大江 健三郎(1935年〈昭和10年〉1月31日 - 2023年〈令和5年〉3月3日)は、日本の小説家。昭和中期から平成後期にかけて現代文学に位置する作品を発表した。愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)出身。
東京大学文学部仏文科卒。学生作家としてデビューして、大学在学中の1958年、短編「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。新進作家として脚光を浴びた。
新しい文学の旗手として、豊かな想像力と独特の文体で、現代に深く根ざした作品を次々と発表していく。1967年、代表作とされる[4]『万延元年のフットボール』により歴代最年少[5]で谷崎潤一郎賞を受賞した。
1973年に『洪水はわが魂に及び』により野間文芸賞、1983年に『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』により読売文学賞(小説賞)など多数の文学賞を受賞。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。
核兵器や天皇制などの社会的・政治的な問題、知的な障害をもつ長男(作曲家の大江光)との共生、故郷の四国の森の谷間の村の歴史や伝承、などの主題を重ね合わせた作品世界を作り上げた。
戦後民主主義の支持者を自認し、国内外における社会的な問題への発言を積極的に行っていた。
来歴
生い立ち
1935年1月31日、愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちに大江の作品の舞台となる。1941年、大瀬小学校に入学。この年に太平洋戦争が始まり、5年生の夏まで続いた。1944年、父親が50歳で心臓麻痺で急死している。1947年、大瀬中学校に入学。1950年、愛媛県立内子高等学校に入学するも、いじめを原因に翌年愛媛県立松山東高等学校へ転校する。高校時代は石川淳、小林秀雄、渡辺一夫、花田清輝などを読む。松山東高校では文芸部に所属し部誌「掌上」を編集、自身の詩や評論を掲載した。同校において同級生だった伊丹十三と親交を結ぶ。
1953年に上京し、浪人生として予備校に通ったのち、1954年に東京大学教養学部文科二類(現在の文科III類)に入学。演劇脚本や短編の執筆を始める。1955年、小説「優しい人たち」が「文藝」第三回全国学生小説コンクールで入選佳作となる。同年、小説「火山」が銀杏並木賞第二席となり、教養学部の学内誌に掲載されて作品が初めて活字となる。この頃、ブレーズ・パスカル、アルベール・カミュ、ジャン=ポール・サルトル、ノーマン・メイラー、ウィリアム・フォークナー、安部公房などを読む。1956年、文学部仏文科に進み、高校時代より著作を愛読し私淑してきた渡辺一夫に直接師事する。小説「火葬のあと」が「文藝」第五回全国学生小説コンクール選外佳作となる。東大学生演劇脚本の戯曲「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに入選する。
芥川賞作家として ─ 飼育、芽むしり仔撃ち、個人的な体験
1957年、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が「東京大学新聞」に掲載され、文芸評論家平野謙の激賞を受ける。これを契機として、短編「死者の奢り」により学生作家としてデビューし、続々と短編を各文芸誌に発表するようになる。「死者の奢り」は第38回芥川賞候補となる。1958年、自身初の長編小説である『芽むしり仔撃ち』を発表する。大江の故郷の村をモデルにした[13]閉ざされた山村を舞台にして、社会から疎外された感化院の少年たちの束の間の自由とその蹉跌を描いた。同年、短編「飼育」により第39回芥川賞を23歳で受賞する。
1959年、東京大学卒業。卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」であった。同年、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行する。政治などの現実社会から内向的な性の世界へと退却する、停滞状況にある現代青年を描く。この時期の大江の、性を露骨に描いて日常的規範を攪拌させる方法はノーマン・メイラーの影響を受けている[15]。この年成城に転居し、近所に住む武満徹と親交が始まる。1960年、伊丹十三の妹のゆかりと結婚。同年、石原慎太郎、江藤淳、浅利慶太らと「若い日本の会」で活動をともにし、日米安保条約(新安保条約)締結に反対する[10]。「日本文学代表団」の一員として、野間宏、亀井勝一郎、開高健らとともに中国を訪問して中国の文学者と交流し、毛沢東と対面している[16]。
1961年、中編「セヴンティーン」と続編「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」を発表する。浅沼稲次郎暗殺事件に触発されて、オナニストの青年が天皇との合一の夢想に陶酔して右翼テロリストとなる様を描いたが、同じ頃に発表された深沢七郎の『風流夢譚』と同様に右翼団体からの脅迫に晒された(このため「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」はその後の単行本に収められていなかったが、2018年『大江健三郎全小説3』で遂に「セヴンティーン」と併せて収録された)[。同年、ブルガリアとポーランドの招きに応じて、両国やソ連、ヨーロッパ各地を訪問して、パリでサルトルにインタビューを行っている。
