不寛容論―アメリカが生んだ「共存」の哲学―

2023年04月17日 09時53分56秒 | 社会・文化・政治・経済
不寛容論―アメリカが生んだ「共存」の哲学―(新潮選書) by [森本あんり]
 
 
「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」――こんなユートピア的な寛容社会は本当に実現可能なのか。
不寛容がまかり通る植民地時代のアメリカで、異なる価値観を持つ人びとが暮らす多様性社会を築いた偏屈なピューリタンの苦闘から、その「キレイごとぬきの政治倫理」を読み解く。
 
『反知性主義』に続く、異形のアメリカ史。

森本あんり
1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)人文科学科教授。国際基督教大学人文科学科卒。
東京神学大学大学院を経て、プリンストン神学大学院博士課程修了。
プリンストンやバークレーで客員教授を務める。
専攻は神学・宗教学。
著書に『アメリカ的理念の身体』(創文社)、『反知性主義』(新潮選書)、『宗教国家アメリカのふしぎな論理』(NHK出版新書)、『異端の時代』(岩波新書)、『キリスト教でたどるアメリカ史』(角川ソフィア文庫)など。
 
自分のことは自分で決める。
そこには責任が伴う。
寛容とは、自分と異なる人や、自分が否定的に評価するものを、受け入れること。
無関心なことに対しては、そもそも寛容にも不寛容にもなれない。
日本人は、宗教に寛容でも不寛容でもなく、「無寛容」なのだ。
ところがこの無寛容は、時として、狂暴な不寛容に転じる。
自分に無関係なうちは鷹揚にしていた人が、ひとたびそれを<異物>として認識するや否や、徹底的に排除しようとしていくようになるのだ。
そうならないためには、自分で決めて、その帰結を引く受ける覚悟を身に付けることだと思う。
自分の生き方を選び取っている人は、人をうらやんだりしない。
反対に、自分の生き方に自信を持っていない人は、それができる人に対して、危機感や脅威を感じるものだ。
突き詰めれば、自分の幸福に責任を持つべきだということだ。
最終的には、自分自身で幸福になる道を選び取るしかない。
 
憲法が保障しているのは、その選び取る権利のほうです。
例えば「言論の自由」は、もともとは宗教的な言論の自由のことです。
同じように、「結社の自由」も「出版の自由」も、信仰活動を妨げようとする働きにたいする、ピューリタンの抵抗から育まれたものです。
 
例えば、戦争や虐殺をする人間に寛容になれないし、なるべきでもない。
全ての文化で同じ価値観が共有されることはない以上、時と場合によっては、不寛容にならざるを得ないことはある。
そう考えると、私たちに必要なのは、寛容の理解や押し付けではなく、不寛容の理解だと思う。
不寛容な人々にも、それなりの理由がある。
それを何とか理解しようと努力しない限り、互いに歩み寄ることはできない。
相手を責めるばかりで対話は成り立たない。
 
「不寛容という限界があってこそ寛容が生まれる」という意味で、「不寛容論」を書きました。
分ち合えない相手や、自分を批判してくる人に対しても、関係を切らないことです。
忍耐です。礼節を保ち、つながっていく。
 
「筋金入りの寛容」です。
信仰とは、そういう無条件の肯定や是認が与えられることだと思います。
そういう信仰を共有する人々が周囲にいれば、さらにそれが実感できるでしょう。
そのつながりの中で幸福を見いだし、真の寛容を育んでいけるのだと思います。
 
 
17世紀のニューイングランドへの植民者ロジャー・ウィリアムズの人生をたどりながら、非寛容と寛容について議論を尽くした一冊。
「自分にとって自分の信仰はかけがえのない尊いものである。だから、他者にとっても、つまりカトリックやムスリムや無宗教者にとっても、自分の信念は大切であるに違いない」(本書から引用)
ウィリアムズのこの寛容の論理は、様々な分断が先鋭化する現代社会に、一筋の光を投げかけてくれます。
〈社会への異議申し立て者〉から〈社会の運営者〉へと立場が変わったときにウィリアムズが直面した困難は、自由・自律と社会的統制の緊張関係という政治の永遠の課題を浮き彫りにしていると感じました。
 
今の世に、寛容か必要と思い読みました。しかし、寛容とは自分が一段と上に立っている時き思う事で、そんなに生易しい事ではないと理解しました。
アメリカ政治の考え方を少し理解できたのは、良かったです。
そもそも、国の成り立ちが日本とは違う。トランプは嫌いですが、トランプ的な考えが生まれる背景は、理解できました。
 
