ヌーヴェルヴァーグとは 「新しい波」

2024年01月08日 23時41分31秒 | 社会・文化・政治・経済

ヌーヴェルヴァーグ(フランス語: Nouvelle Vague)は、1950年代末に始まったフランスにおける映画運動。

ヌーベルバーグ、ヌーヴェル・ヴァーグとも表記され、「新しい波」(ニュー・ウェーブ)を意味する。

定義

広義には、撮影所(映画制作会社)における助監督等の下積み経験なしにデビューした若い監督たちによる、ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法的な共通性を持った一連の作品を指す(単純に1950年代末から1960年代中盤に制作された若い作家の作品を指すこともあり、さらに広い範囲の定義もある)。

狭義には、映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの薫陶を受け、同誌で映画批評家として活躍していた若い作家たち(カイエ派もしくは右岸派)およびその作品を指す。

具体的には、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ピエール・カスト、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アレクサンドル・アストリュック、リュック・ムレ、ジャン・ドゥーシェなど。

また、モンパルナス界隈で集っていたアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケル、ジャン・ルーシュなど、主にドキュメンタリー(記録映画)を出自とする面々のことを左岸派と呼び、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。

また、ヌーヴェルヴァーグの作家として、ジャック・ロジエ、クロード・ベリ、ジャン=ダニエル・ポレ、フランソワ・レシャンバック、ロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、ジャン=ピエール・メルヴィルやクロード・ルルーシュ、ジャン=ピエール・モッキー、セルジュ・ブールギニョンを含めることもある。

ヌーヴェルヴァーグの名作として知られる『気狂いピエロ』である。

詳細/発生から終焉

ーヴェルヴァーグ(新しい波)と言う呼称は、1957年10月3日付のフランスの週刊誌『レクスプレス』誌にフランソワーズ・ジルーが「新しい波来る!」と書き、そのキャッチコピーを表紙に掲げたことが起源とされる。

以降、同誌は「ヌーヴェルヴァーグの雑誌」をキャッチフレーズとしたが、この雑誌で言う「新しい波」とは、当時話題になっていた戦後世代とそれまでの世代とのギャップを問題にしたものに過ぎなかった。

この言葉を映画に対する呼称として用いたのは、映画ミニコミ『シネマ58』誌の編集長であったピエール・ビヤールで、同誌1957年2月号において、フランス映画の新しい傾向の分析のために流用した。

しかし、この言葉が用いられる以前から、後にヌーヴェルヴァーグと呼ばれる動向は始まっていた。

トリュフォーは1954年1月号の『カイエ』誌に掲載した映画評論「フランス映画のある種の傾向」において、サルトルが実存主義の考え方に基づいてフランソワ・モーリアックの心理小説を例に取って小説家の神のような全能性を根本的に批判したのにならい、当時のフランス映画界における主流であった詩的リアリズムの諸作品に対し、同様の観点から痛烈な批判を行なった。

その論法の激しさから、トリュフォーは「フランス映画の墓掘り人」と恐れられたが、これがヌーヴェルヴァーグの事実上の宣言文となった。

発生
『いとこ同志』
 
『大人は判ってくれない』
 
『勝手にしやがれ』

ヌーヴェルヴァーグの最初の作品は、カイエ派(右岸派)のジャック・リヴェットの35mm短編『王手飛車取り』(1956年)だと言われる。

本作はジャック・リヴェットが監督を務めたが、クロード・シャブロルが共同脚本として参画したことを始め、ジャン=マリ・ストローブが助監督、トリュフォーやゴダール、ロメールも俳優として出演したように、まさに右岸派の面々がこぞって参加し共同し創り上げた作品だった。

この作品を皮切りに、右岸派は次々と短編作品を製作した。トリュフォー『あこがれ』(1957年)、『男の子の名前はみんなパトリックっていうの』(1957年)、ゴダール&トリュフォー『水の話』(1958年)などである。

1957年12月から1958年2月にかけてシャブロルは長編第1作の『美しきセルジュ』を故郷の村サルダンで撮影した[3]。『美しきセルジュ』は1958年8月、スイスのロカルノ国際映画祭で上映。同年9月にはヴェネツィア国際映画祭でも上映された。そして1959年1月10日にフランス本国で公開され、商業的にも成功した。

1959年3月11日、シャブロルの『いとこ同志』が公開。同年5月4日、トリュフォーの『大人は判ってくれない』がカンヌ映画祭で上映。同月、『大人は判ってくれない』はカンヌで監督賞と国際カトリック映画事務局賞を受賞し、7月には『いとこ同志』がベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した。

『美しきセルジュ』もこの年にジャン・ヴィゴ賞を受賞し、ヌーヴェルヴァーグの名は一挙に広まった。

同年8月17日から9月19日にかけてジャン=リュック・ゴダールの長編第1作の『勝手にしやがれ』の撮影が行われた。同年秋、パリ近郊の撮影所の作業室で『勝手にしやがれ』の20分あまりのラッシュを見た新外映の秦早穂子は感銘を受け、試写(11月)前であったが日本での配給を決定した。