1963年、長男の光が頭蓋骨異常のため知的障害をもって誕生する。1964年、光の誕生を受けての作品『個人的な体験』により第11回新潮社文学賞を受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親が、さまざまな精神遍歴の末、現実を受容して子供とともに生きる決意をするまでの過程を描いた作品である。同年、広島に何度も訪れた体験や、原水爆禁止世界大会に参加した体験を基にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』の連載を開始する。障害を持つ子との共生、核時代の問題という終生の大きなテーマを同時に二つ手にしたこの年は、大江にとって重大な転機の年であった。1965年、広島について報告するためにキッシンジャーのセミナーに研究員として参加して、ハーヴァード大学に滞在している。
国際的な作家へ ─ 万延元年のフットボール、洪水はわが魂に及び、同時代ゲーム
1967年、30代最初の長編として『万延元年のフットボール』を発表し、最年少(2019年現在破られていない)で第3回谷崎潤一郎賞を受賞する。遣米使節が渡航した万延元年(1860年)から安保闘争(1960年)までの百年を歴史的・思想史的に展望して[21][22]四国の森の谷間の村に起こる「想像力の暴動」とさまざまに傷を抱えた家族の恢復の物語を描いた。1968年、新宿の紀伊國屋ホールにて月例の連続講演を一年間行い、これは『核時代の想像力』(1970年)としてまとめられた。この頃からガストン・バシュラールに依拠して、現実を変えていく力としての「想像力」論を打ち出していく。1968年、『個人的な体験』の英訳 "A Personal Matter" が出版されている。
この頃から海外の作家との交流が盛んになる。1968年にオーストリアのアデレード芸術祭に参加し、エンツェンスベルガー、ビュトールと面会する。1970年、1973年にはアジア・アフリカ作家会議に参加。1977年、ハワイ大学のセミナー「文学における東西文化の出会い」に参加しアレン・ギンズバーグ、ウォーレ・ショインカと対話する。また70年代には文芸誌「新潮」「海」においてアップダイク、ギュンター・グラス、バルガス・リョサと対談している[10]。
1971年、1972年に発表した二つの中篇「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「月の男(ムーン・マン)」では、前年の三島由紀夫のクーデター未遂と自決を受けて天皇制を批判的に問い直すことを主題とした[25]。1973年には『洪水はわが魂に及び』を発表し、第26回野間文芸賞を受賞。本作は核状況下における終末観的な世界把握の下に構想されており[26]、破滅へ向かう先進文明に対抗するものとしてのスピリチュアルな祈りを主題としている[27]。1974年には『万延元年のフットボール』の英訳 "The Silent Cry" が出版されている。
1975年、大学時代の恩師の渡辺一夫が肺癌で死去し、大きなショックを受けた。立ち直りのきっかけを求めて1976年にメキシコに渡り、コレヒオ・デ・メヒコの客員教授として日本の戦後思想史の講座を受け持つ。現地でオクタビオ・パスやフアン・ルルフォ、メキシコに居を構えていたガブリエル・ガルシア=マルケスらラテン・アメリカの文学者と知り合う。1976年に発表された『ピンチランナー調書』は天皇制や核の問題を主題としている。
1978年には「遅れてきた構造主義者」と称して[30]ちょうど日本に紹介され始めたバフチン、ロシア・フォルマリズムなどの思想潮流や山口昌男の理論などを参照して『小説の方法』を出版している。1979年に発表された原稿用紙1,000枚の大作[33]『同時代ゲーム』において、故郷の森の谷間の「村=国家=小宇宙」の神話や歴史を描いた。大江はこれを自らの文学的な人生の大きい柱の作品と位置付けており[34]実際、本作にはこれ以前の大江作品のさまざまなモチーフが回収され、以降の作品に現れる要素も胚胎している[35]。1980年から1982年にかけて、中村雄二郎、山口昌男とともに編集代表を務めて論集「叢書文化の現在」(全13巻)を編纂して、学際的な新しい「知」の枠組みを提示する。
円熟へ 連作短編の時代 ─ 「雨の木」を聴く女たち、新しい人よ眼ざめよ
1982年、荒涼とした世界における男女の生き死にを見つめた[33]連作短編集『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』を発表して、翌1983年に第34回読売文学賞受賞(本作と武満徹との関係は、後述「関わりの深い人物」項目を参照)。本作以降の大江は多くの作品において、作家自身を思わせる小説家を語り手として、自分の経験や思索を虚構化していく。また自作の引用、自己批評、書き直しや西洋の古典(本作においてはマルカム・ラウリーである)との対話によって、読むこと書くことの試行錯誤そのものを小説に書き込むようになる。
1983年の連作短編集『新しい人よ眼ざめよ』ではウィリアム・ブレイクの預言詩や、それに関連する研究を読むことで導かれた思索を織り交ぜながら、知的障害をもつ長男・光を中心とした家族の日常を私小説的に描き、第10回大佛次郎賞を受賞する。ここで女性詩人でブレイク研究者キャスリーン・レインを大きな導き手としてネオ・プラトニズムに触れ、大江文学中期のテーマである「魂の問題」「再生」といった神秘的な問題を掘り下げ始めるようになった。同年、カリフォルニア大学バークレー校に共同研究員として滞在している。
