一般社団法人 全国カラオケ事業者協会

2025年01月15日 23時14分58秒 | 社会・文化・政治・経済

 今回の調査対象期間となった2023年度(2023年4月1日~2024年3月31日)は、マスク着用を「個人の判断に委ねる」とする3月の政府方針に続き、5月8日に新型コロナウイルス感染症が5 類へ移行となりました。

3年にわたるコロナ禍明けの年であり、人々が日常生活を取り戻し、制約のない経済活動が営まれました。

まさにアフターコロナとなった2023年度のカラオケ業界は、ユーザー市場規模が2年連続の増加(2022年度3,879億円→2023年度4,430億円/551億円増加)となり、コロナ前(2019 年度)の8割近くまで回復しました。

 本白書掲載のデータは、アンケート結果を全国データとして集計したものです。

掲載データにそれぞれの視点から分析を加えていただき、顧客ニーズの把握、市場への新しい提案の発露、そして全国データと自社データの比較など、カラオケ産業に携わる各位の経営改善と市場を探るツールとしてお役立ていただければ幸いです。

 

CONTENTS


WEBでご覧になれるのは下段「カラオケ白書 2024」から一部抜粋した内容です。


1.カラオケ施設の推移
2.メーカー市場規模の推計
3.ディストリビューター市場規模の推移
4.ユーザー市場規模の推計
5.2023年度市場規模のまとめ

ご希望の方に貴重な業界データ満載の「カラオケ白書 2024」を有償にてお分け致します。
下段の「お申し込みはこちら」から必要事項をご入力ください

カラオケ産業は、この四半世紀の間にめざましい発展を遂げ、アミューズメント産業の中核として確かな地歩を固めました。
しかし、その一方で、流通形態の複雑化や、めまぐるしい技術改革、そして業界の拡大などに伴って生じる様々な問題が提起されつつあることも事実です。まさに業界が一致団結して、諸問題に取り組む体制づくりが求められているといえましょう。

そこで、1994年10月、業界初のカラオケ事業者による全国協議機関として「全国カラオケ事業者協会(略称:JKA)」は発足、事業者の地位向上と業界の秩序ある発展をめざし活動を開始しました。協会では各種事業を推進するとともに、会員相互のコミュニケーション向上に努め、業界発展の確かな推進力となってまいります。

名称


 今回の調査対象期間となった2023年度(2023年4月1日~2024年3月31日)は、マスク着用を「個人の判断に委ねる」とする3月の政府方針に続き、5月8日に新型コロナウイルス感染症が5 類へ移行となりました。3年にわたるコロナ禍明けの年であり、人々が日常生活を取り戻し、制約のない経済活動が営まれました。まさにアフターコロナとなった2023年度のカラオケ業界は、ユーザー市場規模が2年連続の増加(2022年度3,879億円→2023年度4,430億円/551億円増加)となり、コロナ前(2019 年度)の8割近くまで回復しました。

 本白書掲載のデータは、アンケート結果を全国データとして集計したものです。掲載データにそれぞれの視点から分析を加えていただき、顧客ニーズの把握、市場への新しい提案の発露、そして全国データと自社データの比較など、カラオケ産業に携わる各位の経営改善と市場を探るツールとしてお役立ていただければ幸いです。

 

CONTENTS


WEBでご覧になれるのは下段「カラオケ白書 2024」から一部抜粋した内容です。


1.カラオケ施設の推移
2.メーカー市場規模の推計
3.ディストリビューター市場規模の推移
4.ユーザー市場規模の推計
5.2023年度市場規模のまとめ

ご希望の方に貴重な業界データ満載の「カラオケ白書 2024」を有償にてお分け致します。
下段の「お申し込みはこちら」から必要事項をご入力ください


ALL-JAPAN KARAOKE INDUSTRIALIST ASSOCIATION (略称:JKA)

目的


本会は、カラオケ機器の販売及び賃貸借取引に係わる事業者の経営改善を図り、カラオケ産業の総合的な秩序の確立と情報化社会の健全な発展に寄与するとともに、国民の文化的生活の増進と公共の福祉の増進に資することを目的とし、次の事業を行う。

主な事業


1 カラオケ機器の販売及び賃貸借取引に関する調査研究


2 カラオケ機器の販売及び賃貸借取引に係わる事業者の経営改善に関する研究、指導


3 カラオケ産業に関する調査研究


4 カラオケ産業の健全な発展につながる事業の実施


5 カラオケ機器の販売及び賃貸借取引に係わる事業に関する研究会並びに講習会の開催


6 カラオケ産業及び関連産業に関する図書の刊行並びに機関紙等の発行


7 カラオケ機器及び関連商品の技術向上と活性化のため、新製品の公開利用並びに各種展示会の

8 カラオケ関連団体との情報交換及び各種行事の共催


9 カラオケを通した文化活動及び国際交流の支援


10 音楽著作権法及び関連法規の研究並びに啓蒙活動


11 主務官公庁の行うカラオケ関連施策に対する協力


12 前各号に付帯する関連事業

最高顧問 梶 喜代三郎  

本部役員一覧

会長 佐久間 秀樹 (北関東・甲信越支部)

副会長 島垣 利光 組織委員会委員長(関西支部)
  中山 政幸 事業委員会委員長(四国支部)
  毛利 泰介 渉外委員会委員長(九州支部)
専務理事 片岡 史朗 (本部事務局長)

常務理事 山下 秀吾 市場調査研究専門委員会委員長(北海道支部)
  大元 節郎 組織委員会担当副委員長(東北支部)
  竹越 弘至 事業推進専門委員会委員長(北関東・甲信越支部)
  田中 孝司 渉外委員会担当副委員長(関東支部)
  安澤 嘉崇 法務専門委員会委員長(中部支部)
  深田 信応 事業委員会担当副委員長(関西支部)
  常盤 欣吾 経営専門委員会委員長(中国支部)
  大田 哲也 文化専門委員会委員長(四国支部)
  小濵 和明

広報専門委員会委員長(九州支部)

 

 

理 事 三浦 朋幸 経営専門委員会副委員長(北海道支部)
  下村 英春 事業推進専門委員会副委員長(東北支部)
  安達 直人 市場調査研究専門委員会副委員長(東北支部)
  細野 明生 広報専門委員会副委員長(北関東・甲信越支部)
  中田 篤志 文化専門委員会副委員長(関東支部)
  川端 啓太 法務専門委員会副委員長(関東支部)
  榎本 太郎 東日本担当地区委員長(関東支部)
  南 祐史 文化専門委員会副委員長(中部支部)
  植野 桂 事業推進専門委員会副委員長(中部支部)
  窪添 唯洋 中日本担当地区委員長(関西支部)
  奥村 健史 広報専門委員会副委員長(関西支部)
   

西日本担当地区委員長(中国支部)

 
中西 孝 経営専門委員会副委員長(四国支部)
  伊東 秀晃 市場調査研究専門委員会副委員長(九州支部)
  矢野 玲佳 法務専門委員会副委員長(九州支部)

監 事 黒岩 和雄 (関東支部)
  小林 護 (関西支部)

 


企業献金なぜ廃止できないのか?