同じ頃、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』の買い付けも行った秦はヌーヴェルヴァーグをこう分析した。

「フランスは戦勝国ではあったが、植民地のインドシナを失い、更にアルジェリアを手放す危機に追い込まれていた。人権や宗教の問題、戦争の後遺症を背負って喘いでいた。一見華やかなパリの空気の底に、黒い不安や怒りが渦を巻く。(中略)ヌーベル・バーグとは、若い人全体の行動と思いであり、映画だけの運動にはとどまらなかった。『勝手にしやがれ』の主人公のミシェル・ポワカール、いや演じたベルモンドの存在そのものが、重苦しい社会の空気を横からぶっ飛ばす力を秘めていた」

1960年3月16日、『勝手にしやがれ』が公開。

即興演出、同時録音、ロケ中心というヌーヴェルヴァーグの作品・作家に共通した手法が用いられると同時にジャンプカットを大々的に取り入れたこの作品は、その革新性によって激しい毀誉褒貶を受け、そのことがゴダールとヌーヴェルヴァーグの名を一層高らしめることに結びついた。

一方、左岸派の活動は、カイエ派(右岸派)よりも早くにスタートしていた。時期的にはアラン・レネが撮った中短編ドキュメンタリー作品である『ゲルニカ』(1950年)や『夜と霧』(1955年))が最も早く、その後、レネは劇映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959年)と『去年マリエンバートで』(1961年)を製作した。カイエ派、左岸派を含めた中で最初の長編劇映画はアニェス・ヴァルダの『ラ・ポワント・クールト』(1956年)だった。ジャック・ドゥミは『ローラ』(1960年)を公開した。これらが商業的な成功も収めたことから、1950年代末をヌーヴェルヴァーグの始まりとすることが多い。

また、まだ「ヌーヴェルヴァーグ」という言葉の生まれるずっと前、1951年『カイエ』創刊の年、ロメールがゴダールを主演に『シャルロットと彼女のステーキ』を撮影し、翌年アストリュックが本格的中編作品『恋ざんげ』を撮る。このとき、トリュフォーは兵役によって不在(1950年 - 1953年)であり、『カイエ』創刊にも立ち会っていない。そのトリュフォーが1953年にパリに帰還、『カイエ』に執筆を開始する。トリュフォーは、リヴェットがルーアン時代に撮っていた短編を観て、創作意欲をかき立てられ、リヴェットの撮影監督としてのサポートのもと『ある訪問』を1954年に撮影している。

この20分のラッシュを観たアラン・レネが編集をし、7分40秒の短編映画が出来上がった。この年、スイスでゴダールは『コンクリート作業』という短編を撮り、トリュフォーは『勝手にしやがれ』の最初の原案シナリオを書いた。1956年、ロジェ・ヴァディムが妻のブリジット・バルドーを主演に撮ったデビュー作『素直な悪女』は賛否両論を浴びたが、トリュフォーは絶賛する。

このアメリカナイズされた新しいフランス映画の興行的成功の延長線上におかれたことで、経済的な意味でヌーヴェルヴァーグの作品群は存在することが可能になった。

また、1958年に撮影が始まったリヴェット『パリはわれらのもの』は、トリュフォーのレ・フィルム・デュ・キャロッス社とシャブロルのAJYMフィルム社の合作であり、前述のジャック・ドゥミも出演している。現実のヌーヴェルヴァーグにあっては、カイエ派も左岸派も乖離した存在ではなかった。

終焉と継承

終焉に関しては諸説あり、その始まり以上に論者による見解は一致しない。

最も短いものでは、上述した嵐のような動向が一段落した60年代前半とされる。的にはトリュフォーやルイ・マルが過激な論陣を張った1968年5月19日のカンヌ映画祭における粉砕事件までを「ヌーヴェルヴァーグの時代」と捉えるのが妥当だと言われている。

この時点までは右岸派や左岸派の面々は多かれ少なかれ個人的な繋がりを持ち続け、運動としてのヌーヴェルヴァーグをかろうじて維持されていたが、この出来事をきっかけとしてゴダールとトリュフォーの反目に代表されるように関係が疎遠になり、蜜月関係と共同作業とを一つの特徴とするヌーヴェルヴァーグは終焉を迎えることとなった。

しかし、即興演出、同時録音、ロケ中心を手法的な特徴とし、瑞々しさや生々しさを作品の特色とする「ヌーヴェルヴァーグの精神」はその後も生き続け、ジャン・ユスターシュやフィリップ・ガレル、ジャン=クロード・ブリソー、ジャック・ドワイヨン、クロード・ミレールらは「カンヌ以降」に登場し評価を得た作家だが、いずれも「遅れてきたヌーヴェルヴァーグ」との評価を得た。

影響

ヌーヴェルヴァーグには、「精神的な父」と呼ばれる人物が複数存在し、アンドレ・バザン、ロベルト・ロッセリーニ、ジャン・ルノワール、ロジェ・レーナルト、ジャン=ピエール・メルヴィル、溝口健二などが挙げられている。

