1868年の明治維新以降、日本は神社神道の国教化を進めた。
政府は神社神道を一般の宗教とは次元を異ににする「超宗教」と位置づけ、特権的地位を確立する方策を推進した。
それ以外の諸宗教は、国家神道に従属させられ、その教義への違反は許されなくなっていく。
神社神道第二次世界大戦前の「国家神道」の異称。
国家神道(旧字体: 國家神󠄀道󠄁)は、近代天皇制下の日本において作られた一種の国教制度、あるいは祭祀の形態の歴史学的概念である。
の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ総本山とし、国家が他の神道と区別して管理した「神社神道(じんじゃしんとう)」(神社を中心とする神道)を指す語である[。
王政復古を実現した新政府は、1868年(明治元)、祭政一致、神祇官再興を布告して神道の国教化を進め、神仏判然令で神社から仏教的要素を除去した。
その後、政府主導の神道国民教化策が不振に終わると、政府は「神社は宗教にあらず」という論理で、神社を「国家の宗祀」と位置づけ、神社神道を他の諸宗教とは異なる公的な扱いとした。
ここに国家神道が成立し、教化など宗教的側面にかかわる教派神道と役割が分担されることになった。
「国家神道」という言葉は1945年(昭和20年)に、GHQによる神道指令によって使用されて、この時に初めて一般に広まったものである。
第二次世界大戦後の神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭祀儀礼を信仰の中心とする形態。
現在では単に「神道」という場合、神社神道を指す。祭祀の場となる神社は日本各地に数多くあるが、1945年までは全ての神社神道に属する神社が内務省の外局である神祇院の管轄下におかれていた。1945年12月にGHQによって発せられた神道指令により、「神道の国家管理」は廃止されることになり、神祇院は廃止されて1宗教法人として改組され、新たに神社本庁が発足した。神祇院の管轄下にあった神社神道約8万社は、
神社本庁の発足とともにその包括下に入ったもの(約7800社)
神社本庁とは別の包括団体をつくり、その包括下にはいったもの
単立となったものなどにわかれた。
概要[編集]
国家神道
定義
神道指令では、国家神道は「日本政府の法令に依って宗派神道或は教派神道と区別せられたる一派を指す」とされており、この定義に基づけば、国家神道は神社非宗教論が採られ、神官教導職分離が行われた1882年(明治15年)あるいは内務省に神社局が成立し、神社行政を他の宗教行政と区別して扱うようになった1900年(明治33年)以降に行われた、神社・神職・祭祀などに対する様々な国家的制度を指すことになる[4]。
研究者における「国家神道」の定義に関しては、いわゆる「広義の国家神道」と「狭義の国家神道」という2種類の定義に分かれる。
「広義の国家神道」は、広く皇室神道と神社神道が合体した「国教」的地位にあった神道であるとか、「明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至るまで、国家のイデオロギー的基礎となった事実上の日本の国教」といった概念規定を指す。
一方で「狭義の国家神道」は「戦前の国家によって管理され、国家の法令によって行政の対象となった神社神道」とする限定的な定義を指す。
前者の代表論者である村上重良は、国家神道は、宗教の範疇を超える国家祭祀として他の公認宗教に君臨する体制であり、教育勅語が天皇制的国民教化の基準として発布されて国家神道のイデオロギー的基礎をなし、一神教的な天皇観( 現人神 ) が戦争と宗教弾圧を生み出したとし、近代を「国家神道体制」が右肩上がりに強化されていった時代と捉えた上で、昭和前期を「天皇制ファシズム」の時代とし、国家神道はこの段階において絶頂期を迎え、国民に対する精神的支配の武器となったと主張した。
一方、こういった村上の主張に対しては反論も相次いだ。葦津珍彦は、村上らの国家神道論を、国家神道の概念を各人各様にほしいままに乱用するものであり、明白にしてロジカルな理論や史観史論が成立し得ないと指摘し、「国家神道」の定義を、GHQの「神道指令」に示された定義のままに用いるべきとした。
これがいわゆる「狭義の国家神道」の立場であり、これを継いだ阪本是丸は、近代天皇制を規定したイデオロギーやイデオロギー装置は、神道のみならず仏教、儒教、キリスト教、新宗教、あるいは通俗的道徳思想、西洋思想など様々であり、近代天皇制のイデオロギーを「国家神道」の一言で表現することはできないとし、村上らの国家神道論は、天皇制、あるいは国家主義、国粋主義に関係するイデオロギーやイデオロギー装置ならばすべて国家神道に総括・包含してしまうものであると批判した。
他方、村上の「広義の国家神道」論を修正的に継承する意見もあり、島薗進は、天皇現人神観や神社神道は国家神道の基底ではないとして、神社神道を国家神道の基体とする見方を村上説の欠点と指摘し、国家神道は、「天皇と国家を尊び国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結びついて信仰生活の主軸となった神道の形態」であると定義し、皇室祭祀や学校教育・国民行事・マスメディアと神社神道とが組み合わさって形作られたものであるとして、皇室祭祀を国家神道の中心的要素と定義した。
