とりで利根川どんどまつり

2024年01月14日 22時53分46秒 | 社会・文化・政治・経済

どんどまつりの最中に花火が打ちあがっている画像です。

とりで利根川どんどまつりは毎年1月上旬に行われます。

2024年は1月13日に行われた。

点火は午後4時、小雨が時折降る。

そして、取手市内は雪夜半には、雪が降る。

どんどまつりはお正月に飾ったしめ飾りなどを燃やし、その残り火で焼いた餅を食べながらその年の無病息災を願うお祭りです。

お正月に天から降りてきた神様はどんどまつりの煙に乗って天に帰るとされ、それをお見送りするために行われると言われています。日本全国それぞれの地方で行われ、地方によっては「あわんとり」、「どんと焼き」などと呼ばれていたりもします。

取手市のどんどまつりは、高さ7、8メートルのやぐらが組まれ市民の皆さまが持ち寄ったお正月のしめ飾りにより飾り付けられます。

やぐらが燃えている画像です。

飾り付けられたやぐらは夕方に火が点けられます。その後やぐらが燃え、火が弱まった後に餅を長い竹に餅をさし残り火で焼いて食べます。毎年多くのかたに来場していただいています。

みなさんで餅を焼いている画像です。

  • 主催 取手市観光協会

お問い合わせ

<form action="https://www.city.toride.ibaraki.jp/cgi-bin/simple_faq/form.cgi" method="post">

産業振興課 

茨城県取手市寺田5139

電話番号:0297-74-2141(代表)

ファクス:0297-74-0257

</form>

 


とりで利根川どんどまつり

2024年01月14日 22時53分46秒 | 社会・文化・政治・経済

どんどまつりの最中に花火が打ちあがっている画像です。

とりで利根川どんどまつりは毎年1月上旬に行われます。

2024年は1月13日に行われた。

コロナで昨年は、餅の販売は停止されたが、今年は竹竿の先に餅が掲げられ、焼かれていた。

点火は午後4時、小雨が時折降る。

動画リンク
 
利根川どんど焼きまつり2024年1月13日

そして、取手市内は夜半には、雪が降る。

どんどまつりはお正月に飾ったしめ飾りなどを燃やし、その残り火で焼いた餅を食べながらその年の無病息災を願うお祭りです。

お正月に天から降りてきた神様はどんどまつりの煙に乗って天に帰るとされ、それをお見送りするために行われると言われています。日本全国それぞれの地方で行われ、地方によっては「あわんとり」、「どんと焼き」などと呼ばれていたりもします。

取手市のどんどまつりは、高さ7、8メートルのやぐらが組まれ市民の皆さまが持ち寄ったお正月のしめ飾りにより飾り付けられます。

やぐらが燃えている画像です。

飾り付けられたやぐらは夕方に火が点けられます。その後やぐらが燃え、火が弱まった後に餅を長い竹に餅をさし残り火で焼いて食べます。毎年多くのかたに来場していただいています。

みなさんで餅を焼いている画像です。

  • 主催 取手市観光協会

お問い合わせ

<form action="https://www.city.toride.ibaraki.jp/cgi-bin/simple_faq/form.cgi" method="post">

産業振興課 

茨城県取手市寺田5139

電話番号:0297-74-2141(代表)

ファクス:0297-74-0257

</form>

 


利根輪太郎の競輪人間学 3番が死に目で2番がラッキーナンバーに

2024年01月14日 12時35分26秒 | 未来予測研究会の掲示板

  GⅢ 和歌山競輪 和歌山グランプリ

3日目(1月13日)

3レース 2-5

4レース 5-2

6レース 1-2

8レース 2-9

9レース 2-7

10レース 2-5

11レース 2-9

課題は、如何に出目作戦に徹しきれるかだ!

人気となっている死目の3番をいかに切り捨てられるかだ。

8レース

並び予想 1-5 9-2 3-6 4-8-7

レース評

近況は位置取りもできる野田。好位確保から捲り一閃。木村の逃げなら展開は阿部力が絶好。貴志−石塚の地元セットも好勝負

 

結果 2-9 2,630円(10番人気) 2-9-5 1万1,790円(37番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 阿部 力也   12.2   番手で差す
  2 9 木村 弘 3/4車身 12.4 B 鐘スパート
× 3 5 石塚 輪太郎 3/4車輪 12.2     捲乗り伸び
4 8 阿部 大樹 1/4車輪 11.9     目標が不発
5 1 貴志 修己 1車輪 12.3     捲り進まず
  6 4 大矢 崇弘 3/4車身 12.2     仕掛け逸し
  7 7 白岩 大助 1/8車輪 11.9   S 不発ライン
6 田中 陽平         前落車乗上
3 野田 源一         2角で落車

9レース

並び予想 1-9 7-2-4 5-3 8-6

レース評

根田が今日も飛び出す!番手有利に和田が追い込む。この千葉勢に志村が続いて本線充実。鋭さある中釜は捲りに回って一発

結果 2-7 240円(1番人気) 2-7-9 1,130円(3番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 和田 健太郎   12.2   番手寸差し
2 7 根田 空史 1/8車輪 12.4 B HS叩切る
3 9 坂本 修一 1車輪 11.9     捲乗り伸び
4 4 志村 龍己 1車身 12.3     先制3番手
  5 1 月森 亮輔 タイヤ差 12.1   S 捲り進まず
  6 6 上田 裕和 タイヤ差 11.7     目標共倒れ
7 3 鷲田 佳史 1/2車輪 12.0     目標叩かれ
  8 8 神田 龍 1車身 12.0     切るも後手
× 9 5 中釜 章成 3車身 12.5     叩き叩かれ

10レース

並び予想 1-7  2-5-8  9-3  4-6

レース評

手強い同型が不在となり寺崎にとっては駆け易い構成。神田の援護を受けペース駆けへ。ただ山田の捲りや守沢の強襲も侮れぬ

結果 2-5 2,590円(9番人気) 2-5-1 1万4,670円(43番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 2 山田 英明   11.5   脚溜め捲る
2 5 山口 敦也 2車身 11.6   捲りマーク
3 1 寺崎 浩平 1車輪 12.1   SB 叩き捲られ
4 7 神田 紘輔 1/2車身 12.0     番手伸びず
  5 8 湊 聖二 1/2車身 11.6     捲り3番手
  6 4 木暮 安由 1車輪 11.9     先手を追う
7 3 守澤 太志 1車身1/2 12.0     HS前捨て
  8 6 宿口 潤平 2車身 12.2     追走阻まれ
9 9 飯野 祐太 大差 14.5     HS捨られ

 

11レース

並び予想 7-1-9 5-3-2 6(単騎) 8-4

レース評

連日パワフル駆けを見せる町田が三度の先制攻撃。番手有利な岩津が2日目に続く差し切りへ。坂井−佐藤の初日特選組も互角

 

結果 2-9 2万5,050円(43番人気)  2-9-7 32万7,170円(308番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 2 阿竹 智史   12.8   切替え捲る
2 9 永澤 剛 5車身 13.3   3番手直伸
3 7 坂井 洋 1/2車身 13.6   B 併せカマす
× 4 1 佐藤 慎太郎 1/2車身 13.6     番手守一杯
  5 6 二藤 元太 1/4車輪 13.3     先手を追う
  6 4 笠松 信幸 1/2車輪 13.2     前にはぐれ
7 3 岩津 裕介 7車身 13.1     町田太共倒
  8 8 古賀 勝大 3/4車身 14.2   S 飛付競負け
9 5 町田 太我 1/2車身 13.4     カマシ不発

 

 


映画 大脱走

2024年01月14日 12時09分22秒 | 社会・文化・政治・経済
1月14日午前2時50分からCSテレビのブービープラスで観たが、これで2度目か3度めだと思うが、何度見てもスリルに満ちているドラマであり面白い映画だ。
 
『大脱走』(だいだっそう、原題: The Great Escape)は、1963年公開のアメリカ映画。
戦闘シーンのない集団脱走を描いた異色の戦争映画。
監督はジョン・スタージェス。
出演はスティーブ・マックイーン、ジェームズ・ガーナー、リチャード・アッテンボロー、ジェームズ・ドナルド、チャールズ・ブロンソン、ドナルド・プレザンス、ジェームズ・コバーン 、デヴィッド・マッカラムなど。
 
1950年に出版されたポール・ブリックヒルの同名のノンフィクション『The Great Escape』を原作としているが、内容はかなり脚色されている。
 
ミリッシュ・カンパニーが製作し、ユナイテッド・アーティスツが公開、ジョン・スタージェスが製作と監督を務めた。
 
概要
1943年3月にチュニジア戦線で乗っていたスピットファイア機がドイツのメッサーシュミット機の機銃掃射を受け、パラシュートで脱出した後にドイツ軍の捕虜となったポール・ブリックヒルが、送られた捕虜収容所で体験した脱走計画の詳細を、戦後に一冊の本『The Great Escape』にまとめて出版した。
これを読んだジョン・スタージェス監督がすぐに映画化権を買い取り、自ら製作者も兼ねて作られたのが映画『大脱走』である。
 
製作・監督のジョン・スタージェスはこの当時『OK牧場の決斗』『老人と海』『荒野の七人』を撮って最も充実していた頃でこの映画が彼の代表作となった。主演には当時テレビドラマ『拳銃無宿』で活躍して『荒野の七人』から映画スターとして頭角を表していたスティーブ・マックイーン、同じくテレビドラマ『マーベリック』で活躍していたジェームズ・ガーナーを起用した。これに同じくテレビ界出身で『荒野の七人』にも出演したチャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、そして映画『戦場にかける橋』のジェームズ・ドナルド、英国俳優で後に映画監督として活躍したリチャード・アッテンボローなどが出演した。デヴィッド・マッカラム はこの映画の出演時はまだ無名であった。
 
ジョン・スタージェスが好んで描いた「何があってもへこたれない不屈の男たちのドラマ」[2]であり、また戦争映画のジャンルで脱走を描いた映画としては、他に『第十七捕虜収容所』『脱走特急』『木馬(英語版)』などがあるが、脱走物としてこの映画は最高作品として評価されている。第36回アカデミー賞の編集賞にノミネートされた。
 
音楽はエルマー・バーンスタインで、彼が作曲した「大脱走マーチ」(The Great Escape March)は、当時ミッチ・ミラー合唱団が歌ってヒットし、また初公開時にスティーブ・マックイーンがドイツ軍から奪い取ったバイクで草原を疾走するシーンがその爽快さとともに話題となり、この映画の代表的なシーンとしてその後長く記憶されている。
 
