生前の吉屋信子は、しばしば批評家から黙殺されることを嘆き、小林秀雄が彼女の作品に嫌悪をあらわにしたことに憤慨し傷つきもしたようだ。
ある夜、文壇の会合で小林秀雄がスピーチをした。その中で流行作家、吉屋信子の小説を厳しく批評した。 「私はちよつと読んだだけだが、あれはダメです」。
その席の後の方に、まずいことに吉屋信子がいた。
「小林さん、何ですか、ずいぶん失礼じやないの。読みもしないで人の作品をよくもけなしたわね。よく読んでから批評しなさいよ」吉屋信子は気厳しい口調で抗議した
「吉屋さん、いいですか、患者の身体を全部診ないとわからないのはヤブ医者。名医は顔色みて、脈を見ればわかるんです。私はね、あなたの小説を二頁読んでるんですよ。そりやぁ、わかりますよ」小林秀雄は毅然と反論したのだ。
1896年に新潟県で生まれた吉屋信子は、5人の子供のうち唯一の娘であった。
この生い立ちは、彼女のジェンダーに対する姿勢や、男性中心社会への憤りに大きな影響をもたらした。
1915年、吉屋は東京に移住し、その後この土地に住み続けることになる。
彼女は日本の先駆的なフェミニスト誌『青鞜』の集会に出席するようになった。
そこで、男性の恩恵を受けない生き方を切り開こうとする、他の近代女性作家たちと出会ったのである。
このコミュニティの支えもあり、吉屋はその髪型を伝統から外れた短いボブにし、男性用の服を着るようになった。
吉屋信子の読者は、子どもから大人になりつつある少女たちが、お互いに抱く様々な感情、憧れが美しく描写されており、うっとりするような気持ちになったのであろう。
実際この時代、学校を出たら結婚せざるを得ない女性がほとんど だからこそ一時の感情は花のように儚く、そして鮮やかなのものであったと思われる。
少女の姿を花として描いた短編集「花物語」。
美しく志高い生徒と心通わせる女教師、実の妹に自らのすべてを捧げた姉……
可憐に咲く花のような少女たちの儚い物語。
「女学生のバイブル」と呼ばれ大ベストセラーになった珠玉の短篇集。
高雅な文体で綴られる色んなタイプの少女の物語で、誰かへの憧れが艶やかに描かれていたり、少女の寂しさやままならなさを描いていたり、少女同士の交流や一方的な感情だとしても永遠を決めてしまうような出会いが描かれていた。
異性への淡い恋心ていう要素以外は、いろんな少女の感情や考えが詰め込まれていた。
長野の田舎娘であった牛田優子(後年、信子に変名)は可憐に咲く花のような少女たちの儚い物語を描いた作家の吉屋信子に魅せられた。