近年では、国家神道という概念規定や名称そのものを再検討する動きも広がっており、安丸良夫は、村上の論を「国家神道体制」なるもので近代日本の宗教史を覆ってしまう結果となり、多様な宗教現象をひとつの檻のなかに追いたてるような性急さが感じられる、として批判し、近代において諸宗教の上に君臨したのは「国家神道」ではなく、教育勅語に表された「国体論的イデオロギー」であり、天皇の権威は神道を含む特定の権威と結びつくものではなかったと指摘した。
また、磯前順一は「天皇制国家は神社だけでなく、時期によって学校教育や宗教教団など、さまざまな回路を通して国民の規律化と抑圧を進めていったのであり、それを一律に国家神道と名づけることは当時の理解と乖離するものである」と指摘し、国家神道を政府の神社政策として限定的に定義づけたうえで、それを天皇制国家を支えるイデオロギー装置の一部として位置づけなおす必要があると指摘した。
すなわち、磯前は「近代天皇制国家を支えるイデオロギー装置」の全体の中の一つとして、「国家神道」を意義づけるべきであると指摘したのである[5]。
同様の見解をとる者に山口輝臣があり、山口は「近代日本における国家と宗教との関係を研究することは、すなわち国家神道を研究することである、とは言えなくなった」とし、国家神道研究という枠組みにとらわれずに近代日本における国家と宗教との関係へと接近する必要があるとした。
新田均は、国家神道の根幹をなす神社非宗教論を政府に採用させたのは浄土真宗であることなど、近代日本の宗教政策に対する浄土真宗の一貫した強い影響力から、近代日本の政教関係全体を包含する用語として、「国家神道」という用語を用いるのは適切ではないと指摘し、代わりに「公認教制度」などと捉え直すべきであるとし、「現人神」の思想は神道のみならず仏教や儒教の要素も色濃くあり、一般国民への神社参拝の強制といえる現象も満州事変以降のものでしかないとして、「現人神」「神社神道」「神社参拝の強制」などを主要な構成要素とする 「広義の国家神道」論は成り立たないと主張した。
内容
大日本帝国憲法では、文面上は信教の自由が明記されていたため、仏教各宗派やキリスト教、教派神道その他国家に公認された宗教教団の並立が認められた。しかし、神社を宗教ではないものとする神社非宗教論という公権法解釈[8]に立脚し、“神道・神社を「国家の宗祀」として公的に位置付けることは憲法の信教の自由とは矛盾しない”との公式見解が示された。
また自由権も一元的外在制約論で「法律及び臣民の義務に背かぬ限り」という留保がされていた。このように宗教的な信仰と、神社と神社祭祀への敬礼は区分されたが、他宗教への礼拝を一切否定した完全一神教の視点を持つキリスト教徒や、厳格な政教分離を主張した浄土真宗との間に軋轢を生んだ面もある。
政府が神社非宗教論の解釈に立った背景として、伊藤博文を中心とする明治政府は、憲法制定にあたって「我が国において宗教の力は微弱であり、神道であっても仏教であっても、一つも国家の基軸たるべきものはない」と考え、皇室を国家の基軸とするべきであると考えた結果、「国教」を立てないアメリカ型の政教分離を導入したことや、長州藩との関係が強かった島地黙雷らの浄土真宗の勢力が、神道の国教化を防ぐため積極的に「神道は未開のアニミズムの類であって、宗教の要件を満たさない」などと神道非宗教論を進言して宗教界から神道を追い出そうとしたことも大きな要因である。
大日本帝国憲法第28条の条文では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となっていたが、この「臣民タルノ義務」の範囲は立法段階で議論の対象となっており、起草者である伊藤博文・井上毅は神社への崇敬は臣民の義務に含まれないという見解を持っていた。
昭和に入ってから美濃部達吉[注 2]や神社局 には神社崇敬を憲法上の臣民の義務ととらえる姿勢があったが、内務省の公式見解として示されることはなかった。
なお、神社非宗教論が採られた結果、神社神道の神職らは布教や神葬祭その他の一切の宗教的活動が禁じられた。神社局も、神職らの思想表明や神葬祭などの宗教活動に関しては厳しく規制し、他の宗教との宗論も抑制した従軍聖職者制度も、もっぱら僧侶やキリスト教者のみに認められ、昭和14年まで神職には同制度が認められなかった。
また、仏教やキリスト教の教団からは、神社において宗教活動や祈祷が行われているとの非難が上がることもしばしばあり、1930年(昭和5年)には、浄土真宗10派が神社に対する宗教的拝礼、吉凶禍福の祈念などの禁止を要求して神社非宗教論の徹底を政府に要望した。
1899年の文部省訓令第12号「 一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件」によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止され、「宗教ではない」とされた国家神道は宗教を超越した教育の基礎とされた。1890年(10月30日。帝国憲法施行より前)には教育勅語が発布され、国民道徳の基本が示され、国家神道の事実上の教典となった。
