藤井五冠が「名人」への挑戦権を獲得

2023年03月09日 23時02分11秒 | 社会・文化・政治・経済
 

日テレNEWS

日テレNEWS
 

利根輪太郎の競輪人間学 徹底すべきだった

2023年03月09日 17時00分15秒 | 未来予測研究会の掲示板

並び予想 5-4-1 6-2 3-7

レース評

河村の自在戦◎。地元の尾崎がマークして埼京ワンツーから。3番手固める藤原も一般戦なら格上位。この3人の関東勢が断然

1番人気5-4(2.5倍)

5-4-1と5-1-4 の3連単で勝負する。

だが、捲りと予想した5-4-1が先行してしまう。

よくあるパターンである。

人気を背負っているのに、その自覚がない競輪選手には競輪ファンたちはしばしば裏切るものだ。

 1-4 3,130円(10番人気)

1-4-5 3,860円(10番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 1 藤原 憲征   14.4    
2 4 尾崎 剛 1車輪 14.7    
3 5 河村 雅章 タイヤ差 14.8   B  
4 3 吉岡 伸太郎 1/2車身 14.4      
5 7 宇根 秀俊 3車身 14.5      
6 2 石橋 慎太郎 1車身 14.7   S  
  7 6 相笠 翔太 9車身 16.1

11レース

並び予想 1-7 4-5-2 3-6

3-4=25の3連単

3-5=147の3連単で勝負する。

9レースに5-4の3連単で負けていたので、5-4=123を抑えた。

だが、3の軸は固いと思っていたので、5-4からの車券は買う必要がなかった。

3-5=147を買っていたので、当然3-4=17も抑えるべきであったのだ。

悔やまれた。

レース評

町田−柏野−筒井で並ぶ中国ライン。番手柏野を軸に3人で決める!初日特選制した嘉永も互角。もつれにもつれれば庄子も

 

1番人気3-5(4.8倍)

結果 

3-4 850円(4番人気)

3-4-1 1万1,200円(29番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 3 嘉永 泰斗   13.7    
2 4 町田 太我 3/4車身 13.9 B  
3 1 庄子 信弘 大差 14.1   S  
  4 7 齋藤 登志信 1車身1/2 14.1      
5 2 筒井 敦史 タイヤ差 14.4      
6 6 菅原 晃 5車身 14.6      
7 5 柏野 智典 5車身 15.4
 
 
 

桜 3月15日に全国に先駆けて東京で開花す

2023年03月09日 11時39分05秒 | 社会・文化・政治・経済

2023年の桜は3月15日に東京から開花スタート。最速記録に並ぶ見込み

配信

 

トラベル Watch,編集部:大竹菜々子


攻撃は最大の防御

2023年03月09日 11時03分25秒 | 社会・文化・政治・経済

「攻撃は最大の防御なり」は、古代中国の軍略家・孫子の兵法が出典ともいわれる。

相手がどのような攻撃をしても、絶対に勝てないと分からせる防御力こそが最大なのである。

勝てないときは守り、勝てそうなら攻める。

守りが基本で、好機が来れば攻めに転じる、ということだ。

ロシアとウクライナ攻撃と防御

ロシアが2022224西隣にあるウクライナを相手戦争めた。

ウクライナのはミサイルでされ、一般市民犠牲になっている。

犠牲にはどももいるが、たくさんのウクライナの人々が、外国避難していまる。どうしてこんなしいことがこっているのか。

2021年7月にプーチン大統領が発表した18ページにわたる論文「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性」には、ロシア人とウクライナ人は1つの民族で、独立国家としてのウクライナの主権を否定し、ウクライナをロシアの歴史的領土とみなす。またウクライナで生じている危機は、西側外国勢力が反ロシアを掲げて危機を演出したと論じている。

プーチン大統領にとって、ウクライナはロシアに回収されなければならない領土として位置づけられていた。

 

 

 


宗教とは何か

2023年03月09日 10時40分35秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
八木誠一  (著)
 
理性と言語による現実把握の限界をどう超えるか。
ニーチェの生の哲学から実存主義、現象学、フロイト、ウィトゲンシュタイン、構造主義、さらには京都学派の哲学までを総覧し、それらを超えて現代人のための宗教に至る道筋を鮮やかに指し示す。

文庫化にあたり、著者による「補論 初版以後の展開」を付す。
-----------------------------------------------------------------
我々は、商品化以前の自然を見失ってはならないように、言語化以前の現実を見失ってはならない。……しかし、いったい言語化以前の現実などというものがあるのか、それはそもそも如何にして現前するのか。本書の全体はこの問いに――肯定的に――答えようとするのである。(本文より、略記)
何を神と呼ぶのか。理性と言語による現実把握の限界を超え、現代人のための宗教に至る道筋を示す。
「補論 初版以後の展開」を増補。
【目次】

