利根輪太郎の競輪人間学 7番本命◎が惨敗

2023年09月08日 15時22分20秒 | 未来予測研究会の掲示板

FⅠ 松坂競輪 丸井食品鶏焼き肉&CTC杯

最終日(9月8日)

並び予想 7-1  5-3 6-2 (4単騎)

レース評

連日期待を裏切っている林に三度目の正直を期待したい。藤田との逃げ差し争い本線だが自在戦の嶋津は怖い。伊藤に注意。

1番人気 7-1(6・2倍)

2番人気 7-5(8・2倍)

以下の3連単で勝負する。

7-1-4(24・9倍)

7-1-5(15・3倍)

7-5-1(20・3倍)

7番は先行してしまう。

たとえ格上選手でも先行したら、車券には絡まない!

そんな<ぶざまばレース>を見せつけられる。

だが、出目作戦の立場では、1-4は、4レースの5-1の下がり目の4-1 1-4なのだ、後で気がついても空しい!

結果 1-4 4,810円(17番人気) 1-4-5 1万8,780円(60番人気)





選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 藤田 昌宏   11.9    
2 4 小橋 秀幸 1/4車輪 11.8    
× 3 5 嶋津 拓弥 3/4車身 11.7   S  
4 3 川口 直人 1車輪 11.7      
5 7 林 昌幸 1/2車輪 12.2   B  
6 2 伊藤 正樹 3/4車身 11.6      
  7 6 松岡 晋乃介 大差 12.9

 

7レース

並び予想 1-5-4 3-6 7-2

レース評

伊藤は最後方まで下げ切っての捲り。好回転で前をグングン飲み込み頭まで突き抜ける。畝木−三ツ石のセットも攻撃力は高い

1番人気 3-5(5・8倍)

2番人気 3-1(6・7倍) 3-2(6・7倍)

以下の車券で勝負した。

3-5-1(14・1倍)

3-5-2(25・9倍)

3-2-7(16・3倍)

3-2-5(29・9倍)

3-1-2(36・2倍)

3-1-5(12・9倍)

3-7-2(17・8倍)

出目作戦なら5レース2-7の上がり目の3-7からかうべきだった、と悔やまれた。

3-5 3-2 3-1で決まると決めつけたのが敗因だった。

 結果 3-7 770円(4番人気) 3-7-1 3,480円(8番人気)

1 3 伊藤 信   11.7 B  
× 2 7 畝木 努 4車身 11.4    
3 1 梁島 邦友 微差 11.6   S  
4 5 大澤 雄大 1車身 11.6      
5 2 三ツ石 康洋 3車身 11.4      
6 4 台 和紀 2車身 11.7      
  7 6 藤原 誠 大差 13.3

 


生きる哲学

2023年09月08日 10時36分28秒 | 社会・文化・政治・経済

若松 英輔 (著)
 
祖国を離れ、ひとり異国の地をひたすらに歩いた作家・須賀敦子。
強制収容所で絶望を目の当たりにしながら、生きる意味を問うた精神科医・フランクル―。
寄る辺なき時にあっても自分の足で確かに立ち、新たな思索を切り拓いた14人の「生きる哲学」を読む。
 
人間についての普遍的な原理を難しい言葉で記述するばかりが「哲学」ではない。

書物に書かれている高尚な哲学ばかりが「哲学」ではない。

ときに肉声のなかに、手紙のなかに、あるいは人知れぬ行為のなかに、真の哲学は宿っている――。

食に命をこめる料理研究家・辰巳芳子。

震災や戦争に際して遺族に祈りを捧げた美智子皇后。

歩く、祈る、見る、聴く、喪う。「悲しみ」ともいうべき人生の場面で言葉を紡ぎ、ある哲学を体現した者たちの「生きる哲学」を、その行為のなかに読む。

序章 生きる――言葉と出会うということ
1章 歩く――須賀敦子の道
2章 彫る――舟越保武の「かたち」が照らす光
3章 祈る――原民喜の心願
4章 喪う――『論語』の哀しみ
5章 聴く――志村ふくみと呼びかける色
6章 見る――堀辰雄と風が告げる訪れ
7章 待つ――リルケと詩が生まれるとき
8章 感じる――神谷美恵子の静かな意思
9章 目覚める――寄り添うブッダ
10章 燃える――宮澤賢治と病身の妹トシ
11章 伝える――フランクルが問う人生の意味
12章 認める――辰巳芳子と「いのち」
13章 読む――皇后と愛しみが架ける橋
終章 書く――井筒俊彦と「生きる哲学」
 