 
「寛容」はよいこと、という常識的な信憑を丁寧に検討し、その盲点を的確に指摘しています。抽象的な寛容論ではなく、アメリカ植民地時代に生きたロジャー・ウィリアムズの生涯をたどり、その足跡に沿って伝統的な寛容論を展開していきます。絶対に譲れない内心の不寛容こそが寛容の土台となるのでR。
 
 
本書はアメリカ初期の入植者ロジャー・ウィリアムズの半生とその著作から、彼の説く「寛容」の実体に迫っている。わたしが著者に強く共感するのはウィリアムズの強烈な個性への公平な評価である。また70歳を過ぎてからのクエーカー教徒への批判を通じて、現代のリベラル主義的なウィリアムズ像に疑問を投げかけてもいる点も新しい。キリスト教に宗教的確信を持つウィリアムズが目指した寛容は、受け入れ難いものを無理に(自分を偽って)好きになったり理解しようとすることではなく、自分自身がその信仰や礼拝を他者に邪魔されたくないのと同様に、他者もまたそうされたくはないはずだという発想から出発する。それは最低限の礼節だ、と。人間が到達できる寛容など、実はその程度のものかもしれない。しかし、それこそが現代を生きる我々への宿題なのだ、とわたしは感じた。
 
 
基本的には、宗教的な側面から「寛容・不寛容」を論じている本ですが、「寛容」の意味を再確認する良い機会になりました。

 
 
 

虐待や強制という方法では、信仰は伝わらない。

2023年04月17日 09時31分42秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

元総理銃撃事件事件(昨年7月)。

それ以降、宗教の在り方や、信仰と社会との関係性が改めて問われる状況となる。

事件を機に、反社会的な宗教団体と一部の政治家との関係が明るみ出てきた。

それまで蓋をされていた問題が顕在化したのである。

一方、この問題と共に論じられたのが「宗教二世」を巡っては、少し注意が必要だ。

まずその大前提は、宗教が関わろうが関わるまいと、子ども一人一人に人権があることだ。

子どもは尊重されるべきだ。

ネグレクトや体罰、自由の侵害がゆるされてはならない。

子どもに何を教え、どう育てたいのか。

教育には、常に価値観が含まれる。

「宗教二世」の切実な訴えは、次世代に信仰を伝えるという本来の目的が失敗していることを示している。

虐待や強制という方法では、信仰は伝わらない。

日本では世論が宗教をまるごろ否定したり、危険視したりしがちだ。

東京女子大学 森本 あんり 学長


映画 山河ノスタルジア

2023年04月17日 08時33分16秒 | 社会・文化・政治・経済

4月17日午前6時からCSテレビのザ・シネマで観たが、これで2度目。

後半で、「ああ、前にも観ている」と気づいたが、前半の記憶がほとんどなかった。
3角関係の男女。友情と恋愛の狭間がドラマの核心部分であった。
女性の立場では「よい、友達」の関係。
だが、男の立場では恋愛関係であり、この心のすれ違いは実に微妙で皮肉以外のなにものでもない。

山河ノスタルジア
タイトル表記
簡体字 山河故人
英題 Mountains May Depart
各種情報
監督 ジャ・ジャンクー
脚本 ジャ・ジャンクー
製作 市山尚三

出演者 

タオ - チャオ・タオ
リャンズー - リャン・チントン
ジンシェン - チャン・イー
ダオラー - ドン・ズージェン
ミア - シルヴィア・チャン
音楽 半野喜弘
撮影 ユー・リクウァイ
製作会社 上海映画グループ

『山河ノスタルジア』

(さんがのすたるじあ、原題: 山河故人)は、ジャ・ジャンクー監督による2015年の中国・フランス・日本合作映画。

撮影は中国とオーストラリアにて行われた。第68回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品された。中国およびフランスでの公開は2015年、日本では2016年4月23日に公開された。

2016年のキネマ旬報外国映画ベストテンでは5位にランクインした。

あらすじ

1999年、山西省・汾陽(フェンヤン)。父親の家電屋で働くタオは、炭鉱で働く引っ込み思案なリャンズーと実業家で自信家のジンシェンの、二人の幼なじみから想いを寄せられていた。やがてタオはジンシェンからのプロポーズを受け、息子・ダオラー(「ドル」の意)を授かる。