1984年、磯崎新、大岡信、武満徹、中村雄二郎、山口昌男とともに編集同人となり、季刊誌「へるめす」を創刊(『M/Tと森のフシギの物語』『キルプの軍団』『治療塔』『治療塔惑星』は同誌に連載された)。当時の出版界が「知」のブームが沸く中で創刊された本誌は1980年代を代表する知識人の拠点となる。同年、国際ペンクラブ東京大会に参加して、講演「核状況下における文学─なぜわれわれは書くか」を行い、カート・ヴォネガット、アラン・ロブ=グリエ、ウィリアム・スタイロンと対話する。1985年、連合赤軍事件を文学の仕事として受け止め直す[44]連作短編集『河馬に嚙まれる』を発表する。表題作で第11回川端康成文学賞を受賞している。同年『万延元年のフットボール』のフランス語訳 "Le jeu du siècle" がガリマール出版社より刊行されている。
ノーベル賞受賞まで ─ 懐かしい年への手紙、燃えあがる緑の木
1986年には『同時代ゲーム』の世界をリライトした『M/Tと森のフシギの物語』を発表する。このリライトは難渋であるとして読者に十分に受け入れられなかった『同時代ゲーム』を平易にすると同時に『同時代ゲーム』において十分に展開しきれなかった「魂の再生」のテーマを追求する意味合いがあった。1987年にはダンテの『神曲』を下敷きにした虚実綯い交ぜのメタ・フィクショナルな自伝『懐かしい年への手紙』を発表する。『同時代ゲーム』以来の原稿用紙1,000枚の大作で、『芽むしり仔撃ち』以来描き続けてきた森の谷間の小宇宙を統合する試みであった[48]。前者は1989年に "M/T et l'histoire des merveilles de la forêt" のタイトルで、後者は1993年に "Lettres aux années de nostalgie" のタイトルで、フランス語訳がガリマール社より刊行された。
1989年の『人生の親戚』では長編で初めて女性を主人公とし[49]、子供を自殺で失った女性の悲嘆とその乗り越えを描いて第1回伊藤整文学賞を受賞する。1990年に発表されたSF『治療塔』とその続編の『治療塔惑星』(1991年)では、イェーツの詩を引きながら核時代の危機と人類救済の主題を描いている。1990年、連作短編集『静かな生活』を発表。『新しい人よ眼ざめよ』において主題となった知的障害を持つ長男との共生の体験を、彼の妹の視点を通して改めて描いている。この時期の大江は女性を語り手に選び、それに見あった語り口を模索している。また超越的な存在と自分自身の関係を問い直そうとしている。
1993年9月より原稿用紙2,000枚に及ぶ三部からなる長編『燃えあがる緑の木』の連載を開始する。『懐かしい年への手紙』の後日譚として、四国の森の中の谷間の村を舞台とした「教会」の勃興から瓦解に至るまでの過程を、両性具有の若い女性の視点を通して描き、「魂の救済」の問題を描き尽くした[52]。連載当時はこれを「最後の小説」としていた[53]。
『燃えあがる緑の木』連載中の1994年、「詩的な想像力によって、現実と神話が密接に凝縮された想像の世界を作り出し、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている[54](who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today)」という理由でノーベル文学賞を受賞する。川端康成以来26年ぶり、日本人では2人目の受賞者であった。ストックホルムで行われた受賞講演は川端の「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」というものであった。ここで大江は、川端の講演は極めてvague(あいまい、ぼんやりした)であり、閉じた神秘主義であるとし、自分は日本をambiguous(あいまい、両義的)な国として捉えると述べた。日本は、開国以来、伝統的日本と西欧化の両極に引き裂かれた国であるとの見方を示し、小説家としての自分の仕事は、ユマニスムの精神に立って「言葉によって表現する者と、その受容者とを、個人の、また時代の痛苦からともに恢復させ、それぞれの魂の傷を癒す」ことであると述べた。
小説執筆の一旦の終了を受けて1996年より新潮社より『大江健三郎小説』(10巻)が刊行開始された。これは全集ではなく、作者が吟味し基準に適うもののみが収録された。長編でいうと初期作品の『われらの時代』『夜よゆるやかに歩め』『青年の汚名』『遅れてきた青年』『日常生活の冒険』は収録されなかった。
後期の仕事(レイト・ワーク)─ 取り替え子、水死
1995年に「最後の小説」としていた『燃えあがる緑の木』が完結し、小説執筆をやめてスピノザの研究に取り組むと述べていた[53][57]。だが1996年の友人・武満徹の病死を契機に考えを変え、告別式の弔辞において新作を捧げるとし、1999年に『宙返り』を発表。信徒が計画するテロを防ぐために一度「棄教」した新興宗教の教祖らによる、波乱の中での教団の再建を描いている。これ以降の創作活動は作家自身が「後期の仕事(レイト・ワーク)」と称する。
2000年、義兄の伊丹十三の自殺を受けて、文学的な追悼として伊丹の死を新生の希望へと繋ぐ『取り替え子(チェンジリング)』を発表する。続けて『憂い顔の童子』(2002年)、『さようなら、私の本よ!』(2005年)を発表した。これらは「スウード・カップル(おかしな二人組)」が登場する三部作となっている。『さようなら、私の本よ!』では2001年のアメリカ同時多発テロ事件を受けてテロリズムの問題が主題とされた。
2007年には、30年前にお蔵入りとなった映画制作の顛末と、再び企画を立ち上げる老人たちの友情を描いた『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(文庫刊行時に『美しいアナベル・リイ』に改題)を発表する。2009年には、終戦の夏におきた父親の水死の真相を描こうとする老作家の巻きこまれる騒動を描く『水死』を発表。本作は70年代に中編「みずから我が涙をぬぐいたまう日」で取り組まれた「父と天皇制」のテーマに再度挑むものであった。2013年には、東日本大震災とそれに伴う原発事故を題材とした『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』を刊行した。