2025年01月15日 22時46分18秒 | 社会・文化・政治・経済

自民党はなぜ企業・団体献金を廃止できないのか?そして岸田首相に期待すること

アバター画像
西村 健
 

oasis2me/iStock

自民党の政治資金改正法案が明らかになった。議員に対して収支報告書の「確認書」の作成義務づけたり、もし確認しなかった場合の議員の公民権を停止などのようだ。「連座制」に近いとの評価もある。

政治資金規制法の改正、これまでを見ても、本格的であるとは言い難い。残念ながらこうした活動を進めている専門家としてはショックで仕方ない(筆者の政治資金規正活動「企業・団体献金の廃止を~個人献金の抜け穴防止も」はこちら参照)。自民党がどこまで野党に近づく、いや野党を超えた改革案を出せるか。今後の日本政治の転換点になってくる。

企業献金がなぜ「悪いのか」

政策形成過程へ影響力を及ぼす方法は沢山ある。皆さんが企業の経営者だとしましょう。ファンとしてとか、何らかの保険としてか、人間関係の構築としてか、お付き合いとして献金する人はいるかもしれない。

しかし、多くの場合、目的は・・・・

  • 何かあった時に政治家に相談できる
  • 政治家を媒介にして色々コネクションや紹介をしてもらったりできる
  • 資金提供して、無償で運転手やスタッフを派遣することで、自分の意向に沿った行動を何かしらとってもらいたい
  • 行政の規制回避や規制、補助金取得になんらかの影響力をおよぼしたい
  • 政治家をスポンサーにして意のままに操りたい
  • 政府の審議会の審議議員に推薦されたりしたい
  • 政治家のブレーンとして影響力を与えられ。役所にも一定の影響力を持ちたい
  • 褒章・勲章の受賞なども時によってはサポートしてもらいたい

などなどの「欲望」「願望」の対価であり、状況によってはその「欲望」「願望」が可能になることもあるかもしれない。献金額が大きいスポンサーの場合、その確率は高くなるだろう。

国民として、どうみても不公平でしょ?

献金している企業・団体ばかり、優遇される構造がある。政治に関心のない人たちがいる一方、皆さんの周りの政治に関心が強く、かかわっている人を見てみればわかる。何かしらの対価を求めないことなんてあるわけない。

つまり、企業・団体献金を起こす行為は民主主義としてはOKなのだそうだけれども(アメリカ、イギリスの例)、どう見ても弊害が大きく、社会的害悪といってもよい。政治がお金の大小によって影響されてしまうからだ。その意味で、こんなことが可能になってしまう。その手段は企業・団体献金は問題なのだから、廃止しないのはおかしいでしょう。そして、パーティー券の購入、オンライン講演会参加などは抜け穴なので防ぐ必要がある。

自民党はなぜ後ろ向きか?

たしかに選挙にはお金がかかる。それは競争が激しくなるならなおさらだ。そこでお金の多寡が重要になる。そこで競争的に優位になる。自民党は、それが「強み」でもあるということを重々わかっているということだ。手放せないと競争力を失ってしまうという理解だろう。現実的なところだろう。

たしかに、

  • 選挙で活動してくれる事務所の設置費用
  • 地元の私設秘書、選挙スタッフ
  • あいさつ回りや会費支払

などにはお金がかかる。

しかし、そこには、行政に影響を及ぼせる、莫大な税金の使い道に対して、「影響力の代理人」として影響力を及ぼせる対価として、政治献金をえられるという構造が存在する。

この失われた30年の経済不振、既得権益を固定化させ産業構造改革が進まなかった点など、経済不振の元凶の1つである。政策を考えたりするよりも、献金してくれる企業や団体、支持層ばかりをみて活動してしまう政治家はもういらないのだ。

政治資金「規制」へのミラクル大改革しかない!?

利権とはいわないが、選挙で勝つために秘書や事務所がいる → 金がいる → 政治資金は必要、そういうロジックは理解はできる。しかし、どうやって民主主義的な選挙を「公平」にするかが大事なのだ。政治をゆがませる要因は排除しないといけない。

政治資金規正法という名称になっているように政治資金の「規制」ではなく「規正」なのだ。ベースになるのはアメリカの考え方で、民主主義政治は国民に選ばれた政治家が自由に活動するということ。つまり、自由に活動するためにはお金がいるので、お金を「規制」して制約してはいけないというものだ。ただし、お金を巡って不正をすることもダメなので、透明性が必要ということが法律のベースにある考えである。

今回の規制案、多額の「裏金問題」の対処方法としてはあまりにも弱い。たんなる対処法になっていて、世論からも評価されていない。今回の選挙では、自民党は支持が強い島根1区でさえも圧倒的に厳しい状況にある。このままでは、きたる総選挙に負けてしまうだろう。はっきりいって「政権交代」になる可能性は高い。自民党はそうした危機的状況の認識はあるのだろうか。

ピンチはチャンス。

だからこそ自民党は「企業・団体献金の廃止」「パーティー券の廃止」「徹底公開」をぶちたてるしかない。そうすれば岸田首相の支持率も回復するだろう。ここで変えると歴史的偉業を残した首相になれる。過去の政治改革の歴史の中で圧倒的に凄いことになる。

ぜひ決断を期待したい。岸田首相や自民党の問題意識のある政治家に期待したい。

 
 