文庫版への序
はしがき

第一章 現代思想の観点から
はじめに
第一節 実存主義(実存・存在・超越)
第二節 生の哲学と深層心理学
第三節 構造主義
第四節 現象学
第五節 言語哲学――ウィトゲンシュタインを中心として――
第六節 京都学派
付 論 滝沢克己と八木誠一

第二章 倫理の観点から
第一節 倫理とは何か
第二節 自我
第三節 自我とエゴイズムの諸相
第四節 個人倫理
第五節 対人倫理
第六節 社会倫理

第三章 宗教とは何か
第一節 神秘とその言語化――神について語るということ――
第二節 神秘と神・作用的一について
第三節 「神」を語る言葉について(1)――宗教と科学――
第四節 直接経験(1)
第五節 直接経験(2)
第六節 直接経験(3)

第四章 宗教の言語
第一節 通念的言語世界と直接経験A
第二節 通念的言語世界と直接経験B
第三節 通念的言語世界と直接経験C
第四節 記述言語 表現言語 要求・約束言語
第五節 「神」を語る言葉について(2)
第六節 宗教的自覚の言語化について

第五章 例証――イエスの言葉に即して――
はじめに
第一節 イエスにおける出会いの直接経験
第二節 イエスにおける自己
第三節 イエスにおける自然・神の支配・神
むすび

あとがき

補論 初版以後の展開

文庫版へのあとがき
 

内容(「BOOK」データベースより)

理性と言語による現実把握の限界をどう超えるか。ニーチェの生の哲学から実存主義、現象学、フロイト、ウィトゲンシュタイン、構造主義、さらには京都学派の哲学までを総覧し、それらを超えて現代人のための宗教に至る道筋を鮮やかに指し示す。文庫化にあたり、「補論 初版以後の展開」を増補。

著者について

1932年生まれ。専攻、新約聖書神学、宗教哲学。
東京工業大学教授、ベルン大学(スイス、客員教授)、ハンブルグ大学(客員教授)、横浜桐蔭大学教授を経て、現在東京工業大学名誉教授、文学博士(九州大学)、名誉神学博士(ベルン大学)。
著書に『〈はたらく神〉の神学』『パウロ・親鸞*イエス・禅』など多数。
 
 

宗教の行方 現代のための宗教十二講  


①英語読解のため、聖書(および研究署)は読み込んできたが、肝心の聖書内容には疎い面があった。
 それを具体的に補ってくれであまりがある。

②東洋人である以上、仏教を知るべきと思いつつ、実は知らずに来た。そこで法華経から学習を始めた。

 法華経を選んだ理由を思い出せないが、おそらくそれが適当とそのとき考えたのであろう。羅什の漢訳
 経由の日本語訳、サンスクリット原語対照現代日本語訳、各種解説書、一部研究署を数年かけて読んだ。

③法華経が「諸経の王」と言われることに異存はない。日蓮の解釈(開目抄や歓心本尊抄)にも異議はな
 いが、日蓮の闘争性の強すぎる性格、他宗批判の激しさにはなじまなかった。また往々にして感じられる
 法華経信奉者の「文献研究的観念論」に飽き足らなかった。

 凡夫たる人間は日常生活上の生老病死四苦八苦への「臨床哲学」的現実的対処方法を知りたいと思うが、 
 法華経信奉者の関心外のようであった。かつ法華経は生家の宗派と異なるので冠婚葬祭には生かせなか
 った。

④そのジレンマに長年悩む中で、源信の往生要集を経て、空海の十住心論に出会って読んだ。慈雲も読ん 
 だ。

 これ(十住心論)こそ釈迦の本来の言葉に近いのではないか。法華経がいかに「王」であっても、没後
 数百年後の伝承を言語化したものが唯一絶対とは言い難いと思う。(源信、空海、慈雲も然りではあ
 る。)

⑤素人の私がいくら納得しても、所詮素人のたわごとと片付けられるであろうが、本書(宗教の行方)が
 説く、超越、統合は、私の上の④の過程を肯定するものではあるまいか。そう考えてだいぶ経つが、ど
 うやら間違っていないと思う(思いたい)ようになった。仏教学習について一応の区切りをつけられた
 ようにも思われる。非常に貴重なありがたい本に出合った気がする。