ヌーヴェルヴァーグが興った1950年代から1960年代にかけては、フランスにおいては映画に限らず多くの文化領域で新たな動向が勃興しつつあった。

それはサルトルを中心とした実存主義や現象学を一つの発端とするもので、文学におけるヌーヴォー・ロマンや文芸批評におけるヌーヴェル・クリティック、さらには実存主義を批判的に継承した構造主義など多方面に渡った現象であり、ヌーヴェルヴァーグもこれらの影響を様々に受けていると言われる。

事実、ヌーヴォーロマンの旗手であったアラン・ロブ=グリエやマルグリット・デュラスは、原作の提供や脚本の執筆のみならず、自ら監督を務めることでヌーヴェルヴァーグに直接的に関与している。

しかし実際には、ヌーヴォー・ロマンという運動自体があったわけではなく、その呼称すら1957年5月22日『ル・モンド』での論評に初めて現れたものであり、『レクスプレス』誌の引用で『シネマ58』1957年2月号に現れた「ヌーヴェルヴァーグ」という呼称の方が早い。

『勝手にしやがれ』に代表されるアンチクライマックス的説話論自体は、文学の影響というよりも、むしろバザンが熱烈に擁護した『無防備都市』(1945年)や『ドイツ零年』(1948年)のロッセリーニや、『カイエ』の若者たちを魅了した『拳銃魔』(1950年)のジョセフ・H・リュイス、『夜の人々』(1949) のニコラス・レイ、『暗黒街の弾痕』のフリッツ・ラングらのアメリカの低予算B級映画のほうに直接的な影響関係がある。

文学ではトリュフォーは『大人は判ってくれない』にあるようにむしろバルザック、アストリュックは『女の一生』つまりはモーパッサンが原作、と非常に古風である。

哲学や文学領域の新傾向とヌーヴェルヴァーグとは、一方的な影響関係にあるというよりも、異分野で同時多発的に起きたものであり、デュラスらは彼ら映画人と対等に共同戦線を張ったのである。

『カイエ』の思想は、ヒッチコック=ホークス主義に代表される「作家主義」である。

この源泉は、1948年、アストリュックの論文『カメラ=万年筆、新しき前衛の誕生(Naissance d'une nouvelle avant-garde : la caméra-stylo)』(『レクラン・フランセ』(L'Écran Français)誌)であり、これにバザンも魅了され、アストリュックともに『レクラン・フランセ』を飛び出し、ジャン=ジョルジュ・オリオールやジャック・ドニオル=ヴァルクローズの『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』に加担していく。

ヌーヴェルヴァーグへの思想的影響というならば、実存主義よりも作家主義である。

ちなみに、その「作家主義(La Politique des Auteurs)」ということば自体の初出は、ヌーヴェルヴァーグ前夜の1955年2月、映画作家デビュー(短編)直後の批評家トリュフォーが、「カイエ」誌上に発表した『アリババと「作家主義」』(Ali Baba et la "Politique des Auteurs")であった。

また、まったくの同世代であるブラジルの映画作家ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが撮ったセミドキュメンタリー『リオ40度』も1956年パリで上映され、この年に、ヌーヴェルヴァーグ的なるものがパリになだれ込んだことがヌーヴェルヴァーグに火を点けた。

日本におけるヌーヴェルバーグの影響としては、1960年代に松竹が、大島渚、吉田喜重、脚本家の石堂淑朗などによる作品の演出や作風が当時のフランスのヌーヴェルバーグと呼ばれた若手監督に似ていることに着目し、彼らの映画を「松竹ヌーヴェルバーグ」として売り出したことが挙げられる。

とくに1960年公開の大島渚監督の『青春残酷物語』のセンセーショナルなヒットがその松竹ヌーヴェルバーグの口火となった。

しかし、大島渚は自身の監督作『日本の夜と霧』の不評もあって、松竹と対立し、石堂淑朗らなどと共に松竹を辞めて独立プロを起こした。

 


利根輪太郎の競輪人間学 2着の脇本 雄太選手が病気欠場

2024年01月08日 22時50分30秒 | 未来予測研究会の掲示板

  GⅢ 大宮競輪 東日本発祥倉茂記念杯

2日目(1月6日)12レース二次予選

脇本 雄太選手は、3日目から病気欠場となる。




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 浅井 康太   13.5   脇本を差す
2 7 脇本 雄太 1/2車輪 13.6   慌てず捲る
× 3 2 鈴木 玄人 4車身 14.1   B 先捲り残る
4 9 朝倉 佳弘 1車輪 14.0     鈴木玄追い
  5 4 小野 大介 3/4車身 13.9     自然と離れ
  6 8 増原 正人 3/4車身 13.9     立ち遅れて
  7 6 山本 拳也 1車身 13.9     増原と一緒
8 3 佐藤 博紀 1車身1/2 14.6   S 逃され捲れ
9 5 宮越 孝治 3/4車身 14.3     本線も離れ