あらすじ
第二次大戦下のドイツ。朝靄の中で一群の軍用トラックが道路を疾走しスタラグ・ルフト北捕虜収容所[注釈 3]に到着した。この新設の捕虜収容所に英軍中心の連合軍捕虜が送られてきたのだが、これらの捕虜の中に脱走常習犯が多数含まれていた。ドイツ軍は絶え間なく発生する脱走に手を焼き、常習犯を集めて、脱走がきわめて難しい収容所を作っていた。鉄条網には近づけず、監視しやすいようにだだっ広く、唯一隠れられそうな森までは100mはありそうで、新任の所長を始め、選りすぐりの兵隊が監視にあたっていた。捕虜を運ぶ一群のトラックが収容所に到着して、直後にフォン・ルーゲル所長(ハンネス・メッセマー)は、連合軍捕虜の先任将校ラムゼイ大佐(ジェームズ・ドナルド)に対して「この収容所から脱出することは不可能だ。無駄な悪あがきは辞めて、おとなしくせよ」と述べると、大佐は「脱走して敵軍を混乱させるのは将兵の義務である」として所長に迎合せず屈しなかった。収容された男達は、何回も脱走を繰り返してきた札付きの強者達で、初日から収容所外に作業へ行くロシア人捕虜に紛れて脱走を試みる連中であったが、さすがに看守長シュトラハヴィッツに軽くあしらわれてしまう。アメリカ兵のバージル・ヒルツ(スティーブ・マックイーン)は、監視台と監視台との間の鉄条網に盲点があることを見抜き、グローブとボールを持ってきて、さり気無くボールを鉄条網の傍に投げ入れて、立ち入り禁止区域に入ったが見つかり、機銃掃射を受けたが助かった。その大胆不敵な振舞いからさっそく所長に目をつけられて独房に放り込まれる始末で、その場で所長を侮辱したアイブスも独房入りとなった。
 
そのような中、数時間後、ロジャー・バートレット(リチャード・アッテンボロー)がゲシュタポに連れられて収容所に到着する。彼は「ビッグX」と呼ばれる集団脱走の計画立案・実行のリーダーで筋金入りの男だった。到着したその日の夜、ロジャーは馴染みのあるメンバーを集めて空前の脱走計画を説明する。今回新しい収容所に来た捕虜の中にはロジャーが驚くほど各種のスペシャリストが揃っており、3本のトンネルを掘って250名もの捕虜を脱走させるという彼の大脱走計画に一同は驚くが、皆の意思は一致した。このメンバーに義勇兵として英空軍に参加していたアメリカ人のアンソニー・ヘンドリー(ジェームズ・ガーナー)も加わり、物資調達係として調達屋の才能を発揮する。道具もなく24時間監視されている中、彼らは盗んだり隠したり謀りながら作業を進め、工夫と智恵と技術を駆使していく。オーストラリア人のセジウィック(ジェームズ・コバーン)は機械の製造屋としてトンネルに空気を送り込む鞴などの装置を器用に作るなど活躍し、脱走者の服装を多数に何種類も揃える仕立て屋もおれば、写真入りの身分証明書などのニセ物を作る偽造屋、各トンネルのスタート位置から目標とする森までの距離を測りトンネル内でどれ位の距離を掘ったかも測る計測屋、掘った土をカムフラージュする分散屋、警備の裏をかくための偽装と緊急情報を発信する警備屋がいて、非常に訓練され組織だった行動を示していく。3本のトンネルを掘るのはダニー(チャールズ・ブロンソン)とウイリー(ジョン・レイトン)で、ダニーは暖炉の下をめくって最初に穴を開ける作業の時に17という数字を書き入れた。自分が掘る17番目の脱走用トンネルであった。これは3本のトンネルの内の「トム」であり、他に下水の排水会所の底から穴を掘った「ハリー」、そしてもう一つが「ディック」[注釈 4]という名称をトンネル名にした。
 
統率の取れた脱走計画が進む中、一匹狼のヒルツは、独房で親しくなったアーチボルド・アイブス(アンガス・レニー)とモグラのように掘り進める形で再度単独脱走を試みるが失敗しアイブスと共に再び独房入りとなった。アイブスは精神的に追い詰められていった。ロジャーの計画は順調だったが、いかんせん収容所内では脱走後の逃走経路がわからない。ロジャーは更なる単独脱走計画を持つヒルツに、一旦脱走して捕虜収容所の外部の情報をつかんで再度捕虜になるという無茶な要望をするが、当然ヒルツは断わった。そしてヒルツが何人脱走させるのかと尋ね250人と聞いて跳び上がるように驚き、「国中のドイツ兵が血眼になる」と敵側の過剰反応を警告した。しかし脱走に向けての作業は進められていった。トンネル掘りでは「トム」が最も進み、途中からロジャーは他のトンネルを中断して「トム」1本に絞って掘り進められた。やがてトンネルの完成も間近な中、7月4日のアメリカ独立記念日を迎えると、ヒルツ、ヘンドリー、ゴフ(ジャド・テイラー)の三人のアメリカ人は収容所内を行進し、こっそり発酵・蒸留した芋焼酎を皆にふるまってひと時のお祭りを演出する。
 
だがお祭り騒ぎの最中に、収容者が屋外へ出て無人になった宿舎をシュトラハウィッツの部下が見回りして、床にこぼれたお湯の流れから、偶然「トム」が発見されてしまう。皆が茫然自失となった時に失意のアイブスは正気を失い、立ち入り禁止区域に入ってフェンスをよじのぼっていくところを監視台から撃たれて殺される。ロジャーは中断していた別のトンネル「ハリー」の作業再開を命じ、アイブスの死を目の前で見せつけられたヒルツは、ロジャーに申し出てただ一人脱走する。目的は逃げることではなかった。数日後にヒルツはわざと捕まって収容所に戻り三たび独房に入るが、その間に不眠不休の作業の結果、トンネル「ハリー」が目標に到達して、脱走計画が具体化した。そして脱走決行の当日に独房からヒルツが戻り、ロジャーたちは重要な外部情報を手に入れることができた。
 
しかしその当日の夜、脱走を決行するため先頭を切ってトンネルを通り地上を覗いたヒルツは驚愕する。収容所から近くの森までの距離をおおよそ100mと計算していたが、上がって見るとトンネルは予定された森まで届いておらず、出口が通じたのは監視兵に見つかりやすい草地の真ん中であった。ここでヒルツの発案でロープを森の中に通してトンネル内につなぎ、ロープで合図を送って、トンネルを抜け出るタイミングを伝えるやり方で収容所内をパトロールするドイツ兵の目をごまかしつつ、彼らはなんとか次々に脱走していった。
 
だが76人目の測量屋カベンディッシュがトンネルを抜け出たところで躓いて倒れ、その物音をドイツ兵の歩哨が聞きつけ、近づいてきて周囲を監視したため、脱出行動を一時停止してじっと様子を窺うこととした。しかし、いっこうに「地上へ出てよし」のロープの合図が来ないことにしびれを切らした77人目のグリフィス(仕立屋)が、トンネルを抜け出て地上に出たところで歩哨に発見されて脱走が発覚する。
 
翌朝ルーガー所長は脱走者が76名に達したとの報告を受けて愕然とする。その表情をラムゼイ大佐は誇らしげに見るのであった。
 
収容所の脱走に成功した捕虜達は、様々な手段で逃走を続けていった。ロジャーとマック、アシュレー=ピット、ヘンドリーとコリンらは列車で、ダニーとウイリーはボートで、セジウィックは自転車で、そしてヒルツはバイクで。ヘンドリーとコリンは列車にゲシュタポと制服警官が乗ってきたので走っている列車のデッキから飛び降りて、その後ドイツ空軍の飛行場から練習機を盗み出して空へ飛び立った。ロジャーとマックはフランス人を装い列車内の検問は無事に切り抜けたが、到着駅での検問でゲシュタポのクーンが二人に気づいた。それを近くから見ていたアシュレー=ピットが咄嗟にクーンに組み付き、彼が拳銃を取り出したところで自身の胸に当てて引き金を引かせて死亡させて、自らは検問の親衛隊員に射殺された。アシュレー=ピットは捨身になってロジャーとマックを助けたのだった。セジウイックは自転車から停まっていた貨物列車に乗り移りフランスへ向かった。ダニーとウイリーは川辺にあったボートに乗って、オールをひたすら漕いで海を目指した。ヒルツはドイツ陸軍の伝令が乗ったバイクを転覆させて制服を奪い、バイクを疾走させた。しかし途中でドイツ軍に偽者だと気付かれ、道路から野原を突っ切って逃げて行った。
 
しかし、ドイツ国外及び占領地域外に達する前に、脱走者たちは国中に配備されている追っ手に次々に逮捕されてしまう。練習機を盗んだヘンドリーとコリンは一路スイスを目指したが途中で失速して墜落し、コリンは迫って来たドイツ陸軍に撃たれて死亡し、ヘンドリーは捕まる。ロジャーとマックは再度検問を受けた際もフランス人を装い、無事通過できたと思った一瞬の気の緩みから思わぬ言葉の罠に嵌まり、走って逃げたが捕まってしまう。そしてヒルツもスイスとの国境線まで達したが執拗なドイツ陸軍部隊に行く手を次々と塞がれ、バイクで鉄条網を超えようとしたところを銃撃されて、鉄条網に突っ込んでしまい、身動きもままならない中、投降した。
 
一方、脱走捕虜のうち、ゲシュタポの管理下におかれた50名の将校は護送の途中で全員射殺されてしまう。その中にはリーダ―であったロジャーやマックらも含まれていた。
 
その悲報は収容所で待つラムゼイ大佐にルーゲル所長から伝えられ、収容所の仲間全員にラムゼイ大佐は50名の名前を読み上げた。ダニーとウイリーのボートはやがて港に着き、中立国の貨物船に乗った。セジウイックはフランスでレジスタンスの助力を得て、目的地のスペインへ国境を越えていった。脱走に成功したと思われる者はこの3名であった。
 
悲しみに沈む収容所にまずヘンドリーら10名が戻り、ヘンドリーは50名が犠牲になったことを知ってラムゼイ大佐にこれだけの犠牲を出してまで脱走を試みる価値があったのか疑問をぶつける。それに対してラムゼイ大佐は「見方による」と答えた。そしてヒルツも連行されて戻ってきた。車から降りたヒルツは所長を解任されたルーゲルに「俺たちのおかげで前線行きか?」と聞くと、ルーゲルは「君はまだ運が良いぞ」と、他の捕まった者たちの運命を伝え、皮肉な笑みの消えたヒルツに「ベルリンに先に行けるのはどうやら君の方だ」と別れの言葉を述べた。脱走にまた失敗したヒルツだが、ゴフからグローブとボールを受け取り、独房に向かった彼の反骨と闘志は消えることはなかった。
 
