利根輪太郎の競輪人間学 競輪ファンを余りにも<舐めている>走り

2023年03月20日 21時27分34秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅡ別府競輪 ウィナーズカップ

12レース

3月20日(3日目)

並び予想 1-9 4-2 5(単騎) 7-3 6-8 

レース評

2日目は見せ場のなかった脇本だが、準決は首位で決勝進出へ。高知初日同様に三谷がピッタリ。吉田を使う平原の連勝に特注

1番人気 1-9(3・4倍)

2日連続の失敗は許せん1番の脇本 雄太の立場。

だが、またもや、捲り不発である。

こんなことは、競輪ファンとしては、とても認めることはできない気持ちとなる。

つまり、最終日は責任を取って、不参加すべきと厳しき断言したい!

競輪ファンを余りにも<舐めている>走りであり、断固許されるべき立場ではないと厳しき指摘したいのだ。

期待が半端ではないのだから、不調なら本来なら、不参加とすべきでは?!

それほど、競輪ファンの多くの期待を期待を裏切ったのだ。

結果

4-8 5万7,360円(60番人気)

4-8-1 58万3,810円(438番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 4 嘉永 泰斗   11.6 B 4番手捲る
  2 8 福田 知也 3車身 11.7   落避け伸び
3 1 脇本 雄太 4車身 12.0     落あり恵れ
4 9 三谷 竜生 1車輪 12.0     前は届いて
5 7 吉田 有希 大差 13.4     押え捲られ
6 5 山口 拳矢 大差       前落車乗上
× 7 3 平原 康多 大差       切替え落車
2 荒井 崇博         接触し落車
  6 小松崎 大地         3角で落車

戦い終わって

戦い終わって写真

 コマ切れ戦のレース。後攻めの吉田有希が赤板過ぎに斬って先行態勢も、中団に収まった嘉永泰斗が残り一周のホームから巻き返す。最後の2センターで吉田の番手から出た平原康多、荒井崇博が接触して山口拳矢、小松崎大地の4車が落車。嘉永がそのまま押し切り嬉しい初のビッグ決勝へ。
 嘉永は「ビッグ決勝は今年の目標にしてたんで嬉しい。昨日ホームで詰まって失敗したんで、そこを行こうと。出は良くなかったけど、しっかり踏めたと思います。去年落車や色んな経験をして勉強できたのが良かったと思います」。
 2着には小松崎マークから落車を避けて福田知也が入る。「大地が落ち着いて仕掛けて二人で決まったと思ったけど、バック過ぎでコースを迷ってる時に平原君が戻って来て危ないと思って。運もあるけど、G2の決勝に初めて乗れて嬉しい。二日間野口(裕史)君の番手を回ったのが大きい。おかげで準決は楽に感じたんで」。
 3着の脇本雄太は「けん制もあって仕方なく前へ。ジャンの所で仕掛けようとも思ったけど、吉田君がケツを上げて踏んで行った時に躊躇してしまって。ホームではワンテンポ早めに行ったのが裏目に。出も悪くてこれが現状かなと。今回は腰の治療に専念してたのもあって練習不足。でも、落車の巻き込まれなかっただけでもツキはあると思います」。