戦い終わって

戦い終わって写真

 レースは四分戦。東北、中四国、中部近畿、東京の順で始まる。最初に抑えたのは東京の鈴木玄人。中部近畿の先頭脇本雄太にフタをして車を下げさせていわゆる後ろ中団を確保した。最先頭の佐藤博紀がホームまで誘導を使い逃げにかかるが鈴木も合わせて踏み出し主導権争いに。しかし後方の脇本がスピードの違いを見せ付け一瞬で捲ってしまう。最後は脇本マークの浅井康太が差してワンツーを決めた。三着には先に仕掛けた鈴木が粘り込んだ。しっかりワンツーを決めた浅井は「位置はどこでも。脇本君の取った所からでよかった。彼が踏み出した時が勝負だと思っていたので。最後に差せたのは2コーナーで彼がワンテンポ様子を見た分スピードに乗り切らなかったからかな。自分の状態は普通です。ただ気温が低くてペダルを回しにくい状態なので、うまく回せるように調整したい」。
 二着通過の脇本は病気欠場。何とかこらえて三着確保の鈴木は「朝倉さんに任せてもらったんで自分なりにできる限りの事はしようと。佐藤さんのダッシュもすごくて一杯になってしまったけど、自分なりにレースを組み立ててラインで勝ち上がれたのは自信につながります」。

4日目(1月8日)

12レース決勝戦

並び予想 3-7 2-4 8-5-1-9-6

レース評

結束の地元勢は間違いなくロケット作戦。番手の宿口がシビアに出て4角絶好は平原だ。デキいい北津留にSS清水も猛抵抗!

平原 康多選手は横の足も衰えたので、清水 裕友選手の捲りをブロックできなかったのだ。

 

2-1 1,640円(7番人気) 2-1-3 1万560円(37番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 清水 裕友   14.5    
2 1 平原 康多 3/4車身 14.6    
× 3 3 北津留 翼 3/4車輪 14.3      
4 9 中田 健太 3/4車輪 14.6      
5 7 井上 昌己 1/2車身 14.2      
  6 4 稲垣 裕之 1車身1/2 14.7      
7 5 宿口 陽一 3車身 15.2   B  
  8 6 山田 義彦 1/4車輪 14.9   S  
  9 8 太田 龍希 大差 17.2    

戦い終わって

戦い終わって写真

 結束の地元5人は太田龍希が前受けから気合の全ツッパ。赤板で上昇した北津留翼は車を下げて8番手に置かれた。全開で引き出した太田から宿口陽一が2角で番手捲り。しかし、6番手から清水裕友が捲りを放つとその上を軽々超えてしまった。清水の捲りに稲垣裕之は離れて宿口を捨てた平原康多が判断良くスイッチ。懸命に追い掛けたが差は縮まらず、清水が振り切ってVゴール。迫った平原が2着で、後方から猛然と追い込んだ北津留が3着。
 清水は「記念は防府しか穫れないんじゃないかと思っていました(笑)。初手は考え通り中団が取れたのでそこで様子を見ようと。地元の作戦がどうのより、前が緩んだら仕掛ける感じで。結果一番いい所で仕掛けられたし、飲み込めるだろうと。初日に深谷さんを相手に仕掛けられたのが大きい。これが自信になって優勝につながったんだと思います」。
 平原は「前を取れたらあの感じでした。龍希が言っていたような形だったし、ある程度は想定内のレースだった。陽一も良いところで仕掛けてくれたけど、あれだけのスピード差で行かれちゃうとは。自分も含めて埼玉勢は脚力不足。もっと戦略とかを考えないとダメですね。自分自身もまだまだだと思う。清水が強かったし凄かった。陽一が行かれちゃった時は古性が優勝した静岡GPで同じような景色であの時を思い出しました。5人全員が力を出せたと思うし、内容には納得している。だけど優勝者を出せなかったのは本当に悔しい。去年の終わりに考えることがあって、自分自身変わっていかないといけない。年齢的にもしっかり体と向き合ったり、連係のことも考えていかないといけない。これから7車の競輪もあるけど、どういう競輪になっても自分の状態が良くならないことには勝負にならない。スポーツ選手は体が資本なので。一時期よりは良くなっているし、あともう少しって感じです」。
 北津留は「車番的にキツかった。誘導も早かったしキツかった。清水君が行ってくれて稲垣さんが離れたので、もつれる展開を期待したけど、すんなり一人で清水君が捲っちゃったので自分の目がなくなった。もう一つ何かできたとするなら、誘導を思いっきり切るくらいでしたね。それくらいだと思う。この後は地元のF1があるので今年はやらかさないように。時期まで近いのでデジャウにならないように意識します(笑)」。