原作による脱走の経緯
ポール・ブリックヒルの原作によれば、以下の通り。
 
1940年5月23日、のちの“ビッグX”であるロジャー・ブッシェルがブローニュ近郊で撃墜されて捕虜となる。
1942年春、200名の捕虜がジャガンに新設された「第三空軍捕虜収容所」(東収容所)に移される。
1942年暮れ、ロジャー・ブッシェルが「第三空軍捕虜収容所」に移される。
1943年4月1日、「第三空軍捕虜収容所」内に新設された「北収容所」に700名の捕虜が移される。
1943年4月11日、123号ブロックの「トム」、122号ブロックの「ディック」、104号ブロックの「ハリー」の三つのトンネルのはねぶたの位置が決まり、トンネル掘りが始まる。
1943年6月10日ごろ、「第三空軍捕虜収容所」を造ったソ連軍捕虜が戻り、「北収容所」の南側でアメリカ人用の収容所の建設が始まる。
1943年7月4日、ジェリー・セイジとデヴィ・ジョーンズの二人のアメリカ人捕虜が、赤十字慰問品の乾ブドウを発酵させた乾ブドウ酒を蒸留し、アメリカ独立記念日を祝って酒をふるまう。
1943年夏、「トム」のはねぶたが収容所のグレムニッツの捜索によって発見される。また、アメリカ兵が隣接した新設の収容所に移される。
1943年秋、ロジャーの発案で“鉄条網切り”による単独の脱走が試みられる。25名程が実行したが、成功した者は無かった。
1944年1月7日、ロジャーが委員会を招集し、3ヶ月間封印していた「ハリー」の掘削を再開することを決定する。
1944年1月10日、「ハリー」のはねぶたを開く。
1944年1月14日、「ハリー」に作業班が入る。
1944年2月10日、「ハリー」に第2中継所が完成する。
1944年3月24日、数日前に完成していた「ハリー」によって脱走が決行される。脱走予定者は220名。地上に出ると森から10フィート手前であった事が判明し、ロープによる合図で監視兵の動向を知らせる方式を取ることに決定。発見されるまでに76名が脱走に成功する。
1944年4月上旬、脱走決行時まで収容所長であったフォン・リンダイナーの後任、オズベルト・ブラウンが脱走兵のうち50名が射殺されたことを捕虜側のリーダー、マッシーに通告する。ロジャーの名も名簿に記されていた。射殺された50名は証拠隠滅のために火葬され、2週間後には遺骨が収容所に届く。
1944年6月、無事に帰国を果たしたロッキー・ロックランドとジェンス・マラーより偽名で手紙が収容所に届く。その後、ボブ・ヴァン・デア・ストックも同様に無事を知らせた。
1944年7月、「北収容所」では新たなトンネル「ジョージ」が掘り始められた。
1944年冬、「ジョージ」が鉄条網の外に達したが降雪により脱走不能になったため、非常用の脱出口として確保する。
1945年1月26日、ソ連軍の攻勢によって東部戦線が収容所に迫り、雪中の撤退が始まる。
1947年7月1日、ハンブルク裁判所で50名中46名の射殺に関与したゲシュタポなどの18名の軍事裁判が行なわれ、15名に死刑判決が下る。
1948年2月26日、判決を受けた14名の刑が執行される。
1948年10月11日、最後まで不明であった4名の射殺に関与した2名が、軍事裁判にかけられる。
登場人物
捕虜
英国空軍
ラムゼイ
収容所における連合軍捕虜の先任将校(The SBO)で階級は大佐。片足が不自由で杖を突いている。捕虜側の代表としてドイツ側との連絡役を負う。常に沈着冷静であり、ルーゲル所長からも信頼されている。バートレットたちを陰ながらサポートする。
ロジャー・バートレット
通称「ビッグX(Big X)」。集団脱走計画の中心人物で階級は少佐。脱走した捕虜の捜索にドイツ軍の兵力を割かせ、連合軍の反攻目前の状況下でのドイツ軍の後方かく乱を目的として250名もの集団脱走計画を企てる、頭脳に秀でた脱走のカリスマ。捕虜収容所では脱走用トンネル三本を計画し、それぞれ「トム」、「ディック」、「ハリー」と命名した。
しかし、SSにマークされるほどの知名度の高さが災いし、結局捕らえられた後の移送中に、休憩の名目でトラックから降ろされた時、マックに「組織作りにトンネル作業が私の生きがいだった。今思うと幸せだった」と語ったが、直後に一方的な機銃掃射を受けて死亡した。
サンディ・マクドナルド(マック)
通称「情報屋(Intelligence)」。地獄耳の情報通で階級は大尉。収容所内のあらゆる情報を収集、脱走メンバーに伝達する。語学に堪能で、脱走前にフランス語やドイツ語の会話能力の試験を担当した。ロジャーの参謀格として行動を共にする。スコットランド出身。脱走後はロジャーとフランス人になりすまし、列車内の検問を切り抜ける。バスに乗り継ごうとした際にフランス語を話す担当官の検問をいったんパスするが、心の緩みを突かれ、担当官からの「Good luck」という言葉掛けに思わず「Thank you」と答えてしまい正体が露見し、走って逃げるが捕まってしまう。
ウィリアム・ディックス(ウイリー)
通称「トンネル王(The Tunnel King)」。階級は大尉。脱走計画では無二の親友ダニーと共にトンネル掘りを担当し、脱走の際に、かつてのトラウマから脱走を拒むダニーを説得し、脱走に成功する。優しい性格が特徴。
コリン・ブライス
通称「偽造屋(The Forger)」。階級は大尉。戦時中は航空写真の分析・解析を担当していた。バードウォッチングが趣味で、ミルクティーを愛する典型的な英国紳士。身分証の偽造などの精密作業で長時間目を酷使し続けた結果、急速に視力が衰えて(進行性近視)、ほとんど失明状態となってしまった。ロジャーが脱走の足手まといになるとして脱走のメンバーからはずそうとしたが、ヘンドリーが反対してそして彼の助力で脱走に参加した。
エリック・アシュレー=ピット
通称「分散屋(Dispersal)」。彼だけは空軍ではなく英国海軍航空隊の士官で、階級は少佐。トンネルから出した地中の土と屋外の土とを混ぜて誤魔化すのにズボンを使った方法を考え付き、土処理をうまく分散させて脱走計画に貢献した。脱走の前からドイツ側にマークされていたロジャーを心配して付いて来ていたらしく、脱走後に乗った列車から降りた駅での検問でロジャーに気が付いたゲシュタポのクーンに飛びかかり、自ら周囲の耳目を引き付ける形で犠牲となってロジャー達を助けた。
デニス・カベンディッシュ
通称「測量屋(The Surveyor)」。階級は大尉。トンネル掘りの作業音の偽装のために合唱隊を組織し、その指揮も担った。彼の測量が正確でなかったことが脱走時に大変な問題となる。また、脱走時トンネルから出た際に躓き転んでしまい、ドイツ兵に気づかれるきっかけとなっている。
グリフィス
通称「仕立て屋(Tailor)」。軍服、カーテン、毛布やそのほか所内のあらゆる物を駆使して脱走用の平服やコート、ドイツ軍の制服などを仕立てていく。脱走の順番待ちの際、アクシデントから中々、合図が出ない状況になった窮地を察しないまま、しびれを切らせて飛び出してしまった姿をドイツ兵に目撃されて発砲を招いてしまい、収容所側に集団脱走が露見してしまった。
ソレン
「警備屋(Security)」。看守のドイツ兵達の行動を常に監視、合図ひとつですぐに脱走のための準備作業を中止したり、偽装できる警戒体制を敷く。
ダイ・ニモ
「陽動役(Diversions)」。脱走はできたものの、ドイツ軍に見つかり逮捕されて収容所へ連れ戻される。
アーチボルド・アイブス
エンドクレジットでは「モグラ(The Mole)」と表記。階級は中尉。序盤でルーゲル所長に対して侮辱的な行為に出たためにヒルツと共に独房行きとなった。その後もヒルツとコンビで脱走、逮捕、独房行きを繰り返す。自称身長5フィートの小柄[注釈 5]で地元では騎手をしていた。ノリの良い明るい表情とは裏腹に、長年の収容所暮らしで精神的に追い詰められていた。独立記念日に完成目前となった脱走トンネル「トム」が発見されて潰されたショックに耐えきれず、発作的な脱走行為に駆られたことで射殺されてしまう。だが、その結果、それまで一匹狼を貫き通していたヒルツが集団脱走計画に協力するきっかけを生み出した。スコットランド出身。
英国空軍所属(その他)
ダニエル・ヴェリンスキー(ダニー)
通称「トンネル王(The Tunnel King)」。ポーランド人で階級は大尉。脱走計画では脱走用トンネルの掘削作業を担当する。子供の頃からの閉所・暗所恐怖症でありながらも、そのことを押し殺してトンネルを掘り続ける。作業中に頻発する落盤事故からトラウマが甦り、一度は脱走を拒んだが、ウイリーの説得で参加を決意する。ロシア語の「ЛЮБЛЮ("私は愛している"の意)」の単語だけは知っている。ウイリーの無二の親友で、屈託のないやさしい男である。
ルイス・セジウィック
通称「製造屋(The Manufacturer)」。オーストラリア人で階級は中尉。トンネル掘削用のツルハシ・シャベルからエアダクトまで、所内のあらゆる物を利用して脱走用の諸道具を作り上げる。集団脱走の際には誰よりも大きなトランクを持って参加する。
アンソニー・ヘンドリー
通称「調達屋(The Scrounger)」。米国人だが、ヒルツたちのような米軍所属ではなく、英空軍の義勇飛行隊、いわゆる「イーグルスコードロン」所属であり、ゴフがそのようにヒルツに言っているシーンがある。階級は大尉。自身を「ちょろまかし屋」と自称する通り、わずかな隙を見てドイツ軍の物資を掏る術に長けており。集団脱走計画では脱走に必要な材料や道具の調達を担当し、保険証などの調達についてはおっちょこちょいな看守のウェルナーを部屋へ誘い、首尾よく財布ごと盗んだ。収容所に来てすぐに年齢も国籍も全く違う偽造屋のイギリス軍士官コリンと親しくなる。その友情から、脱走前に視力に異常を起こしたコリンを庇いつつ、脱走後に乗車した列車から二人で飛び降り、軍用飛行場から練習機を盗み、一路アルプス山脈を越えてスイスを目指すが、アルプス山脈を目前にしてエンジンの不調に見舞われて不時着し、捕らえられてしまう。
ヘインズ
ニモと同じ「陽動役(Diversions)」。ニモと行動を共にすることが多い。入所初日にセジウィックと共に「ケンカ」を演じてみせ、“最初の脱走”に貢献、自らも参加するが失敗する。その「ケンカ」の時、セジウィックに「カナダのコソ泥」と言われている。脱走時はドイツ兵になりすまし、事前にマックによる検問突破のための会話訓練の際に、「ハイル・ヒトラー」と敬礼して見せたが簡単な英語のトリックに引っかかって注意された人物。脱走には成功したものの捕まり、ゲシュタポに処刑される。
米国航空兵
バージル・ヒルツ
通称「独房王(The Cooler King)」。陸軍航空隊大尉。本作の主人公格。単独行動を好む一匹狼。 野球が趣味で、独房でもボールとグローブは欠かさない。常習犯といって良い程、脱走に執念を燃やしており、独房にいる間は彼の脱走への試みが篭ったボールの音を日夜鳴り響かせていた。入隊前は大学で化学工学を専攻、学費の足しに祭でバイクレース[注釈 6][注釈 7]に参加していたらしく、ライダーとしてなかなかの腕前。ドイツ捕虜収容所に送られて早々、彼を狂気的な脱走癖の持ち主と睨んだルーガー所長と対立して20日間の独房行きとなる。以前の収容所では17回も脱走を試みた、とルーゲル所長宛ての報告書にあり、ヒルツが「18回だ」とルーゲル所長の発言を訂正したのは、この収容所に来るトラックからも脱走を試みた時の一回を加えたものである。独房で隣同士となったアイブスとはスピード競技の選手の経験がある者同士で意気投合した。
ゴフ
階級は中尉。ヒルツに「第14収容所のなじみがいない」と言っている。中盤でヒルツ、ヘンドリーと共に独立記念日のために芋から蒸留したウォッカ(日本語字幕・吹き替えでは焼酎)を密造する。ヒルツが独房へ送られるごとに、愛用しているボールとグローブを手渡していた。それはラストシーンまで続く。
捕虜収容所
フォン・ルーゲル
所長(The Kommandant)。ドイツ空軍大佐。「腐った卵を一つの籠に」という思惑で捕虜を集めたが、結果、手に余るほどの脱走のプロたちの集いを作り上げてしまった。敵国軍人を憎しみの対象としては見ておらず、「捕虜の本分は逃走による敵地かく乱」との連合軍捕虜の主張に一定の理解を示す。人徳者で、ドイツ空軍の軍人であることに誇りを持ち、冷酷非情さを誇るかのような親衛隊やゲシュタポを快く思っていない。そのためナチス式敬礼にも消極的。ロジャー・バートレットが収容所に連れてこられた際、ゲシュタポに「彼からは一時も目を離すな」と言われたが、ゲシュタポが去った後すぐに部下に手錠を外すように指示し、他の捕虜と同じように扱った等、自身が空軍所属という事もあってか、英国空軍捕虜に対して甘い一面もある。そういった性格は作中の脚色ではなく、小説版大脱走の著者であり、実際に捕虜収容所にいたポール・ブリックヒルによれば史実である。胸元に第一次世界大戦におけるドイツ軍の最高勲章、プール・ル・メリット勲章が確認できる。終盤で多くの捕虜を逃がしてしまったことの責任を問われて解任され、収容所を去る。モデルとなった実在の人物はフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・リンダイナー=ヴィルダウ大佐。
ポーゼン
ルーゲル所長の副官。階級は空軍大尉。ルーゲルの解任後、後任として所長に就任する。
ハンス・フォン・シュトラハウィッツ
看守長。有能な空軍下士官。入所初日の脱走も素早く見抜き、「初日だからお互いに愚かな行為が多い」と不問に付す。
ウェルナー
通称「白イタチ(The Ferret)」。看守の一人。
身分証明書の偽造元を調達するために親しげに接してきたヘンドリーに隙を突かれ、あっさり財布を盗まれる。
独立記念日に偶然脱走トンネル「トム」を発見した。
ゲシュタポ
プライセン
ゲシュタポの脱走捕虜の探索責任者。
かつて脱走者として逮捕したバートレットへ厳しい尋問(拷問)を加えたが集団脱走組織の全貌は解明できず、空軍捕虜収容所にその身柄を預けに来る。のちにゲシュタポによって捕まってしまったバートレットと再会を果たす。ハゲ頭、チョビヒゲ、メガネの外見と皮肉な物言いが特徴。
クーン
ゲシュタポの一人。「ビッグX」の壊滅と、ロジャー・バートレットの逮捕に執念を燃やしている。空軍捕虜収容所では「脱走したら処刑する」と宣言。フランスの駅で脱走したロジャーを遠くから発見して拳銃を取り出して近づこうとしたところ、その危機を感じたエリックに妨害され、取り出した拳銃をエリックによって自らの胸に押し当てられた形で暴発させてしまい、命を落としてしまった。
その他
レジスタンス
オープンカフェの経営を表向きに、陰でドイツ軍への抵抗運動を続けているフランス人たち。店に訪れたドイツ軍将校を襲撃する現場で偶然客として居合わせたセジウィックを助け、スペイン入国に協力した。
脱走者76名の行方
「50名は逃走中に射殺された」との理由でフォン・ルーゲル所長からラムゼイ大佐に50名の名簿が渡される。ほとんどは逮捕後に収容所へ戻される途中の「5分間の休憩」での処刑であるが、列車終着駅でバートレットを発見したゲシュタポを妨害し射殺されたアシュレー=ピットの名もこの名簿にはあることから必ずしも「5分間の休憩」での処刑のみの犠牲者数ではない。
 
