創作 過去・現在・未来 続編 9)

2023年04月15日 14時18分42秒 | 創作欄

信子は思わぬことに四条侯爵の3男であると隆重と恋愛関係となる。
真相は定かではないが、信子はその経緯を日記に残したいたので、信子の特有の夢想癖ではないと思われる。
隆重は恩師の芳野教授宅へ教え子として訪れる中で、信子を見初めたのだ。

その日、「信子、隆重君を玄関まで送って行きなさい」と芳野教授に促された。

信子は帰宅する主人の、教え子である隆重に付き添って、隆重の鞄を抱え応接室から玄関へ向かっていた。

彼女が身を屈めて隆重の革靴を揃えていた時、「信子さん、これを読んでください。私の気持ちです」と茶封筒を手渡される。

「これは、何ですか?」信子は長身の隆重を怪訝な表情を浮かべ見上げたが、隆重は突然、信子の身を抱き寄せると「信子さん、あなたに惚れてしまったのです」隆重は上擦った声で告白する。

それまで恋愛に相当する経験が全くなかった信子は、息が詰まる思いで身を震わせる。

1931年9月に満州事変を起こし、満州で軍事行動を展開していた日本軍が、戦火を中国本土に拡大させ、1932年1月28日~3月にかけて上海で日中間の軍事衝突が起こった。

隆重は陸軍の中尉として、中国の上海へ赴くことになっていた。

戦地に赴くことは、戦死につながるかもしれない。

切羽つまった激動の昭和の時代に多くの国民が翻弄される兆しの中で、隆重の信子への恋心は、いやが上にも高まったのだ。

 

 


創作 過去・現在・未来 続編 8)

2023年04月15日 14時18分42秒 | 創作欄

1933年(昭和8)1月から1934年(昭和9)12月にかけ、講談社が発行する「婦人倶楽部」に吉屋信子の『女の友情』(前編)が連載された。

全国の読者から編集部に投書が殺到し、好評で2年間の連載の後さらに続編執筆となり、信子の婦人雑誌連載小説では記念碑的な作品となる。

牛田信子も感動を抑える切れずに、編集部に投書を繰り返した。

連載がスタートするや1年めで空前のブームを巻き起こし、「婦人倶楽部」では講談社の初代社長だった野間清治と同夫人が、吉屋信子との誌上対談を特別に企画して実現している。

おそらく、1920年(大正9)に発行が始まった「婦人倶楽部」が、過去最高の売り上げを記録したせいなのだろう。
 いまだ「前編」のみで連載途中だったにもかかわらず、築地の東京劇場では新派の俳優たちを中心に、すでに舞台の上演までがなされていた。

老眼が進んだ野間夫妻は就寝する前、書生に『女の友情』を朗読させていたのだが、面白くて眠れなくなり午前5時ごろまで読ませつづけたこともあったらしい。それまで小説を読んで、そのような経験をしたことがなかったのだろう、野間夫妻はさっそく吉屋信子に会ってみたくなったのだ。

1935年(昭和10)1月に発行された「婦人倶楽部」の対談記事、「吉屋信子女史と野間社長夫妻の小説問答」から引用してみよう。
  
 夫人 『女の友情』ほんとに面白くて眠れません程でした。
 野間 人に読ませて聞いて居りますと、読方が下手であつても、わかりいゝのと、わかり難いのとあります。

吉屋さんなどの作品のクライマックスになる処など、非常にいゝのですが、読方が下手ですと、あのいゝ文章がぼつきりぼつきりする、それで近頃は文学の価値と云ふものが、だんだん更にわかり初(ママ)めた様で、従がつて社の仕事の上からも外の意味からも、寄稿家の皆様に対して絶大の敬意を常に怠らないやうにと伝へて居ります。(中略)殊に今度の『女の友情』などは大したもので、是非後編はみつしりと力を入れて戴くやうお願ひいたします。(中略)
 吉屋 さう仰しやつて戴けますのは、作者として果報な仕合せに存じます----私も婦人倶楽部の読者の方達は若々しくつて、それに前から、菊池先生、久米先生、加藤先生、三上先生などの御立派な作品がいつも掲載されて読者の方のお眼が肥えていらつしやるので、その大家のなかにまじる私の幼稚な作をも、よく掬みとつて下さつて、ほんとに有難いと思つて居ります。