ネットがつながらのであせる

2025年01月15日 22時33分33秒 | 日記・断片

何時もとおり、日課のブログの更新である。

だが、どのように操作をしても、つながらない。

そこで、散歩仲間の宮ちゃんの自宅へ行くが留守だった。これで、不在は4度目であった。

彼をカラオケの「エスカルゴ」へ誘うつもりであった。

彼と1度だけ行ったカラオケの「ニューばんだい」は12月30日に50年の歴を閉じる。

宮ちゃの自宅から井野団地を経て、井野郵便局方面へ向かう。

火事で焼失した家は、見違えるように黒い重厚な家として再建されていた。

白山通り、キャノン、取手市役所を経て、新取手までのスナック「恵」へ行く。

徒歩1万歩の距離だった。

4㌔を平気で歩いた田舎育ちの健脚の母親のことが思い出された。

帰りは新取手駅でコミュニティバスに乗って帰る。

取手駅西口のウエルネスプラザまで、わずか150円の料金だった。


復旧 gooサービスにログインしづらい事象について

2025年01月15日 17時01分14秒 | 【お知らせ】

復旧】gooサービスにログインしづらい事象について

(2025年1月15日 14時45分 更新)

いつもgooサービスをご利用いただき、誠にありがとうございます。

gooサービスにログインしづらい事象が発生しておりましたが、2025年1月15日午後2時30分現在、復旧しておりますことをご報告いたします。

ご利用中のお客様には大変ご不便、ご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。

いつもgooサービスをご利用いただき、誠にありがとうございます。

2025年1月15日午前10時20分現在、gooサービスにログインしづらい事象が発生しております。

ご利用のお客様には大変ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。
現象の解消に努めておりますので、今しばらくお待ちくださいますようお願い申し上げます。


創作 心の原点 6)

2025年01月15日 05時07分20秒 | 創作欄

生きことは、人の死にも遭遇することである。

57歳の母の死。その母を裏切った父親の死。

36歳の友人の死、彼は真冬も半袖姿だった。

三島由紀夫に心酔していた友人の能美孝雄はボディビルで体を鍛えていた。

その彼がジョギング中に心筋梗塞で急死する。

友人たちは「能美は死に向かって、走っていたんだな」と通夜の席で言うのだ。

昭は能美の死に顔を確りと目に留めた。

「死の顔を見るのはダメだ」とお棺に近づかない友人もいたが、昭は躊躇することなく、多くの「死に顔」に接してきた。

母親を裏切った父親の「死に顔」が、眠るように穏やかであったことに、昭は言い知れぬ感慨に陥った。

そして、一人娘を残して34歳で行ったと桜山愛の死にも遭遇する。

「私の体を知っている男ね。共白髪まで生きるのね」彼女は昭に抱かれた東京・目黒の下宿先の4畳半の愛の部屋で言う。

愛は妻以外に深い関係になった唯一の人だった。

だが、人妻になった桜山愛の「死に顔」に接することができなかっことがいつまでも残る悔いでもあった。

 

 

 

 


1942年に日本兵、豪の看護師21人を銃殺する前に何を

2025年01月15日 05時00分49秒 | その気になる言葉

 真実追求の動き

ギャリー・ナン、シドニー

Black and white photo of nurse Vivian Bullwinkle

画像提供,Lynette Silver

画像説明,「バンカ島虐殺事件」の唯一の生存者、ヴィヴィアン・ブルウィンクルさん

第2次世界大戦中の1942年、オーストラリアの女性看護師の一団が、日本軍兵士たちによって殺害された「バンカ島虐殺事件」。いま、一人の歴史研究者が入手した証拠から、ある事象が浮かび上がりつつある。看護師たちは殺害前、日本兵たちに性的暴行を受け、オーストラリア当局がそれをひた隠しにしてきたというのだ。

「この真実を発掘し、ついに公表するには、複数の女性の力が必要だった」

軍事史を研究するリネット・シルヴァーさんがこう言う「真実」とは、1942年2月にインドネシア・バンカ島で、海の中へ歩かされ、機関銃で銃撃されたオーストラリア人看護師22人の身に起きたことを指す。看護師たちは1人を除いて全員殺された。

「それだけでぞっとした。でも、殺害前に強姦されていたなんて、語るにはむご過ぎる真実だった」。シルヴァーさんは、新著で詳しく書いた証言について、こう話す。

「オーストラリア軍の高官たちは、悲しみに暮れる遺族たちに、家族が強姦されていたという不名誉を与えたくなかった。恥ずべきことだと思われていたので。レイプは死よりもひどい運命と考えられ、ニュー・サウス・ウェールズ州では1955年まで(加害者が)絞首刑による極刑で処罰されていた」

唯一の生存者

看護師のヴィヴィアン・ブルウィンクルさんは、虐殺事件で体に銃弾を受けたが、死んだふりをして生き延びた。ジャングルに身を隠し、やがて戦争捕虜となり、のちにオーストラリアへ帰国した。

A view of a beach at Bangka Island, Indonesia

画像提供,Getty Images

画像説明,インドネシア諸島スマトラ島近くに位置するバンカ島の海岸

第2次世界大戦後に開かれた東京裁判では、ブルウィンクルさんは強姦について「話すのを禁じられた」と、シルヴァーさんは言う。ブルウィンクルさんは2000年に死去したが、何があったのか、テレビキャスターに伝え残していた。シルヴァーさんが今回調べたのは、その内容だ。

「ヴィヴィアンは命令に従っていた」とシルヴァーさんは言う。「(強姦被害について黙ったのは)タブーというのもあったし、オーストラリア政府には多少の罪悪感があったのだろう。政府高官は、1942年の香港侵攻の際、日本兵がイギリス人看護師たちをレイプし、殺害したのを知っていた。それなのに、オーストラリア人看護師をシンガポールからなかなか避難させなかった」

オーストラリア政府によれば、虐殺の実行者は今も特定されず、「罪について何も処罰されていない」。

オーストラリア国防軍の報道官は、この性的暴行の訴えについて新調査に着手するかは、政府の判断次第だが、関係者の家族が、こうした犯罪調査の担当部署に「歴史的な新証言を提供することはできる」と説明する。

Black and white photo of a separate group of nurses arriving back in Singapore after evacuation from Sumatra in 1942

画像提供,Lynetee Silver

画像説明,1942年にインドネシア・スマトラ島からシンガポールに避難した看護師たち(バンカ島で殺害された看護師たちとは別人)

