牛田信子の兄の善兵衛は近衛兵であった。
長野県上田の村長であった信子の父親は、一人息子が近衛兵になったことを誇っていた。
だが、村長は芸者遊びに明け暮れていて、村の人々は呆れかえっていたのだ。
その一人息子の善兵衛が自宅座敷での婚礼の席から突然姿を消したことで、大騒ぎとなる。
「長い便所だね」花婿が宴席から退席したことを来客たちは当初、笑い合っていた。
だが、1時間経ても花婿は戻らなかった。
花嫁は胸騒ぎがして、おろおろしていたが、高島田を揺らしながら突然大声で泣き出す。
媒酌人の夫人が、花嫁を抱きかかえて別室へ向かった。
父親は下男と下女を呼び付け「善兵衛を探して来るんだ」と命令する。
来客たちも、「これは尋常ではない」と思い花婿を探しに行く。
川へ向かう人、山林へ向かう人の大半が和服姿であり、草履で河原で足を滑らせる人もいた。
結局、2時間後に竹藪の中で花婿が短刀で自決していることを従兄の牛田昇によって発見される。
腹を切り、首の頸動脈を切っての壮絶な死であったのだ。
遺書を遺しておらず、死因は不明に終わる。
実に皮肉である。翌日、婚礼の席は葬儀の席に変わってしまった。
兄と12歳年下で15歳の少女信子は兄の死に大きな衝撃を受けるとともに、「こんな村から出ていきたい」と思ってのである。
参考
近衛兵は、大日本帝国全国から選抜された兵士によって充足されていた。
近衛兵になることは大変な名誉とされた。
軍服も一般師団とは区別されていた。
近衛師団は日露戦争以降長らく実戦経験がなく、盧溝橋事件勃発後にも出動命令が下ることがなかった。
このことから、出動命令を受けた他の師団より「あれはおもちゃの兵隊さんではないか」と揶揄されることも少なくなかった。
たまりかねた師団長の飯田貞固中将は昭和天皇と面会した折「将兵一同は皆出征を希望しております」と具申。
天皇は驚いて「そんなに皆、出たがっているのか」と承諾した。
こうして1939年(昭和14年)、日中戦争に動員下令、近衛第2師団の前身となる近衛混成旅団となる。
近衛混成旅団は第21軍隷下となり、南支那方面軍として広東に上陸する。近衛混成旅団は広東作戦、南寧作戦(翁英作戦は中止)に従軍し、南寧を包囲する国民革命軍と激戦を展開した。