門田 博光(かどた ひろみつ、1948年〈昭和23年〉2月26日 - 2023年〈令和5年〉1月24日)は、日本のプロ野球選手(外野手)、解説者、評論家。山口県小野田市(現:山陽小野田市)生まれ、奈良県五條市育ち。
通算本塁打数、通算打点数、ともにNPB歴代3位。選手時代の晩年にも目覚ましい活躍をしたことから「中年の星」とも呼ばれていた[3]。また、力強い打撃力から「ポパイ」とも呼ばれていた。
現役時代
1970年は開幕から2番打者、右翼手として起用され53試合に先発出場、俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現す。
1971年にレギュラー定着。主に3番打者として打率.300(リーグ11位)、31本塁打、120打点を記録し打点王を獲得、初のベストナインに選出される。強肩でも知られ、同年は15補殺を果たす。また同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。
プロ入り2年目の1971年から、野村克也監督解任の年である1977年までの7年間で5回の打率3割を記録。1973年には打率.310(リーグ5位)、18本塁打の成績でリーグ優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、第3戦に堀内恒夫から本塁打を打ち、シリーズ通算17打数3安打。 野村監督時代は主に3番を打ち、成績的には中距離打者としての性格が濃かったが、4番打者兼監督の野村からは「俺の前にランナーで出てくれさえすればいい。それがお前の仕事。ホームランなど狙わなくていい」とはっきり言われ、大振りすると怒られたという。
野村の監督解任によりその束縛から解放され、長距離打者としての道を歩み始める。4番打者として、それまで使うことを許されなかった重いバット(1000g)を使い始めた(後述)。最初の年(1978年)は夏になるとバテてしまい振り切れなくなり、低調な成績に終わったが(本塁打15本、打率.250)、のちには振り切れるようになった。
1979年2月16日、キャンプ地の大方球場(高知県)で、キャンプ合流11日目、準備運動でジャンプをして着地した際に、右足のアキレス腱を断裂。
疲労の蓄積、この日から履いた新しいスパイク、「固すぎる」と多くの選手や評論家が危惧していたグラウンド等、様々な要因がある中でのことだった。ほぼ1シーズンを棒に振る、同年9月には代打で復帰。アキレス腱断裂は全治6ヶ月で、当時としては通常なら現役復帰自体が困難であったが、その中での復帰であった。
1980年以降、「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」と長打狙いのバッティングに徹し、同年、41本塁打の成績でカムバック賞を受賞。翌1981年には44本塁打で初の本塁打王を獲得。
1981年7月には、月間16本塁打のプロ野球新記録(当時)を記録している。16本目は満塁本塁打だった(7月31日、対西武戦、杉本正から)。また7月はオールスターゲームのある月であり、約1週間の公式戦中断がある中での記録だった。8月22日の西武戦では同年2度目となる満塁本塁打を松沼博久から放つ。
1983年も40本塁打で本塁打王。当時、投手だった愛甲猛(ロッテ)から2本の満塁本塁打を放つ(7月14日、9月11日)。
1987年8月26日の西武ライオンズ戦(大阪スタジアム)では工藤公康から左中間二塁打を打ち、史上24人目となる通算2000本安打を達成した[12]。
1988年は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王の二冠を獲得し、さらにMVPに選出された[14]。40代での40本塁打、同100打点、同OPS10割は史上初(40代での44本塁打、同125打点、同OPS1.062は歴代最高記録)であり、この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。
40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。その後も42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。
1989年に南海ホークスはダイエーに買収され福岡ダイエーホークスとなり福岡に本拠地移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して、「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強・原田賢治・白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックスに移籍。この結果、1968年の阪急のドラフト入団拒否から21年後にオリックスへの入団となった。
移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。しかし、9月25日の対福岡ダイエーホークス戦(西宮球場)で31号本塁打を放った後、ブーマーとハイタッチした際に右肩を脱臼し、試合は1-9と大敗、オリックスのリーグ優勝を逃す遠因となった。OPSは2年連続で10割を超え、40代でOPS10割を達成したのは歴代で門田のみとなっている。
だが本人はこのシーズンについて引退後に、「41歳での33本塁打の時も、自分からすれば打ち損ないばかり。カッコ悪いと思って、いつも下を向いてダイヤモンドを一周しとった」と悔しがっている。
1990年9月9日の西武戦では鹿取義隆からサヨナラ満塁本塁打(42歳6か月は当時の最年長満塁本塁打だったが、1994年5月4日に43歳6か月で記録した大島康徳に更新された)、翌10日の西武戦でも渡辺智男から2日連続となるサヨナラ本塁打を打った。
オリックスでは、「強いチームというのは、勝つ時も負ける時も淡白でさらっとしている」と感じたという。南海が低迷した一因として、いつでも全力で闘うため、手の抜きどころを知らず、シーズンの前半戦は善戦するも、後半戦は息切れしていたことを挙げている。これを「マラソンの25km地点で息切れするようなもの」と表現している。
1991年、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と古巣への愛着から、オリックスを自由契約となる形で古巣の福岡ダイエーホークスに復帰。2桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せなかった。
1992年夏、「朝起きても目の焦点が合わんで、2m前の字も読まれへん。胸も気持ち悪いし、体がフワフワ浮いとる感じがする。普通の食事もとれん。スポーツドリンクを飲むだけや」「5年前から(肝機能など)全ての数字が悪かった。もう23年もやって、スポーツする人間の老衰やな」と知人の記者に漏らすほど持病の糖尿病が悪化したことで、このシーズン限りで現役を引退した。引退試合は平和台球場での最終公式戦・対近鉄戦。
3番・指名打者としてスタメン出場し、1回裏、野茂英雄との対戦で、全て速球をフルスイングで空振りし三球三振だった。
引退後
引退後は朝日放送テレビ・朝日放送ラジオ野球解説者(1993年 - 2005年)、スポーツニッポン(1993年 - 1994年)→日刊スポーツ(1995年 - 1996年)評論家を務めた。2005年に小脳梗塞のため緊急入院している。
2006年には野球殿堂入り。
2009年に大阪ホークスドリームを設立し、総監督となる。 2011年6月に田中実監督の解任に伴い新監督に就任したが、同年9月には契約満了に伴い退任。
2014年に、日本新薬臨時コーチを務めている。
死去
晩年は兵庫県赤穂郡上郡町の会員制の別荘地にある自宅で単身隠居生活を送っていたが、糖尿病などの影響で体調を崩し、兵庫県相生市の病院で2日に1回の人工透析を受けるなど療養生活を続けていた。
2023年1月23日、予定されていた通院治療に姿を見せず、医師から相談を受けた警察官が翌24日午前に自宅を訪ねたところ、死亡しているのを発見した。74歳没。