諦めを打ち破る「一念の転換」

2023年03月20日 11時17分08秒 | その気になる言葉

▼人々が核兵器の脅威を前に<どうせ変わらない>と諦めてしなう状況を食い止め、行動を如何に促すかである。

▼戦争の悲惨さや核兵器の威力を伝える資料館も重要だ。

▼沖縄には、かつて米軍の核ミサイル「メースB」が存在した。

発射口は中国の首都・北京に向けられていた。

それは<広島型原子爆弾の70倍の破壊力>であった。

現在、跡地の発射台には「世界平和の碑」が建立されている。

戦争の基地を平和の発信地に変えたのだ。

▼一念が変われば、国土も変わる。

諦めを打ち破る「一念の転換」が、国土世間をも大きく変える。

これは一対一の対話においても、国家間の外交においても変わらない鉄則である。


久しぶりの敢闘会

2023年03月20日 08時55分58秒 | 日記・断片

 土曜日は、久しぶりの敢闘会であった。

雨が激しく降る中、本部敢闘長の春川さんの車で会館へ向かう。

傘をさして寺田さんが自宅の傍の医院の前で待っていた。

赤嶺さんは井上さんの車で来ていた。

近況報告の中で、赤嶺さんがテンカンを発症したことを聴く。

脳梗塞から5年、まさかのテンカンで車の運転は医師から止められているそうだ。

井野支部の司会・運営で、それぞれの代表が活動報告と近況報告をした。

大利根、井野、台宿の各支部から代表の各2人が報告。

大腸がんになったことを報告した人や脳梗塞で言語障害となった友人の話もあった。

毎日のメールでの励ましで友人が「勇気をもらった」と感謝しているそうだ。

地元には知人、友人がほとんどいないので活動ができず、神奈川県に住む兄弟や友人などとの交流による活動の報告もあった。

終了後は音楽とナレーションに合わせて約10分の健康体操(太極拳)。

体操の指導者である米田さんは用事があり欠席したので、河田さんが指導者役を務めた。

河田さんは日本語教師として中国に在住したこともあり、太極拳が上手であった。

 

日曜日は、水溜まりが残り、散った青葉が路面にへばりついている。

春3月は風が強く1日2回、散った葉をほうきで集めて捨てなければならない。

椿の花も路面を埋めるように抜け落ちている。

その花をほうきで集めていたら、「ご迷惑をおかけしますね」と前の家の娘さんが庭で詫びる。

我が家の前の家の住人は移転して空き家になったと近所の人が言っていたが、まだ在宅していたのだ。

若くして亡くなったお母さんは、我が家の隣になった畑で収穫した野菜を黙って我が家の玄関に置いていた。

お母さんは寡黙な人だった。その畑の跡地には2軒の家が建っている。

お父さんは最近見かけなかったら、施設に入ったそうだ。

姉は嫁ぎ、妹は独り身である。

昨日、取手市内も桜が開花した。

取手宿本陣へ行ったら、既に桜は散っていたので、あの桜は河津桜であったのかと思う。

 

 


東京大空襲

2023年03月20日 08時33分34秒 | 事件・事故
東京大空襲とは
 
第二次世界大戦大東亜戦争)末期にアメリカにより行われた、東京都区部に対する、M69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下沖縄戦と並んで、東京の都市部を標的とした無差別爆撃によって、市民に大きな被害を与えた。爆撃被災者は約310万人、死者は11万5千人以上[注 1][注 2]、負傷者は15万人以上、損害家屋は約85万戸以上の件数となった[4]
東京大空襲とその被害
 

アメリカ軍は早くから江戸時代に頻発した江戸の大火や1923年の関東大震災の検証を行い、火元・風向き・延焼状況・被災実態などの要素が詳細に分析されていた。

一部では爆撃と並行して旋回機関銃による非戦闘員、民間人に対する機銃掃射も行われた[91]。日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる

発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にも関わらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった

B-29が爆撃区域に入ると、真っ昼間のように明るかったが、火の海の上空に達すると、陰鬱なオレンジ色の輝きに変わったという

他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであったが、爆撃していたB-29も火災旋風による乱気流に巻き込まれた。荒れ狂う気流の中で機体の安定を保つのは至難の業で、気が付くと高度が1,500m以上も上がっていた[94]。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている。そして、人が燃える臭いはB-29の中にも充満しており、搭乗員は息が詰まる思いであった[94]

その結果、木造住宅が密集する日本の大都市は火災に対して特に脆弱であり、焼夷弾による空襲が最も大規模な破壊を最も効果的に与えることができると結論されていた。

具体的な空襲対象地域の選定に際しては、人口密度・火災危険度・輸送機関と工場の配置などの要素が徹底的に検討され、それを元に爆弾爆撃有効度が計算されて一覧表が作成された

ここで特に重視されたのは人口密度だった。当時の東京各区の人口は浅草区の13万5000人が最大で、これに本所区神田区下谷区荒川区日本橋区荏原区が8万人台で次いでいた。このうち荏原区は他から離れた郊外に位置するためこれを除き、替わりに人口7万人台の深川区の北半分を加えた都心一帯が、焼夷弾攻撃地域第一号に策定された

まず、東京空襲の一般民間人の被害全体についてみると、東京の区部が被害を受けた空襲は60回を越えます。確認された死者の遺体数は約10万5400人になります。負傷者は約15万人で、罹災者は約300万人、罹災住宅戸数は約70万戸です。焼失面積は約140㎢で、区部の市街地の約50%、区部面積の約25%に当たります。