 古今東西の碩学泰斗が体現した「哲学」とは何だったのか。。。

須賀敦子、原民喜、志村ふくみ、神谷美恵子、フランクル、辰巳芳子、井筒俊彦ら14人について洞察した随筆集。

若松英輔(1968年~)氏は、慶大文学部卒、「三田文學」編集長(2013~2015年)等を歴任した批評家、随筆家、詩人。

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。

2016年以降、NHK番組「100分de名著」で、 石牟礼道子の『苦海浄土』、内村鑑三の『代表的日本人』、神谷美恵子の『生きがいについて』、西田幾多郎の『善の研究』などの解説も担当している。
本書は、古今東西の14人を取り上げて、それぞれにとっての「哲学」をひとつの「動詞」に関連付けて捉え、洞察した随筆をまとめたものである。尚、初出は、月刊誌「文學界」の2013年6月号~2014年7月号。
なぜ、「動詞」が「哲学」なのか。。。著者は、序章で池田晶子の思想を引いて、「分るということは変わるということだ。ある出来事にふれ、真に分かったとき人は、どこかで変貌しているのである。これは素朴な理法だが、ときに厳しく迫ってくる。変わっていないのであれば、じつは分かっていないことが露呈してしまう。」と語り、須賀敦子の章で「本論を「生きる哲学」と題した。ここにおいての「哲学」は、・・・状態である。人間が自身を超える何ものかにむかって無限に開かれてゆく在り方を意味している。「哲学」とはそもそも、机上で学習する対象であるより、私たちが日
々、魂に発見するべき光のようなものではないだろうか。人生の岐路に立ったとき、真剣に考え、誰に言うでもなくひとり内心で、これが私の哲学だ、とつぶやく。そうしたときの「哲学」である。」と書いている。
そして、「万人のなかに、「哲学」が潜んでいることを思い出させてくれる人物」、「迷ったとき、自らの進むべき道を照らす光は、すべての人に、すでに内在していることを教えてくれる人」として、14人を選んだのである。
その14人は、歩く~須賀敦子、彫る~舟越保武、祈る~原民喜、喪う(うしなう)~孔子、聴く~志村ふくみ、見る~堀辰雄、待つ~リルケ、感じる~神谷美恵子、目覚める~ブッダ、燃える~宮沢賢治、伝える~フランクル、認める~辰巳芳子、読む~美智子皇后、書く~井筒俊彦である。また、それぞれの章で、池田晶子、和辻哲郎、デカルト、ヴァレリー、高村光太郎、小林秀雄、白川静、ゲーテ、遠藤周作、マルクス・アウレーリウス、石牟礼道子、柳宗悦らについても語られている。
そして、著者は「あとがき」でこう締めくくる。「哲学を研究、勉強することなくても、深遠なる哲学を有する人は世の中に多くいる。この本で取り上げた人々にとって何かを語るとは、そうした市井に生きる無名の人々に宿っている、本当の意味での「哲学」の代弁者になることだった。・・・ここでの「哲学」は、哲学者によって語られる言説に限定されない。それは、人間が叡智とつながりをもつ状態を指す。このことは、「生きる」ことが不断の状態であることと深く呼応する。同時に、「哲学」とは、単に語られることではなく、生きることによって証しされる出来事だとも言える。」
一篇一篇がとても深い随筆集である。私はこれまで、取り上げられている少なからぬ人たちの著作を読んできたが、著者の洞察の中には消化できるものもあれば、消化しきれないものもあった。本書を頼りに、改めてそれぞれの著作に戻り、それぞれが体現した「哲学」とは何だったのかを考えてみたいと思う。
(2020年11月了)

それぞれのうちに生きた哲学がある。

哲学というと小難しい学問のような気がするがこの本は現実に生きている(いた)人たちの生き方を通して分かりやすく哲学を論じている。

一人ひとりの考え方や発言、行動の中に哲学が生きている例を豊かに示してくれた。感動的だった。

 
 自分の手に哲学を取り戻す

 私は哲学なんて大嫌いだ。こむずかしいことばかり言って、私の生活とはなんにも
関係ないと思っていた。しかし若松氏は「その考えはちょっと違うんじゃないか」と
噛んで含めるように私をさとしてくれる。

