利根輪太郎の競輪人間学 山口選手への肩入れという落とし穴

2023年09月25日 12時48分42秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ   松坂競輪 蒲生氏郷杯王座競輪

2に目(8月24日)

9レース

並び予想 1-7 3-5 8-6 9-2-4

レース評

山口も初日は自分の距離ではなかった。ただ長い距離を踏んで脚に当たりは付いたはず。ここは適切な仕掛けで人気に応える。

1番人気 1-7(2・2倍) 2番人気 1-2(6・7倍)

当然のように山口 拳矢選手に期待して車券を買う。

だが、スタートを取ったことら、最終日に8番手に置かれてしまう。

これが誤算だった。

1番が本命なら隣りの2番から買うのが出目作戦なのに、山口選手への肩入れという落とし穴がったのだ。。それを実践できないのだ。

結果 2-8 1万4,300円(26番人気) 2-8-4 8万1,000円(125番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 2 阿竹 智史   11.5   番手有利に
  2 8 大石 崇晴 1/4車輪 11.3   中団捲追込
  3 4 坂本 修一 1車輪 11.5     3番手内締
  4 6 表原 周 1/4車輪 11.2     2着マーク
5 5 鈴木 裕 3/4車輪 11.1     渡辺が不発
6 9 上野 雅彦 1/4車輪 11.7   B 打鐘先行し
7 1 山口 拳矢 1/2車輪 11.0     後方動けず
8 7 柴崎 淳 2車身 11.1     山口と共倒
9 3 渡邉 雅也 1車身1/2 11.6     捲り進まず

 


取手市内のイベントから1か月以上が過ぎる

2023年09月25日 12時02分57秒 | 日記・断片

阪神とヤクルトの神宮球場でのナイター野球が雨で中止になった次の日から、これまでの猛暑が徐々に減ってきた。

雷が激しく鳴った日は、自宅前の道路は15㎝ほど冠水する。

近くの水路も轟音を響かせて流れるなか、長靴を履き酒を買いに行くが、何時もの20度の日本酒(原酒・うまみ)は売り切れていた。

4年ぶりに開催された夏祭(八坂神社、愛宕神社)、カラオケ大会(取手駅東口広場)ビヤガーデン(取手駅西口の結城駐車場)、そして利根川での灯ろう流し、花火大会。

だが、白山の金毘羅神社の祭とカラオケ大会と新道町内会のカラオケと阿夫利神社の祭は今年も中止となる。

あれからイベントの夏は過ぎ去り1か月以上が経過した。

とりで利根川灯ろう流し

とりで利根川灯ろう流し01 画像
 
先祖や戦没者などの霊を供養するために、雄大な利根川に灯ろうを流します。
一人一人の祈りをこめられた幾百の灯ろうが夕闇の川面を流れていくさまは一種幻想的な美しさです。