利根輪太郎の競輪人間学 2着の脇本 雄太選手が病気欠場

2024年01月08日 22時50分30秒 | 未来予測研究会の掲示板

  GⅢ 大宮競輪 東日本発祥倉茂記念杯

2日目(1月6日)12レース二次予選

脇本 雄太選手は、3日目から病気欠場となる。

利根輪太郎は4日間を振り返り、まだ、裏目で負けるとは、まだまだの未来予測の不確実性を痛感した。

出目作戦も悪い方向へ出た。

9番に拘り過ぎた。

さらに、肝心な12357で決まる競輪を貫けないでいたのだ。




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 1 浅井 康太   13.5   脇本を差す
2 7 脇本 雄太 1/2車輪 13.6   慌てず捲る
× 3 2 鈴木 玄人 4車身 14.1   B 先捲り残る
4 9 朝倉 佳弘 1車輪 14.0     鈴木玄追い
  5 4 小野 大介 3/4車身 13.9     自然と離れ
  6 8 増原 正人 3/4車身 13.9     立ち遅れて
  7 6 山本 拳也 1車身 13.9     増原と一緒
8 3 佐藤 博紀 1車身1/2 14.6   S 逃され捲れ
9 5 宮越 孝治 3/4車身 14.3     本線も離れ

戦い終わって

戦い終わって写真

 レースは四分戦。東北、中四国、中部近畿、東京の順で始まる。最初に抑えたのは東京の鈴木玄人。中部近畿の先頭脇本雄太にフタをして車を下げさせていわゆる後ろ中団を確保した。最先頭の佐藤博紀がホームまで誘導を使い逃げにかかるが鈴木も合わせて踏み出し主導権争いに。しかし後方の脇本がスピードの違いを見せ付け一瞬で捲ってしまう。最後は脇本マークの浅井康太が差してワンツーを決めた。三着には先に仕掛けた鈴木が粘り込んだ。しっかりワンツーを決めた浅井は「位置はどこでも。脇本君の取った所からでよかった。彼が踏み出した時が勝負だと思っていたので。最後に差せたのは2コーナーで彼がワンテンポ様子を見た分スピードに乗り切らなかったからかな。自分の状態は普通です。ただ気温が低くてペダルを回しにくい状態なので、うまく回せるように調整したい」。
 二着通過の脇本は病気欠場。何とかこらえて三着確保の鈴木は「朝倉さんに任せてもらったんで自分なりにできる限りの事はしようと。佐藤さんのダッシュもすごくて一杯になってしまったけど、自分なりにレースを組み立ててラインで勝ち上がれたのは自信につながります」。

4日目(1月8日)

12レース決勝戦

並び予想 3-7 2-4 8-5-1-9-6

レース評

結束の地元勢は間違いなくロケット作戦。番手の宿口がシビアに出て4角絶好は平原だ。デキいい北津留にSS清水も猛抵抗!

平原 康多選手は横の足も衰えたので、清水 裕友選手の捲りをブロックできなかったのだ。

 

2-1 1,640円(7番人気) 2-1-3 1万560円(37番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 清水 裕友   14.5    
2 1 平原 康多 3/4車身 14.6    
× 3 3 北津留 翼 3/4車輪 14.3      
4 9 中田 健太 3/4車輪 14.6      
5 7 井上 昌己 1/2車身 14.2      
  6 4 稲垣 裕之 1車身1/2 14.7      
7 5 宿口 陽一 3車身 15.2   B  
  8 6 山田 義彦 1/4車輪 14.9   S  
  9 8 太田 龍希 大差 17.2    

戦い終わって

戦い終わって写真

 結束の地元5人は太田龍希が前受けから気合の全ツッパ。赤板で上昇した北津留翼は車を下げて8番手に置かれた。全開で引き出した太田から宿口陽一が2角で番手捲り。しかし、6番手から清水裕友が捲りを放つとその上を軽々超えてしまった。清水の捲りに稲垣裕之は離れて宿口を捨てた平原康多が判断良くスイッチ。懸命に追い掛けたが差は縮まらず、清水が振り切ってVゴール。迫った平原が2着で、後方から猛然と追い込んだ北津留が3着。
 清水は「記念は防府しか穫れないんじゃないかと思っていました(笑)。初手は考え通り中団が取れたのでそこで様子を見ようと。地元の作戦がどうのより、前が緩んだら仕掛ける感じで。結果一番いい所で仕掛けられたし、飲み込めるだろうと。初日に深谷さんを相手に仕掛けられたのが大きい。これが自信になって優勝につながったんだと思います」。
 平原は「前を取れたらあの感じでした。龍希が言っていたような形だったし、ある程度は想定内のレースだった。陽一も良いところで仕掛けてくれたけど、あれだけのスピード差で行かれちゃうとは。自分も含めて埼玉勢は脚力不足。もっと戦略とかを考えないとダメですね。自分自身もまだまだだと思う。清水が強かったし凄かった。陽一が行かれちゃった時は古性が優勝した静岡GPで同じような景色であの時を思い出しました。5人全員が力を出せたと思うし、内容には納得している。だけど優勝者を出せなかったのは本当に悔しい。去年の終わりに考えることがあって、自分自身変わっていかないといけない。年齢的にもしっかり体と向き合ったり、連係のことも考えていかないといけない。これから7車の競輪もあるけど、どういう競輪になっても自分の状態が良くならないことには勝負にならない。スポーツ選手は体が資本なので。一時期よりは良くなっているし、あともう少しって感じです」。
 北津留は「車番的にキツかった。誘導も早かったしキツかった。清水君が行ってくれて稲垣さんが離れたので、もつれる展開を期待したけど、すんなり一人で清水君が捲っちゃったので自分の目がなくなった。もう一つ何かできたとするなら、誘導を思いっきり切るくらいでしたね。それくらいだと思う。この後は地元のF1があるので今年はやらかさないように。時期まで近いのでデジャウにならないように意識します(笑)」。