 ・・「哲学」とはそもそも、机上で学習する対象であるより、私たちが日々、
  魂に発見するべき光のようなものではないだろうか。人生の岐路に立った時、
  真剣に考え、誰に言うでもなくひとり内心で、これが私の哲学だ、とつぶやく。
  そうしたときの「哲学」である。・・

 そうなのか。哲学とは学問や立派な本の中にあるのではなく、私たちを含めた
市井に生きる無名の人の中にちゃんと存在しているものなのか。

一生懸命に生きて、真摯にものごとに対峙することで証明されるものが本当の哲学なのか。
若松氏は、そのように平凡な私たちの手にとりもどした哲学のことを「生きる哲学」と
呼んでいるらしい(と私は理解した)。

 ここで取り上げられている「生きる哲学」の実践者たち、もちろんその世界では
高名な方々であろうが、私にはなじみのうすい人が多かった。例えば、

   須賀敦子 (作家)
   舟越保武 (彫刻家)
   志村ふくみ(染織作家)
   神谷美恵子(精神科医)
   石牟礼道子(作家)
   辰巳芳子 (料理研究家)・・・

 これらの人々の生き方と哲学を紹介するにあたって若松氏が用いたキーワードは
「コトバ」。

「言葉」が言語または文字として認識されるものに対して、「コトバ」は
不可視なもの。例をあげると、色は画家のコトバ、音は音楽家のコトバ、形は彫刻家の
コトバ、行為もコトバになりうる。悲しみにうちひしがれているものに黙ってよりそう
ことはひとつのコトバである。

私たちの魂に訴えかけてくる目に見えないもの、心で感じられるものはすべてコトバである。だから石牟礼道子が「苦界浄土」を書いたときは、しゃべることのできない水俣病患者の放つコトバの通り道に石牟礼がなったということだ。

 これらの眼に見えないコトバをつむぎだし体現し世に伝えることが「生きる哲学」だと
若松氏は教えてくれる。若松氏自身も詩人的哲学者である。詩人の魂が若松氏の哲学の
中には流れ込んでいるようだ。私は天皇陛下や美智子皇后が、罹災者のところに行って
寄り添うことのもつ意味をあらためて再認識したように思う。


若松氏独特の文章回しに、大いに驚き納得させられるのであるが、言い回しが複雑でそれがまた面白いところではあるが、実際にはもっと簡単に表現できるのではないか、という気がしてくる。テーマが多様でこれだけの文章を書く若松氏の広範な力量は敬意に値する。

 

 市井に生きる無名の人々。

一つであっても言葉は、人生を根本から変えることがある。むしろ、言葉だけが、そうした力をもっている。序章で語られる言葉と出会うということに深く共感。市井に生きる無名の人々の代弁者たる須賀敦子、志村ふくみ、神谷美恵子、辰巳芳子らのコトバに触れてみたいと思った。


 「悲しみ」から「愛(かな)しみ」へ

人は悲しみによって形而上学的世界(根源的実在の世界)に導かれる。自分にとってそんな悲しみとは何なのかを思いつつ一気にに読ませられた。

クライマックスとも言うべき章が、「第13章 読む 皇后と愛しみが架ける橋」だった。

柳宗悦が援用される。
《悲しみは、痛みの経験であると共に、慈しみの芽生えでもある。どうして悲しみが、悲惨なだけの経験であり得よう。「美し(かなし)」と書くように「かなしみ」の底にはいつも、無上の美が流れている。そのことを忘れた近代を、柳は憂う。悲しみは、その深みにおいて、対立の関係にあるものの姿を変え得る力をもつ。宗教における超越者は、宗派の差異を超え、悲しみの衣をまとうように存在していることに注意を促す。ここで柳が言う「美」とは、美醜の対比のなかにあるものではない。美醜が分かれる前の美である。・・・柳にとって悲しみはいわば、超越へとまっすぐ続く道だった。》(243-244p)
そして、
《悲しみは、文化、時代を超え、未知なる他者が集うことができる叡知の緑野である》(245p)