『取り替え子(チェンジリング)』以降のレイト・ワークは『美しいアナベル・リイ』を除き、大江をモデル人物とした老作家・長江古義人を主人公とする(『美しいアナベル・リイ』の語り手の老作家「私」は、作中で他の登場人物からケンサンロウ、Kenzaburoと呼ばれる)。
創作以外の活動としては1996年にプリンストン大学で客員講師を、1999年にベルリン自由大学で客員教授を務めている。2006年に純文学を志す有望な若手作家を世界に紹介する目的で大江健三郎賞が創設された。本賞は2014年に終了した。
2021年2月、「死者の奢り」『同時代ゲーム』『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』などの作品の自筆原稿1万枚超を含む資料約50点が東京大学に寄託されると発表された。資料を保管・管理し、国内外の研究者に公開する研究拠点「大江健三郎文庫」が文学部内に設立される。同一作家の自筆原稿コレクションとしては屈指の規模になるという。
死去
2023年3月3日、老衰のため死去。88歳没
主題系
監禁状態・性的人間
最初期の大江の作品を論じるときに決まって引用されるのが、1958年の第一作品集『死者の奢り』の後書きに記された次の一文である。「監禁されている状態、閉ざされた壁の中に生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題でした」[67]。大江は、一人称による感覚的な表現で、犬殺し、死体運搬人、カリエス患者、偽学生、捕らえられた黒人兵、少年院の少年、など多彩な題材のヴァリエーションでこの主題を展開した。そして、占領下の生活を強いられた敗戦後の日本と日本人の「監禁状態」、未来に希望や確信を持てない青年の不安を描き出した。これらは当時、大学の仏文科の学生として、ガリマール版サルトルを読み込んで、サルトルの作品『壁』『自由への道』などから「壁の中」「猶予」という概念を獲得して、それに倣ってのものであった。
この「監禁状態」の主題からの次の展開として、大江は、独自の「政治的人間」と「性的人間」の二項対立を、主題に導き入れる。次の文章も、初期大江論で常に引用される文章である。「政治的人間は他者と硬く冷たく対立し抵抗し、他者を撃ちたおすか、あるいは他者に他者であることをみずから放棄させる。」「性的人間はいかなる他者とも対立せず抗争しない。かれは他者と硬く冷たい関係をもたぬばかりか、かれにとって本来、他者は存在しない。かれ自身、他のいかなる存在にとっても他者でありえない。」「政治的に牝になった国の青年は、性的な人間として滑稽に、悲劇的に生きるしかない、政治的人間は他者と対立し、抗争し続けるだけだ」(「われらの性の世界」)。大江は、現実から疎外され、現実生活における行動の契機を奪われて停滞を余儀なくされている現代青年(性的人間)を描いていく[69]。『われらの時代』(1959)『遅れてきた青年』(1962)『叫び声』(1963) の登場人物は、日米安保体制の下政治的にアメリカに従属しながらではあるが、それなりのは経済的反映や安定を手にしつつあった戦後日本社会(政治的に牝になった国)において、日常生活に埋没することを忌避しながらも、そこでしか生き得ない自分を嫌悪して、狂気や暴力に惹かれていく青年である。彼らは戦争を渇望したり、外国への脱出を希望する[70]。しかし願いは叶うことはなく、やがて破滅して「敗北の確認」といった形で小説は終わる。
共生・核時代・祈り
戦後社会を呪詛する絶望的な青年像を描いてきた大江にとって、大きな転機となったのが、1963年6月の長男の大江光の誕生であった。この出来事は、これまでの創作において、否定的に表象されてきた「日常」に大江を引き戻す契機となった[71]。光の誕生を題材として書かれた1964年の『個人的な体験』はこの関心の変容を、物語の展開として孕んでいる[72]。主人公の「鳥(バード)」は、それまでの大江の作品の主人公と同様に、現実逃避的な心性から、アフリカへ逃避する願望を持っている。「鳥」は生まれてきた脳に重い障害をもつ赤ん坊を見棄てるか、手術を受けさせて生かすかの決断の前で揺れて、最終的には回心してアフリカへの幻想を捨てて、子供とともに生きる覚悟を決める[73]。大江の現実世界に対する関心もまた、従前の日米安保体制下での軍事的、政治的従属を批判的に捉えるという眼差しから、より世界的な拡がりのある「ヒロシマ」を中心とする「核」の問題へと移ることになる[74]。
大江は、光の誕生と同年の1963年8月の原水爆禁止世界大会を取材し、その後も原爆病院の医師や原爆の生存者に取材を重ねて1965年に『ヒロシマ・ノート』を出版している。『ヒロシマ・ノート』は冒頭こう書き始められる。「このような本を、個人的な話から書きはじめるのは、妥当でないかもしれない。」「僕については、自分の最初の息子が瀕死の状態でガラス箱のなかに横たわったまま恢復のみこみはまったくたたない始末であった。」この私生活の苦しい状況の中での取材で、大江は悲惨な体験をした広島の人々の生き方から励ましを受け取る。そしてこう述べている。「まさに広島の人間らしい人々の生き方と思想とに深い印象をうけていた。僕は直接かれらに勇気づけられたし、逆に、いま僕自身が、ガラス箱のなかの自分の息子との相関においておちこみつつある一種の神経症の種子、頽廃の根を、深奥からえぐりだされる痛みの感覚をもあじわっていた。