本気で人を育てようと思えば、悩みも多い

2024年01月08日 19時51分17秒 | その気になる言葉

▼良き友を持つことは幸せである。

良き先輩を持つことも幸せである。

人のために戦うことはさらに幸せである。

有名な権力者たちよりもはるかに幸せであり偉いのだ。

▼勇気で前進しよう。

勇気は決意を、行動を、歓喜を生む。

▼子どもの心は、真っ白なキャンパスにも似ている。

関わり方によって、人それぞれの色を鮮やかに現し始める。

温かく見守り、粘り強く励まさす。

この地道な行動が、子どもの成長につながる。

▼本気で人を育てようと思えば、悩みも多い。

しかし、悩むからこそ、自身も成長できる。

「ここまでしてくれるのか」と言われるくらい心を砕く―その真心に応えて、人は育つ、

▼思想で旋風を巻き起こせ―文豪ユゴー


何があっても<負けない人生を>

2024年01月08日 12時07分11秒 | その気になる言葉

▼天才とは努力のの異名である。

努力と忍耐で勝つのだ。

▼挑戦の青春は人生の礎となる。

▼若さには、秘められた力があり、限りい希望がある。

▼大人になること―それは人間として自立していくことであり、さまざまな社会的責任を負うこともある。

▼異常気象、コロナ、戦渦の拡大、社会は生きづらく、未来は不確かで暗いものという意識が強く表れている現状である。

生きるということは、未知の世界に歩みを運ぶことであり、葛藤、苦悩の連続とも言える。

その現実に目を背けるのではなく、いかに向き合っていくか―そこに人生の幸・不幸を決するカギがある。

▼人は、大きな苦悩や葛藤を通して、人生を新たに生き直すような精神的な一大転換を経験することがある。

それは哲学者・ジェイムズが語った「二度生まれ」ともいえる。

悩みは一重深い人生の価値を開く道ともなるだろう。

▼苦悩があるからこそ、それをバネに自身が成長できるものだ。

そこで、煩わしい悩みを忌避するのではなく、そこから価値を切り開く逆転の発想の転換もある。

▼人が、悩んでいること自体が、必ず変わっていくる証拠である。

人間は前進しているかぎり、成長しているかぎり、悩み、迷うものなのだ。

▼社会生活でも、夢への挑戦でも、不可欠な要件は忍耐である。

▼人生に起こる出来事を前進の力に変え、何度も殻を破り、新しい自分の誕生を迎えられるのだ。

▼生きる希望を創り出すのは自分自身である。

何があっても<負けない人生を>。


ICT(情報通信技術)

2024年01月08日 11時59分48秒 | 社会・文化・政治・経済

The Beatles ビートルズの歴史を紹介②ドイツ・ハンブルグ時代

2024年01月08日 10時43分17秒 | その気になる言葉

ドイツ・ハンブルグは、沼田利根が生涯に一度だけ行ったことがある街である。

概要

正式名称は自由ハンザ都市ハンブルクFreie und Hansestadt Hamburg、フライエ・ウント・ハンゼシュタット・ハンブルク)。 行政上では、ベルリン特別市と同様に、一市単独で連邦州(ラント)を構成する特別市都市州)なので、ハンブルク特別市ハンブルク州と呼ばれる。 人口は、ドイツ第二位の約184万人国際海洋法裁判所がある。

地名の由来[編集]

「ハンブルグ」と慣例的に表記されることもあるが、ドイツ語の発音ではこの語尾の "g" は無声音であるため、仮名転写は「ハンブルク」となる。現地での低地ドイツ語系の低ザクセン語に属するハンブルク方言ドイツ語版またはハンブルク語ドイツ語版による「ハンブイヒ」([ˈhambʊɪç]) や、低ザクセン語の「ハンボーホ」の発音も聞かれる。この地名の最も古い形は、834年 古高ドイツ語 ’Hammaburg’である。これは、高い乾燥した砂地の岬にあるカロリング朝の城塞を指している。’Hamma’ は、現在のドイツ語で ’Hinterschenkel, Kniekehle’「太もも、大腿、膝窩(しっか)、ひかがみ」、転じて ’Winkel, Krümmung, Bucht’「角、湾曲、湾」を意味した。しかし、この地は高地ドイツ語ではなく、低地ドイツ語の地域に入るので、現在のドイツ語で ’umfriedetes Stück Weideland’「(柵、堀などで)囲われた牧場あるいは(魚や鳥の)餌場」を意味する中低ドイツ語(mittelniederdeutsch) ’hamme’の古い形が存在したかもしれない。’burg’ は「城塞」を意味する[5]。漢字表記の「漢堡」は、「Hamburg」の音訳であり、日本語と中国語の両方で同一表記である(※漢字の「堡」は「とりで」を意味しており、「burg」の直訳)。ハンバーグの語源はハンブルクの労働者の食事として流行っていたタルタルステーキから来ている。英語でもハンブルクのことを“ハンバーグ”に近いEn-us-Hamburg.ogg 発音で呼ばれる。なお、フランス語では「Hambourg」(アンブール)と表記される。