「今日、11名、君の部下が帰ってくる」と射殺された50名の名簿とともに知らされた再収容される生存捕虜の人数は11名。第一陣はヘンドリーを含む10名[注釈 8]。第二陣はヒルツ1名。
 
映像になっている脱走成功者は3名。トンネル王のダニーとウイリーはボートで海へ出て貨物船に乗り込み、オーストラリア人のセジウィックは仏レジスタンスの協力を得てスペインへ。因みにポール・ブリックヒル(彼自身はオーストラリア人)の原作でも脱走成功者はロッキー・ロックランド(イギリス人)、ジェンス・マラー(イギリス人)、ボブ・ヴァン・デア・ストック(オランダ人)の3名であった。
 
そしてそれ以外の脱走者がどうなったのかはラストシーンのヒルツが戻ってくる場面では明らかにされていない。
ただ殺されたのが50名であることはこの映画のラストで「この映画を50名に捧げる」という字幕が最後に出てくるので明確である。
ヒルツが戻された時点ではそれは誰も分からない。
 
戦後になって原作者のポール・ブリックヒルが調べて、17名がもとの収容所に戻り、6名が他の収容所に移されたことになっているが映画では明らかにしていない。脱出に成功したのが3名であることも戦後にポール・ブリックヒルの調査で分かったことで、時系列でいけば港で貨物船に乗船した2人とスペインに逃れた1人も脱出成功はずっと後のことであったが、映画ではヒルツが戻る前にそのシーンを挿入している。
 
キャスト
 
ヒルツスティーブ・マックイーン
ヘンドリージェームズ・ガーナー
ロジャー・バートレット リチャード・アッテンボロー
ラムゼイジェームズ・ドナルド
ダニーチャールズ・ブロンソン
コリン・ブライスドナルド・プレザンス
セジウィックジェームズ・コバーン
フォン・ルーゲル ハンネス・メッセマー
アシュレー=ピットデヴィッド・マッカラム
マクドナルド(マック)ゴードン・ジャクソン
ウイリー ジョン・レイトン
アイブス アンガス・レニー
カベンディッシュナイジェル・ストック
ウェルナー[注釈 9] ローベルト・グラフ
ゴフ ジャド・テイラー
クーンハンス・ライザー
シュトラハウィッツ ハリー・リーヴァウワー
ソレン ウィリアム・ラッセル
ポーゼン ロバート・フライタッグ
プライセン ウルリッヒ・バイガー
デートリッヒ ゲオルグ・ミケル
ヘインズ ローレンス・モンテイン
グリフィス ロバート・デズモンド
フリック ティル・キーヴェ
クラマー ハインツ・ヴァイス
ニモ トム・アダムス
シュタインナッハカール=オットー・アルベルティ
ナレーター
 
 
監督・製作: ジョン・スタージェス
原作: ポール・ブリックヒル
脚本: ジェームズ・クラヴェル、W・R・バーネット
撮影: ダニエル・ファップ
編集: フェリス・ウェブスター
音楽: エルマー・バーンスタイン
 
 
公開時、マックイーンがバイクでの疾走シーンでスタントなしで自身で行ったと宣伝されたが、実際は映画会社の許可がおりず、危険なスタントについては友人でバイク仲間でもあるバド・イーキンズが代行した。しかし殆どの疾走シーンはマックイーンが運転しており、捕まる寸前にジャンプする場面や鉄条網(実はゴム製のもの)に突っ込む場面はバド・イーキンズが運転していた。この他に最初にドイツ軍に遭遇してオートバイで追撃される場面で、追っているドイツ軍のバイクの中に実際はマックイーンが運転しているバイクがある。ハンドルの持ち方がソックリなのですぐ分かる。
ヒルツ(マックイーン)の乗るバイクはドイツ軍から鹵獲した物なので本来はBMW・Rシリーズでないとおかしいが、終盤の国境越えのジャンプのシーンで重く扱いづらいためトライアンフTR6にドイツの軍用バイク風の塗装と小改造を施した物で代用している。
映画では偽造屋でやがて視力を失うコリン役を演じたドナルド・プレザンスは、大戦中に英国空軍に所属して撃墜されて捕虜となり、収容されたのが本作の舞台となった第三捕虜収容所のすぐ近くのスタラグ・ルフト第一捕虜収容所であった。しかも脱走計画まで加わっていたという経歴の持ち主である。彼は後にTVムービー版『大脱走』にも出演しているが、こちらではドイツ軍将校を演じている。
トンネルを掘ったダニー役のチャールズ・ブロンソンは、役者になる前は炭鉱夫をしていたので、本人は「地でいけた」と語っている。またスタージェス監督は掘削作業の場面で注文をつける必要は全くなかった。
ブロンソンと同じトンネル掘りのウイリー役を演じたジョン・レイトンは本業は歌手で、当時『霧の中のジョニー』がヒットし、この映画の主題歌『大脱走マーチ』も歌っており、日本でもレコードが発売されている。
米国映画の場合、主演「starring」の俳優は題名「The Great Escape」の前に出てくるもので、1963年製作時の本作は冒頭にスティーブ・マックイーン、ジェームズ・ガーナ―、そしてリチャード・アッテンボローの字幕が出た[注釈 10]。そして題名が出た後の共演「co starring」の俳優はジェームズ・ドナルド、チャールズ・ブロンソン、ドナルド・プレザンス、ジェームズ・コバーン、ハンネス・メッセマー、デヴィッド・マッカラム他で、その他は「with」である。これが映画の画面に映る配役でありその時点での俳優の格を表している。したがって初公開時のチラシは監視台のサーチライトを背に受けながら逃げるマックイーン、ガーナー、アッテンボローの3人の顔が描かれていた。
ところが、7年後の1970年のリバイバル公開の時になるとチラシや看板に並ぶスターの順番が全く違っていて、マックイーン、コバーン、ブロンソン、マッカラム、ガーナーの順番となっていた。それまでの7年間に映画1本の主演を演じるスター俳優が増えて人気も逆転していたからである。そして30年後のDVDになるとマックイーン、ガーナー、ブロンソン、アッテンボロー、コバーンの順の表示になっている。マックイーンはすでに大物スターであったが、ジェームズ・ガーナーは同じ監督で『墓石と決闘』で主演したが次第に人気が落ち、その後テレビ映画『ロックフォードの事件メモ』で復活して、1994年には自身の出世作であった『マーヴェリック』でコバーンと共演し、2004年に『きみに読む物語』に出演している。
『大脱走』出演時は渋い脇役で他の映画では悪役も演じていたジェームズ・コバーンは3年後『電撃フリントGO!GO作戦』で人気俳優の座を確保し、1998年『白い刻印』でアカデミー賞助演男優賞を獲得し、2002年に死去している。チャールズ・ブロンソンは5年後アラン・ドロンと共演した『さらば友よ』で大物スターとなり、1970年にはCM≪マンダムの男≫で大ブレークして、2003年に死去した。全く無名であったデヴィッド・マッカラムは翌年テレビ映画『0011ナポレオン・ソロ』で一気にスターとなった。アッテンボローはその後『遠すぎた橋』や『ガンジー』の監督として活躍し、2007年『あの日の指輪を待つ君へ』が最後の作品となった。また俳優としては『ジュラシック・パーク』や『エリザベス』で好演している。
チャールズ・ブロンソンは、当時、デヴィッド・マッカラムの妻であったジル・アイアランドとロケ地で出会い、後に彼女を妻として迎えることになる。
実際の脱走との比較
 
映画で使う収容所のために作られた模型は、実際の収容所と比べて小さく作られている。この模型は収容所近くの博物館に所蔵されている。
 
トンネル「ハリー」の地上出口は森まで達していない。
映画で描かれる話のほとんどは架空であり、映画が作られたアメリカの観客に受けるよう、そして有名俳優を起用しているため、大きく話が脚色されている。実際の脱獄ではアメリカ人捕虜の関わりは少ない。また、映画の登場人物は実在の人物を元にしているとはいえ、複数の人物を1人として組み合わせていたりもしている。収容所にいた数人のアメリカ人将校はトンネルを掘る手伝いをしていたが、脱走が行われる7ヶ月前に別の収容所へ移動されてしまっている[3][4]。アメリカ生まれのイギリス兵であるジョニー・ドッジ(英語版)(Johnnie Dodge)を除き、脱走したのはアメリカ兵を除くイギリス兵など連合国の兵士である[5] 。
 