 尤も、本書はキリスト教からも仏教各宗派からも不理解もしくは批判を浴びそうな内容ではあるが、そ
 ういう批判は次元の低い宗教観だと私は思う。例えば宗教が戦争を止められない理由の一つでもあると
 思う。もっとも宗教だけが戦争を止める働きを持つのではないが。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 

 

 

 

 
 
 
 

宗教とは何か (法蔵館文庫) Paperback Bunko – November 10, 2020

 

人間の復興

2023年03月09日 10時07分55秒 | その気になる言葉

▼他人の話に耳を傾けることによって、自分自身をより深く知る。

▼戦いは勢いである。

▼人間力を培うことが不可欠である。

▼かえがえのない命の大切を説き、周囲に希望を届ける「生命の世紀」の建設へ。

▼大正デモクラシーを背景 にした経済学者・福田徳三は「国、社会は、各人に対し居住 権または営生本拠権(営業と生 存の権利)を保証せねばならぬ」として人間復興を提唱した。


▼東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故から7年が経過した。この節目に当たり復興関連の報道等が増え、社会の関心が一見高まっているようにも感じられる。しかし、その視線が被災者一人ひとりの困窮にまで行き届いているか、被害の事実が過去のものとなり風化が加速していないかとの懸念を抱かざるを得ない。

被災者の生活は更に困窮を深めている。生活の困窮が原因で被災地域から人口が流出することとなれば、復興を妨げる事態となる。

当連合会は、被災地における「人間の復興」の実践として、法律相談等の法的支援、実態調査、政策提言等に取り組んできたところであるが、昨今の被害風化に抗い、全国各地の経験と英知を結集して支援を継続していく所存である。

2018年(平成30年)3月11日 日本弁護士連合会 会長 中本 和洋 

▼コロナ渦と人間の復興

新型コロナウイルス禍(コロナ禍)は、自然喪失と人間生存の危機であり、こうした危機に対して社会と政府が適切に対応する準備ができていなかったことも露呈した。そしてそれらの危機が社会の不平等と格差によって増幅されている。

人類がコロナ禍にどう対峙するかは今の世界の重要課題だが、気候変動問題への取り組みが後回しにされることが危惧される。

しかし、新型コロナウイルス感染症と気候変動問題はいずれも人類の生存に関わり、国際社会が協調して取り組むべき極めて重要な問題なのである。

そして長期的視点からパンデミックが起こりにくく、気候変動の危機を回避できるような経済や社会のあり方を模索する必要がある。

 


走らないことを目指す-プロ野球門田 博光元選手

2023年03月09日 09時53分18秒 | 社会・文化・政治・経済

門田 博光(かどた ひろみつ、1948年昭和23年〉2月26日 - 2023年令和5年〉1月24日)は、日本プロ野球選手外野手)、解説者評論家山口県小野田市(現:山陽小野田市)生まれ、奈良県五條市育ち。

通算本塁打数、通算打点数、ともにNPB歴代3位。選手時代の晩年にも目覚ましい活躍をしたことから「中年の星」とも呼ばれていた[3]。また、力強い打撃力から「ポパイ」とも呼ばれていた。

現役時代

1970年は開幕から2番打者、右翼手として起用され53試合に先発出場、俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現す。

1971年にレギュラー定着。主に3番打者として打率.300(リーグ11位)、31本塁打、120打点を記録し打点王を獲得、初のベストナインに選出される。強肩でも知られ、同年は15補殺を果たす。また同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。

プロ入り2年目の1971年から、野村克也監督解任の年である1977年までの7年間で5回の打率3割を記録。1973年には打率.310(リーグ5位)、18本塁打の成績でリーグ優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、第3戦に堀内恒夫から本塁打を打ち、シリーズ通算17打数3安打。 野村監督時代は主に3番を打ち、成績的には中距離打者としての性格が濃かったが、4番打者兼監督の野村からは「俺の前にランナーで出てくれさえすればいい。それがお前の仕事。ホームランなど狙わなくていい」とはっきり言われ、大振りすると怒られたという

野村の監督解任によりその束縛から解放され、長距離打者としての道を歩み始める。4番打者として、それまで使うことを許されなかった重いバット(1000g)を使い始めた(後述)。最初の年(1978年)は夏になるとバテてしまい振り切れなくなり、低調な成績に終わったが(本塁打15本、打率.250)、のちには振り切れるようになった。

1979年2月16日、キャンプ地の大方球場(高知県)で、キャンプ合流11日目、準備運動でジャンプをして着地した際に、右足のアキレス腱を断裂。

疲労の蓄積、この日から履いた新しいスパイク、「固すぎる」と多くの選手や評論家が危惧していたグラウンド等、様々な要因がある中でのことだった。ほぼ1シーズンを棒に振る、同年9月には代打で復帰。アキレス腱断裂は全治6ヶ月で、当時としては通常なら現役復帰自体が困難であったが、その中での復帰であった。