第二次世界大戦後、GHQにより「神道指令」(後述)が出され、国家神道は解体へ向かったが、国家と神道を巡る政教関係については論争が続いている。
詳細は「日本国憲法第20条」、「信教の自由」、「政教分離原則」、「津地鎮祭訴訟」、および「靖国神社問題」を参照
主な政策及び制度
神社の法的性格
神社について、その法人格を具体的に規定した法令は存在しなかったが、行政上の運用や判例によれば、神社は「財産権の主体」であり、
公法人
財団法人
営造物法人の性格を有するものとされた。各神社は国家が管理する台帳の一種である神社明細帳に登録された。
神道行政の管轄機関[編集]
近代における神道行政の管轄機関としては、まず1867年(慶応3年)に発せられた王政復古の大号令や、翌年の「祭政一致の布告」の理念に基づいて復興された神祇官が設置された。しかし、神祇官の実務は思うようには行かず、1871年8月に神祇官は太政官下の一組織である「神祇省」へと格下げされ、さらに翌年には神仏合同の組織である教部省へと改組されるに至った。この教部省も神仏双方の反発によりわずか3年で解散した。
その後は内務省の一部局で、しかも宗教行政一般を管轄するに過ぎない社寺局において神道行政は管轄されることとなった。
その後、1900年(明治33年)に社寺局から神社局が分離して、神道行政が他の宗教行政と区分されるようになった。神社局は後に神祇院へ改組されるが、有効な政策がないまま敗戦により廃止された。
神社制度・神社政策[編集]
1871年(明治4年)に政府は神社を「国家の宗祀」と宣言し、古代の延喜式神名帳などをもとに近代社格制度を設けて、官幣社、国幣社、郷村社、府県社、無格社などに全国の神社を分類し、「社寺領上知令」により、社領の多くが国有地に吸収された。
神社への公費支出制度に関しては、官国幣社は国庫よりその経費が支出されることとなっていたが、1877年に「官国幣社保存金制度」が導入され、向こう15年間一定額を支給し、それ以降は神社への財政支出を打ち切ることとされ、実質的に公的援助がなくなることとなった(これに関しては1906年(明治39年)に撤回され、再び公費が支出された)。府県社以下の神社に対しては地方府より幣帛料の供進が可能とされたが、義務とはされなかった。
また、政府は1906年(明治39年)から1910年(明治43年)にかけて、地方負担の軽減や、神社を町村の精神的支柱に位置付けることを目的に、一村に一社を目安とした神社合祀を行い、全国の神社が4割ほど減少した。
神職政策・神職制度[編集]
「国家の宗祀」に相応しくないとされた世襲神職は全て廃止され、以後は国が選任する官吏(公務員)とされた[24]。しかし、1873年(明治6年)には府県社以下の神社の神官の公費からの給与支払いが停止され、1879年(明治10年)には府県社以下の神官の官吏身分を廃止し、僧侶と同様の民間の宗教者と扱われるようになった(その後、1894年(明治27年)に判任官待遇に復帰)。
1887年(明治20年)には官国幣社の「神官」という呼称を廃して「神職」と定めた。神職は、当初は「大教宣布の詔」が発令され、宣教使(神祇官時代)や教導職(教部省時代)として布教を担うこととなったが、上述の神社非宗教論採用により、1872年(明治15年)に「神官教導職分離」が行われて神社神道の神職の宗教的活動は制限され、神葬祭とともに布教も禁じられた。
なお、そういった宗教的側面は教派神道に引き継がれることとなった。
祭式制度・祭式政策
また、祭式制度の法整備も行われ、祭祀制度の整備が進み、1875年(明治8年)に式部寮達「神社祭式」が制定され、はじめて全国の神社の祭式が統一された。1907年(明治40年)には内務省より「神社祭式行事作法」が発せられてそれぞれの神社祭式の行儀礼法が統一された。
さらに、1914年(大正3年)には「官国幣社以下神社祭祀令」が公布され、神社の祭典が大祭、中祭、小祭に区分された。さらにその細則として「官国幣社以下神社祭式」が定められた。
なお、皇室祭祀については「皇室祭祀令」及びその附式、神宮祭式については「神宮祭祀令」及び「神宮明治祭式」により定められた。また、天皇の践祚、即位礼、大嘗祭、及び立太子礼については登極令と立儲礼により定められた。
外地の神社造営[
台湾、朝鮮、南洋諸島などの外地にも神社が建てられた。これはもともとは外地に在留する日本人が自分たちのために建てたものであった。
外地の神社建立にあたり、多くの神道家らは現地の神々をまつるべきだと主張したが、政府は同意せず、欧米列強の植民地へのキリスト教伝道、土着信仰の残滓の払拭といった発想と同様に多く明治天皇、天照大神を祭神とした。
これは明治政府が宗教勢力を完全に国家の従属化に置き、宗教勢力の意向を政策立案過程から排除することに成功した先進国の中でも稀有な世俗政権だったことも示しているが同時にこれら時期を逆説的に「神道の暗黒時代」とする意見の根拠ともなっている。
外地に建立されたおもな神社としては朝鮮神宮、台湾神宮、南洋神社、関東神宮、樺太神社(樺太は後に1943年内地編入)などが挙げられる。台湾については台湾の神社を参照。