映画ではカナダ人捕虜についてまったく描かれていない。1800人の捕虜のうち、600人が脱走の準備に関わっていたが、そのうち150人ほどはカナダ人であった。カナダ空軍の飛行士で「トンネル・キング」のあだ名で呼ばれていた実在のウォーリー・フロディ(英語版)(Wally Floody)は映画の技術顧問として働いた[6]。
 
映画でラムゼイがルーゲルに対し、脱走を試みることは全捕虜の義務と言う台詞があるが、イギリス王の規則や、国際条約などにこの義務は存在しない[7]。
 
映画でトンネル「トム」の入り口はストーブの下、「ハリー」の入り口は洗面所の排水溝と描かれている。実際には「ディック」の入り口が排水溝、「ハリー」の入り口がストーブの下、「トム」の入り口はストーブ煙突の横に見にくい隅にあった[8]。
 
元捕虜の人々は、未来の戦争における捕虜脱走で危険が起きないよう、地図や書類、郵送物に隠して送られた道具、母国からの援助などについて詳しく描かないよう映画制作者に求め、制作者はそれにしたがっている[9]。
 
映画では、多くのドイツ人が脱走を喜んで手伝っていたことが描かれていない。映画で「偽装屋」がパスポートや電車の切符まで正確な複製品を作っていると描かれているが、実際には何百キロメートルも離れたドイツ人から情報を得ていた。また、反ナチスだった何人かのドイツ人看守が脱走のため道具を与えたり手伝っていた[7]。
 
正確な偽装品を作るため、目が疲れる細かな作業が必要だったが、映画でプライスのように失明した人は存在しない[7]。
 
映画では理想的な天候の日に脱走をしているが、当時は氷点下以下の環境でのトンネルを掘る作業が多く、地面には雪が積もっていた[7]。また、映画で描かれる飛行機やバイクでの脱走は実際に存在しない。マックイーンは自分のスタントを見せるためのバイクに乗る場面を求めた。最後のバイクに乗ってジャンプする画面はスタントマンのバッド・イーキンズ(英語版)が行ったが、それ以外の場面はマックイーンがスタントなしで演じた[10]。
 
映画の中で、ヒルツがドイツ陸軍兵が乗ったオートバイを転倒させる、アシュレー=ピットがゲシュタポ将校のクーンを殺す、ヘンドリーが軍用飛行場で歩哨を殴り昏倒させる場面があるが、実際は脱獄した捕虜によりドイツ人兵の死傷者は1人も出ていない。
 
映画では、捉え集めた脱獄捕虜を乗せた3台のトラックが3方向に分かれ、そのうち1台は全員が野原に降ろされて機関銃で撃たれている。実際には1人か2人1組で撃たれて殺されている。また、脱獄捕虜の大部分はゲシュタポ将校のピストルで撃たれて殺された[11][12][13][14][15][7]。
 
映画では無事に脱走に成功して母国に戻れた3人の捕虜をイギリス人、ポーランド人、オーストラリア人として描いている。実際にはノルウェー人のイェンス・ミュラー(英語版)(Jens Müller)、パー・ベルスランド(英語版)(Per Bergsland)とオランダ人のブラム・ヴァン・デル・ストック(英語版)(Bram van der Stok)の3人である[16]。
 
2009年、脱獄から65年を記念して、スタラグ・ルフトIIIに7人の元捕虜が集まり、映画を鑑賞した。彼らによると、フェンスを乗り越えて撃たれたアイブスや、実際にトンネルを掘る様子など、映画前半の収容所生活の細かさの多くは本当だと感想を述べた[17]。
 
イギリスの作家ガイ・ウォルターズ(英語版)によると、映画でマクドナルドがゲシュタポ将校に「Thank you」と英語で答えて失敗した場面は歴史家は実際の出来事と受け入れるぐらい刷り込まれているとしている。この失敗をしたのは、ビッグXの実際の人物ロジャー・ブッシェル(英語版)(Roger Bushell)の相棒だったフランス兵のベルナルド・シャイドハウアーだったと指摘している。ウォルターズはブッシェルが英語を話し、シャイドハウアーはフランス人ならば、「Thank you」と返してしまったのはブッシェルである可能性が高いとし、「Thank you」は架空の話と考えるべきとしている。また、フランス人に対する中傷だともしている[7]。
 
作品の評価
映画批評家によるレビュー
この映画に対する公開当時の批評はほとんど好意的であった。 1963年、ニューヨークタイムズの批評家ボズレー・クラウザーは、「『大脱走』は、芸術的とも本質的とも言えるほど長時間に渡り、人が関わっていると実感させずに、その苦悩に満ちた物語を紡ぎ続けている。史実を模した男たちが繰り広げる、とても機械的な(machanical)冒険である。」と述べた[18]。イギリスの映画評論家レスリー・ハリウェルは、「かなり良いが、悲劇的な結末の捕虜の長すぎる冒険」と評した[19]。タイム誌の批評家は1963年に「カラー撮影は不必要で目障りだが、他にはほとんど欠点がない。適切なキャスティング、迅速なストーリー、正確なドイツの考証で、プロデューサー兼監督のジョン・スタージェスはアクション映画の古典を作り上げた。説教くさいところがなく、精神論もセックスもない。『大脱走』はシンプルに素晴らしい脱走劇だ。」と書いた[20]。
 
本作は現代の批評家からも絶賛され続けている。Rotten Tomatoesでは、53のレビューに基づき94%の支持率を獲得している。同サイトの批評家のコンセンサスは、「非の打ちどころのないほどゆっくりと構築されたストーリーと時代を超えたキャストで、『大脱走』は今でもアクションの古典である」としている[21]。
 
2006年にイギリスで行われた、テレビ視聴者がクリスマスの日に最も観たい家族向け映画に関する世論調査で『大脱走』は3位に入り、男性視聴者の選択肢の中では1位であった[22]。2018年8月に更新された英国映画協会の記事『捕虜映画の名作10選』で、サミュエル・ウィグリーは、『大脱走』や1955年のイギリス映画『The Colditz Story』などの映画を見ることは、「恐怖と悲劇に満ちた瞬間ではあるが、戦時中の捕虜生活を素晴らしいゲームとして、敵の指をすり抜けるための終わりのないフーディーニの挑戦として楽しむことができるのである。かなりの部分を実話に基づく脱走劇は、捕虜の兵士たちの創意工夫と不屈に思える精神に驚嘆させられる。」としており、彼は『大脱走』を「戦争に楽しみを見るアクション映画の典型」と評し、「家族で見るテレビの型」になったとしている[23]。
 

大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争

2024年01月14日 11時21分11秒 | その気になる言葉
 

辻田 真佐憲 (著)

 信用できない情報の代名詞とされる「大本営発表」。その由来は、日本軍の最高司令部「大本営」にある。その公式発表によれば、日本軍は、太平洋戦争で連合軍の戦艦を四十三隻、空母を八十四隻沈めた。
だが実際は、戦艦四隻、空母十一隻にすぎなかった。誤魔化しは、数字だけに留まらない。守備隊の撤退は、「転進」と言い換えられ、全滅は、「玉砕」と美化された。戦局の悪化とともに軍官僚の作文と化した大本営発表は、組織間の不和と政治と報道の一体化にその破綻の原因があった。今なお続く日本の病理。悲劇の歴史を繙く。
 
著者について
一九八四年大阪府生まれ。文筆家、近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科中退。二〇一一年より執筆活動を開始し、現在、政治・戦争と文化芸術の関わりを研究テーマとしている。著書に『日本の軍歌』『ふしぎな君が代』(ともに幻冬舎新書)、『愛国とレコード』(えにし書房)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)などがある。歴史資料の復刻にも取り組んでおり、監修CDに『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌 これが軍歌だ! 』(キングレコード)、『日本の軍歌・軍国歌謡全集』(ぐらもくらぶ)などがある。


 内容紹介

信用できない情報の代名詞とされる「大本営発表」。その由来は、日本軍の最高司令部「大本営」にある。その公式発表によれば、日本軍は、太平洋戦争で連合軍の戦艦を四十三隻、空母を八十四隻沈めた。だが実際は、戦艦四隻、空母十一隻にすぎなかった。誤魔化しは、数字だけに留まらない。守備隊の撤退は、「転進」と言い換えられ、全滅は、「玉砕」と美化された。戦局の悪化とともに軍官僚の作文と化した大本営発表は、組織間の不和と政治と報道の一体化にその破綻の原因があった。今なお続く日本の病理。悲劇の歴史を繙く。


 「大本営発表」といえば、「嘘にまみれた『公式』からのコメント」というイメージがあります。
 太平洋戦争中(実際は、日中戦争の時期から「大本営発表」が行なわれていたことを著者は紹介しているのですが)の「本当の大本営発表」とは、どのようなものだったのか?
 僕は、この「大本営発表」という言葉の用法って、ちょっと揺れているように感じます。
 広島カープファンの中には、中国新聞に出たカープ関連の記事を「東スポ情報では信用できないけど、大本営(中国新聞)から記事が出たということは、やっぱりFAするのか……」というような使い方をしている人もいます。
 要するに「確定情報」「公式情報」「信頼できる情報」を出すところ=大本営、というような、ある意味「本来の用法」に戻っているんですね。
 中国新聞は「カープの公的なスポークスマン」ではないのだけれど、地元の有力紙で、カープに関しては、かなり情報の信頼性が高いのです。

 


 この新書では、「大本営発表」の歴史や、そこで、どのような情報の改ざんや隠蔽が行なわれてきたのかが、時系列で詳しく紹介されています。
 これを読むと、大本営発表は、当初から「嘘ばっかり」だったわけではなくて、当時の戦果について情報を得ることの難しさを考えると、仕方が無い、というくらいの「ズレ」しかなかった時期もあったんですね。
 それが、戦局の悪化と、一度ついてしまった嘘を隠すために、嘘の上に嘘を重ねるようになっていくのです。

 

 大本営発表の発信元である大本営は、天皇に直属する日本軍の最高司令部である。常設ではなく、日清戦争や日露戦争など戦時に際して特別に設置された。昭和年間では、日中戦争初期の1937年11月に大本営が設置され、以後太平洋戦争の敗戦まで存続した。
 明治の大本営は天皇の特旨によって首相も参加し、名実ともに日本の戦争指導の中心機関であった。これに対し、昭和の大本営は敗戦の年まで首相の参加を認めず、天皇臨席の形式的な会議を開くだけで、実態は陸海軍の寄り合い所帯にすぎなかった。すなわち、陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ(多少の手直しを経て)大本営陸軍部と大本営海軍部の大部を構成し、引き続き個別に戦争を指導したのである。
 細かい点を横に置けば、事実上、参謀本部が大本営陸軍部を名乗り、軍令部が大本営海軍部を名乗っただけといってもよい。そのため、昭和の大本営は単なる看板に等しく、陸海軍を統合して運用する機能を持たなかった。