私が此の世で一番恐ろしいのは読者の方です。・・・社長様は恐ろしくございませんわ。だつて、社長様はたつたお一人なんですもの。何か失礼しても、『ごかんべん下さい』ですみますから・・・(笑声)
 野間 これは一本参りましたな。(笑声)
 吉屋 でも、眼に見えぬ幾十万の読者のお心は恐ろしうございます。(中略)でも、後編といふものは、前編よりもはるかに難かしいと存じます。少しでも皆様のお褒めに預かつた作品は、その後編は前と同じ以上、それ以上によく書けないと、見劣りが致します。

物語のヒロインのひとりで建築家と結婚した初枝は、新婚早々に東京郊外のシャレた住宅街に住むことになるが、そのイメージは間違いなく目白文化村の街並みだったろう。

3人のヒロインの中で、もっとも明るく楽天的な八百屋の娘だった初枝は、由紀子と綾乃にはさまれて狂言まわし役をつとめることになるのだけれど、東京郊外のハイカラな情景の中で幸福に暮らす彼女の姿は、吉屋信子にとってひとつの理想像だったのだろう。

文化村を散歩しながら、そこで暮らす人々を観察しつつ創造した人物像だったのかもしれない。
吉屋信子が、建築に造詣が深かったことは有名だ。

下落合の家も彼女自身が設計しているし、その後に移り住んだ家々も、大なり小なり自分で構想を立てている。講談社の野間社長との対談でも、その点が話題になっている。
  
 野間 どうも女の小説家の前では、男は飯もよく食へんですな。(笑声) 例の鶯谷の待合の描写など、なかなか手に入つたもので、さうかと思ふと、建築請負の談合金まで知つて居られるし、それに、建築上の仕事にも非常に委しい、感心しましたよ。
 吉屋 待合の描写は残念ながら少々怪しいものでございますが(笑声)----建築のことは趣味と申しませうか、好でいろいろ御本を集めたりして、わからぬながら読み噛つて居りますので、私もし男だつたら、大学の工科へ入つて建築設計家になり度いと思ひます。

そして恋し合つた美しい奥さんを連れて、自分の設計したビルヂングを案内して『これ、みんな僕が設計したんだよ』つて、(笑声)いばつて見(ママ)たいのが理想でございます。(笑声)
  
『女の友情』には、ふたりの建築家が登場するけれど、そのうちの慎之助に理想の男性像を託した・・・と、彼女はこのあとで答えている。でも、下落合でいっしょに暮らしていたのは門馬千代であり、その共同生活の中で唯一恋をした異性は、建築家ではなく近所に住む画家だった。

 吉屋信子と野間社長夫妻との対談記事の最後に、『女の友情』に関する読者からの感想が掲載されている。

寄せられた投稿は、どれもこれもテンションがすさまじく高い。「あゝ由紀子様、エリザベート様! あまりにも貴い! 申上ぐべき言葉さへもなく、たゞ涙です----」と、まあこんな調子の感想文が並ぶのだけれど、連載中の「婦人倶楽部」が毎月発売と同時に、書店の店頭から奪われるようにして消えうせたという、当時の様子をうかがい知ることができる。

 

上田信子の母校である長野県上田高等女学校は、1901年(明治34年)7月 小県郡立上田高等女学校として創立、1914年(大正3年)長野県に移管。長野県立上田高等女学校となる、1916年(大正5年)上田町鍛治町裏(現上田合同庁舎)へ移転、。 1920年(大正9年)4月1日長野県令38号により、長野県上田高等女学校に改称。

信子の親友で同期生の君島京子は恋多き女であった。

初めの交際相手は、従兄の清島健三だった。

2人目の男は寺の息子である。

そして、3人目は友人の佐々木みち子兄の勉で、東京の大学法学部に進学した。

美貌の京子は勉を追うように上京し、東京・銀座のカフェで働き出す。

その後、女学校の恩師の木島悦子に会って、牛田優子(信子)が西荻久保に住んでいることを知る。

芳野教授の奥様から休日を抱き、信子と京子は再会して友情を深める。

杏子は当時の東京府北多摩郡三鷹村下連雀の女性だけが住む寮に住んでいた。

昭和10年には第1回芥川賞が開催され、太宰治の『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三蒼氓』)。

芥川賞選考委員であった佐藤は選評で「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」と厳しく、同じく選考委員である川端康成からは「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。