1980年以降、「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」と長打狙いのバッティングに徹し、同年、41本塁打の成績でカムバック賞を受賞。翌1981年には44本塁打で初の本塁打王を獲得。

1981年7月には、月間16本塁打のプロ野球新記録(当時)を記録している。16本目は満塁本塁打だった(7月31日、対西武戦、杉本正から)。また7月はオールスターゲームのある月であり、約1週間の公式戦中断がある中での記録だった。8月22日の西武戦では同年2度目となる満塁本塁打を松沼博久から放つ。

1983年も40本塁打で本塁打王。当時、投手だった愛甲猛ロッテ)から2本の満塁本塁打を放つ(7月14日、9月11日)。

1987年8月26日の西武ライオンズ戦(大阪スタジアム)では工藤公康から左中間二塁打を打ち、史上24人目となる通算2000本安打を達成した[12]

1988年は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王の二冠を獲得し、さらにMVPに選出された[14]。40代での40本塁打、同100打点、同OPS10割は史上初(40代での44本塁打、同125打点、同OPS1.062は歴代最高記録)であり、この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。

40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。その後も42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。

1989年に南海ホークスはダイエーに買収され福岡ダイエーホークスとなり福岡に本拠地移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して、「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強原田賢治白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックスに移籍。この結果、1968年の阪急のドラフト入団拒否から21年後にオリックスへの入団となった。

移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。しかし、9月25日の対福岡ダイエーホークス戦(西宮球場)で31号本塁打を放った後、ブーマーとハイタッチした際に右肩を脱臼し、試合は1-9と大敗、オリックスのリーグ優勝を逃す遠因となった。OPSは2年連続で10割を超え、40代でOPS10割を達成したのは歴代で門田のみとなっている。

だが本人はこのシーズンについて引退後に、「41歳での33本塁打の時も、自分からすれば打ち損ないばかり。カッコ悪いと思って、いつも下を向いてダイヤモンドを一周しとった」と悔しがっている

1990年9月9日の西武戦では鹿取義隆からサヨナラ満塁本塁打(42歳6か月は当時の最年長満塁本塁打だったが、1994年5月4日に43歳6か月で記録した大島康徳に更新された)、翌10日の西武戦でも渡辺智男から2日連続となるサヨナラ本塁打を打った。

オリックスでは、「強いチームというのは、勝つ時も負ける時も淡白でさらっとしている」と感じたという。南海が低迷した一因として、いつでも全力で闘うため、手の抜きどころを知らず、シーズンの前半戦は善戦するも、後半戦は息切れしていたことを挙げている。これを「マラソンの25km地点で息切れするようなもの」と表現している。

1991年、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と古巣への愛着から、オリックスを自由契約となる形で古巣の福岡ダイエーホークスに復帰。2桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せなかった。

1992年夏、「朝起きても目の焦点が合わんで、2m前の字も読まれへん。胸も気持ち悪いし、体がフワフワ浮いとる感じがする。普通の食事もとれん。スポーツドリンクを飲むだけや」「5年前から(肝機能など)全ての数字が悪かった。もう23年もやって、スポーツする人間の老衰やな」と知人の記者に漏らすほど持病の糖尿病が悪化したことで、このシーズン限りで現役を引退した引退試合平和台球場での最終公式戦・対近鉄戦。

3番・指名打者としてスタメン出場し、1回裏、野茂英雄との対戦で、全て速球をフルスイングで空振りし三球三振だった

引退後

引退後は朝日放送テレビ朝日放送ラジオ野球解説者(1993年 - 2005年)、スポーツニッポン1993年 - 1994年)→日刊スポーツ1995年 - 1996年)評論家を務めた。2005年に小脳梗塞のため緊急入院している

2006年には野球殿堂入り。

2009年大阪ホークスドリームを設立し、総監督となる。 2011年6月田中実監督の解任に伴い新監督に就任したが、同年9月には契約満了に伴い退任。

2014年に、日本新薬臨時コーチを務めている

死去

晩年は兵庫県赤穂郡上郡町の会員制の別荘地にある自宅で単身隠居生活を送っていたが、糖尿病などの影響で体調を崩し、兵庫県相生市の病院で2日に1回の人工透析を受けるなど療養生活を続けていた

2023年1月23日、予定されていた通院治療に姿を見せず、医師から相談を受けた警察官が翌24日午前に自宅を訪ねたところ、死亡しているのを発見した。74歳没。