三多摩や伊豆諸島・小笠原を含む東京都全体では、空襲は100回を越えています。東京大空襲は、第二次世界大戦の連合国による植民地・占領地も含む日本空襲の一環です。東京への本格的な空襲は1945年3月10日の下町への大空襲を境に区分されます。

初期の空襲

 アメリカ軍による日本本土への初空襲は1942年4月18日に行われましたが、それは空母から陸上爆撃機B25を発進させた奇襲攻撃で、東京には13機が来襲しました。東京では品川区の工場、荒川区尾久の住宅などが爆撃され、尾久では一家6人が焼死するという被害を受けています。それ以外にも牛込区の早稲田中学や葛飾区の水元国民学校高等科の生徒も銃撃により死亡しました。あわせて東京で41人が亡くなっています。
 それ以降約2年半の間、東京の区部への空襲はありませんでしたが、小笠原には1944年6月15日に空襲があり、民間人にも機銃掃射による被害が出ています。
 B29爆撃機による東京への本格的な空襲は、1944年11月24日に始まりました。1945年3月10日より前の空襲は、飛行機工場と産業都市を重点とする戦略爆撃であり、高高度から、多くは昼間に爆撃しています。

東京の場合、航空機工場の中島飛行機武蔵製作所を第一目標とする精密爆撃が行われましたが、その爆撃ができない時には、第二目標とした東京の市街地を無差別に爆撃しています。11月24日からすでに荏原区などの市街地が空襲されました。11月27日には中島飛行機を全然爆撃しないで、渋谷区の原宿などを空襲しています。

11月29日から30日にかけては市街地への夜間の集束油脂焼夷弾を使った空襲がすでになされています。1945年1月27日には繁華街の銀座や有楽町が空襲され、530人あまりが亡くなっています。

2月19日も中島飛行機は爆撃しないで、119機のB29が市街地を爆撃し、区部で160人以上が死亡しています。2月25日は、マリアナの基地を飛び立つ前に中島飛行機を爆撃できないことがわかり、第一目標を東京下町の市街地に切り替え、爆弾を焼夷弾に積み替えて172機のB29が空襲しました。

この日の空襲は、目標地域が3月10日の下町大空襲と同じ最も燃えやすい住宅密集地であり、後期に実施される区部の市街地に対する焼夷弾爆撃の実験的な空襲となり、195人が亡くなっています。3月4日も159機のB29が東京区部の市街地を広範囲に爆撃し、650人あまりが死亡しています。1944年11月から1945年3月4日までの空襲により、区部で2000人以上が亡くなっています。

1945年3月10日の下町大空襲

 画期になったのは1945年3月10日の下町大空襲です。すでにアメリカ軍は、都市の中で、住宅が密集し人口密度が高い市街地を、焼夷地区1号に指定していました。東京は当時の深川区の北部と本所区・浅草区・日本橋区の大部分などが焼夷地区1号でした。

そこをまず焼夷弾で焼き払う絨毯爆撃が、この日から始まりました。焼夷地区1号の目標地域には、軍施設や軍需工場などの明確な軍事目標はほとんどなく、アメリカ軍の目標となった大きな軍需工場は精工舎や大日本機械業平工場のみで、築地、神田、江東などの市場、東京、上野、両国の駅、総武線隅田川鉄橋などが実際の目標でした。

住民を殺戮し、それによって戦争継続の意思をそぐことが、主な目的でした。

また、市街地を焼き払うことで、そこにある小さな軍需工場を焼くことも合わせてねらっていました。

アメリカ軍は春一番のような大風の吹く3月に焼き払い空襲を開始することを目指して、日本向けの油脂焼夷弾を開発し、B29とともに大量生産をしていきました。
 3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲でした。目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下しました。

これにより、大火災を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たしました。
 火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。

罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。
 木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、大火災となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって、安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなりました。