1998年ニューデリーで開かれた国際児童図書評議会の世界大会にむけて皇后が出された『橋をかける』というメッセージが紹介される。この大会のテーマは「平和」だった。皇后は、新美南吉の『でんでん虫のかなしみ』のお話の記憶を語られる。「かなしみ」の殻を背負って生きることへの不安にかられるでんでん虫が、悲しみを持たない人は誰もいないことを知る。そして、「自分だけではないのだ。私は,私の悲しみをこらえていかなければならない。」と言って、もう嘆くのをやめるというお話。

皇后の言葉、
《その頃,私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。だからでしょう。最後になげくのをやめた,と知った時,簡単にああよかった,と思いました。・・・この話は,その後何度となく,思いがけない時に私の記憶に甦って来ました。殻一杯になる程の悲しみということと,ある日突然そのことに気付き,もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが,私の記憶に刻みこまれていたのでしょう。少し大きくなると,はじめて聞いた時のように,「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。生きていくということは,楽なことではないのだという,何とはない不安を感じることもありました。それでも,私は,この話が決して嫌いではありませんでした。》(『橋をかける』)

この言葉を若松氏は自分に引きつけて言う。
《読書が、「悲しみ」との遭遇にはじまったことは決定的な出来事だった・・・ここに幼い少女における「読む」こととの出会いの萌芽がある。》(246p)

そして「力強い威圧ではない、涙もろい人情のみが此の世に平和を齎すのである」(『朝鮮の友に贈る書』)「悲しむとは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。悲しむことは温めることである。悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか」(『南無阿弥陀仏』)との柳宗悦の言葉を引用しつつ、《悲しみの実相を語る真摯な言葉に出会ったとき、私たちの心はおのずと動き始める。真に「読む」ことが実現するとき、人はそこに描かれた悲しみによって、自らの悲しみを癒すことがある。》(250p)
私にはそこのところを読み通すのがつらかったのだが、原爆の原民喜、水俣の石牟礼道子についても書かれたこの本は、まさにその役割を果たしているのだろう。それをして「『読む』ことの秘儀」と言う。

《「読む」ということが真に営まれるとき人は、言葉を窓に彼方の世界を生きることになる。・・・「読む」とは不可視なコトバを感じることでもある。・・・それは字義通りの意味で生きることにほかならない。幼い魂にとってはいっそう「読む」ことの意味は大きい。彼らは、そこで自分以外の生があることを身をもって知ることになる。》(250-251p)

皇后の言葉、
《読書は私に,悲しみや喜びにつき,思い巡らす機会を与えてくれました。本の中には,さまざまな悲しみが描かれており,私が,自分以外の人がどれほどに深くものを感じ,どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは,本を読むことによってでした。
自分とは比較にならぬ多くの苦しみ,悲しみを経ている子供達の存在を思いますと,私は,自分の恵まれ,保護されていた子供時代に,なお悲しみはあったということを控えるべきかもしれません。しかしどのような生にも悲しみはあり,一人一人の子供の涙には,それなりの重さがあります。私が,自分の小さな悲しみの中で,本の中に喜びを見出せたことは恩恵でした。本の中で人生の悲しみを知ることは,自分の人生に幾ばくかの厚みを加え,他者への思いを深めますが,本の中で,過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは,読む者に生きる喜びを与え,失意の時に生きようとする希望を取り戻させ,再び飛翔する翼をととのえさせます。悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには,悲しみに耐える心が養われると共に,喜びを敏感に感じとる心,又,喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。》(「橋をかける」)

著者と皇后との魂の響きあいは次の言葉で閉じられる。
《悲しみは、誰かに受けとめられたとき、「愛(かな)しみ」へと姿を変える。・・・世には自分の知らないところで、あたかも自分の身代わりになって悲しみを生きている者がいることを教える。・・・悲しみの多いこの世を生きる幼子にとって、愛しみは、闇に隠れている喜びの場所を照らす光となる。愛しみには、魂を自ずと喜びへと導く働きがある。ここで皇后が語る喜びは、光と光に照らされるものが不可分であるように、けっして「愛しみ」と離れることがない。》(252p)