2014年。タオはジンシェンと離婚し、一人汾陽で暮らしていた。ある日突然、タオを襲う父親の死。葬儀に出席するため、タオは離れて暮らすダオラーと再会する。

タオは、彼がジンシェンと共にオーストラリアに移住することを知ることになる。

2025年、オーストラリア。19歳のダオラーは長い海外生活で中国語が話せなくなっていた。

父親と確執がうまれ自らのアイデンティティを見失うなか、中国語教師ミアとの出会いを機に、かすかに記憶する母親の面影を探しはじめる。

1999年、山西省・汾陽<フェンヤン>。
小学校教師のタオは、炭鉱で働くリャンズーと実業家のジンシェンの、二人の幼なじみから想いを寄せられていた。
やがてタオはジンシェンからのプロポーズを受け、息子・ダオラーを授かる。
2014年。タオはジンシェンと離婚し、一人汾陽で暮らしていた。
ある日突然、タオを襲う父親の死。葬儀に出席するため、タオは離れて暮らすダオラーと再会する。

タオは、彼がジンシェンと共にオーストラリアに移住することを知ることになる。
2025年、オーストラリア。
19歳のダオラーは長い海外生活で中国語が話せなくなっていた。
父親と確執がうまれ自らのアイデンティティを見失うなか、中国語教師ミアとの出会いを機に、かすかに記憶する母親の面影を探しはじめる―。

世界三大映画祭すべてで受賞をはたした名匠ジャ・ジャンクー。
最新作で描くのは、母と子の愛から浮かび上がる、過去・現在・未来へと変貌する世界と、それでも変わらない市井の人びとの想い。
本作は第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品された。
上映後には5分以上にわたりスタンディングオベーションが贈られ、観客はこの一大叙事詩に胸を打たれ、互いに想い合うひたむきな愛の姿に共感の涙を流した。
先立って公開された中国やフランスでは、ジャ・ジャンクー作品としては最大のヒットを記録し、世界を大きな感動に包みこんだ。

デビュー作『一瞬の夢』以来、いかなる作品でも市井の人びとと同じ目線に立ち、彼らの営みから“中国のいま”を映し続けてきたジャ・ジャンクー監督。
本作は中国が飛躍的に発展を遂げた90年代後半から物語が始まり、初めて未来にまで迫った大胆な野心作だ。
経済成長のなかで人びとはより良い生き方を求め、ある者は故郷を去り、ある者はその場に留まる選択をしていく。
時代のうねりのなかで翻弄されながら、彷徨い漂泊し続ける人びと。
しかし、たとえ変わりゆく中でも、人びとは精一杯に生きている。
想いを伝達する手段が大きく変貌した未来でも、技術の進歩ではないものが人の心を繋いでいく。
その姿に、我々は希望を見出すに違いない。私たちは知っている。どんなに遠く離れていても、この空はちゃんとつながっているということを。

本作は、過去・現在・未来の3つの時代で映画を構成するという大胆な試みに挑んでいる。
1999年パートと2014年パートでは、カメラマンのユー・リクウァイと撮影した当時の映像を挿入し、時代を生きる人々の息遣いが映画に瑞々しい手触りを与えている。
さらにジャ・ジャンクー監督作品では初となる、オーストラリアでの撮影を敢行している。

25歳から50歳に至るヒロインのタオを演じたのは、ジャ・ジャンクー作品のミューズであるチャオ・タオ。
幼なじみのリャンズー役を演じたのは『プラットホーム』にも出演したリャン・ジンドン。
ジンシェン役に起用されたのは、テレビドラマで人気を獲得し、映画への出演が相次ぐチャン・イー。
タオの息子ダオラー役は、主演作が相次いで公開される人気急上昇中の若手スター、ドン・ズージェン。
そして、ミア役を演じたのは、香港・台湾映画界の大スター、シルヴィア・チャン。
ジャ・ジャンクー作品の常連俳優にスター、新鋭を加えた豪華な顔ぶれとなっている。さらに劇中には、ペット・ショップ・ボーイズの「GO WEST」やサリー・イップの「珍重」など当時の流行歌を盛り込み彩りを添えている。
そして、本作がジャ・ジャンクー作品の3度目の参加となる半野喜弘の旋律は観る者の郷愁を誘い、深く心に染みわたる。