長野県上田に生まれ育った優子は、女学校の恩師の木島悦子の影響から、本を読む魅力に目覚めた。
国語教師の木島先生は、吉屋信子の小説に登場するような魅力的な教師であった。
「本は心の栄養です。本には、賢い心も、優しい心も、豊かな心も、いっぱいつまっています」
木島先生は読書ともに、島村藤村の若菜集などの詩集を読むことも奨励した。
木島先生は読書ともに、島村藤村の若菜集などの詩集を読むことも奨励した。
でも、優子は吉屋信子一辺倒になる。
「花物語」は、少女たちの出会い、友情、別れにまつわる短編で構成されていた。
小説には少年や男性は登場しないで女性だけの世界が描かれていた。
少女たちの繊細な心情が独特の話言葉で綴られていた。
少女たちの繊細な心情が独特の話言葉で綴られていた。
小説の時代背景に大正ロマンがあったのだ。
大正時代の個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮と和洋折衷の先進的な文化に対し、明治末まで文学・美術界で流行していたロマン主義(明治浪漫主義)を拡大してかぶせて、また甘美で抒情的でロマンチックであるという憧れをもって、後世このように呼ばれるようになった。
吉屋信子の代表作は、少女を読者にしているいわゆる少女小説であり、文章は平易で美しく、しかもモダンだった。
そのモダンさが、田舎の娘心を駆り立てたのである。
花物語の世界では、女性同士の愛情表現の中で、憧れの西洋の文化が描かれていた。
花物語の世界では、女性同士の愛情表現の中で、憧れの西洋の文化が描かれていた。
優子は俗名を信子と変名することとなる。
そして、吉屋信子に会いに上京した。
自宅に押し掛け、無謀にも会って「先生、弟子にしてください」と懇願する。
だが「弟子はとりません」と拒絶され落胆して上田に戻る。
その経緯の詳細について、優子は生涯語ることはなかった。
姉の絹江に「憧れの人に、冷たくされた」と言って塞ぎ込んでいたそうだ。
参考:吉屋信子 少女向け作家ゆえの夢想的な性格が、戦中期の時局追随、植民地主義の正当化につながったという厳しい批判もある。