先日の忘年会、若い人に向って「本を読め」と懸命に説く酔っ払う自分がいた。この本を読みおえたばかりだったのでした。


世界の深奥からの呼びかけ

朝の川面ににじむ楕円の陽光。その傍らに休む水鳥。

驚き踊るタゴールの詩。カッチーニのアヴェ・マリア。

道端のお地蔵さんに手をあわせる老婆。子を失くしたおかあさん。

これらは、みな、なぜ、うつくしい。

空の高いところ、大地のふところ、いくえもの空気の最古層には、これらに美をわかちあたえるお方がおられるからだ。これらはそのお方の愛おしさを映し出していると言ってもよい。

美の主は、いのち、叡智、実在、大地、神、存在の深み、永遠、超越者と呼ばれる。

「哲学」とは、人間がこれと「つながりを持つ状態を指す」(p.266)。

「生きる」とは、このつながり、この状態が経験されることだ。

この本の14の章では、エッセイや詩、造形、小説、染色、食べ物、花摘み、悲しみを通して、これをまさに「生きる」人びとが出てくる。14人だけではない。各章にはさらに多くの叡智証人が、良質の絨毯を織るかのように重なって登場する。

けれども、それは、この人びとの独占物ではない。彼らや著者の若松さんによって、ぼくたちもそこに招待されている。いや、叡智ご自身が招いてくれている。この「哲学」は「市井に生きる無名の人びとに宿っている」(p.266)と若松さんも述べている。うれしいことだ。

とは言っても、叡智、実在、存在の深み、永遠、超越者。はたして、そんな難しそうなものと、ぼくたちがつながりを持てるのだろうか。

いや、空の鳥、野の花を見てみよう。その背後に、その源に、これを生み、生かしている、目に見えない力が感じられないだろうか。想像できないだろうか。そうだとすれば、すでに向うから呼びかけられ、手を差し伸べられているに違いない。

ある神父さまが、人生の意味はこの世界で成功することではなく、超越者を仰ぎ見ることだ、と書いておられた。よかった。ならば、ぼくの人生も意味を持てる。

本著は、キリスト教書ではないが、教会が本来なすべきことを代わりになしている。教会の礼拝では説教なるものがなされるが、本著は最良の説教集のひとつに数えられる。しかも、キリスト教用語に頼ることがない。

何度も折にふれて読み返したいです

若松英輔さんをNHk の番組で知り、直感で、この人の本を読みたいと思い購入しました。本は生活の一部という位読んでいますが、序章から終章まで、ページをめくるのが勿体ないくらいに真摯に生きた人の生き様を書いて下さって、魂が浄化されるような思いがしました。
幸と不幸はあざなえる縄の如しとは良く言われますが、努力ではどうしようもない事や、時代があり、それでも生きて行く意味を見つけながら前を向かなければと思う。そんな著書です。
多くの方に読んで頂きたくレビューを書いています。
どの章から読まれても新たな発見があると思います。私にはとりわけ、原民喜さんと、美智子皇后の章がズンと響きました。


 哲学初心者にもお薦めです

NHKの100分で名著に内村鑑三を紹介するために若松先生が出ておられました。
私は若松先生のことを全く知りませんでしたが、その番組で、わかりやすいのに深い話をする先生だと関心をもち、著書を探して購入しました。
番組での語り口と違い、はじめは難しいかと思いましたが、読み進めているうち、じわっと心に染み渡るような、そんな感動を覚えました。

哲学には、全く無関心でしたが、若松先生の本は、哲学についてあまり考えたことのない人にも、わかりやすい本です。


隔ての壁が取り払われて。

筆者の筆力の高さと感情の豊かさがにじみ出ていて、読み進めるのがもったいないような心持ちを覚えながら
ページを繰りました。筆者が「コトバ」と呼称する人間の表現機能の多様性に関心を寄せ直し、自分の感受性を
見つめ直す時間を持てたと思います。
死者と生者の隔ての壁が取り払われてゆくようで、夫を見送って10年経ちますが、新たな癒しを得ました。

どこから読んでも、滋養になります。

お知り合いから紹介されて、若松さんの本を読み始めました。月刊誌での連載もそうでしたが、
なぜか、どこから開いても、どう読んでも滋養になります。良質で読みやすく、トピックごとの出演者
の豊かさにも満足しています。次に読む本も決めてあります。
須賀敦子、孔子、井筒俊彦を通じて哲学を考える