とりで利根川灯ろう流し03 画像

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「あの人がいたから、今の私がある」

2023年09月25日 11時42分12秒 | その気になる言葉

▼誰もが「貴重な存在」である。

ゆえに、半信半疑であってはならない。

自分の可能性への「信」こそが不可欠だ。

▼社会の中で個人の成長や変革という実際の証拠を示す。

だがら信頼が広がり、人々の共感と納得を生み出す。

▼「あの人がいたから、今の私がある」と言われる存在になることだ。

▼いても、いなくても、どうでもいい人ではなく、いてほしい人になることだ。

▼自分にしか語れないドラマがある―との確信があれば、相手の心に響いていくものだ。


リスペクト(敬意・尊重)を失った平成

2023年09月25日 10時35分40秒 | その気になる言葉

平成期には2回の非自民連立政権の樹立があった。

政権交代可能な二大政党制をめざした平成を通じて、少数派ないし「異なる相手」へのリスペクトがあらゆる政治勢力から消えた。

政権をこちらに寄こせようと主張するには、対立相手を徹底的に罵った方が有権者にアピールしやすいからだ。

政治に限らず平成末期から、日本では「他者をリスペクトしなし社会」、言い換えれば他人に振り向けるケア(配慮)を「なるべく減らそう」とする傾向が強まっている。

他人を見下ろし「露悪的」な態度で発言する識者の方が、かえってメディアで人気を集める風潮はその帰結だ。

もし、人間どうしが「互いに配慮しないでいい」状態が理想なら、そんな世界では思想も宗教にも出番はなく、また政治家の仕事もなくなるだろう。

そもそもどんな国であれ、当選前は「ただの人」だった政治家よりは、「官僚」の方が「政策のプロ」だ。

私たちは、官僚が弾いた数字に従って税を納め、還付を受けるだけではなく、政治家にとる意思決定を間に挟むのか。

それはまさに、政治家が国民に語りかける言葉によって「ケアされている」とい感覚を共有することが、総治の安定に不可欠だからだ。

仮にある政策や制度が合理的であっても、人はそれだけでは(とりわけ不利益を被る場合には)説得されない。

「信頼しているこの人がここまで言うのなら」という形で、政治家は国民を、国民は政治家を互いにケアすることができた時に初めて、人は違和感なく反発を飲み込むことができる。

平成の諸改革がどれも中途半端に終わったのは、そうした説得にともなう「遅さ」を忌避するあまり、相互のケアがあってこそ可能になる変革の「大きさ」を無落としてしまったためだ。

マイノリティーの中にも多様性がある。

誰もが安易に他人と同一化できない悩みやつらさをかかえていて、その意味で全員が「少数派」であると悟ることだ。

そのことを自覚する時に初めて、異なる存在に対しても「それなりの個性かもしれない」と配慮し合える社会が生まれる。

評論家・与那覇 潤さん

 

 

 

 

 


国民は傍観者であってはならない

2023年09月25日 09時46分39秒 | 沼田利根の言いたい放題

▼伝えたつもりでも、実際は伝わっていない。

▼人生の目標達成には<使命感>と<情熱>と<行動>が不可欠である。

▼「開かれら心」が対話を生む。

対話こそ平和の源泉。

▼現実の境遇を不運だと諦めるのではなく、宿命を使命に変えるのだ。

▼政治・経済・教育のすべては人間で決まる。

であるなら、人間の生命を改革しなければならない。

▼他国を侵略する為政者や権威主義国家の指導者の生命を根本的に改革するしかない。

誤りは、基本的に国民によって、正されなければならない。

つまり、国民は傍観者であってはならない。

▼苦難を避けるな。本当の勝利は、自分自身に勝つことだ!

▼大いなる悩みは大いなる自分がつくる!

永遠の勝利者となれる!

▼同じ行動でも「能動」か「受動」かで、その充実度は大きく変わる―主体者となるのだ。

 

 


映画 遥かなる大地へ

2023年09月25日 09時17分55秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

9月24日午前3時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。

最後に主人公が死ぬ<悲劇映画>と思って観ていたら、生きかえったのだ。

如何にもアメリカ的ドラマだった。

 
 
遥かなる大地へ』(はるかなるだいちへ、Far and Away)は、1992年ユニバーサルが制作したアメリカ映画。監督はロン・ハワード

当時夫婦であったトム・クルーズニコール・キッドマンが共演した事や、映画史上初となる“パナビジョン・スーパー70mm方式”の撮影で話題に上った。

概要

19世紀アメリカオクラホマ州で実際に起こったランドラッシュをベースに、アイルランドから夢をもってアメリカにやって来てランドレースに参加した青年の生き方を描く物語。

ストーリー

1892年の西アイルランド。土地を持たず、地主に地代を払って農業を行う小作農民たちは、裕福な地主の横暴に怒り、抵抗運動を始めていた。小作農民たちに詰め寄られた地主の一人が銃を発砲し、ジョセフ・ドネリーの父親が被弾した。ジョセフに、「土地を持て」と言い残して亡くなる父親。

地代が払えず、家も焼き払われて、地主の殺害を決意するジョセフ。しかし、途中の居酒屋で出会った地主のクリスティーは気さくに小作農民たちと酒を飲む好人物だった。それでも銃を向けたが、オンボロすぎるライフルが暴発して負傷し、クリスティーの館で手当てを受けるジョセフ。

クリスティーの一人娘シャノンは、お上品な上流社会に嫌気がさし、アメリカで無料で配られる土地を得るために家出を計画していた。女一人では移民船に乗りにくく、ジョセフを誘うシャノン。だが、召使い扱いする高飛車なシャノンに反発して断るジョセフ。