後期の大空襲

 4月、5月の山の手大空襲は、爆撃の規模や焼失面積は3月10日の大空襲を上回るものであり、山の手の大空襲やその他の空襲を含めて後期の東京空襲で約8000人が亡くなりました。規模の割に死者が少ないのは、逃げやすい地形であったこともありますが、3月10日の惨状を見て、人員疎開が進んだこと、消火をしないですぐ逃げるようになったことも影響しています。
 4月13~14日の城北大空襲について、アメリカ軍は王子区の陸軍兵器工場をねらったとしていますが、実際はそれより南の豊島区、滝野川区、荒川区などの住宅地が焼かれました。328機のB29が2038トンの焼夷弾と82トンの爆弾を投下しました。被害は、罹災家屋約17万戸、罹災者約64万人で、死者は警視庁の調べでは2450人、東京都の調べでは1661人になります。
 4月15日の大空襲では蒲田区などの東京南部から川崎にかけての工場地帯と住宅地が空襲されました。東京には、109機のB29が754トンの焼夷弾と15トンの爆弾を投下しました。蒲田区はほとんど全域が焼かれました。この日の東京の被害は、罹災家屋約5万戸、罹災者約21万人で、死者は警視庁の調べでは841人、東京都の調べでは903人になりました。
 5月24日の大空襲では、4月15日の空襲地域の北側の荏原区、品川区、大森区、目黒区、渋谷区などの住宅地が空襲されました。この日の空襲では、520機のB29が3646トンの焼夷弾を投下しており、来襲したB29の機数、焼夷弾の投下トン数とも最大です。被害は罹災家屋約64万戸、罹災者約22万人で、死者は警視庁の調べでは762人、東京都の調べでは530人でした。
 5月25~26日の大空襲では、24日の空襲地域の北側の、政府機関、金融・商業の中枢機関が集中する都心地域と、都心から杉並区にかけての西部住宅地が空襲されました。宮城(現・皇居)内の宮殿も焼失しました。この地域の空襲では、高層のコンクリートの建物もあるため、油脂焼夷弾だけではなく、貫通力の強い焼夷弾も使われました。464機のB29が3258トンの焼夷弾と4トンの爆弾を投下しました。

被害は、罹災家屋約16万戸、罹災者約56万人で、死者は警視庁の調べでは3242人、東京都の調べでは3352人です。
 4月1~2、4日、6月10日、8月8、10日など、4月以降8月まで航空機工場などの軍需工場や飛行場に対する爆撃が続き、周辺の住宅地も被害を受けました。5月29日には、昼間の横浜大空襲の余波で、東京の南部でも被害が出ています。原爆の模擬爆弾が、7月20日には東京駅八重洲口近くの堀に、7月29日には多摩の保谷に、それぞれ投下され、被害が出ています。また、人の殺傷を狙った機銃掃射もなされました。

三多摩地域・島嶼部の空襲

 東京の三多摩地域への空襲は40回ぐらいです。武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所や立川市などの航空機関係の工場や飛行場に対する爆撃が、1944年11月から1945年8月まで続きました。8月2日に八王子の市街地が焼き払われ、8月5日には中央線列車への機銃掃射により大きな被害を受けています。40回の空襲のうち30日間に、約1500人の民間人の死者が出ています。
 伊豆諸島・小笠原では、32回の空襲があり、民間人48人が死亡しています。

空襲後

 3月10日以降の空襲では、膨大な数の死者が出て、無数の死体の山ができました。「戦場掃除」と呼ばれる前線での死体処理と同じような乱暴な扱いで、遺体が片付けられました。通常の埋葬ができないので、公園や寺院の境内などに穴を掘って遺体を埋める仮埋葬がなされました。その数は3月~5月にかけての大空襲で、約9万4800人であり、そのうち約8000人のみは名前がわかり個別に埋葬されましたが、それ以外は合葬されました。

仮埋葬された遺体は3~5年後に掘り返されて、火葬されました。遺骨は東京都慰霊堂に安置されました。その後も、遺族などに引き取られる遺骨は少なく、今でも、約8万人の遺骨が残されています。

別に焼け跡で現場火葬も行われました。
 戦争中は、戦時災害保護法などにより、民間人の傷害者等の被災者と死者の遺族にも救助・給付などの援護措置がなされました。東京都独自の見舞金も支給されました。

しかし、戦後、軍人・軍属とともに民間人への特別の措置が廃止されました。講和後、日本人の軍人・軍属への援護や恩給は復活しましたが、民間人や朝鮮人・台湾人への援護は復活されないままです。

ただし、日本人の、勤労動員学徒、女子挺身隊員、徴用工、被爆した国民義勇隊員、地上戦の戦闘参加者、防空監視員、警防団員などは準軍属に位置づけられ、最初は、軍人・軍属と格差はありましたが、今は同じような援護を受けています。