太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した

信子は吉屋信子一辺倒であり、一方の京子は太宰治に心酔していたのだが、京子の意に反して信子は「太宰は女々しい男」と侮蔑する。

後年(昭和13年)、偶然にも、太宰は甲府から下連雀に移り住む。

 

 

 

 

 

 


創作 過去・現在・未来 続編 7)

2023年04月15日 12時03分00秒 | 創作欄

牛田信子の西荻久保の芳野教授邸での奉公は、18歳から4年余に及んだ。
この間、信子の母の里子は、娘が上京し2年目に心臓で亡くなる。
実家の姉の絹江から「ハハキトク、スグニカエレ」の電報文は、皮肉なもので春一番の強風に舞って邸宅の井戸の中に紛れてしまったのだ。
貴重な電文を紛失する失態で、さぞかし配達の郵便局員は焦っただろう。
2日後に届いた2度目の電文は「ハハシス」であった。
実家の上田に戻れば、父親から結婚を強要される。
信子は母の死を深く悲しみ独り、善福寺公園の蓮が咲く池に向かって嗚咽を上げた。

4年余の歳月の中で、再び衝撃の事件に遭遇する。

昭和11年(1936年)2月26日、陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行した。

それが『二・二六事件』。

このとき高橋是清(たかはしこれきよ)、斎藤実(さいとうまこと)など首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲になった。

事件後に開かれた軍法会議では、「非公開、弁護士なし、一審のみ」で、刑が確定しました。主謀者の青年将校ら19名(20~30代)を中心に死刑となり、刑はすぐに執行された。
この事件の背景にはいったい何があったのうか。

実は、事件の起こる6年前、金輸出解禁と世界恐慌により、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に見舞われまれた。

企業は次々と倒産し、町は失業者であふれた。

さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は大変苦しく(農村恐慌)、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出てきた。

こうしたなか、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、また汚職事件が続発した。

また不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥だけが肥え太る状況が生まれた。

このため、人びとは政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部(とくに陸軍)に期待するようになった。

こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指すようになる。

実際、過激な計画や事件が続発していきます。クーデターによる軍部内閣の樹立を計画する陸軍青年将校を中心とする桜会、現役の犬養毅(いぬかいつよし)首相を暗殺(五・一五事件)した海軍青年将校、一人一殺を標榜して財界人を殺害する右翼の血盟団などです。

ちなみに、当時の陸軍には「統制派」(とうせいは)と「皇道派」(こうどうは)という2つの派閥があった。

「統制派」は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥。

彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えてた。

これに対して「皇道派」は、天皇親政を目指し、そのためには武力行使などを辞さない一派。
両派の対立は、「統制派」が勝利する。

ところが1935年、「皇道派」を締め出した「統制派」のリーダーである永田鉄山(ながたてつざん)軍務局長を、「皇道派」の相沢三郎(あいざわさぶろう)中佐が斬殺する『相沢事件』などがおきた。
これに、「皇道派」は大いに力を得て翌年、クーデターを決行したのです。
青年将校は天皇を中心とした新しい政治体制を築く『昭和維新』を掲げ、国内の状況を改善し、政治家と財閥の癒着の解消や不況の打破などを主張した。

天皇が自ら軍に指示したことは極めて異例なことであった。
しかし、同士討ちを避けたい陸軍は、武力で反乱を鎮圧するのをためらった。

すると天皇は、「私が自ら軍を率いて平定する」とまで明言したとされる。

ここにおいて、軍も本格的に動き出しました。アドバルーンをあげたり、ラジオ放送などによって、永田町一帯を陣取る反乱軍へ原隊への帰還を求めた。

その結果、将校たちも観念して兵たちを原隊へと帰らせた。

将校の二人は武力行使の責任をとって自決したが、その他の将校たちはこれらを「統制派」の陰謀と考え、『五・一五事件』、『相沢事件』と同じく、裁判闘争に訴えようと自決をやめ、宇田川町(現在の東京都渋谷区)の『陸軍刑務所』に収監された。

この事件の日、牛田信子は宮内庁病院に腎盂腎炎で入院していたので、ただならぬ気配に息を飲む。

事件で負傷した人たちが搬送っされてきて病院内は混乱きたす。

参考

死亡

重傷[編集]

[編集]