『生きる哲学』(若松英輔著、文春新書)から、いくつも刺激を受けました。

●歩く 須賀敦子の道――。
「人間には誰しも担わなくてはならない人生の問いがあり、それは他人に背負ってもらうことはできない。自己を生きるという使命においては、優劣や意味の大小は存在しえない。それぞれが固有の存在であることが個々の人間に宿っている冒されざる尊厳の根拠となっている。その真実を須賀敦子は、市井の人々の日常を描くことで示そうとした。『無名の家族のひとりひとりが、小説ぶらないままで、虚構化されている』との彼女の言葉は、須賀敦子自身の文学の秘密を語ってもいる。没後十六年を経てもなお、須賀はエッセイストだったとされているが、彼女は、『小説ぶった』ものでなければ小説だと認めない、とする世の中の動きを逆手にとって、読者を創造的に『欺く』ように、次々と彼女が信じる『小説』を書いていった。須賀が、作家として活動したのは晩年の七年あまりの間でしかない。はじめての著作『ミラノ 霧の風景』が公刊されたとき彼女は六十一歳になっていた」。

「哲学とは、口にすることであるより、迷いながら歩くことだった。だから、須賀敦子は歩く。比喩ではなく、よく歩く。彼女の作品を読むと、無意識的に、あるいは本能的に歩くなかで何かと出会おうとしているのが分かる」。

●喪う 『論語』の哀しみ――。
「歌は、悲しみを起源にする。悲しみで言葉にならない呻きは、歌の母となる。容易にかたちを帯びようとしない死者への思いが満ちるとき、歌が生まれた。人はそれを挽歌と呼び、挽歌から愛する人に言葉を送る相聞歌が生まれた。歌が無数にあるように、無数の悲しみがある。一つとして同じ悲しみはない。悲しみが心性の伝統を作る。『伝統とは民族的合意である』、と白川(静)は書いている」。

「『論語』を精読する者にはそれぞれの孔子の姿がある。『論語』を読むとは、それぞれの孔子の『顔』を見出すことだと言えるのかもしれない。比喩ではない。白川にとって『読む』とは、言葉を扉にそれを書いた者と出会うことだった。『論語』はこれまで、そうした実存的な経験のもとで読み継がれて来たのである。江戸時代の儒学者伊藤仁斎もその一人だった。・・・仁斎にとって『読む』ことは文字を追うことでなく、むしろ、文字を通じて先師孔子の息吹を感じることだった。『信頼する人間と交わる楽しみであった』と小林(秀雄)が書いているように、『読む』とき、仁斎の前に孔子は、まざまざと立ち現れることもあった。それは仁斎にとって至上の喜びであり、その歓喜は、『手の舞ひ足の踏むところを知らず』すなわち、ふるえるほどの経験だった。それは時折、起こったのではない。むしろ、それが仁斎の日常だった。同じ精神は『孔子伝』を書く白川にもありありと感じることができる。彼にとって『論語』を読むとは孔子の声を魂で聴くことだった」。

●書く 井筒俊彦と「生きる哲学」――。
「『書く』とは、コトバを通じて未知なる自己と出会うことである。『書く』ことに困難を感じる人は、この本のなかで引用されている先人のコトバを書き写すだけでもよい。もし、数行の言葉を本当に引き写したなら、その人は、意識しないうちに文章を書き始めているだろう。そして、こんなコトバが自分に宿っていたのかと、自分で書いた文章に驚くに違いない。自分の魂を、真に揺るがすコトバはいつも自分から発せられる。人は誰も、コトバという人生の護符と共にある。コトバは見出されるのを待っているのである。よく書けるようになりたいなら、よく読むことだ。よく読めるようになりたければ、必死に書くしかない。よく読むとは多く読むことではない。むしろ、一節のコトバに存在の深みへの通路を見出すことである。必死に書くとは、これが最後の一文だと思って書くことにほかならない。たとえば、もうこの世では会えない人に、今日書いた言葉だけは届くに違いない。そう思って『書く』。本気でそう思えたら、文章は必ず変わる。心からそう感じることができれば『読む』態度も一変する。『書く』とは、単なる自己表現の手段ではなく、永遠にふれようとする試みとなり、『読む』とは、それを書いた者と出会うことになるだろう。そこに見出すコトバは、時空を超えてやってきた、自分に送られた手紙であることを知るだろう」。