そして僕は、広島とこれらの真に広島的なる人々をヤスリとして、自分自身の内部の硬度を点検してみたいとねがいはじめたのである。」障害を持つ子供との共生という個人的な問題と世界規模の核状況という一見、対極的な二つの問題は、大江にとって当初からひと繋がりのものである。『個人的な体験』には核状況は主題として取り込まれており、(赤ん坊の誕生時期を二年遡行させて)1961年のソ連による通称「ツァーリ・ボンバ」の水爆実験が描かれる。そして、赤ん坊をどうするべきか、という個人的な問題に閉じ込められて、世界規模の脅威に感応しえなくなった主人公「鳥(バード)」の姿が描かれて、私的な問題との対比で核の問題の重大さが強調された。「核」の問題と「共生」の問題は、現実世界の最大の暴力である核に対して最も無力な存在としての障害児として大江の想像力の中で関連づけられて、以後の作品においてもこの二つの主題が同時に現れることになる。
1973年の『洪水はわが魂に及び』の核シェルターに閉じこもる主人公・大木勇魚とその子供で知的障害をもつ幼児ジンと交流をする不良少年たち「自由航海団」は、初期作品の『われらの時代』の「不幸な若者たち(アンラッキー・ヤングメン)」や『叫び声』の「友人たち(レ・ザミ)号」の乗員たちと同類型の登場人物である。しかし本作は「洪水」に核時代の始まりというイメージが重ねられているように、核状況の終末観を背景としていること、そして、それに対抗するものとしての「祈り」が主題として登場することにおいて新しい。この「祈り」は神などの特定の祈る対象のない「祈り」であり、大江自身の説明によるならば「人間存在の破壊されえぬことの顕現」(ミルチャ・エリアーデ)を感得するためのものである。
長男・光と「祈り」との関係については、1987年10月に東京女子大学で行われた「信仰を持たないものの祈り」(『人生の習慣』)という講演があり、そこで大江は次のような回想をしている。光は、四歳になっても能動的に言葉を話さず、意思疎通が難しかったが、鳥の声のテレビ番組には関心を示した。そこで鳥の声のレコードを買ってきて、自宅で一日中流し続けていた。一年後、北軽井沢の林で長男と散歩していると、クイナが鳴いた直後に長男が「クイナです」と反応した。幻聴かと緊張しながら、鳥がもう一度啼いたらいいと思い、そのときに自分の心の中に「ある祈りのようなもの」を感じた。そしてもう一度クイナが鳴き、光はまた「クイナです」と言った。大江は、この場面を次のように説明している。「祈ったというよりも、集中していたというほうが正しいかもしれませんけど。目の前に一本の木がありましてね。(......)いま自分がこの木を見て集中している、ほかのことを考えないでコンセントレートしている。このいまの一刻が、自分の人生でいちばん大切な時かもしれないぞ、と思っていたんです。」この一種の啓示体験が『洪水はわが魂に及び』に設定として取り込まれた。
1983年の作品『新しい人よ眼ざめよ』はヴァルネラブルな父と子が、『洪水はわが魂におよび』のように社会の外に退避するのではなく、社会の中でどう生きていくのかを書く試みであった。虚構性の低い私小説的な作りの小説の中で、日常生活の中で光の存在から受けた多様な気づきにウィリアム・ブレイクの詩が重ね合わされていく。大江がブレイクの神秘主義的な「死と再生」のヴィジョンに深く揺り動かされたのは、大江が既に、ブレイクのヴィジョンに共通するところのある「人間存在の破壊されえぬことの顕現」を光との共生によって見出してきていたことに由来し、また、ブレイクを介することによって大江は「障害を持って生まれざるをえなかった息子についての遺恨の思いと「罪のゆるし」、自分のきたるべき死と、息子ともどもの再生への思い」をあらためて把握し直すことになった。作品においては、息子との共生の時々が、ブレイクのヴィジョンを触媒にして、瞬時に、驚きに満ちた解放感を伴って、普遍的な光景として救出されていく[83]。本作においても、核状況下の現代世界における極小的な弱者である障害児と、それに拮抗する極大的な暴力である核というモチーフは引き継がれており、結末において、ブレイクの詩に導かれて光の存在に「凶々しい核時代」に拮抗する「新しい人」を見出して終わる。
天皇制と森の神話
『個人的な体験』な体験を境にして、大江の作品は質的に変化する。作品世界がそれまでの水平型な「脱出」のモチーフから、垂直型の空間体験に変わる。このことは『万延元年のフットボール』に顕著に見られ、自宅の庭に掘った穴ぼこに潜り込んだ主人公の描写から物語は始まり、終章で故郷の屋敷の地下に座り込んだ主人公の思念が語られる。主人公はアイデンティティの回復を求めて父祖の地に戻り、父祖の歴史の真相を探り、未来に想像力を働かせる。こうした縦の関係の探究は、幼少期の体験として心理的な傷となった父の死と天皇性の問題を掘り起こすことにもなった。『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』で、失われた父の全容を復元しようとする中で、父はしばしば超越者と混同されるが、三島由紀夫のクーデター未遂を受けて書かれた1972年の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』では明確に天皇制の問題となった。
1967年に出版された『万延元年のフットボール』は、当時の色川大吉や安丸良夫らによって先導された民衆史との並行関係が指摘されるように[88]、歴史を権力の側からではなく、民衆の側から見ようとする試みであった。執筆当時は、建国記念の日の制定や、政府主導の「明治百年」記念イベントが大々的に展開されるなど、復古主義的な動きがあり、大江はそれに大きな違和感を抱いており[89]、これが作品成立の背景にある。1965年に本土復帰前の沖縄を訪れた大江は、日本本土の天皇という中心を指向する文化とは別の文化を発見して大きな衝撃を受けている。日本的というよりアジア的な宇宙観、神話構造に根ざした民衆文化を知ることで、四国の森の中の故郷の土地を新しい眼で見るきっかけを得ており、これが作品に反映されている。