小作農民たちを苦しめていたのは、実はクリスティー家の財務管理を務める冷酷なスティーブンだった。決闘によってジョセフを抹殺しようとするスティーブン。決闘の場から馬車でジョセフを拉致したシャノンは、そのまま家出を決行し、ジョセフと共にアメリカ行きの船に乗った。

アメリカで無料で配られる土地は、上陸地点のボストンから1000キロ旅したオクラホマ州だった。港で財産を盗まれたシャノンを「妹」と偽り、酒場での拳闘試合で稼いで、オクラホマ行きの資金を稼ぐジョセフ。

アイルランドでは、地主階級を憎む小作農民によってクリスティー邸が焼き討ちされ全焼した。土地を失ったわけではないが、娘のシャノンを追ってアメリカ行きを決意するクリスティー夫妻。

ジョセフに養われることに反発しつつも、裏で好意を寄せて行くシャノン。

だが、ジョセフは大事な試合に負け、拳闘の試合から追放されてしまった。怪我をしたシャノンも、アメリカに到着した両親に保護され、引き離されるジョセフとシャノン。

各地を放浪した末に、オクラホマの土地獲得レースに辿り着くジョセフ。

シャノンと両親もレース参加のために現地入りしていた。シャノンと再会したジョセフは彼女への愛を再確認し、レースに望んで、シャノンと共に好立地の土地を手に入れた。

キャスト

役名 俳優  
ジョセフ・ドネリー トム・クルーズ  
シャノン・クリスティ ニコール・キッドマン  
スティーブン・チェイス トーマス・ギブソン  
ダニエル・クリスティ ロバート・プロスキー  
ノーラ・クリスティ バーバラ・バブコック  
ケリー コルム・ミーニイ  
グレイス ミシェル・ジョンソン  
バーク ウェイン・グレイス  
パディ ジャレッド・ハリス  
コルム スティーヴ・オドンネル  
社会的なクラブの警官 ブレンダン・グリーソン  
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地主の邸宅に忍び込み、殺そうとするところから物語が動き出す。
初登場シーンから、凛とした意志の強い女性全開のニコールキッドマン
三枚目役も意外にハマるトムクルーズ
当時、実際にご夫婦だったと知り、驚いた。

身分の違う二人がしだいに惹かれ合い、三日三晩飲まず食わずで忍び込んだ家で、甘いキスをするシーンが良かった。

ラストは、ランドラッシュの壮大さを感じる爽快ねシーンが心地よく、やや長尺の一本をあっという間に観ることができた。

 

貧しい小作農のジョゼフと大地主の娘シャノンが土地を求めてアイルランドを出てアメリカに行く話。
小作農の苦しみのお陰で何不自由なく暮らしていたシャノン。
窮屈な上流社会に嫌気が差していた。わがままにも感じるけど。
アメリカの「ただで土地あげます」みたいなチラシを大事に取ってあったらしい。
ちょっとそこが不思議。土地まだ欲しいの?と。

結局後になり小作農の反乱により豪邸を失うのだか、土地があるっていうのはとにかく強みだね。

いろいろあって、最後にようやくオクラホマ。
偶然にも?二人はまた会うわけだ。ご都合主義だけど。
ランドラッシュのシーンは圧巻。
本当にあったらしい。
ビーチフラッグスのルールで土地を獲得するランドラッシュ。
何も先まで行かず、途中のそこでいいんじゃないの?と思ったあなた!(自分です)
ちゃんと川が近くにあるとか、調べておかないといけないらしい。
しかし暴れ馬を乗りこなすトムクルーズ、CGなし?スタントマンなし?だとしたらすごい。

最後に生き返るところが父親が息を引き取るシーンと重なるわけだけど、こっちはマジで生き返るのだ。
ややギャグのようで笑ってしまったけど。

「大草原の小さな家」でたまにインディアンが登場する。
そりゃ、追い出された方にしてみればたまったもんじゃないだろうな。
インディアンだって勝手に住んでいたのかもだけど。