 大本営でも、陸軍と海軍は分断されていて、勢力争いをしていたのです。
 そして、「どちらの名前を上にするか」を決めるために、高官たちが何時間も会議を紛糾させていました。
 戦果が割り増され、損害が隠蔽されていたのも、内部での手柄争いがひとつの原因であったのですが、僕は、この本を読むまで、「軍部は自軍の損害や敗勢を知っていたにもかかわらず、国民向けには嘘の発表を続けていた」と思っていました。
 ところが、「大本営発表」が欺いていたのは「何も知らない国民」だけではなかったのです。

 

 また少しさかのぼるが、大本営は1942年1月14日に、潜水艦によって空母「レキシントン」を撃沈したと発表していた。ところが、これは実際のところ、空母「サラトガ」に魚雷一本を命中させただけだった。すでに日本海軍は、一月の時点で空母の艦名や戦果を間違っていたのだ。
 その結果、珊瑚海海戦において、「レキシントン」ではなく「サラトガ」を撃沈したと発表せざるをえなくなった。「レキシントン」はもうこの世に存在しないはずだからである。米海軍は、日本海軍のちぐはぐな発表を見て、失笑したことであろう。いわんや、「ヨークタウン」の撃沈に至っては、またもや戦果の誤認にほかならなかった。
 たしかに、珊瑚海海戦の戦果は、悪意ある戦果の誇張ではなかった。ただ、それは問題が軽いことを意味しない.戦意高揚のため、大本営が敢えて虚偽を発表したのならば、それはそれでひとつの判断だったかもしれない。どこの国も、戦時下にはある程度情報を都合よく操作していたからである。
 しかし、意図的な情報操作ではなかったがゆえに、大本営は誇張された戦果を「真実」として受け入れざるをえなくなった。「真実」である以上、以後の作戦は(多少割り引いていたとはいえ)基本的にこの戦果にもとづいて立てなければならない。すなわち大本営は、誇張された戦果に自ら騙され、縛られてしまったのだ。「もう米海軍に空母はほとんど残っていないはずだ。したがって、この方面にはこれくらいの部隊を送れば十分だろう」。こうして、必要以上の損害を被ったことも一度や二度ではなかった。
 それゆえ、情報の軽視は、日本軍の行動を歪めるきわめて致命的な欠陥だった。これにもとづいて作成された大本営発表は、国民だけでなく、日本軍の指揮官たちをも誤謬の霧のなかに閉じ込めたのである。


 現場も、この「大本営発表」を基に作戦を立てていた、というのを聞いて驚きました。
 そりゃ勝てるわけないよ……
 著者は、日本軍は「正しい情報を得る」ことに対して、アメリカほど価値を見いだしておらず(費用も技術も乏しかったのだとしても)、それが「敗因」のひとつだったと述べています。
 ただ、これを読んでいると、戦場で「戦果」を確認することの難しさ、というのはあるみたいなんですけどね。
 平時のように、「中立」のメディアが第三者として報道してくれるわけではないし、戦いながらその効果を確認するのは、熟練兵でも困難なのだとか。
 太平洋戦争後半の経験の浅い兵士が多かった日本軍では、そんな技を持った人がほとんどいなかったのです。

大本営発表といえば、「撤退」を「転進」、「全滅」を「玉砕」と言い換える、現実を反映していない「美辞麗句」が思い浮かぶのですが、ずっとこの表現が使われていたわけではありません。

 玉砕という言葉はあまりに重々しい。こんな言葉が何度も使われてはたまらない。こうした国民の感情もあってか、タラワ・マキン以降、大本営発表で「玉砕」という言葉は使われなくなった。
 たしかに、このあとも守備隊の全滅は続く。ただ、その場合は「全員戦死」という即物的な表現が使われるようになった。「玉砕」は大本営発表の表現としては有名だが、使われた期間は一年にも満たなかった。戦局の悪化はあまりにも急速で、美辞麗句で誤魔化される時期はあっという間に過ぎ去ったのだった。


 大本営発表のなかで、この「転進」「玉砕」が最初に使われたのは、1943年2月。
 実際に使われたのは、「一年にも満たなかった」のです。
 それでも「玉砕」という言葉は、ずっと日本人の記憶の中に残されています。
 当時の国民も、この時期から「大本営発表」に疑いを持つ人が増えたそうです。
 これ以降、晩期になると、いくら勝っていると発表したところで、自分たちが暮らしている街が間断なく空襲されているのですから、それはもう、「勝っている」と思えるわけがないですよね。

 

 著者は、このように大本営発表が破綻した原因のひとつに「軍部と報道機関の一体化」があると述べています。

 いかに大本営がデタラメな発表を行なっても、報道機関がその

 

 官僚組織(軍)の劣化と恐怖

日本軍上級官僚の驚くべき怠慢、無責任、は現在の官僚組織に脈々と、、、

 面白い本です

現代の政治家も熟読して。自己の態度を考えるべきです。


サラトガは4度沈んだ

軍部がマスコミと癒着、あるいはマスコミを支配、隷属化していたために真実の報道がなされなかったという。 また戦局が悪化するにつれて戦果を計測する兵員の量と質が悪化していったために正確な数量の発表がなされなくなったのだという。 しかし戦意発揚のために陸軍、海軍ともに敵の損害を過大にして、日本軍の損害を過少にしたことも否めない。 陸戦の損害は調査中で逃げ、長崎原爆も被害は僅少と発表する。 特に夜間攻撃の戦果は計測が難しい。 兵士が同じ艦船を違った艦船と見誤って報告する。 大本営発表は改竄、隠蔽、捏造の宝庫であるが最初から意図されて嘘を付いたわけでもなさそうである。 しかし敗戦に次ぐ敗戦の状況下で勝戦と言い続けて国民をミスリードしたマスコミの罪は重い。 しかし真実を書けば輪転機を止められる。 軍に媚びるか、国民に媚びるか。 マスコミは前者を選ばざるを得なかったようである。

辻田作品、はじめの一冊ならこれです

数年前の作品だが、所謂「ご飯論法」「公文書書き換え」「公文書消去」がお得意の安倍自民党政権下で気になり再読。

新進気鋭の辻田氏であるが、専門が文科省研究、軍歌研究、君が代研究、天皇のお言葉研究とかなり攻めた領域であるためこの「大本営発表」は一般的読者には取っ付き易いかも…

岩波ブックレットの年表と見合せながら読んでいくと、嘘が大きくなっていき昭和天皇が問い詰める場面が生々しい。

司馬遼太郎、半藤一利の後継者は辻田真佐憲かもしれない。そんな可能性を感じさせる一冊。傑作です。


結局はメディアリテラシーの問題なのだが

「大本営発表」の教訓は、お上(政府だけでなく、親、教師、マスコミ)のいうことをまともに
信じるな、ということだと思っています。
この本の中では、最近の政府とマスコミの動きについても書いていますが、どの新聞かで
記事内容が異なるのは今に始まったことではないし、某国営放送にしても昔から右傾化、
左傾化とかいつもいわれていたわけで。(正直、政府のご用機関に徹してくれた方が報道の
裏を読みやすいのだけど:-P)
本書では、安倍政権との関係を言っているが、福島事故の時に、「メルトダウンしたかも」と
口走った政府関係者の首をすげ替え、同じくその可能性を指摘したNHK記者がその後しばらく
姿を消したのも当時民主党・管政権のもとであったことを述べていないのは公平さに欠けるように
感じる。

結局は「自分の頭で考える」ことに尽きるのだとうことだと思う。
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辻田 真佐憲の大ファンになりました、皮肉ではなく

 終段の、現代の政・報関係に対する言及には、総務大臣の停波発言には触れながらも、当該発言に至る経緯には触れないなど、必ずしも同調できない部分もあります。
 しかしながら、ご自身の思想傾向の反対側に近づこうとするなど、極力客観的・中立的に著述しようとする筆者の人柄も、多分に感じました。佐藤優の「完全な中立などありえない。せいぜい、いずれかの立場に片足を突っ込んだ中立しかありえない」という言葉を思い出しました。
 また、「政治と報道の一体化」の危険性の主張は、一般化されたメッセージとしては首是するばかりであります。

 筆者の現代状況に対する論評に、批判的な人もいると思います(私がそうです)。しかしそんな私にとっても、本書の主題である大本営発表に関する情報の集積や分析は、大変参考になりました。
 アンチ辻田でも、「それは違うんじゃないかな…」とかつぶやきながら、批判的に読めばよいのです。
 楽しく読めました。おすすめです!

興味深い内容

みに焦点を絞って深掘りしている大変珍しい書籍ではないか。
しかも、とても解りやすく書かれており、マスコミがどのように太平洋戦争に荷担していったのかも良く解る。戦史に興味のある方は一読を勧めます。
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役に立った

組織は人によって動き、人はとても弱いものである。

現在、NHKをはじめテレビ局に対する報道姿勢の問題、朝日新聞と産経新聞・読売新聞ら双方のバッシングおよびネット上の記事乱立などマスコミ全体の信頼感が低下していると感じている人は多いだろう。

これらは全て基本的にはコマーシャリズム(商業主義)に依拠しており、「カネ稼ぎ」をしないことには会社の運営も個人の給料も維持できないことに原因がある。そこに着目した戦前の日本政府は日中戦争前には「マスコミが勝手な報道をするのに困った」が、逆に戦争中に資源の利用を目的に「政府が紙の分配を制限する」という脅しの下で全てのマスコミを屈服させたのである。これ以降マスコミは「政府に歩み寄り、今度は政府の主張を鵜呑みにした現実と異なる数字や事実を公表した」のである。

マスコミ各社も真実よりも人目を引く記事を書こうとしたのは文字通り売り上げ数を前にした「弱さ」に基づくものであり、逆に政府が最初でこそ余裕すら感じる正しい記事を載せながらも戦況が悪化するにすれ虚偽の数字や事実をマスコミに強要したのは、責任問題をはじめとする「弱さ」であった。
この敗戦という現実を前に、政府もマスコミも「弱さ」から嘘・大嘘・事実無根を連ね、時に架空の美談まで作ったのは、人間的弱さを感じる者である。無論、組織が大きければ大きいほど、この弱さによる嘘の弊害は非常に大きくなる。

政府の人間もマスコミの人間も権力や自由という名目で自分を守れなければ、絶えず民衆の目に怯えているといっても過言ではない。その恐怖が本当に自分に及ぶかも知れないと思うと、更なる嘘で責任逃れや国民を騙そうとする。それが人間である。こういった「真実が公表できない状態ほど、大きな嘘と責任逃れ」をする権力のある政府という存在とどう向き合うかというのが国民の課題であるという事を知る本である。
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ザボンよ、たわわに実れ:民主医療に尽くした金高満すゑの半生

2024年01月14日 11時00分18秒 | 社会・文化・政治・経済

ザボンよ、たわわに実れ

力武 晴紀 (著)

貧しい人々に、医療を! 
民医連(全日本民主医療機関連合会)の礎となった、若き「女医」の闘い

「病人はいないか、子どもは元気か」 1930年代、戦中の貧困と保険制度の不足のなか広く人々に医療を提供し、日本の医療制度の改善を求めた無産者診療所。東京女子医専卒業後、農民運動に疲弊した新潟の診療所に飛び込んだ満すゑは、勤務先の診療所で検挙される――。両親との死別、三度の投獄を経て、満すゑが見たものとは。