  • 岡田啓介(内閣総理大臣・海軍大将) - 殺害対象であり首相官邸を襲撃されるが、襲撃グループが松尾伝蔵を岡田と誤認・殺害したことで難を逃れた。

 

 


創作 過去・現在・未来 続編 6)

2023年04月15日 09時26分11秒 | その気になる言葉

青春時代の牛田信子の時代背景にふれる。

1931年(昭和6年)の満州事変勃発以降、ファッショ侵略に対する社会主義運動、労農運動、青年学生運動に対する弾圧が強化される。

昭和8年2月20日 プロレタリア文学の代表的な小説家の小林多喜二が検挙され警視庁築地署で虐殺される。

彼は共産主義者、社会主義者、政治運動家。日本プロレタリア作家同盟書記長の立場にあった。

二・四事件(にしじけん)は、1933年(昭和8年)2月4日から半年あまりの間に、長野県で多数の学校教員などが治安維持法違反として検挙された事件。

二・四事件で弾圧された教員の多くは、子どもたちや父母を始め、周囲から信頼されていた優れた教員であった

農村の貧しい子どもたちを前に暮らしを良くしたいと思い軍国主義の台頭に抗して反戦を唱え、労働組合や農民組合に関与したものも大勢いた

弾圧の対象となったのは、県内の日本共産党、日本共産青年同盟、日本プロレタリア文化連盟関係団体や、労働組合、農民組合など広範囲に及んだ。彼らは国定教科書に反対していた。

特に日本労働組合全国協議会(全協)や新興教育同盟準備会の傘下にあった教員組合員への弾圧は大規模で、全検挙者608名のうち230名が教員であった。

このため、この事件は「教員赤化事件」、「左翼教員事件」などとも呼称された。

長野県では、大正時代以来、白樺派などの影響を受けた自由主義教育が盛んであったが、1930年代に入ると、そのような伝統の上に、左翼的教育運動である新興教育運動が広がりを見せるようになった。

1910年4月、学習院出身の武者小路実篤、有島武郎、志賀直哉らによって、文芸雑誌「白樺」が創刊された。

当時は、雑誌のもつ影響力は大きく、「白樺」の文芸思潮と同人たちは「白樺派」と呼ばれるようになる。

彼らは、ロシアの思想家トルストイの文学から影響を受けた人道主義を基板に、理想主義、個人主義を追い求めた。

このため、この事件は「教員赤化事件」、「左翼教員事件」などとも呼称された。

4月までに検挙された教員のうち28名が起訴され、このうち13名が有罪となって服役した。

また、検挙された教員のうち、115名が何らかの行政処分を受け、懲戒免職や諭旨退職によって教壇から追われた者も33名にのぼった。

二・四事件の大規模弾圧によって、長野県の教育は、新興教育のみならず自由主義的伝統も失われ、満蒙開拓青少年義勇軍の大規模な送り出しに象徴される戦争協力体制への著しい傾斜を見せることになった

信子は、恩師たちの中に検挙された教員がいるのかを心配する。

そして、電話が普及していない時代なので手紙で姉の絹江に尋ねた。

だが、姉からの返事はなかった。

絹江は元小作人だった婿の義男が共産主義に傾倒していることを知っていたからだ。

1933年3月24日 ドイツ、全権委任法案が可決され、ナチスの1党独裁が始る。

1933年9月21日 宮沢賢治、没。37歳。信子は唯一宮沢賢治の詩が好きであった。

日本はますます暗い時代突入していく。

そして、信子は「軍人の妻だけには、絶対にならない」と決意する。

信子が奉公する芳野教授の奥様の父親は、大分県出身の陸軍大将の立場で、中国大陸への侵攻に尽力をしていたのだ。

 

<参考>

長野県出身者の女性の性格

堅実で真面目な性格なのは男性と同じですが、生真面目な男性と共に育ったからか、高い柔軟性を持ち、臨機応変に相手にも状況にも合わせることが出来るところが大きな特徴です。

一緒に過ごす人が、安心して本音を見せられるような包容力があります。
自分のことは多く話しませんが、人の話を聞くのが好き。
出しゃばらず、聞き上手なので、多くの人から好印象を受けるでしょう。