広大なアメリカですら誰も住んでいない土地は19世紀にすらなかったのかな。
肥沃な土地は、ってことか。

土地ってもともと誰のものなんだろうか。
先祖代々住んでいる人が偉いのか。

と、しみじみ思うのである。

 

貧しいアイルランドの青年が苦労の末に新天地アメリカで念願の土地を手に入れる話と言ったら身も蓋もないが2時間20分の長尺だからそう単純に話は進まない、むしろ絶対に出会うはずのない男と女、まして新天地で結ばれるなんて奇跡のような物語、そのプロセスをじっくりと味合う映画でしょう。実際の夫婦でもあったトム・クルーズとニコール・キッドマンが熱演しています。
自身もアイルランド移民の子でオクラホマ出身のロン・ハワード監督が思い入れたっぷりに造った壮大な叙事詩です。
観る前は開拓時代の西部劇かと早とちりしていたが開拓史も終焉のアメリカ、物語の第二の舞台となるボストンはファイトクラブや市長とマフィアの癒着、淫売宿などが描かれアメリカの病巣の芽吹きが痛々しい。イタリア人が強いのは映画「ロッキー」を思わせて妙に合点がいってしまった。
クライマックスの陣取り合戦、題名は思い出せないが西部開拓映画で何回か見た記憶がある。早い者勝ちで旗を立てたものが土地を取得できると言う入植者新興策のオクラホマのランドラッシュは1889年から1895年にかけて5回行われている。映画は4回目の1893年9月16日正午に号砲がなったレースであろう。勝てば、なんと20万坪の土地を15ドルの手数料で手に入れることができたそうだ、実際には映画の地主夫婦のように抜け駆けをする者も多かったようでオクラホマ州は別名「抜け駆け州」(Sooner State)と呼ばれたそうだ、不名誉な話ですね。
搾取から逃れた自由の新天地で得た土地も元は原住民からの搾取、自由平等と弱肉強食のダブルスタンダードは根深いのである。名作「怒りの葡萄」にもつづられているが人々が競って手に入れたオクラホマの農地も後の干ばつで荒廃し多くの人が土地を離れたという。
時代や国は違っても安住の地のあることの有難味がひしひしと伝わってくる大作でした。

 

「ランドラッシュ」という言葉を初めて知りました。当時の様子が丁寧に描かれており、見応えが有りました。

意志的な女性シャノンを演じたニコール・キッドマンが凛として美しい。

アメリカの広大な土地をトム・クルーズを乗せ駆け抜ける馬、躍動感に溢れていました。

当時私生活でもご夫婦だったそうですが、美男美女で
とてもお似合いのお二人でした。

エンドロールで流れるエンヤの透き通った歌声がいい。

 

共通の目標がって、想いも通じているのに、歯がゆいぐらい愛情表現ができない二人が、安心のゴールで良かった。ずいぶん前に観たときはラストの開拓地競争のシーンが強烈だったが、メロドラマ的な色合いも悪くない。
トム・クルーズもキッドマンも若くて美しい。恋敵役のトーマス・ギブソンは、TVのFBI捜査官と随分印象が違っていて驚いた。

 

貧困、裕福、地代、地主、小作農民。お金や土地で渦巻く欲求という暗闇の中で生きた人間の生き様を描いた物語。夢に向かってまっしぐらのジョセフとモダンを求め、自らの足で家柄という拘束から逃げようとするシャノンの恋愛、そしてロマンを描いた物語である。
最後のシーンはやはりジョセフとシャノンの性格を改めて強調したシーンで、
シャノンは最も美しい土地を一番乗りで獲得できる状況で、ジョセフに土地を譲る、一方ジョセフは土地が目の前にあるにも関わらず、旗を刺さない。この二人は目の前にある欲求ではなく、それぞれの共通の夢を選んだのだ。
夢と希望に満ち溢れたこの映画を見事ランドラッシュを通して描いたロン・ハワードにあっぱれである。