何が起きたのか調査

シルヴァーさんのほかにも複数の女性が、看護師たちへの性的暴行の証拠を発掘した。テレビキャスターのテス・ローレンスさんと、伝記作家のバーバラ・エンジェルさんだ。

エンジェルさんは、ブルウィンクルさんが着ていた看護師の制服に残された、色違いの糸と銃弾の穴について調べた。

その結果、上半身のボタンがいったん引きちぎられ、後に(ブルウィンクルさんの死後、制服が展示された際に)、そこだけ違う色の糸で縫いつけられた様子がうかがわれた。

さらに、制服の2カ所に残る銃弾の痕(銃弾が入った時の穴と出た時の穴)がぴったりそろうには、ブルウィンクルさんの制服は腰のあたりで開かれ、前の部分が下がっていたはずだということも浮かび上がった。

ローレンスさんは2017年、ブルウィンクルさんから生前に打ち明けられたという話を報じた。それは、「ほとんどの」看護師が銃殺される前に「暴行された」という内容で、ブルウィンクルさんは、そのことを公表したかったができず、秘密はブルウィンクルさんを「苦しめた」と言っていたという。

Bullet holes in a nurse's uniform

画像提供,Lynette Silver

画像説明,ヴィヴィアン・ブルウィンクルさんの看護師の制服に残された銃弾の穴

シルヴァーさんはこのほか、バンカ島でマラリアの手当てを受けていた日本兵の証言にも言及している。その兵士はオーストラリアの調査官に、当時、悲鳴を聞いたと話した。また、兵士たちが「海岸で楽しんでいるところで、次は隣の小隊の番だ」と聞かされたと証言していた。

シルヴァーさんはさらに、看護師たちに起きたことの詳細を記録した文書から、重要な証言部分が抜き取られていたことも発見した。検閲があったとシルヴァーさんはみている。

その証言はジーン・ウイリアムズさんによるもので、東京裁判の豪州戦争犯罪局のために夫のハロルド・ウイリアムズ少佐がどのような調査を実施したかという内容だった。

A diary page with a quarter of it removed by scissors

画像提供,Lynette Silver

画像説明,虐殺事件に関する記録からは、ジーン・ウィリアムズさんの証言の一部が抜き取られていた

豪ニュー・サウス・ウェールズ大学のピーター・スタンリー教授(軍事史)は、シルヴァーさんの主張は決して意外ではないと話す。

「この話が表に出るのをずっと待っていた。長年、うわさされていたし、ヴィヴィアンさんを知る元女性兵ちが私に話してくれたこともあった。第2次世界大戦中に香港やフィリピン、シンガポールで記録された、日本兵による性的暴行とも一貫性がある」

軍の「人気者」

シルヴァーさんによると、オーストラリア人看護師たちは、虐殺される前の1941年までシンガポールで「何の悩みもない、幸せな人生」を送っていた。

「看護師たちは軍の人気者で、食事や酒をごちそうしてもらっていた」とシルヴァーさんは言う。「看護師たちは、平時の軍隊にありがちな、訓練中の事故や、自動車事故、マラリアといった問題に対応していた」

1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の数時間前にシンガポールに侵攻した。それを機に、看護師たちの人生は一転したとシルヴァーさんは言う。「看護師たちは、戦闘による負傷者の多さに圧倒された。シンガポールでは民家も病院として使われた」。

ブルウィンクルさんが1945年と1946年に話したいと思っていた「ありのままの真実」を伝えるのは、重要なことだとシルヴァーさんは言う。

「もし私がこの秘密を語らなければ、私自身も、沈黙の風潮と政府の圧力に加担して、加害者を守ることになってしまう」とシルヴァーさんは言う。「看護師たちの話を語る必要がある。それでやっと、彼女たちの正義が実現する」。

Map
画像説明,地図中央が事件のあったバンカ(Bangka)島

シルヴァーさんのもとには最近、看護師たちを個人的に知っているという人たちからメールが届くという。「寝た子を起こすなと言われるのではないかと少し心配していたが、私をけなすような内容のメールは1通も受け取っていない」。

オーストラリア戦争記念館(AWM)には、すでに看護師たちの虐殺についての展示はある。しかしシルヴァーさんは、性的暴行の訴えがあることも展示に反映してもらうよう希望している。

AWM館長のブレンダン・ネルソン博士はBBCの取材にこう述べた。「私たちは訴えを否定も軽視もしない。実際、戦争ではレイプや性的暴行が武器として使われることは知られている。しかしながら、事件の唯一の生存者であるブルウィンクルさんは約20年前に亡くなっていて、何が起きたのかわからないし、今後も確実に知ることはできない」。

#MeTooと比べて

シルバー氏は性暴力被害への連帯を示す世界的な「#MeToo」の運動を意識しながら、次のように言う。「問われている社会的道徳観は同じだ。女性は何か発言したくても、待つよう強いられていると感じてきたし、犠牲者として責任があると思わされてきた。#MeTooはヴィヴィアンに、ついに告発する自信を与えただろう」。

Lynette Silver with a framed copy of her certificate saying Minister's Special Award, which she was awarded by government authorities in Sabah, Malaysia

画像提供,Lynette Silver

画像説明,リネット・シルヴァーさんはマレーシアの自治体から「歴史刑事」として表彰されたこともある

「女性の歴史作家は一般的に、どれだけ銃が使われたかよりも、人間的な要素に興味を引かれる。女性は共感力がある」

今回の証拠を発掘した3人の歴史研究者が3人とも女性だったことが、そのことをよく示しているとシルヴァーさんは言う。「歴史(history)が『彼の話(his-story)』として語られるのをずっと聞いてきた。今回はその反対だ」。


戦争裏面歴史の強姦  「米軍兵士の婦女暴行」 戦地:日本(沖縄)  

2025年01月15日 04時55分05秒 | 社会・文化・政治・経済
証言

「米軍兵士の婦女暴行」
戦地:日本(沖縄)  

(米軍)上陸のときは逃げていましたね。国頭(くにがみ・本島北部)の方に。そのときは、部落で馬車のある人は避難しきれた。国頭の方に。そして、馬車とか馬のない人たち、ちょっと貧しいなと思った人たちは、部落にとどまってあっちこっちのガマ(洞窟)に(潜んだ)。

Q:国頭に逃げて、その後のことを教えてください。

あっちこっち避難して、山の奥にですよ、逃げて。また敵が来たらまた逃げて。そして8月何日かな、捕虜になったんですよ。そして、田井等(現・名護市)のカンパンというところにみんな集められて、そこからまた各部落に。こっちからはどこの部落、私たちは仲尾というところにあてられたんですよ。その部落に。そしてそれからまた貧しい思い。また貧しい、何にもないですからね。もう食事、人のイモを盗みにいったんですよ。

Q:沖縄戦の終結は6月23日って聞いているんですけれど。

でも8月ぐらいだったと思いますよ。みんな嘘(うそ)だろと言って、山にこもっているわけですよ。出ない。山から出ない。そして、山の周囲をみんな焼かれたもんだから、どんどん火は山の中に入ってきたもんだから、びっくりして出てきたんですよ。そのときに捕虜になって、羽地にあれされたわけですよ。

Q:キクさんは誰と山原(やんばる・本島北部)に逃げていたんですか?

