松戸市民会館で開催された若手歌曲歌手たちによる演奏会で北沢真央は、夜の女王のアリア~歌劇《魔笛》より(モーツァル)を歌唱した。
真央はソプラノのコロラトゥーラであり、楽器のような声は圧倒的で、多くの観衆たちから喝采を受けた。
エレガントな真紅のドレスを纏った細身の真央の姿は舞台に映えた。
悟は中央の席で真央に声援を贈っていた。
だが、最前列の席に居た若い男が、赤いバラの花束を真央に差しだした時、真央は後退りする。
男が何かを呼びかけると、真央は意を決したような素振りで身を乗り出すようにして花束を受け取り胸に抱いたのだ。
男は別れた真央の彼氏であったのだ。
真央に復縁を迫る男は、津田由紀夫であった。
「真央のことを本当に、愛していたんだ」市民会館の楽屋入口で待っていた由紀夫は切ない思いで告げた。
「今更、何よ!」真央は毅然と言い放つ。
「お願いだ、チャンネルをくれ真央」哀願の声が声が響く。
「もう、遅いのよ。私には好きになった人がいるのよ」真央の声が尖る
「真央、それは誰だ!」由紀夫は怒り声を上げた。
「あなたには、もう、関係にないことね!」真央の声は冷淡であった。
悟は二人の様子を駐車場に停車する真央のベンツの背後から目撃していた。
「真央、許さないぞ!」由紀夫がいきりたつ。
悟には信じがたかった。
由紀夫はジャックナイフを取り出し、真央の胸を2度、3度突き刺す。
悟の身はすくんだままだった。
小学生6先生の時に、4歳年下の弟の次郎が池に落ちた時も、身がすくんで助けにいけなかった。
結局、弟は中学生の男子二人によって救助されたのだ。
騒動となる松戸市民会館周辺、悟は愛した真央に対して理不尽にも、身を翻してその場から立ち去るのだ。
<我関せず> 人道的にも心理学的にも悟の冷淡な行動は、実に不可解であった。
真央は悟にとって、初恋の相手でもあったし、童貞をなくした相手でもあったのだ。
松戸の寿司屋の次の日に逢った時、真央は悟を柏のホテルに誘った。
「あなたを馬橋の自宅に誘いただけれど、妹が二人いてダメね。仕方ない柏まで行きましょう。いいわね」
真央は情が深い女であり、気持ちが高まっていた。
男の体を知っている真央と女の体を未だ知らない悟は、ホテルでは真央に一方的に誘導される。
そして、死してもなお真央は、悟にとって<意味深>であるが性的に特別な女となる。
意味深
(「いみふかい」とも) 表面からは簡単にわからないような、内容や価値を奥に持っている。すぐれた価値がある。
※春潮(1903)〈田山花袋〉二「この恋より深く、熱く、意味深い恋を為し得やうとは夢にも思へぬ」