1979年に発表された『同時代ゲーム』は、幼少期に祖母などから聞いた故郷の伝承を手がかりにして、ロシア・フォルマリズムやミハイル・バフチン、構造主義などの知見を援用する形で、大江の故郷の森の谷間の村の神話を再構築した[90]。大江は、執筆の動機として天皇との関係を述べている。「僕がこの森のなかの「共同体」を、はじめてそこに古代国家を建設した人びとのものとして成立させえたことの(かれらがじつはその「場所」の侵犯者ではないかという疑いもまた、隠された主題としてあるのではあるが)その根本的な条件としては、僕が中心志向の天皇制文化とは対極にある、周縁志向の反・天皇制文化をひとつの全体として表現することをめざしたということがあると思う。アマツカミという中心の、万世一系の末裔=天皇を頂点に置いた世界モデルとしての日本文化。それに対立する、クニツカミという多様な周縁的存在につながるものとしての世界モデル。僕はそのような文化に、自分の希求する共同体文化の中核(共同体文化の中核に傍点)を想定し、そこに「位置する」はたらきに、自己の個人の中核(個人の中核に傍点)に「位置する」はたらきをかさねることをめざして、この小説を書いたのである。」
『同時代ゲーム』は1986年に、ナラティブを変えて、やわらかい口語的な文体で『M/Tと森のフシギの物語』にリライトされる。『同時代ゲーム』では、森の谷間の「村=国家=小宇宙」の創建者「壊す人」や「父=神主」の父権的な族長(ぺイトリアーク)をめぐる歴史に主眼が置かれたが、『M/Tと森のフシギの物語』では女族長(メイトリアーク)とトリックスターという二つの神話原型が物語の枠組みとなった。そして最終章に語り手「僕」の母親と「僕」の息子ヒカリ(光)と交感のエピソードを置き、『万延元年のフットボール』から『同時代ゲーム』へと大江が追求してきた「森の神話」の作品群と、『個人的な体験』から『新しい人よ眼ざめよ』に至る「共生」の物語群が交錯することとなった[93]。併せて『同時代ゲーム』において傍系的な挿話であった「森のフシギ」が、土地の人間が生まれ、育ち、死んでいく、いのちのおおもと、個でありながら一つの全体性を形作る共同幻想として物語の中心に据えられ、ウィリアム・ブレイクやダンテにつながる神秘思想的な世界観が示された。
人物
創作方法など
小説の方法
小説の方法に自覚的な作家である。『小説の方法』をはじめとした小説の方法論を考察した著作がある。小説創造のベースに置いている考え方で、特に重要なものはガストン・バシュラールの想像力論の「想像力とは、知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、基本的イメージからわれわれを解放してイメージを変える能力である」という考え方、ミハイル・バフチンの「グロテスク・リアリズム」の概念(精神的・理想的なものを肉体的・物質的な次元に引き下げ、民衆的・祝祭的な生きた総体として捉えること)、ロシア・フォルマリズムの理論家ヴィクトル・シクロフスキーの芸術における「異化」の概念などである。
引用
自作に先行文学作品からの引用を織り込んで作品世界を作り上げることに特徴がある。これは1980年代以降に顕著となる。その効果として作品中に地の文と別のテクスチュアの文を織り込むことで文体の多様化を図る。地の文章を一つの柱としたら、それと構造的に支え合い、力を及ぼし合うもう一つの柱として引用を建てて作品の奥行きを増す。という効果を狙っている。このやり方が立脚する根本の思想としては「本来、言葉とは他人のものだ」という言語観がある。大江は大学時代の恩師である渡辺一夫から作家生活をやっていく上で、三年ごとに主題を決めて一人の作家なり思想家なりをその作品のみならず、研究まで読み込むと良い、という勧めを受けており、それを実践している[。その実践が上述の引用に結びついている。
引用についてこう述べている。「本当に、引用の問題はいままでの小説──少なくとも『懐かしい年への手紙』以降の自分の小説──の課題として、私の小説作法の最大のものでした。まず引用する文章と地の文章との間になめらかさも大事ですが、なによりズレがなきゃいけない。そのズレを保ちつつ、その上で精妙なつながり方をさせていく、そういう文章を作ることが文体のつくり方での主目的にさえなりました。ある詩に感銘するでしょう、その引用が一番ぴったりするように、その環境としての文章を作っていく。そういうわけですから、引用が、なにより決定的に重要な意味を持ち始めます。『懐かしい年への手紙』ではダンテですし、短篇の連作集『「雨の木」を聴く女たち』の場合は、マルカム・ラウリー。『新しい人よ眼ざめよ』ではウィリアム・ブレイクですね。『燃えあがる緑の木』三部作の場合はイエーツ、『宙返り』ではR・S・トーマスだった。」(大江健三郎作家自身を語る)
自作リライト