お母さん、おばあさん。だけどおばあさんはもう亡くなって、向こうで。仲尾で。食事関係でみんなひもじい思いしてるから、栄養が足りなかったんでしょうね。

Q:亡くなるところは見ましたか?

私見てないですね。でも、うちのおばあちゃんは・・みんなは兵隊も民間の人も穴を掘ってね、みんな一つに入れるんですよ。だけどうちのおばあちゃんなんかは、ちゃんと横に掘ってちゃんと葬った、葬ったりした、お父さんが。だから、遺骨もちゃんとありました。後で取りにいったら。

Q:山原まで逃げるときに、見たものはありますか?

子供が、みんな頭に乗せてね、食べものとか着物とか持っていくときに。いっぱいですからね、逃げる人がいっぱい。那覇からもあちこちから、みんな山原(やんばる)に。みんな国頭に逃げるんですから。そんときに小さい4、5歳なる子供かね、「お母さんお母さん」して泣いてよ。もう、お母さんどこに行ったかわからない、自分一人走っていくんですよ。だれもふり向く人もいません。みんな逃げるのに一生懸命で。どこでお母さんと離れたかなと思ったんですけれど、もう誰も振り返る人もいません。途中で、名護の方でまた空襲があったんですよ。馬車にいろいろ乗せてあったんですけれどね、みんな弾にやられてめちゃくちゃ。米も油も。それをまた持って行って、なんとかして食べたんですけれど。でもう一か月ぐらいで底尽いたんですかね、食べ物は。それからはもう、いろんな草を取って食べたり、盗みに行ってまたイモを取ってきて食べたり。敵が来ない間に、そのときに、イモを取りに行くときに、ある青年がこっちを撃たれて、敵に撃たれて、こっちを押さえて、そのまま走ってくる人もいるし。あとどこで倒れたかねと思いましたね。男の方。会ったんですよ、私たちがイモ取りに、あの人逃げてくるの。

Q:他におじいかなんかの姿は。

あれはですね。羽地(現・名護市)に捕虜にならない前に山から下りてくるときに、みんな自分の子供を連れて、手を引いておんぶして、何かまた頭載せていますよね。おじいまで連れて歩けないんですよ。おじいちゃんたちは「そこにいておきなさいね、後で、迎えに来るから」というふうに形で。みな、ただ人の来るのを見ているわけですよ。

Q:おじいは何で連れて行けなかったんですか?

自分の子供守るために。ついてこれないんですよ、おじいはゆっくりゆっくりしか歩けないから。みんな前進ですからね。その途中で、兵隊が倒れて、脚絆(きゃはん)巻いて、戦闘帽かぶって撃たれて死んで。そして葉っぱね、誰か枝を取ってあまり醜いからこう覆われてるわけですよ。顔をね。また少し歩いたらまたそこら辺にもいるんですよ、死んだ、これは民間の人が倒れて。怖くもなかったですね。それが当たり前と思って。

 

クレジット

番組名
[ETV特集]沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~ 放送日 2012年8月12日
収録年月日
2012年5月17日

証言者プロフィール

長浜 キクさん

1928年
沖縄県読谷村に生まれる
1945年
米軍上陸前に、家族で沖縄本島北部に疎開する
 
8月まで山中で生活、その後、米軍の捕虜になる
 
本島北部での収容所生活時、米軍兵士による婦女暴行を目撃する

出来事の背景

【沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~ 放送日 2012年8月12日】

出来事の背景 写真

3か月間に及んだ地上戦で20万人を超す死者を出した「沖縄戦」。そのうち9万4千人は、沖縄の住民だったとされています。
沖縄戦を生きぬいた人々も、戦後は米軍政下で過酷な歴史を歩み、いまも戦争や戦後の体験に苦しみ続ける人々がいます。
長浜キクさんは、米軍の上陸地点となった沖縄本島中部・読谷村に住んでいましたが、米軍上陸前に、「山原(ヤンバル)」と呼ばれる沖縄本島北部に家族で避難しました。そこでは、飢えに苦しんだ末に、キクさんの祖母は命を落としました。組織的な戦闘が終わったとされる6月下旬以降も

山に潜み続けていた長浜さんたちは、8月になって山を下りて捕虜になりました。その時15歳だった長浜さんは、米軍兵士に沖縄の女性が暴行されるのを一度ならず目の当たりにする衝撃的な体験をしました。
その後も、沖縄では、米軍兵士による女性に対する性的暴行事件が起こっています。1995年9月には、女子小学生が3人の米兵に暴行される事件が起きました。長浜さんは、このできごとに再び大きなショックを受けました。米軍機の騒音や解決のめどが立たない普天間基地の移設問題などにも心を痛めています。



【競輪】神山雄一郎氏が日本競輪選手養成所の所長就任へ 滝澤正光所長は定年

2025年01月15日 04時44分13秒 | その気になる言葉

配信 スポニチ

 

 


占領期日本における強姦

2025年01月15日 04時38分04秒 | その気になる言葉

英語:Rape during the occupation of Japan)は、第二次世界大戦後、アメリカ合衆国を中心とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による軍事占領中の日本における日本国憲法の公布・施行後に日本列島及び南西諸島において発生した連合国軍将兵(アメリカ軍・イギリス軍など)による強姦・殺人(強盗・不同意性交等致死罪、強盗・不同意性交等殺人罪、強盗殺人)

背景
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1945年2月、米軍は日本領である硫黄島に上陸、同年4月1日に沖縄に上陸し、8月に停戦すると連合軍は日本列島本土に上陸した。連合国の占領は日本国との平和条約発効により1952年4月28日にほぼ終結したが、1972年5月14日まで沖縄県ではアメリカ軍による占領統治が継続されることとなった。