若松英輔というのは、先人たちの考え方、生き方から学ぶのが非常に上手な人であることを再認識しました。


喪うことの秘儀


第4章「喪う」のなかの、孔子が顔淵を喪うくだりに、とりわけ心を動かされた。


「鬼神」などいない、孔子はそんなことは言わなかった。彼は人間には人間の仕事がある、と言ったのである。孔子が言うとおり、あらゆる生者は死を知らない。だが、死者はどうだろう。人間の仕事とは、真実の意味で隣の人間と向き合うことである。ここでの「人間」には、生きている隣人だけでなく、「生きている」死者もふくまれる。 愛する者を喪い、私たちが悲しむのは、単なる抑えがたい感情の発露ではないだろう。悲しみは、それを受け取る者がいるときに生じる一つの秘儀である。(本書第4章より)

あらゆる 情の働きを解釈せず、そのままに生きること、そこに生の充実を感じることを宣長は「もののあわれ」と言った。著者はさらに進んで、不可視な隣人となった死者に、その思いを向けることを、悲しみの秘儀と言う。知性の助力なくして、自ずからなる悲しみにおいて、生の深まりを実感することができる秘儀なのだと。

 

 


 

 

 

 

 

 

 


生命尊厳の理念

2023年09月08日 10時13分33秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼自分の幸福のみを願う、利己的な生き方には、人生の本当の喜びはない。

また、華やかさは、空しさと表裏であることを知らねばならない。

▼わが人生を荘厳(美しくおごそかに飾ること)しゆくために不可欠なことは、青年時代に、精神の強固な芯をつくりあげることである。

そのための<生きる哲学>を確立するこである。

▼小さな自己の殻を破り、勇気を出して他者と関わり、人々のために行動する中にこそ、本当の幸福や喜びを感じることができる。

▼<勇気の一歩>は、自他共の幸福に通じていくのだ。

▼心が広々とした人間のスクラムこそ、人類の未来の大いなる希望である。

不安や閉塞感が漂う現代にあって、生命尊厳の理念が期待される。


自分で自分を励ませる人は、すてきな人だ

2023年09月08日 08時55分58秒 | その気になる言葉

▼苦難に直面した時こそ、自分の道を開く時!

不撓不屈の心で進もう!

▼日々の生活の中にこそ、平和の種が芽を吹き、花開く土壌がある。

身近な行動にこそ、核兵器廃絶への直道である。

▼自分で自分を励ませる人は、すてきな人だ。

人のつらさもわかる人だ。

▼自分で自分を喜ばせる言葉を、強さを、賢さを!

▼落ち込んだ心を、よいしょと自分で持ち上げて!

▼自分で自分を好きになれないと、人だって愛せない。

 

 


米中間の相互不信

2023年09月08日 08時30分32秒 | 社会・文化・政治・経済

相互不信の底流には疑心暗鬼が渦巻く。

相互不信を和らげるには、まず、思い込みを排し、相手の立場に身を置くことだ。

経済の苦境から中国が台湾の武力統一を急ぐのではないかとの見方が広がっている。

だが、実行すれば米国やその同盟国を敵に回すことになる。

羅生門効果とは、1つの出来事について、それを目撃したり、経験したりした人たちが別々の(しばし矛盾した)主張をする現象を指します。 言い換えれば、1つの出来事を同じように解釈している人は誰一人としていないということです。 この現象はストーリーテリングの技法として映画で用いられることがあります。

対抗するには、「中国軍は現在の5倍の戦力が必要」とも言われている。

そんなリスクを中国は冒すだろうか?

いずれにしても「ゆがんだ視点」で相手を見ない見ないことだ。

共存の道を探り、信頼を深めるべきだ。

羅生門効果とは、ひとつの出来事において、人々がそれぞれに見解を主張すると矛盾してしまう現象のことであり、心理学、犯罪学、社会学などの社会科学で使われることがある。映画『羅生門』に由来する

黒澤明監督の映画『羅生門』では、作中で発生する殺人事件につき、被害者、被害者の妻、加害者の盗賊が三者三様の証言をして事件の捜査が行き詰まってしまう。真実は(そま)売りが知っており3人とも嘘をついていた。

この映画を元に心理学社会学法曹界では羅生門効果と呼ぶようになったとされている

 

 

羅生門効果