地理

位置

エルベ川の支流・アルスター川の河口にある港湾都市で、ドイツ北部における経済の中心地。

 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州ニーダーザクセン州に境を接する。近隣の都市としては、約80 km北のキール市55 km北東のリューベック市、95 km南西のブレーメン市、95 km西のブレーマーハーフェン市、90 km東のシュヴェリン市などが挙げられる。

市域は、アルスター川東岸の旧市街と西岸の新市街、それらをとりまく地域からなる。旧市街は昔から商業地域の中心で、数多くの運河がながれている。

町の景観の特色のひとつが運河にかかる橋で、アムステルダムヴェネツィアをあわせたよりも多くの橋がある。そのほかの名所としては、港にかかる長いつり橋ケールブラント橋や、アルスター川をせきとめてつくった内アルスター湖と外アルスター湖、現在では旧市街をかこむ公園・遊歩道となっている古い市壁跡地があげられる。また、ナイト・クラブがならぶレーパーバーン歓楽街として有名である。

なお、市の中心部とは約100 km離れ、ブレーマーハーフェン以北約40 kmエルベ川河口付近のワッデン海北海)の島嶼および干潟の一部は同市の飛地である。一帯はゼニガタアザラシハイイロアザラシおよび多くの鳥類魚類の生息地であり、1990年にラムサール条約登録地、1992年にユネスコ生物圏保護区に指定された

そして、ハンブルクからパウル・トーマス・マン の家を見に リューベックへも行った。

パウル・トーマス・マン (Paul Thomas Mann、 1875年 6月6日 - 1955年 8月12日 )は、 ドイツ 出身の 小説家 、 評論家 。. リューベック の富裕な商家に生まれる。. 当初は実科を学んだが処女小説『転落』が認められて文筆を志し、 1901年 に自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』で名声を得る。

その後市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説や教養小説の傑作『魔の山』を発表し、1929年ノーベル文学賞を受賞した。

以下は、ブログ「人人振動」からの引用です。

The Beatles ビートルズの歴史を紹介②ドイツ・ハンブルグ時代

 
ビートルズのハンブルグ時代

George Harrison, Stuart Sutcliffe and John Lennon in Hamburg in 1960. Photo: DPA

ビートルズ!!

前回はビートルズ結成までの話を書きました。今回はビートルズ伝説第2章といえるドイツはハンブルグのお話です。ジョン・レノンは後に語っています。

 

The Beatles ビートルズの歴史を紹介①ビートルズ結成
ビートルズ! 全世界が今も恋するバンドです!僕も大好きです ポップ音楽って昔聴いてたものを、久しぶりに聴くとその音楽を聴いてたころの懐かしさとかで、いいなーって思うんですが、ビートルズはそれだけじゃなく、サウンドが聴くたび...

 “I didn’t grow up in Liverpool. I grew up in Hamburg.”

僕はリヴァプールで育ったんじゃなくて、ハンブルグで育ったのさ。

僕もハンブルグに行った事あるんですが、ビートルズのモニュメントも沢山ありますし、それ以外でも面白い町です。僕が旅行したのが2014年ですが、それでも場所によっては結構汚いというか荒れた雰囲気の場所も多々ありました。というか繁華街ですね。歌舞伎町!バンコク!大人の街!

上の写真はハンブルグ時代のビートルズですが、みんな尖ってますね。ロックンロール!!かっこいい!

この時代のメンバーは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、ピート・ベスト、スチュアート・サトクリフです。リンゴ・スターはまだいません。

 

この記事で他の年代はまとめています。

The Beatles ビートルズ のおすすめの曲をアルバムごとに紹介!!
ビートルズ! いまだ世界中のアーティストに影響を与え続けている最高のポップグループです。 ポップスターは数多くいますが、個人的に1番好きなのはやっぱりビートルズですね。ポップ音楽って昔聴いてたものを、久しぶりに聴くとその...