沖縄戦
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ニューヨーク・タイムズは「沖縄戦は第二次世界大戦中の最悪の戦いの一つであり、県民の三分の一を含む、アメリカ人、日本人双方あわせ20万人以上が殺害されたと記載している[1]。

米軍の強姦疑惑
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犠牲者の多くは死亡しており物的証拠は乏しいものの、連合軍がこの沖縄戦の最中に多数の強姦を行ったとする、多くの信頼に足る証言がなされている。

沖縄本島北部での組織的強姦
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沖縄の歴史家大城将保は次のように述べている。

若い男性皆が戦争のために動員されており、唯一女性、子供、高齢者が半島の村々に残留していたため、米海兵隊の上陸直後、本部半島のすべての女性はアメリカ兵の手に落ちた。日本軍の存在が認められないことが判ると、米海兵隊将兵は上陸直後から、全村を「接収」し白昼から「女狩り」を開始し、村や近くの防空壕に隠れていた女性らを次々に引きずり出し強姦した[2]。

田中利幸によると、米軍による沖縄統治最初の5年の間に、米兵による強姦や強姦殺人は少なくとも76例報告されているが、ほとんどの場合、公式に報告される事なく事件は闇に葬られており、76例という数字は実態と一致していないと主張している[3]。

沖縄本島南部での強姦
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ペーター・スヘレイヴェルスは、アメリカ兵による強姦は人間としての最低限の慈悲もなく、島全体に多くの災厄をもたらしていたと回想している。

彼は著書の中で、「本島南部進軍中、第4海兵隊の男たちは道路の横に10名ほどで小さな円陣を組んでいた。彼らは大変はしゃいでおり、隣にいた伍長は手を叩いてゲームを楽しんでいるのだろうと言った。私の同僚は『もう行こう。』と私に声をかけたが、その時私が見たのは、彼らがまさに東洋人の女性を回姦している様子だった。私は激怒したが、何も異常は起こっていなかったかのように、私たちは行進しつづけなければならなかった。」と回想している[4]。

ニューヨーク・タイムズが2000年に沖縄県内の村々で複数の高齢者に取材を行った際、アメリカの占領後、毎週武装した海兵が来村し、すべての村の女性を強制的に丘のほうへ連れ去り、強姦していたと証言している[1]。記事では「米国軍人による沖縄女性への広範な強姦」は長く無視されてきたが、研究機関の調査結果、推定値として最大10,000人の沖縄県の女性が強姦された可能性があるとしている。軍当局は、この大量強姦を否定しつづけており、すべての生存引き揚げ軍人がニューヨーク・タイムズの取材要求を拒否している[1]。

東アジア研究の専門家スティーブ・ラブソン教授によれば、「私は沖縄の強姦について多くの文献、過去の記事を読んでいるが、米国内においてそれらの事実を知っているか、またはそれらについて話したいと思っている人間はごくわずかだ。」と述べている。またサミュエル・サクストン(除隊時大尉)によれば、アメリカの退役軍人と強姦の目撃者は、「私たちが国のための奉仕をし、懸命に働いたという事実を考えれば、強姦の全容を国民に知らせる事は間違った印象を国民に与え、不公平だろう」と述べている。また沖縄国際大学の石原昌家教授によれば、「歴史的な記憶喪失の多くはまさにそこにあり、多くの人々が実際に何が起こったかを認識しようと思っていない。」と述べている[1]。

被害記録の不存在
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米軍が強姦事件に関する記録を取っていない理由はいくつかある。一つには県内の女性の多くは、恐怖と羞恥心から報告をせず、仮に報告したとしても軍警察によって無視されたためであると歴史家らは考察している。このような大規模な犯罪状況の全容を解明する取り組みはいまだされておらず、強姦されたと考えられている女性の多くは、戦後70年経った現代においても、歴史家や大学研究者はおろか友人たちに対してさえも、公の議論や公式声明を拒否している。沖縄県警察名護警察署の広報担当者は「被害者の女性は公開を恥と考えている」と述べている[1]。

ジョージ・フェイファーは著書『天王山』において、原爆や沖縄戦について記述するほか、沖縄の戦時強姦として10例ほどの報告例があったことを指摘している。彼は報告例の数の少なさの理由として、「恥と不名誉は理由の一部であり、アメリカが勝者となり沖縄県を占領していた事がもう一つの理由である」と述べている。 フェイファーの主張では、「沖縄県には恐らく数千を超える事件があるが、被害者の沈黙は、もう一つの「汚い」占領政策の秘密を生むこととなった。多くの女性が強姦時に受精する事によって必然的に生まれるべきGIベビーたちが世間の明るみに出たことはない。この事実について多くの人が疑問を持っているが、地元歴史家や沖縄の高齢者に対する取材によれば、こうした混血児の多くは村落の助産師の助けを借りて中絶処理されるか誕生直後に殺され、仮に生まれた場合にも羞恥心から座敷牢に匿われて生活することとなった[1]。

ジョージ・フェイファーによる強姦調査の大部分は、侵攻が容易だった沖縄本島北部および中部に集中しており、フェイファーによれば、主に占領任務のために上陸した将兵が強姦を行っていたようである[5]。

強姦被害者の沈黙
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ほとんどすべての強姦被害者は、沖縄侵攻作戦の「汚い秘密」を維持するために貢献し、沖縄で何が起こったのかを述べることなく沈黙してきた。女性の沈黙と事件報告件数の少なさの主な理由はアメリカによる支配と「恥」の文化であった。数千を超える強姦が、公式にはたった10数件の強姦事件として1946年以降報告されてきた[5]。

日本軍による強姦疑惑
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戦争学研究所のトーマス・フーバーは、日本兵も戦闘中に沖縄の民間人を虐待していると述べている。フーバーによれば、 降伏が許されず生還の可能性が低い日本兵によって「自由になされた」可能性があり、これらの強姦が戦後、沖縄と本土の関係に少なからず影を落とすこととなった[6]。

戦後
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占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月(1日とも)だけでも最低3,500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[7]。

