ジョン・デューイ(1859~1952年)は混迷の時代を生きました。
南北戦争と2度の世界大戦、さらに朝鮮戦争を見てなくなったのは「核の時代」の始まりとも言える時代です。
アメリカ社会には、構造的な人種差別、社会の周辺に追いやられた民族や文化集団への迫害が横行していました。
そのなかでデューイは、誰もが敬意を払われ、成功と幸福への方途を提供されるべきであると考えました。
彼は、「アメリカは国や民族の<るつぼ>であるという、一人一人の個性を消すような考えを嫌いました。
むしろ、それぞれの楽器が固有の音色を奏でて調和をなす、「交響曲」のような国であらねばならないと信じていたのです。
デューイは、哲学や教育学の分野ですでに広く尊敬を集めており、その意味でアメリカ社会の<内側>にいた人物であったと言えます。
実際に、デューイは、アメリカ心理学会とアメリカ哲学会の会長を務め、ニューヨークタイムズは彼を、「アメリカの哲学者」と呼んでたたえています。
デューイは、キリスト教の原理主義者であった母を見ていたことで、キリスト教は哲学や教育の改革に不向きな偏狭なものであると捉えました。
もっとも、デューイが信仰それ自他に否定的であったのではなく、科学や人文科学が進歩する中で変わることができない、形骸化する宗教組織や制度に批判的であったということです。
デューイは、まず、教育に対する革新的なアプローチと環境意識の高さがあげられます。
ダーウィンの進化論などの科学的な世界観、そして恐らく最も重要な点として、機械論的でない有機的な世界観に影響を受けていました。
心と体を対立するものとして区別せず、全体として捉えています。
また、デューイは、自由な探求を妨げるものと戦い、学校は地域生活に密着する場として捉えました。
さらに、学習者の過去の経験や文化的規範、そして地理的要因や歴史的要因などを考慮することが重要であると主張しました。
デューイが、個人やコミュニティーの「成長」と表現したものは、当時、「成長」の概念は曖昧すぎると批判を受けました。
しかし、その概念は曖昧なのではなく、結論が固定されていないがゆえの「オープンエンド」(途中で変更や修正が可能であること)な性質を帯びたものであると思うのです。
成長は、実験的なものであり、多分に進化論的考えです。
環境条件が変われば、適応し、生存するための戦略の変わるものですが、それは教育についても同様であるべきです。
デューイは、人間の可能性への信頼のよってのみ民主主義の創出は可能になると言いました。
その意味で、成長は挑戦的な目標であり、多くの作業を伴いものです。
教育は変化を恐れてはなりません。
イギリスの経済学者であるケインズは、かつて自分の立場を変えたと非難されたとき、「状況が変われば私は意見を変える」と答えています。
曖昧さは、多くの場合、ただ問題を回避するための逃げ道となりますが、オープンエンドであることは、変化を受け入れ、新たな経験がもたらす価値を歓迎します。
ゆへに、具体的な問題解決を進めていく方法たり得るのです。
第一に、教育の目的は生活のニーズの中から生まれならないということです。
第二に、幸福は社会で共有された意識の中で育まれるという点です。
デューイは、社会性を身に付けることそれ自体は、犯罪集団の間でも起こりうるものだと考えていました。
ゆえに重要なのは、社会の意識を良い方向へ導き、人々がより幸せになる方法を見つけることです。
第三に、子どもは生まれながらにして探求心と創造性に富んでいるということです。
ゆへに教育は、創造的で貢献的な人生を生きるための目標とツールを開花させていくものです。
4点目に、教育の目的は情報や価値の単なる伝達でない。
丸暗記や詰込み教育、テストのための教育といった、従来の教育モデルの克服を目指しました。
5点目は、デューイは教育には科学的な根拠が必要であると考えました。
そして6点目に、フィールドワークの大切さです。
デューイの教育哲学は1)テーマ中心型の学習2)ピアーランニング(学習者同士が協力しながら学び合う)3)サービスラーニング(社会活動を通した学習)4)共同研究者としての教師の柱の位置づけです。
デューイは、自国以外の文化や生活様式への認識と理解を広げることを志向していました。
人類が進歩するためには、国家や文化の対立、偏見、競争心を克服しなければならないと考えていました。
ラリー・ヒックマン・デューイ協会元会長