理知的で、感情で動くことは殆どありません。
今自分にできることは何か、どう動けばいいのかを冷静に判断して行動します。

目標を定めると、達成するまで努力し続ける忍耐力がありますが、人前で努力や根性という姿は見せません。
几帳面なので、ミスや挫折が少ない代わりに、他人のミスに厳しいところがあります。

ファッションやメイクは地味で清楚さを好みます。
本音を見せる相手はごく一部に限られ、狭く深い関係を築こうとします。

正しく生きることをモットーにし、清廉潔白な人柄は、時と場合によっては「人間味が感じられない」と思われることもありそうです。

南信の部下はおおらか。ミスしても動じない芯の強さを持っているが、大ざっぱなので常にチェックを。

昔から「勉強して出世する」ことを「良し」としてきた長野県民は、品行方正で優等生タイプ。
理性的で、与えられたことに真摯に向き合う真面目な性格です。
感情的になることがなく、周りが騒いでいても一人で大人しく座っているような、クールな人です。

人当たりは悪くありませんが、一定の距離を保ち、ベタベタと親密な関係になることを避けます。
慎重で几帳面な性格です。

努力することを当たり前としているので、努力をしないで怠けている人が嫌いです。
大勢の中では口数も少なく、目立つタイプではありませんが、勉強や仕事の場面では、自分の考えをはっきりと発言します。




映画 ブラックブック

2023年04月15日 05時59分33秒 | 社会・文化・政治・経済

 

ブラックブック
ブラックブック」スリルとエロス、あっと驚くどんでん返し: J ...
ブラックブック」スリルとエロス、あっと驚くどんでん返し: J ...

ブラックブック」スリルとエロス、あっと驚くどんでん返し

映画 「ブラックブック」 感想 | Grain de Folie -Fragrance ...
映画 「ブラックブック」 感想 | Grain de Folie -Fragrance ...

4月14日午前3時15分からCSテレビのザ・シネマで観た。

解説

「氷の微笑」の鬼才ポール・バーホーベン監督が、23年ぶりに故郷のオランダでメガホンを取ったサスペンス・ドラマ。1944年、ナチス・ドイツ占領下のオランダ。

ユダヤ人の女性歌手ラヘルは、オランダ南部への逃亡中に、何者かの裏切りによって家族をドイツ兵に殺されてしまう。復讐を胸に誓った彼女は、名前をエリスと変えてレジスタンスに身を投じる。彼女はスパイとしてドイツ将校ムンツェに近づき、彼の愛人になるが……。

善悪の彼岸に身を置くバーホーベン監督らしくナチスを完全な悪人として描かず、レジスタンスも善人ばかりとして描いていない。

出演者

 

2006年製作/144分/PG12/オランダ・ドイツ・イギリス・ベルギー合作
原題:Zwartboek
配給:ハピネット

思えばハリウッドの世紀末とは、バーホーベンがレイティングの壁と闘いながら倒錯的なセックスとバイオレンスで全世界を魅了して暴れまくり、挙句の果ては透明人間になったくせに(「インビジブル」)、無残にも去勢されていった時代だった。

母国オランダに還った彼は、意気揚々とリビドーを再起動させ、歴史の闇と戦争の本質を暴きながら、一筋縄ではいかない戦時下の錯綜した人間模様と人間性のはらわたを描き出している。

ユダヤ対ナチスといえば、映画が幾度も描いてきた差別や善悪の構図だが、しかしそこはあくまでもバーホーベン。スピルバーグのように深刻になることも、ポランスキーのように峻厳になることもなく、どこまでも娯楽サスペンスを基調とする。

家族をナチスに惨殺されたユダヤ人ヒロインはレジスタンスのスパイとなり、陰毛までブロンドに染めて敵地に潜入し、復讐の機会を窺う。ところが、英雄的な組織といえども一枚岩ではないところに、この映画の真骨頂がある。

善人ぶった悪人ほど始末の悪いものはない。

騙し合いの果てに訪れる終戦。最もグロテスクなのは、ナチス高官でも、欺いた仲間でもなかったという真実。

“彼ら”の手によってヒロインが“汚物”にまみれる場面こそクライマックスだ。

ここでは虐殺も裏切りもファックも、当然の出来事のようにあっけらかんと描かれる。

醜く馬鹿げた行為を声高に告発しようとはしていない。人間とは元来そんな生き物さ、とバーホーベンは高らかに笑い飛ばしているかのようでさえある。

清水節