノドにおいて、ウクライナ正教会キエフ総主教庁の正統性が正式に認められた。

シノドではまた、キエフ総主教庁の創設者でリーダーのフィラレート総主教(94歳)の主教としての地位と権限も認められ、さらにはウクライナ正教会をロシア正教会の管轄下に組み込んだ1686年の決定も無効とされた。

 


黒人少年エメット・ティルの殺人事件

2023年03月06日 09時42分55秒 | 事件・事故

エメット・ルイス・ティル は、白人女性に口笛を吹いたことで殺されたアフリカ系アメリカ人の少年。愛称ボボ。

  • 生年月日:1941年7月25日
  • 死没:1955年8月28日
<歴史に残る殺人事件>
 1955年8月24日、エメット・ルイス・ティル Emmett Louis Tillという名の黒人少年が二人の白人男性によって惨殺されるという事件が起きました。その後、この事件の裁判は全国的に注目を集め、拡がりをみせ始めていた公民権運動に大きな影響を与える歴史的事件へと発展してゆくことになります。
 当時、こうした白人による黒人のリンチ殺人はそれほど珍しいことではありませんでした。そのため、そのほとんどは地方紙の片隅に小さく載せられる程度の扱いしかうけていませんでした。
 ではなぜ、この事件が歴史的大事件として注目を浴びることになったのでしょうか?それにはいくつかの理由がありました。だからこそ、この事件は歴史の流れにおける時代を象徴する存在として選ばれることになりました。そして、エメット・ティルの名は、アメリカ国民が人種差別の問題を学ぶとき、必須の存在となり、未だに語り継がれる存在となったのです。(2004年にはアメリカのFBIがこの事件の再捜査を行ったそうです)
 では、この事件が選ばれることになった理由とはなんだったのでしょうか?

<エメット・ティル少年>
 当時14歳だったエメット・ティル少年の父親は軍人でしたが、婦女暴行の罪で処刑されており、母親と二人シカゴで暮らしていました。しかし、その年の夏、彼は夏休みを母親の親戚のもとで過ごすために友人とアメリカ南部ミシシッピー州のタラハッチーを訪れていました。大都会シカゴで育った彼はその年齢にしては背も高く、都会的なセンスをもった大人びた少年でした。おまけに彼は北部の都市部と南部の田舎町において、黒人の立場がどれほど違うのかを理解できていませんでした。母親からは言動に注意するようにと硬く言われていたにも関わらず、ある日白人が経営する食料雑貨店で、その店の店主の妻に声をかけ誘惑してしまいました。それは、本当に口説こうとしたのではなく、田舎の少年たちに自分の度胸と性体験の豊富さを証明してみせるための子供じみた行為だったようです。しかし、店主の妻はこの行動に激怒して、彼らを店から追い出しました。それでも事が大きくなるとまずいと考えた彼女は夫には話さないつもりでした。ところが、めったに事件など起きない田舎町でのこの出来事は、すぐに街中に知れわたってしまいました。

<殺す側の論理>
 もともとその店は、ほとんどの客が黒人という小さな店で、経営者もまたプア・ホワイトと呼ばれる貧しい階層に属していました。しかし、そんな彼らのような立場の人間ほど差別意識が強いというのもまた、社会の現実です。店主のロイ・ブライアントは、このまま放っておけば自分たちは街中の笑い者になると思い、さっそく義理の兄J・W・マイラムとともにトラックに乗り、エメット・ティルを探し始めました。
 親戚の家でエメットを見つけた二人でしたが、初めは彼を殺そうとまでは思っていなかったと本人たちは主張しています。二人は持参した45口径のコルトをちらつかせながら、彼を徹底的に殴りつけました。ところが、少年は痛めつけられても二人に命乞いをしようとはせず、相変わらず反抗的な態度をとり続けたといいます。そのため、ついに二人は銃でエメット少年を撃ち殺し、その死体に重りを付けて川へ投げ捨てたのでした。
 ただし、「最初は撃つつもりではなかった」というのは、あくまで犯人である二人の証言です。僕も少年の顔写真を見ましたが、それはとても痛めつけるために殴った結果には見えませんでした。おまけに少年の死体からは性器が切り取られていたのです。

<事件が全米に広がった理由>
 事件はすぐに街中に広まり、少年の親戚が警察に通報。3日後に川から無惨な死体が発見されました。この事件は、被害者が少年だったということ、それもシカゴという大都会から来た外部の者だったということからマスコミを通して全米の注目を集めるようになります。
 さらに少年の葬儀の際、彼の母親は息子の無惨な顔をあえて一般に公開し、なおかつ葬儀を4日間に延長することで多くの人々にその非道さを訴えかけました。このむごたらしい写真がもたらした衝撃は、どんな言葉よりも強くアメリカ国民の心をとらえることになりました。
 裁判が始まると、裁判所があるサムナーの町には全国からマスコミが押し寄せ、関係者への取材攻勢が始まりました。少年をあずかっていた親戚の黒人男性モーゼス・ライトは、犯人の二人をしっかりと見ており、度重なる脅迫にも負けず、そのことを証言しました。(しかし、その後彼は町にいられなくなり、行方をくらましてしまいました)
 そうした必死で対応する被害者側に対して、犯人とその家族や町の白人たちのふてぶてしい態度は、マスコミを通じて全国に伝えられ、人種差別意識丸出しの保安官の言動とともに南部の現状を全米に知らせることになりました。多くのアメリカ国民が忘れかけていた人種差別の現状を、この事件は全米中に知らしめることになったのです。

<地元の反応>
 外部からの注目と批判は、逆に地元の反発をまねいたのか、それとも当然の結果だったのか。裁判は12人の陪審員全員によって無罪評決が下され、二人はあっさりと釈放されてしまいます。すると二人は自分たちが法律上二度と裁かれることがないと知った上で、新聞記者に事件の真相を告白します。そして、4000ドルを受け取りました。
 さすがにこうした行為は地元でも批判をあびることとなり、店は黒人たちの不買運動もあって、あっという間に彼らの店は倒産に追い込まれました。
 残念ながら、事件そのものはまったく解決されなかったわけですが、この事件を契機に公民権運動はいよいよ大きなうねりとなり始めました。例えば、当時サムナー周辺には当時全国紙の記者はたった一人しかいなかったのですが、事件を機にどんどん北部からやり手の記者が訪れるようになり、南部での人種差別の現状を取材、発表して行くようになります。こうして、アメリカ中が自国における人種差別の現状を認識することになりました。何かを変えるには、その現状を把握することこそが最大の近道と言われます。その意味では、この事件こそ、その後の公民権運動の盛り上がりを生み出す重要なターニング・ポイントだったといえるのです。

<アメリカ式植民地政策の終焉>
 かつて、ヨーロッパの国々はアフリカやアジアに多くの植民地をもち、そこから吸い上げる利益によって発展を続けました。それに対してアメリカは遅くに独立し、海外へと進出したこともあり、わずかな植民地しか持ちませんでした。その代わりとして、アメリカが保有していたのがアメリカ国内に住む黒人社会という植民地だったわけです。第二次世界大戦後に世界中の植民地が独立していったのと歩調を合わせるように、アメリカの黒人たちも差別という支配から独立するための闘いを始めることになったのは当然歴史の流れだったのでしょう。
 エメット少年の死はその自国内植民地独立闘争のきっかけとして、未だに語り継がれているのです。