映画 皮膚を売った男

2023年09月25日 09時07分17秒 | 社会・文化・政治・経済

9月26日午前2時40分からCSテレビのムービープラスで観た。

奇想天外のドラマである。

背中のタトゥーがアート作品になった男が手にした自由とは

チュニジア出身、カウテール・ベン・ハニア監督の日本デビュー作。

アラブの春が巻き起こりつつある2011年のシリア。

移動の自由と大金を得るため、自らの肉体を現代アートの作品へと変貌させた難民の男が味わう特異な体験を描く。

驚いたことに監督は、背中のタトゥーが芸術として認められ、本当にオークションで売買された実在の人物のエピソードから着想を得ている。

ハニア監督は1977年、のちにジャスミン革命の発端となった街シディブジド生まれ。

チュニスと留学先のパリで映画を学ぶとソルボンヌ大学に進学、映画学の修士を獲得した。

卒業後はドーハにあるアルジャジーラ放送局に勤務し、子供向けアニメや実写短編、ドキュメンタリー映画の製作など精力的に活動。

本作はチュニジア映画としても、そして同国の女性監督作としてもアカデミー国際長編映画賞に初めてノミネートされる快挙を果たした。

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これまでに本作含め5本の長編を手掛けるハニア監督。

過去作ではイスラム教徒の学生、母親の再婚に悩む子供、警官にレイプされた女性など、未熟で弱い立場の人々を通して、宗教観、家族観、男性優位社会の弊害などをテーマに、ドキュメンタリー、モキュメンタリー、再現ドラマと形式を変えながらも、我々の知らないチュニジアの側面を浮き彫りにしてきた。

その評価は作品ごとに高まり、今やカンヌやベネチアなど、国際映画祭の常連に数えられるまでになっている。

この「皮膚を売った男」は前作「Beauty and the dogs」に続く監督2本目のフィクション。

過激思想からシリア当局に監視され、逃亡したレバノンでは潜伏生活を強いられる難民サムは、知り合いになった世界的な芸術家からの提案で、背中をキャンバスとする権利を売り渡す。

大掛かりなタトゥーが刻み込まれ、自身が一つの芸術作品に変わったことで、輸送の名目で世界を行き来できる権利(タトゥーが短期ビザの図案を模している)を与えられたサム。

ベルギーに移住していた恋人とも念願の再会を果たすが、一方では各国の美術館で半裸を晒し展示品としての義務も果たさなければならず、様々な制約も課せられる。彼が手にした自由とは一体なにか。

監督は「極北のナヌーク」やワイズマン作品、「懲罰大陸★USA」「カメレオンマン」「博士の異常な愛情」といった作品からの影響を受けたとコメント。

移民の背中にVISAと描いたら自由になった、とは笑いか怒りか、皮肉か告発か。実話ベースの虚実ないまぜの物語は、「アート」の名のもとに押しつけられる西側の論理や、中東への搾取の構図を浮かび上がらせる野心的なサタイヤ(風刺)に仕上がった。サムが劇中で言う「恵まれた側」と「怒れる側」の両方を知るハニア監督、次のキャンバスに何を描くか、興味は尽きない。


絶妙なバランス 政治の安定を生む

2023年09月25日 08時32分27秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

公明党が結党した当時は、大企業などの資本家に支持された自民党と、労働組合に支持された社会党が対立する55年体制の真っただ中でした。

しかし、この構図は<政治から忘れ去られた人>をつくってしまった。

お年寄りや子ども、中小企業で働く人たちなどです。

公明党は、こうした人たちの声なき声を政治に届けるために誕生しました。

結党から貫かれるその信念は連立政権の中でも光っています。

国を一つの家族として見たときに、外交や防衛、経済政策などの大きな枠組みを決めるのが得意な自民党は<お父さん>です。

大きな政策に目を向けてばかりいると足下がみえなくなる。

そこで、公明党が<お母さん>として、徹して一人に寄り添う政策を前に進める。

お父さんとお母さんの力が合わさることによって、身近な問題から外交政策まで、きちっと取り組むことができるのです。

こうした微妙なバランスが、政治の安定を生んできました。

今の政界を見渡して、<お母さん>の役割を果たせるのは公明党しかいません。

<代わり>はいないのです。

私は、公明党の地方議員と国会議員が、「困っている人はいないか」と靴底をすり減らして地域を歩き、課題解決のために汗を流している姿をこの目見てきました。

こんな政党は他にありません。

公明党が政権与党にいるから、一人一人の声が政治に届くのです。

<夜回り先生> 水谷 修さん