特殊慰安施設協会は1945年8月22日に設置され、その他の地域でも慰安所、施設の設置が進められたが30日に上陸した進駐軍は横須賀や横浜をはじめ、民家に侵入し日本人女性を強姦する事件が多発した[8][9]。28日、9月2日開業予定の小町園慰安所には機関銃で武装したアメリカ軍兵士達が乗り込みすべての慰安婦たちを強姦した[10]。横浜では、100名を超える武装したアメリカ兵が開業前日の慰安所に乗り込み慰安婦14名を輪姦した[10]。9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦された[8]。5日には神奈川県の女子高校が休校した[8][11]。19日にGHQがプレスコードを発令して以後は連合軍を批判的に扱う記事は新聞で報道されなくなった[8]。武蔵野市では小学生が集団強姦され、東京都大田区 大森では病院に2 - 300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦らが強姦された[8][12]。これらのアメリカ軍による集団強姦事件はダグラス・マッカーサー元帥やロバート・アイケルバーガー将軍も把握しており[13]、アメリカ軍は強姦から女性を守ろうと設立された自警団に対しては戦闘車両で鎮圧し自警団幹部らを長期間にわたって刑務所に監禁した[13]。進駐軍相手の日本人娼婦(街娼)は「パンパン」などと呼ばれていた。占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[14]。

1951年に連合国諸国とサンフランシスコ講和条約を締結し、翌年4月28日に日本の国家主権を回復した後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51,暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には京都府宇治市大久保小学校の四年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[15]。

1952年の奈良の慰安施設RRセンターでは2500名の慰安婦がいた[15]。

占領の恐怖と特殊慰安施設協会
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日本占領後、多くの市民は連合国軍の上陸によって日本女性が強姦されることを恐れていた。こうした懸念から、内務省警保局をはじめ各省庁および都道府県庁は、女性らに自宅待機、避難、日本人男性から離れずいるようにとの注意喚起、また米兵との接触を回避するよう勧告をしている。

米軍が最初に上陸するものと推測された神奈川県では、県警は若い女性や少女に避難勧告をしている[16]。内務省警保局の情報にも「神奈川県ハソノ特質上敵ノ最初ノ上陸地点タルベシトノ想像モアリ「敵ハ十八日ニ神奈川ニ上陸スル」ノ流言多シ」とあり、戦争関連の諸文書が一斉に焼却廃棄されるなか、行政機関当局にも相当の混乱があったことが窺える。主要港湾を擁する横浜市では、幹部職員の全員逮捕処刑を前提として、緊急措置として市民のうちの婦女子の疎開避難、女子職員の全員解雇などを決定し、これをきっかけとして丹沢方面への疎開騒ぎが広まっていた。

これに呼応し、政府は内務省警保局長名で特殊慰安施設協会(RAA)の設立について全国都道府県に打診し、東京都下の料理飲食業組合、芸子置屋同盟、待合業組合連合会など7団体代表者により、特殊慰安施設協会が急きょ設立され、協会を通し「性の防波堤」となる志願女性を募集した[17]。これにより、各所に「進駐軍将兵慰安施設」が設置され、一例として横浜の大阪商船ビル、日本造船大丸谷寮、箱根、江ノ島の新設施設などがこれに利用された。GHQ当局は1946年1月に、「非民主的であり、女性への人権侵害である」との理由から施設の閉鎖と公娼の禁止を宣言したが、占領軍兵士を相手とする「私的」売春は継続され、兵士たちの間で性病が蔓延した[18]。

米軍による強姦
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ジョン・ダワーによれば、特殊慰安施設協会設置の効果もあり、占領軍の規模と比較すると日本政府の想定よりは強姦の発生率は低かったが、同時に性病の集団感染も引き起こした。一例としては、検査の結果1個師団の70%が梅毒、50%が淋病の陽性反応を示したため、これを主因として売春施設は閉鎖されることとなった[18]。

公娼施設の廃止後、強姦の発生率は約8倍に増加し、ダワーの調査によるとRAAが活動終了した1946年以降、日本人女性に対する占領軍将兵による強姦件数は一日平均40件から一日平均330件に急増した[19]。これに対してブルマは、「毎日40件以上の強姦が行われた可能性があるが、ほとんどの日本人は、アメリカ人は恐れていたよりも規律的だと認識していただろう」と述べている[20]。

テレーズ・スヴォボダは、慰安施設閉鎖後に強姦の報告件数が急増した事から、兵士に対する慰安婦の提供が強姦事件抑制に一定の効果があった事を認めている。スヴォボダはまた、一例として慰安施設の営業開始前に、待ちきれなくなった数百人の米軍兵士が二棟の施設に乱入し、そこにいたすべての女性を強姦した事件についても言及している[21]。 また、スヴォボダによると特殊慰安施設協会の廃止後少なくとも二件の大規模な集団強姦事件が発生している。

記録に残っている集団強姦事件
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東京都の事例
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スヴォボダおよび田中の調査によれば、1946年4月4日の深夜、3台の軍用トラックに便乗した米兵50人が東京都大森区(現・大田区)の中村病院に侵入し、号令の笛とともに約一時間の間に女性患者40人、女性職員37人を回姦凌辱した[22]。被害者のうち、2歳の幼女は事後床にたたきつけられ死亡したほか、止めに入った男性職員一名が殺害された[22]。

名古屋市の事例
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また、田中によると、同1946年4月11日に名古屋市の住宅街に侵入した30人から60人の米軍兵士が地域内の電話回線を切断後、各家屋に同時に侵入し、10歳から55歳の女性を強姦している[23]。

占領軍上陸直後の事件件数
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マイケル・S・モラスキー(日本文学、日本語学研究者)によると、日本の警察の報告を読むかぎり、強姦やその他の重大犯罪は海軍を中心に広まっており、横須賀基地と横浜周辺における占領後最初の数週間の犯罪件数が突出しているが、日本本土全体では一般的ではなかった[24][25]。

上述のように、駐留米軍兵士による拉致、強姦、殺人は日本全体には波及していないものの、警察記録と報道記録が示している通り、凶悪犯罪を犯す兵士の多くが、1945年に日本に上陸し、最初の数週間の間に記録的件数の犯罪行為をおこなっており、占領最初の10日間だけで1336件の強姦事件が報告され、その後も9月一か月間の横浜市内での強姦事件は119件にのぼっている[26]。ダワーによれば、被害者が数人以内の場合には警察に報告すらされなかった。[27]