治安維持法の時代に、誰もが医療を受けられる社会を求めて――

生涯をかけ「医は仁術」を体現

 戦前の治安維持法による拷問や投獄が相次いだ時代。

その一断面を、自らも官憲による屈辱的扱いにさらされながら、「人びとのための医療」を諦めなかった女性医師・金高満(かねたかま)すゑ(一九〇八~九七年)が見せてくれる。

著者は彼女自身の遺稿と関連資料との幸運な出会いによって、「親しい友のような、慰め励ます姉妹のような存在」となった満すゑを、時には庇(かば)うかのように、彼女自身のことばをつなぎ合わせて、故人・金高満すゑ像に生命を吹き込んだ。編年的ではない叙述が、それを際立たせる。

このような女医が居たことを、まったくこれまで知らなかった―

力武晴紀さんの「ザボンよ、たわわに実れ 民主医療に尽くした金高満すゑの半生」を読んで

 戦前の民主医療・無産者診療所医療に尽力した金高満すゑ。

1908年長崎県佐世保で生まれ育つも、小学校2年生で母を亡くし、2年後には父も逝去する。満すゑは佐治家の養女となり、新聞・書物などあらゆるものを読み尽くす読書家で、学力を発揮して佐世保高等女学校進学。

天下の悪法治安維持法が施行された1925年、東京女子医療専門学校に入学し、医師の道に足を踏み入れる。

学校では社会医学研究会に所属し、1923年後の関東大震災後のバラックでの学生による無料診療実践等を通じて、学内や社会の様々な課題に積極的に向かっていった。

卒業間近の1931年3月に逮捕され、学校側の判断で医師としての卒業が見送られた。

一旦、佐世保の佐治家に身を寄せるが、1931年4月には、佐治家と離別し、上京する。

東京では、当時の医療のスローガンである「医療の社会化」に粉骨砕身する。

1930年1月26日に日本で初めて開設された民主診療所となる大崎無産者診療所にかかわり、千葉北部無産診療所の支援なども行うが、医専を卒業していないために診療所に迷惑をかけないかの悩ましい期間を医師の補助的役割として奮闘する。

1933年8月の一斉弾圧で検挙、起訴され、市川刑務所では卑劣な拷問を受け、「女性を辱める事までした」と口に出したくないことも後に語っている。

獄中生活は拷問と貧食から衰弱し、病気中の1936年3月に出獄し、知人宅に身を寄せる。1938年に画家の桜井誠と結婚。

医師としての道が遠のいたような日々が続いていた時、周りの知人の親切が実って、1939年4月女子医専の復学が叶い、1940年3月無事卒業する。

復学時は、家事に雑誌の原稿を書き、アルバイトを行う過酷な期間も若さで乗り切ったと回想している。その後、新潟の葛塚無産者診療所への誘いに悩みつつ、同じ新潟の五泉無産者診療所に赴任する。雪深い新潟の地で、特にの往診は困難を極め、雪国を知らない満すゑは移動に際して大変な苦労をする。

1941年4月3日の早朝、無産者診療所として最後まで活動を続けた五泉と葛塚の両診療所で一斉検挙を受け、1年半ほど新潟の警察署と刑務所に収監され、敗戦を迎える。

 戦後の金高満すゑは、東京の代々木診療所、愛媛県松山の協同組合診療所、岡山県の水島共同診療所などを経て、東京中野区の桜山診療所所長として長らく民主医療に尽くした。

1997年12月31日逝去。3度に逮捕に挫けることなく、その生涯を通じて、「医療の社会化」に向けた民主的医療活動に尽力した金高満すゑの不屈の生涯をしっかり記憶に残したい。

 

●目次●

序章 去来する思い
第一章 ふるさと
第二章 医学への道
第三章 無産者診療所
第四章 獄につながれて
第五章 再起を願って
第六章 最後の砦
終章 破局と新生

著者について

力武晴紀(りきたけ・はるき)
1951年、長崎県に生まれる。京都・大阪・長崎で教職に就く。その後、かつての「思想犯」の名誉回復運動に携わる。著作に、「炎は消えない――長崎県の治安維持法犠牲者」。
 
 

 


なぜかいじめに巻き込まれる子どもたち

2024年01月14日 10時38分42秒 | 社会・文化・政治・経済

川上 敬二郎 (著)

【いじめは1980年代から大きな社会問題となり、悲劇が続いている。ブラック勤務ともいわれる厳しい勤務状況の中、教職員など教育関係者たちも必死に対策を練ってきた。だが何かが足りなかった。そう言わざるを得ない。
足りないのは何なのか。教育専門家でも文科省職員や学校関係者でも何でもない一人の父親、一人のテレビ局記者・ディレクターでしかない私だが、そろそろ私のような第三者による“外野の声”にも耳を傾けてみてほしい―】(「はじめに」より抜粋)

小中高校で認知されたいじめの件数、過去最多(2022年度)。心身に重大な被害が生じるなどの疑いが認定された「いじめの重大事態」の件数、過去最多(同)。
我が子を守るために、いま大人が知るべき実態と予防策。

いじめの原因は、スマホ依存、ブラック部活、教員のブラック勤務、偏る食事習慣……だった?

“いじめが始まる前に防ぐ方法”を、20年以上にわたりいじめ問題を取材し続けるTBS記者が徹底ルポ。

*プロフィール
川上敬二郎(かわかみ・けいじろう)
1973年、東京都出身。1996年にTBS入社。ラジオ記者、報道局で社会部記者、『Nスタ』『NEWS23』『サンデーモーニング』などでディレクターやデスクを経て、現在『報道特集』ディレクター。
これまでに「スマホ依存の子どもたち」「教員の“ブラック勤務”問題」「ネオニコ系農薬 人への影響は」「有機農業の未来は?」などを放送。
「貧困ジャーナリズム大賞2022」特別賞(共同受賞)。TBSドキュメンタリー映画祭2023で『サステナ・ファーム トキと1%』(「国際有機農業映画祭」招待作品)を初監督。
2003年には「米日財団メディア・フェロー」としてアメリカ各地で放課後改革を2ヶ月間取材。帰国後、友人と「放課後NPOアフタースクール」を設立(2009年に法人化。グッドデザイン賞やキッズデザイン賞を受賞)。『子どもたちの放課後を救え!』(文藝春秋)などを出版。
その後も子どもたちを取り巻く問題に関心を持ち、2019年6月ドキュメンタリー番組『ザ・フォーカス』で「いじめ予防」を放送。現在も取材を続け、TBS NEWS DIG(https://newsdig.tbs.co.jp/)で「いじめ予防100のアイデア」を連載中。
 
陰惨ないじめは、犯罪である。
学校当局がいじめを隠蔽するのは、犯罪者を助け、将来のさらに悪質ないじめを助長するようなものである。
いじめは100%いじめる側が悪人であり、犯罪者なのだ。
 

令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」結果

全国の小中高の「不登校」「いじめ」「自殺」データを文部科学省が発表。

 文部科学省は2023年10月4日、全国の学校を対象にして2022年度に実施した「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」の結果を公表しました。病気や経済的理由などとは異なる要因で30日以上登校せず「不登校」と判断された小中学生は29万9,048人、小中高と特別支援学校のいじめの認知件数は68万1,948件で、ともに過去最多でした。

 ここでは「不登校」「いじめ」「自殺」「暴力行為」に焦点を当て、その詳細データをグラフを使って紹介します。

 なお、「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」は、児童生徒の問題行動等について、全国の状況を調査・分析することにより、教育現場における生徒指導上の取組みのより一層の充実に資すること等を目的として、文部科学省が毎年調査しているもの。

小中学校の「不登校」データ

小中学校の「不登校」は過去最多の29万9,048人。

 今回の調査では、「不登校」と判断された小中学校の児童生徒数は10年連続で増えています。今回の増え幅はとくに顕著で、過去最多だった前年度から22%増加しています。
 小中学校の不登校の主な要因で最多なのが「無気力、不安」(51.8%)で、「生活リズムの乱れ、遊び、非行」(11.4%)、「いじめを除く友人関係をめぐる問題」(9.2%)が続いています。

小・中学校の不登校生徒数。令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

小・中学校の学年別不登校生徒数。令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

小・中学校の長期欠席と不登校状況。令和4年度。

小・中学校の不登の主たる要因。令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

注)不登校児童生徒の割合は、在籍者数に占める割合です。
文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

高等学校の「不登校」データ

高等学校の「不登校」は、ほぼ横ばいで推移。

 高等学校の不登校は前年比で18.8%増の6万575人。過去10年でみるとほぼ横ばいで推移しています。

高等学校における不登校生徒数の推移。文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

注)令和元年度調査までは、年度間に連続または断続して30日以上欠席した生徒について調査。
令和2年度調査以降は、「生徒指導要録」の「欠席日数」欄および「出席停止・忌引き等の日数」欄の合計日数により、年度間に30日以上登校しなかった生徒について調査。

高校の不登の主たる要因。令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

小中高の「いじめ」データ

小学校の「いじめ」は過去最多の55万件。

 小中高のいじめの認知件数は新型コロナによる一斉休校などの影響で減少に転じた2020年度から31.8%上昇して、2022年度は68万1,948件で過去最多となりました。なかでも小学校で認知件数が増加していて、前年度に続き50万件を超え55万件となっています。

 いじめの内容別では「冷やかしやからかい、悪口や脅し文句、嫌なことを言われる」が57.4%と最も多く、「軽くぶつかられたり、遊ぶふりをしてたたかれたり、蹴られたりする」(23.4%)、「仲間はずれ、集団による無視をされる」(11.7%)と続いています。

 2006年度の調査開始から増加を続ける「パソコンや携帯電話等で、ひぼう・中傷や嫌なことをされる」は、全体で2万3,920件(3.5%)となり増加傾向にあります。

いじめの定義》調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする、としています。

小中高でのいじめの認知件数。令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

いじめで警察に相談・通報。令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

いじめの内容別件数。令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

小中高の「自殺」データ

「自殺」は過去2番目となる411人。

 自殺者は小中高校で411人(前年度 368 人)となり、過去最多の2020年につぐ多さとなっています。自殺した児童生徒が置かれていた状況(複数回答可)については、「不明」が255人で最多。この他、「家庭不和」43人、「進路問題」37人、「父母等の叱責」34人、「友人関係(いじめを除く)」32人、「精神障害」26人が続きました。

学年別児童生徒の自殺の状況。令和4年度「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

小中高の自殺した児童生徒数。令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

小中高生徒の自殺生徒数の推移グラフ。文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

小中高の「暴力行為」データ

小中高の暴力行為は、過去最多の9万件。

 小中高校での暴力行為の発生件数は95,426件(前年度76,441件)で過去最多。前年度から18,985件増えています。
 とくに小学校における暴力行為発生件数は、過去最多の61,455件となっています。中学校は29,699件で前年度に比べ21.5%増加しました。
 暴力行為の7割は、生徒同士によるものです。

小中高の暴力行為発生件数の推移。文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より。

文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

小中高の暴力行為発生状況。文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より。

文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

小中高の暴力行為内容。文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より。

文部科学省の令和4年度 「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

 

 

 
 
学校も文科省もメディアも全ていじめを起きたあとに事後的に扱っているが、本来はもっと「予防」的に取り扱うべきだ!ということが通底されているメッセージ。
そしてメディアの人である筆者らしく、子ども~学校~社会とカメラをズームアウトするように広く捉えている。
取材者の生の声もたくさんあり、教育関係者はもちろん、多くの日本人に読んでほしい本。
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諸外国で行われているいじめ対策が紹介されており、日本でも取り入れてくれたら改善するのかな・・・?と思わされた。
また、国民全員が関心を向けるべき問題だと改めて思わされた。
 