1980年代以降の大江の殆どの小説は、過去に書いた自己の小説を引用・参照し、再利用・再生することで書かれている。こうした方法の理論的起源は『小説の方法』で考察されたシクロフスキーの「異化」理論である。自作を「異化」することは、創作者の意識において、すでに反射化された自作を再び明視すること、自作に対する固まった観念を疑問視するということ、自作への異議申し立てである。自作言及・自作引用する作品は多くの場合、自作の注釈・説明という方向ではなく、自作を解体する方向へ物語を導いて、それまでの「大江健三郎」「大江健三郎の小説」およびそれらにまつわる批評を含む、総合的な「自己」を相対化していく。一方、自伝小説『懐かしい年への手紙』は多数の自作と他の作家の作品を縦横無尽に引用していくが、こうした複数の自作を同時に再検討・再解釈をする形式は過去の自作に新しい意味内容を付与するだけではなく、それらの自作を統合するという方向を向いている。大江の自己言及小説は、自己の統合や達成を遅延化し、非完成を目的とする「晩年の様式」型と、自作の完成や統合、締めくくりを目指す「最後の小説」型との二類型に分類できる。
詩の重視
大江自身は散文を書く人間であるが、詩を重要視しており、上述の通り、ダンテ、ブレイク、イェーツなどの詩を自分の中に取り込んで、その磁場の中で創作を行っている。元々、高校の頃から三好達治、萩原朔太郎、中原中也、富永太郎、谷川俊太郎などの日本の詩人を愛読していた。大学生協の図書部で深瀬基寛対訳のT・S・エリオット、オーデンを手に入れて、その翻訳文体でその文体で、この国にはない小説が書けるのではないかと考えるようになったという[104]。
こう述べている。「とくにオーデンの詩について、私が魅力を感じたのはこういうことだった。そこではこまかな具体的事物から人間について、また社会、政治、国際関係について、ひとつながりに、共通のヴォキャブラリーとナラティヴによって語られている。さらに、エリオットの詩的な優雅さが日常的な散文の語り口へとなだらかな移行を示す――あるいは、その逆方向へ――その書き方が好きだったのだ。そして両者ともに、日常生活の観察のレヴェルにかさねて形而上学的な、さらには神秘主義的ですらある豊かさ、深さにいたる表現に惹かれて、それもまた私には新しい小説のスタイルへの指針のように感じられたのである。だからといって、すぐさまそれを、私が作品に実現しえたのではなかったけれども。」
小説家としての自分にとって詩がどういう意味を持つかについて『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』の序文「なぜ詩でなく小説を書くか、というプロローグと四つの詩のごときもの」において次のように述べている。
「この不慮の死の陥穽にみちみちた時代を生きるにあたって、そうした突然の死のまぎわに、自分の肉体=魂の内部に、ぼくとともに死ぬところの詩を確保することで、いくらかなりと死の恐怖と苦痛をやわらげるべく詩をもとめているのであるし、そのような詩よりほかの、いかなる華やかな言葉の飾りもさがしだそうとしているのではないのだ。」
(しかし)
「ぼくは詩をあきらめた人間である。それは、あきらめるという言葉がもともと二重の意味あいをそなえて一個の言葉として実在している事情そのままに、詩の言葉と小説の言葉の根本的なことなりについて、なんとかあきらかに認識したことによって、詩を書くことをやめ、小説にむかった人間だ。」
「ぼくが詩をあきらめたのは、自分の言葉にたいする、自分自身の方向づけが、詩の言葉より、小説の言葉にむいていることを認めざるをえなかったからである。」
「ぼくにとって詩は、小説を書く人間である自分の肉体=魂につきささっているトゲのように感じられる。それは燃えるトゲである。日常生活において自分の肉体=魂が、その深みにしっかり沈んでいる詩の錘をたよりに生きているとすれば、小説を書こうとしているぼくの肉体=魂は、自分の小説の言葉によって、なんとかこの燃えるトゲにたちむかおうとしているわけである。この内なるトゲを、外部のものとすべく小説の言葉にとらえなおしたいと考えるのが小説制作の操作である。」
『新しい人よ眼ざめよ』を執筆しながらブレイクを読解していたが、大きな参考としていたのが、学者ディヴィッド・V・アードマン『ブレイク、帝国に真向う予言者』と、学匠詩人キャスリン・レイン『ブレイクと伝統』だという。レインの、ブレイクの魂の課題をキリスト教以前の神秘的な信仰に引きつけての解釈を介して「これまでずっといつまでも漠然としたところの残る気がかりな対象だったネオ・プラトニズムが、ブレイクの詩と絵画を素材にして、よく理解できると思えた」「レインに導かれた私は、光との共生で直接経験を重ねてきたことを、明快な神秘主義において受けとめなおすことができると感じた」という。ダンテに関心を導いたのもレインであるという。その後、大江はイェーツに関心を移していくが、イェーツにも、ユダヤ・キリスト教の背後、あるいは外側の伝統としての宗教感情、イマジェリー、宇宙観を読み込んでいく。そのイェーツ解釈をもとにして、『燃えあがる緑の木』を執筆している[104]。
「後期の仕事(レイト・ワーク)」においてもR・S・トーマス(『宙返り』)、アルチュール・ランボー(『取り替え子(チェンジリング)』)T・S・エリオット(『さようなら、私の本よ!』)、エドガー・アラン・ポー(『美しいアナベル・リイ』)と詩が果たす役割は大きい。
詩人マイ・ベストスリーを問われてT・S・エリオット、イエーツ、ブレイクと答えている。
エラボレーション
一旦書き上げた草稿を徹底的に推敲して書き直す。本人はこの作業を友人の批評家エドワード・サイードの用語からとって「エラボレーション」と読んでいる。例えば『取り替え子(チェンジリング)』の場合、1000枚ほど書いてそれを500枚まで縮め、さらに加筆して現在の長さになったという[109]。最初に書かれた文章が原型を留めないほどに、徹底的に書き直された原稿用紙の写真は『大江健三郎全小説』などで見ることができる。
おかしな二人組
