![不寛容論―アメリカが生んだ「共存」の哲学―(新潮選書) by [森本あんり]](https://m.media-amazon.com/images/I/41L1xrfpgIL._SY346_.jpg)
森本あんり (著
「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」――こんなユートピア的な寛容社会は本当に実現可能なのか。
不寛容がまかり通る植民地時代のアメリカで、異なる価値観を持つ人びとが暮らす多様性社会を築いた偏屈なピューリタンの苦闘から、その「キレイごとぬきの政治倫理」を読み解く。
『反知性主義』に続く、異形のアメリカ史。
森本あんり
1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)人文科学科教授。国際基督教大学人文科学科卒。
森本あんり
1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学(ICU)人文科学科教授。国際基督教大学人文科学科卒。
東京神学大学大学院を経て、プリンストン神学大学院博士課程修了。
プリンストンやバークレーで客員教授を務める。
専攻は神学・宗教学。
著書に『アメリカ的理念の身体』(創文社)、『反知性主義』(新潮選書)、『宗教国家アメリカのふしぎな論理』(NHK出版新書)、『異端の時代』(岩波新書)、『キリスト教でたどるアメリカ史』(角川ソフィア文庫)など。
自分のことは自分で決める。
そこには責任が伴う。
寛容とは、自分と異なる人や、自分が否定的に評価するものを、受け入れること。
無関心なことに対しては、そもそも寛容にも不寛容にもなれない。
日本人は、宗教に寛容でも不寛容でもなく、「無寛容」なのだ。
ところがこの無寛容は、時として、狂暴な不寛容に転じる。
自分に無関係なうちは鷹揚にしていた人が、ひとたびそれを<異物>として認識するや否や、徹底的に排除しようとしていくようになるのだ。
そうならないためには、自分で決めて、その帰結を引く受ける覚悟を身に付けることだと思う。
自分の生き方を選び取っている人は、人をうらやんだりしない。
反対に、自分の生き方に自信を持っていない人は、それができる人に対して、危機感や脅威を感じるものだ。
突き詰めれば、自分の幸福に責任を持つべきだということだ。
最終的には、自分自身で幸福になる道を選び取るしかない。
憲法が保障しているのは、その選び取る権利のほうです。
例えば「言論の自由」は、もともとは宗教的な言論の自由のことです。
同じように、「結社の自由」も「出版の自由」も、信仰活動を妨げようとする働きにたいする、ピューリタンの抵抗から育まれたものです。
例えば、戦争や虐殺をする人間に寛容になれないし、なるべきでもない。
全ての文化で同じ価値観が共有されることはない以上、時と場合によっては、不寛容にならざるを得ないことはある。
そう考えると、私たちに必要なのは、寛容の理解や押し付けではなく、不寛容の理解だと思う。
不寛容な人々にも、それなりの理由がある。
それを何とか理解しようと努力しない限り、互いに歩み寄ることはできない。
相手を責めるばかりで対話は成り立たない。
「不寛容という限界があってこそ寛容が生まれる」という意味で、「不寛容論」を書きました。
分ち合えない相手や、自分を批判してくる人に対しても、関係を切らないことです。
忍耐です。礼節を保ち、つながっていく。
「筋金入りの寛容」です。
信仰とは、そういう無条件の肯定や是認が与えられることだと思います。
そういう信仰を共有する人々が周囲にいれば、さらにそれが実感できるでしょう。
そのつながりの中で幸福を見いだし、真の寛容を育んでいけるのだと思います。
17世紀のニューイングランドへの植民者ロジャー・ウィリアムズの人生をたどりながら、非寛容と寛容について議論を尽くした一冊。
「自分にとって自分の信仰はかけがえのない尊いものである。だから、他者にとっても、つまりカトリックやムスリムや無宗教者にとっても、自分の信念は大切であるに違いない」(本書から引用)
ウィリアムズのこの寛容の論理は、様々な分断が先鋭化する現代社会に、一筋の光を投げかけてくれます。
〈社会への異議申し立て者〉から〈社会の運営者〉へと立場が変わったときにウィリアムズが直面した困難は、自由・自律と社会的統制の緊張関係という政治の永遠の課題を浮き彫りにしていると感じました。
「自分にとって自分の信仰はかけがえのない尊いものである。だから、他者にとっても、つまりカトリックやムスリムや無宗教者にとっても、自分の信念は大切であるに違いない」(本書から引用)
ウィリアムズのこの寛容の論理は、様々な分断が先鋭化する現代社会に、一筋の光を投げかけてくれます。
〈社会への異議申し立て者〉から〈社会の運営者〉へと立場が変わったときにウィリアムズが直面した困難は、自由・自律と社会的統制の緊張関係という政治の永遠の課題を浮き彫りにしていると感じました。
今の世に、寛容か必要と思い読みました。しかし、寛容とは自分が一段と上に立っている時き思う事で、そんなに生易しい事ではないと理解しました。
アメリカ政治の考え方を少し理解できたのは、良かったです。
そもそも、国の成り立ちが日本とは違う。トランプは嫌いですが、トランプ的な考えが生まれる背景は、理解できました。
アメリカ政治の考え方を少し理解できたのは、良かったです。
そもそも、国の成り立ちが日本とは違う。トランプは嫌いですが、トランプ的な考えが生まれる背景は、理解できました。
「寛容」はよいこと、という常識的な信憑を丁寧に検討し、その盲点を的確に指摘しています。抽象的な寛容論ではなく、アメリカ植民地時代に生きたロジャー・ウィリアムズの生涯をたどり、その足跡に沿って伝統的な寛容論を展開していきます。絶対に譲れない内心の不寛容こそが寛容の土台となるのでR。
本書はアメリカ初期の入植者ロジャー・ウィリアムズの半生とその著作から、彼の説く「寛容」の実体に迫っている。わたしが著者に強く共感するのはウィリアムズの強烈な個性への公平な評価である。また70歳を過ぎてからのクエーカー教徒への批判を通じて、現代のリベラル主義的なウィリアムズ像に疑問を投げかけてもいる点も新しい。キリスト教に宗教的確信を持つウィリアムズが目指した寛容は、受け入れ難いものを無理に(自分を偽って)好きになったり理解しようとすることではなく、自分自身がその信仰や礼拝を他者に邪魔されたくないのと同様に、他者もまたそうされたくはないはずだという発想から出発する。それは最低限の礼節だ、と。人間が到達できる寛容など、実はその程度のものかもしれない。しかし、それこそが現代を生きる我々への宿題なのだ、とわたしは感じた。
基本的には、宗教的な側面から「寛容・不寛容」を論じている本ですが、「寛容」の意味を再確認する良い機会になりました。