 
 

反解釈 スーザン・ソンタグ

2024年01月14日 10時05分21秒 | 社会・文化・政治・経済

反解釈 (ちくま学芸文庫)

 
 
「われわれの文化の基盤は過剰、生産過剰にある。その結果、われわれの感覚的経験は着実に鋭敏さを失いつつある。
…われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければならない」。
「内容」や「解釈」を偏重するこれまでの批評に対し、「形式」を感受する官能美学の復権を唱えた60年代のマニフェスト。
「批評の機能は、作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。解釈の代わりに、われわれは芸術の官能美学を必要としている」。
 
スーザン・ソンタグ
Susan Sontag

スーザン・ソンタグ(Susan Sontag, 1933年1月16日 - 2004年12月28日)は、アメリカ合衆国の作家(小説家、エッセイスト、批評家)、映画製作者、社会運動家。

ソンタグの生涯を描く映画が近く制作される。

最近、すっかり過去の一部になりかけていた彼女が、またスポットライトを浴びるこことなるだろう。

生涯を通じ、アメリカを代表するリベラル派の知識人として、ベトナム戦争やイラク戦争に反対するなど、人権問題についての活発な著述と発言でオピニオンリーダーとして注目を浴びた。

生涯
東欧ユダヤ系移民の父ジャック・ローゼンブラット(Jack Rosenblatt)と母ミルドレッド・ヤコブセン(Mildred Jacobsen)の間に、アメリカ国籍者としてニューヨーク市で誕生した。

父親は中国で毛皮の貿易会社を経営していたが、スーザンが5歳の時に結核で死去した。

その7年後、母は同じ東欧ユダヤ系のネイサン・ソンタグ(Nathan Sontag)と親密関係になった。

正式には結婚はしなかったが、スーザンとその妹のジュディスはその義父のソンタグ姓を名乗るようになった。

ソンタグはアリゾナ州ツーソンをへてカリフォルニア州ロサンゼルスで育ち、15歳でノースハリウッド高等学校(英語版)を卒業後は、学部生としてカリフォルニア大学バークレー校で学び始めたのちシカゴ大学に転校し、学士号を得て卒業。

ハーバード大学大学院

、オックスフォード大学のセント・アンズ・カレッジ、パリ大学の大学院でそれぞれ哲学、文学、神学を専攻した。

大学院修了後、アメリカユダヤ人委員会の機関誌『コメンタリー(英語版)』の編集者となったのち、コロンビア大学などで哲学講師となる。そのかたわら、1963年に小説『恩恵者 The Benefactor』で作家デビュー。

1966年には、初の評論集『反解釈 Against Interpretation』を出版。同作における、写真家ピーター・ヒュージャー(英語版)が撮影した印象的なカバー写真は、ソンタグが「the Dark Lady of American Letters」としての名声を得るのを後押しした。

2004年12月28日、骨髄異形成症候群の合併症から急性骨髄性白血病を併発し、ニューヨークで死去。71歳没。彼女は30年間、進行性乳癌と子宮癌を患っていた。遺体はパリ・モンパルナスの共同墓地に埋葬された。

親族
シカゴ時代の17歳のとき、ソンタグは社会学者フィリップ・リーフ(英語版)からの熱烈な求婚を受け、結婚。8年の結婚生活を経て、1958年に離婚した。ソンタグは晩年、1989年に出会った写真家のアニー・リーボヴィッツと交際していた。

息子のデイヴィッド・リーフ(英語版)はアメリカの出版社Farrar, Straus and Giroux(FSG)でソンタグの担当編集者となったのち、作家、政策アナリストに転身した。

主な著書(邦訳)
小説
『死の装具』1967(斎藤数衛訳 早川書房 1970年)
『わたしエトセトラ』(行方昭夫訳 新潮社 1981年)
『火山に恋して』(冨山太佳夫訳 みすず書房 2001年)
『夢の賜物』(木幡和枝訳 河出書房新社 2012年)
『イン・アメリカ』(木幡和枝訳 河出書房新社 2016年)

評論、エッセイ、手稿、講演集
『ハノイで考えたこと』(邦高忠二訳 晶文社 1969年)
『反解釈』(高橋康也・由良君美ほか訳 竹内書店 1971年)
ちくま学芸文庫 1996年
『ラディカルな意志のスタイル』(川口喬一訳 晶文社 1974年)
【改訳・改題】「ラディカルな意志のスタイルズ」(管啓次郎・波戸岡景太訳 河出書房新社 2018年)
『アントナン・アルトー論』(岩崎力訳 コーベブックス 1976年)
【改題】「アルトーへのアプローチ」(みすず書房・みすずライブラリー 1998年)
『写真論』(近藤耕人訳 晶文社 1979年) 新版 2018年
『隠喩としての病い』(冨山太佳夫訳 みすず書房 1982年)
【改題】「隠喩としての病い エイズとその隠喩」(みすず書房 1992年) 新版 2006年
『土星の徴しの下に』(冨山太佳夫訳 晶文社 1982年)
新版 みすず書房 2007年
『この時代に想う テロへの眼差し』(木幡和枝訳 NTT出版 2002年)
『他者の苦痛へのまなざし』(北條文緒訳 みすず書房 2003年)
『良心の領界』(木幡和枝訳 NTT出版 2004年)
『エッセイ集 1 文学・映画・絵画 書くこと、ロラン・バルトについて』(冨山太佳夫訳 みすず書房 2009年)
『同じ時のなかで』(木幡和枝訳 NTT出版 2009年)
『私は生まれなおしている 日記とノート1947-1963』(デイヴィッド・リーフ編 木幡和枝訳 河出書房新社 2010年)
『エッセイ集 2 写真・演劇・文学 サラエボで、ゴドーを待ちながら』(冨山太佳夫訳 みすず書房 2012年)
『こころは体につられて 日記とノート 1964-1980』上下(デイヴィッド・リーフ編 木幡和枝訳 河出書房新社 2013-14年)
インタビュー集
『スーザン・ソンタグの『ローリング・ストーン』インタヴュー』(ジョナサン・コット著 木幡和枝訳 河出書房新社 2016年

 

作品にあらわれる「純粋な、翻訳不可能な、官能的な直接性・・・」
それがいかにそのものであるかに、形式にもっと注目せよ、とのソンタグの忠告。

"この作品が意味するのは・・・"と当たり前のように使っていたが、芸術は
思想や文化に吸収させるべきではないのだ。
「いま重要なのはわれわれの感覚を取り戻すことだ」とソンタグがいうように、
視覚的・感覚的に芸術を理解することをあまりに恐れていたことに気づかされた。

14歳ぐらいのときに読んでいたかったなあ、と思うのです。
 
 
ソンタグ初期の代表的論攷「反解釈」と「キャンプについてのノート」が収録されている。
 
1950年代、ここ20年にわたるアメリカの大衆社会化、大衆文化の興隆状況にどのように対峙するのか、これがニューヨーク知識人たちの課題だった。
既にハロルド・ローゼンバーグの「アバンギャルドとキッチュ」など秀逸な論攷はあったが、いずれも、十全たる大衆文化評価論には到達していなかった。
「内容よりも形式」「解釈ではなく、あるがままに作品を捉える」というソンタグの美学論は、こうした社会、論壇状況のなかで爆発的な喚起力をもったのだ。
「キャンプ…」は、そうした大衆社会のなかで蠢く「キャンプ」的な感性の輪郭描写を試みたもの。
だが留意すべきなのは彼女がキャンプに対して「反発によって制約された深い共感」をもっていると言及しているところだ。
つまるころキャンプに対する彼女のスタンスは、欲望自然主義的な感覚重視ではなく、緊張感と危機感を孕んだ、微妙で繊細なサブカルチャー論だったのだ。

50年近くを経た現在、当時は萌芽的であったキャンプ的感性/サブカルチャーは、消費文化の拡大の中で支配的な文化様式へと格上げされた。
「キャンプが支配的になったとき、キャンプはキャンプたりうるのだろうか」。この問いに彼女が生きていたらどう答えるだろうか。
 
 

哲学、文学、演劇、映画などのついて幅広いテーマを取り上げた評論集。
書名の反解釈は、ソンダクの評論原論、ともいうべきもので、全体の基調を構成する。
作品そのものから離れてしまう解釈に対するアンチテーゼとしての反解釈。
その反解釈の視点で、ソンダクが見た芸術作品は、どのように表現されているのか。
 

著者が来日したとき、雑誌『批評空間』がこの人を招いて対談をしていましたが、その冒頭、ふやけた質問にするどいつっこみが入って、浅田彰がたじたじになっていました。
それ以前からも、この人にはこわもての前衛というイメージがあった。
書名も『反解釈』とか『ラジカルな意志のスタイル』だとか、ものものしくて、ちょっと腰が引けてしまう。

 しかし読んでみると、意外にわかりやすくておもしろい。
この人については、どうやら食わず嫌いをしていたようです。
対談では舌鋒するどい人ですが、評論ではむしろ説得的で、一般読者のレベルに合わせてわかりやすい説明をしてくれる。
前衛特有のエクセントリックさがない(たとえばドゥルーズなどは絶対に説明をしません。
わからないやつは、わかるまで勉強してこいといわんばかりで、はじめて読む人は途方にくれてしまう)。
 表題作の「反解釈」なども、題名だけ見るといかにも小難しいことをいっているように思えますが、いっていることは要するに「解釈」するな、感じよ、ということなのです。
はよく考えてみると、私たちがピカソや抽象絵画などの現代芸術を鑑賞するときにしていることそのもの。
できてしまうと、なにもむずかしいことではない。

 この評論集に収められた評論の多くがフランスの作品についてのもので、60年代がいかに「フランスかぶれ」していた時代かということがしのばれますが、著者自身はきちんとフランス的知性に対して距離をたもっており、日本人によくあるような知識の輸入業者とはちがう。
だからといって、最近目立ってきたようなフランスセオリーに対するナショナリスト的な反発でもない。
 おそらくこの人の根底にあるのは、アメリカ流のプラグマティズムの伝統なのでしょう。
理論をつねに実践的に理解し、身近な生活環境の中で検討を加えていく(プラグマティズムは、理念をたんなるハウツーものにしてしまうことだと誤解している人が、アメリカにも日本にもいるようですが)。
それゆえに実存主義に対しても、構造主義に対しても、飲み込まれることなく、独自の立場で正しく理解し、豊かな成果を上げた。この人のサブカルチャー論など、前衛理論とまったく地続きで、前衛が身近なものに思えてくる。

 ほかのレビュワーの方が現代の古典だといっておられました。まったく同感です。
 
 

思想家ソンタグの代表的な論文集。
特に冒頭にある初期作「反解釈」と「様式について」は重要な論文である。
この二論文についてレビューする

彼女は、文学や芸術における「内容」「意味」への偏重を問題視する。
文学や芸術というのは、そこに内在する「何らかの意味」「作者の意図」といったものがあるはずだ、という前提の下、それを探す「解釈」という行為ばかりが重視されている。

しかし、芸術や文学はそういうものなのだろうか。
芸術はまさに「それそのもの」として享受すべきものなのではないだろうか。
そこにおいて重要となるのは芸術の「形式」である。

文芸批評や芸術論においては必読の古典であろう