批評家フレドリック・ジェイムソンが『宙返り』についてロンドン・レビュー・オブ・ブックス誌で「スウード・カップル (Pseudo-Couples)」というタイトルの評論を書いている。ジェイムソンは、大江の作品には、ベケットの戯曲や小説につながる「おかしな二人組(スウード・カップル)」が出てきて、二人の人物の組み合わせが物語を動かす構造になっていると指摘している。この指摘は作家自身気に入っており、『取り替え子』からの三部作を「「おかしな二人組(スゥード・カップル)」三部作」と名付けている。『芽むしり仔撃ち』の兄弟、『万延元年のフットボール』の蜜三郎と鷹四、『懐かしい年への手紙』の「僕」とギー兄さんなどにこの二人組の系譜を確認できる。
サーガの形成
1980年代以降の大江の作品は、フォークナーのヨクナパトーファ・サーガのように一つの作品に登場した人物(とその子孫)が別の作品に登場し、全体として緩くつながっていることに特徴がある。例えば、『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』に登場するアルコール依存症の英文学者くずれの高安カッチャンの息子、ザッカリー・K・高安が『燃えあがる緑の木』に登場[112]、『懐かしい年への手紙』の主要人物ギー兄さんの息子のギー・ジュニアが『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』に登場などの例が挙げられる。
日本文学
日本の古典
影響を受けた古典として長編『源氏物語』、中編『好色五人女』、短編『枕草子』と答えている。「新潮日本古典集成」をベッドや電車で愛読したという。
私小説への偏愛
大江自身が(擬似的な)私小説の書き手であることもあり、近代文学の中では、日本独自の文学のスタイルである、読者との共犯関係のもとで告白を行う私小説に特別な関心を寄せている。葛西善蔵、嘉村礒多、牧野信一といった破滅型私小説の作家を評価している。
敬愛する先行文学者
ノーベル賞の受賞の第一報を受けて自宅前で記者に囲まれて「日本文学の水準は高い。安部公房、大岡昇平、井伏鱒二が生きていれば、その人たちがもらって当然でした。日本の現代作家たちが積み上げてきた仕事のお陰で、生きている私が受賞したのです」とコメントした。熱心に読んでいた日本の作家は石川淳、中野重治であるという。安部、大岡とはプライベートな交際もあった。
国内受賞歴
1958年 短編「飼育」で芥川龍之介賞
1964年『個人的な体験』で新潮社文学賞
1967年『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞
1973年『洪水はわが魂に及び』で野間文芸賞
1983年『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』で読売文学賞
1983年『新しい人よ眼ざめよ』で大佛次郎賞
1984年 短編「河馬に嚙まれる」で川端康成文学賞
1990年『人生の親戚』で伊藤整文学賞
政治的思想・見解
戦後民主主義者を自認し、国家主義、特に日本における天皇制には一貫して批判的な立場を取っている。また、平和主義者として[165][166]、護憲派の立場から、日本国憲法第9条についてエッセイや講演で積極的に言及している。核兵器についても反対の立場を明確にしている。
1994年のノーベル賞記念講演の際にはデンマークの文法学者クリストフ・ニーロップの「(戦争に)抗議しない人間は共謀者である」という言葉を引用している。
同1994年、ノーベル賞の受賞を受けて天皇からの親授式を伴う文化勲章の授与が内定し、文化庁から電話で打診されたときにはそれを断っている。米紙ニューヨークタイムズのインタビューで「私が文化勲章の受章を辞退したのは、民主主義に勝る権威と価値観(注:天皇制)を認めないからだ。これは単純なことだが非常に重要なことだ」と話した[167]。
1995年、フランスの南太平洋における核実験再開に抗議して、南仏で開催される予定だったシンポジウムへの出席を取りやめた[10]。このことでフランスのノーベル賞作家クロード・シモンとの間で論争が生じた[168]。
1999年、朝日新聞に掲載されたアメリカの批評家スーザン・ソンタグとの公開書簡において、NATOによるユーゴ空爆を批判し、意見が対立した[169]。
2003年の自衛隊イラク派遣の際は仏紙リベラシオン掲載記事において「イラクへは純粋な人道的援助を提供するにとどめるべきだ」とし、「戦後半世紀あまりの中でも、日本がこれほど米国追従の姿勢を示したことはない」と怒りを表明した[170]。
2004年には、憲法9条の平和主義の理念を守ることを目的として[166]、加藤周一、鶴見俊輔らとともに九条の会を結成し、全国各地で講演会を開いている。
歴史認識について、1990年代以降表面化してきた歴史修正主義を伴う右派運動・言論について繰り返し反対を表明している[171][172][173]。2001年には、「新しい歴史教科書をつくる会」編集・扶桑社版の植民地支配と侵略を肯定する中学校の歴史教科書の検定申請がされたことを受けて鵜飼哲、高橋哲哉、小森陽一、井上ひさしら学者・文化人17人の連名で「加害の記述を後退させた歴史教科書を憂慮し、政府に要求する」と題する声明を発表している[174]。
大江は1970年に『沖縄ノート』を上梓している。第二次世界大戦末期の地上戦において、戦後も朝鮮戦争・ベトナム戦争の基地として戦争に巻き込まれ、本土から捨て石とされ続けていた日本返還前の沖縄をめぐるルポルタージュである。この書において沖縄戦において生じた民間人の集団自決は軍に強いられたものであるとした。これについて、2005年、歴史の見直しを主張する右派に担ぎだされて[175]、旧軍指揮官と遺族が大江を提訴したが、裁判では「集団自決に日本軍が深く関わった」(地裁)「軍が深く関わったことは否定できず、総体としての軍の強制、命令と評価する見解もあり得る」(高裁)と判断されて、指揮官・遺族は敗訴した[176]。