目次

ハンブルグでのビートルズの活動

ビートルズがハンブルグに着いたのが1960年8月17日。ははーん。僕の誕生日は年は違えど8月17日。嬉しい。まあそれは置いといて、活動したのは1960-1962年です。2年間で合計281ものコンサートをしました。3日に一回のペースですね。。。たまに演奏時間が夜7時から朝7時までとかもやってたそうです。。。12時間。。。これは鍛えられるわ。。。

 

ハンブルグと言う場所

ハンブルグは港町です。港町には繁華街があるのが常ですね。で、上の写真がその繁華街で日本で言う歌舞伎町みたいな感じです。そしてその中に『レーパーバーン』という通りがあります。ビートルズはこの付近で演奏をしていました。

レーパーバーンはピンクなお店が並ぶ場所で未成年は立ち入り禁止です。僕が行った時はレーパーバーンの通りの入り口に壁があって、中がのぞけない様になっていました。子供が見たら悪影響ですからね。実際に中に入ると、前面ピンクでお店のガラス越しに裸の女の子座ってます。逆に緊張しましたね w みんな派手だし、ちょっとサイボーグぽかったし。。。

 

でも、ハンブルグはそういう場所だけではありません。旅行行った時写真撮ったんだけどなあ。。。見つからない。。。まあ例えばこんな場所もあります。

ハンブルグの倉庫街

Photo by Thomas Wensing

ここは倉庫街です。ハンブルグは港町なのでこういう場所もあります。凄くきれいですよ!

ハンブルグの写真

 

ビートルズがライブをした場所

Indra Club

インドラ・クラブ

映画 気違いピエロ

2024年01月08日 09時42分41秒 | 社会・文化・政治・経済

1月8日午前4時からCSテレビのザ・シネマで観た。

会話が意味ありげで、深い意味は読み取れない内容の羅列である。

主人公がタバコを口から終始離さないことが、タバコ嫌いな人間にとって嫌な光景だった。

1965
 
脚本ジャン=リュック・ゴダール
 
『気狂いピエロ』は2人が離婚後にも組んで撮った3本の長編の2本目であった。

ヌーヴェルヴァーグの名作として知られる『気狂いピエロ』である。 映画化作品の人気とは裏腹に、原作はこれまで本邦未紹介のまま残されていたが、ノワール小説翻訳の名手として知られる矢口誠によってこのたび新潮文庫から刊行された。 これは必読であろう。

一味は派手な銀行強盗を重ね、1946年11月に気狂いピエロが殺されるまでつづけられた。 暗黒街出身の作家・映画監督、ジョゼ・ジョヴァンニがこの実在した犯罪者をモデルに書いた小説『気ちがいピエロ』が日本でも出版されているが、ロジェ・ボルニッシュという判事上がりのミステリー作家による実録小説もあり、その映画化の企画が進んでいた。

概要

ライオネル・ホワイトの小説『Obsession』(1962年)を原作とする。しかし他の多くのゴダールの作品と同じく脚本と呼べるものはなく、ほとんどのシーンは即興で撮影された。訳書に『気狂いピエロ』(矢口誠訳、新潮文庫、2022年)がある。

当初ゴダールはマリアンヌ役にシルヴィ・ヴァルタンを考えていたが、ヴァルタンのエージェントに断られた[3][4]。ゴダールとアンナ・カリーナは1964年12月に離婚していたが、カリーナをその役にあてた。

1965年5月24日、ヴァール県の海岸で撮影が開始され、6月16日まで本土で撮影が行われた。翌6月17日から29日にかけてポルクロル島とトゥーロンで撮影。7月5日、パリで撮影が再開し、7月17日に終了した

俳優のジャン=ピエール・レオが、スタッフとして助監督を務めた。海のシーンは、溝口健二監督の「山椒大夫」へのオマージュとされる[8]

1965年8月29日、ヴェネツィア国際映画祭で上映。しかし観客からはブーイングがなされたという。同年11月5日、フランスで公開された

1966年10月11日から19日にかけて第4回「フランス映画祭」が東京の東商ホールと草月ホールで開催された。ゴダールの『アルファヴィル』『気狂いピエロ』『男性・女性』のほか、『戦争は終った』『城の生活』『創造物』『悲しみの天使』『317小隊』『バルタザールどこへ行く』など計23本の映画が上映された。本作品は10月18日に上映された[2][10]。そして翌1967年7月7日に日本で一般公開された。

ギャラリー

あらすじ

「ピエロ」と呼ばれるフェルディナン(ベルモンド)は、不幸な結婚をしていた。退屈な生活から逃げ出したい衝動に駆られていたフェルディナンは、ふと出会った昔の愛人であるマリアンヌ(カリーナ)と一夜を過ごすが、翌朝見知らぬ男性の死体を見つけ、彼女と共に逃避行を始める。

アルジェリアギャングに追われながらもフェルディナンは充実した生活を過ごすが、そんな彼に嫌気がさしたマリアンヌは、ギャングと通じてフェルディナンを裏切る。

マリアンヌを銃殺したフェルディナンは顔にペンキを塗り、さらにはダイナマイトまで顔に巻きつけ、死ぬつもりで火を点ける。我に返ったフェルディナンは火を消そうとするが間に合わずに爆死する。カメラは地中海を映し、アルチュール・ランボーの詩「永遠」が朗読される

キャスト