北海道の事例
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歴史家の竹前栄治、ロバート・リケッツらは、米空挺部隊が上陸後、札幌市内において略奪、強姦、酔ったうえでの日本人への暴行などを働くことはまれではなく、強姦被害者の中には自殺した者も少なからずいたと述べている[28]。

ロバート・アイケルバーガー第8軍司令官は、非番の兵士から女性を保護するために日本人が自警団を組織した際、第8軍の装甲車に協力を命じ、事件の首謀者を逮捕したことを記録している。しかしダワーによれば、一方で強姦事件の中には警察に報告されないものもあった。

イギリス連邦占領軍による強姦
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竹前とリケッツらによると、オーストラリア、英国、インド、ニュージーランド軍の一部によって構成され、中国及び四国の9県を占領していたイギリス連邦占領軍 (BCOF)も、また多くの強姦に関与していた。

オーストラリア軍は1946年に広島県呉市に上陸するとすぐジープで若い女性を拉致し強姦していた。被害者がほぼ毎晩助けを求めて泣き叫ぶのを聞いていたが、占領軍による犯罪行為の報道は封殺されていた[28]。中には、一人の少女が20人以上の兵士に回姦される事件もあった[29]。

イギリス連邦占領軍の公式報告では軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦を犯し、有罪判決を受けたされる。しかしながら、1946年2月から4月にかけての英連邦占領軍による占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない[30]。オーストラリアの歴史家ロビン・ゲルスターによれば、イギリス連邦占領軍の重犯罪公式統計は米国と同様に過小評価されているが、これには日本の警察が被害報告を占領軍に提出していない場合があり、これにより英憲兵隊が調査を行わなかった事も少なからず影響していると述べている[31]。

日本の被害報道への検閲
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ジョン・ダワーによれば、GHQ当局は1945年9月から1952年の占領終了までの間、幅広い検閲(プレスコード)を日本のメディアに対して実施しており、開始当初には左翼活動や軍国主義、超国家主義的な思想といった思想分野が差し止め対象となっていたが、占領開始から数か月後にはこの範囲を大きく逸脱し、占領軍による強姦などの重大犯罪や社会問題も幅広く検閲の対象となっていた[32]。

竹前栄治とロバート・リケッツによると、占領軍は、1945年9月10日付連合国軍最高司令官総司令部令「占領活動に敵対的な全ての報告・統計発行物の違法化にむけた報道発表と事前検閲に係る規則」を定め、強姦などの重大犯罪に関する報道を統制していた。占領終了後、一部の日本の雑誌はアメリカの軍人が犯した強姦件数を発表している[28]。

米軍による大規模な強姦や慰安所の設置に否定的な意見
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ブライアン・ウォルシュ(Brian P. Walsh)は、アメリカ軍による日本占領の初期段階に起きた、アメリカ兵による広範な強姦事件や、GHQによる慰安所(軍用売春宿)の設置の奨励は、戦後左派の反米キャンペーンにより生み出された偽りの歴史であるとしている[33]。

 

 

 


沖縄米兵少女暴行事件

2025年01月15日 04時34分53秒 | 社会・文化・政治・経済

沖縄米兵少女暴行事件(おきなわべいへいしょうじょぼうこうじけん)とは、1995年平成7年)9月4日沖縄県に駐留するアメリカ海兵隊員2名とアメリカ海軍軍人1名の計3名が、女子小学生拉致した上集団強姦した強姦致傷および逮捕監禁事件である。

起訴に至らなければ、関与が明らかでもアメリカ兵の身柄を日本側に引き渡すことができない”という日米地位協定の取り決めによって、実行犯である3人が引き渡されなかったことが大きな問題になった。

 

この決定に対し、沖縄県民の間に燻っていた反基地感情及び反米感情が一気に爆発し、同協定の見直しのみならず、アメリカ軍基地の縮小・撤廃要求運動にまで発展する契機となった。また被疑者側および家族が人種差別的問題に絡めた発言を行ったため、日米のマスコミで取り上げられる場合は微妙な温度差が生じた[1]

事件の概要

1995年平成7年)9月4日午後8時ごろ、沖縄県国頭郡金武町キャンプ・ハンセンに勤務するアメリカ海軍水兵マーカス・ギル(22)、ロドリコ・ハープアメリカ海兵隊一等兵(21)、ケンドリック・リディット海兵隊一等兵(20)の3名が基地内で借りたレンタカーで、沖縄本島北部の商店街で買い物をしていた女子小学生(12)を拉致した。

小学生は粘着テープで顔を覆われ、手足を縛られた上で車に押し込まれた、その後近くの海岸に連れて行かれた小学生は強姦され、負傷した[2][3][4]

実行犯は当初4人だったが、内1人は少女があまりにも幼かったことで強姦に加わらなかった。実行犯の3人は人種的に黒人であったため、「この逮捕は人種差別だ」と繰り返しマスコミに主張していたが、その主張は取り上げられず、処分が行われた[1]

反基地感情の高揚

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沖縄県警察は、数々の証拠から海兵隊員の事件への関与は明らかであるとして、同年9月7日逮捕状の発付を請求した。

しかし、日米地位協定によれば、被疑者がアメリカ兵の場合、その身柄がアメリカ側の手中にあるとき、起訴されるまでは、アメリカが被疑者の拘禁を引き続き行うこととされていた[5][6]

したがって、たとえ逮捕状が発付されても、日本側捜査当局は起訴前には逮捕状を執行できず、被疑者の身柄を拘束して取調べるという実効的な捜査手段を採ることもできなかった[注釈 1]

このような米兵の特権的な取り扱いによって、事件の捜査に支障を来していたことから、沖縄県民の間でくすぶっていた反基地感情が遂に爆発し、沖縄県議会沖縄市議会、宜野湾市議会をはじめ、沖縄県内の自治体において、アメリカ軍への抗議決議が相次いで採択された[7]

同年10月21日には、宜野湾市で、事件に抗議する県民総決起大会が行われ、大田昌秀沖縄県知事をはじめとする約8万5千人(主催者発表[注釈 2])もの県民が参加した。本土復帰後、最大規模の抗議大会になり、メディアで大きく報じられた[9][10]

これらの動きは、沖縄に集中する米軍基地の整理・縮小や、日米地位協定の見直しを求める訴えが高まるきっかけとなり[9]、沖縄県知事も政府に対して強くその実行を迫った[11]

同年10月、日米両政府の間において、「日米地位協定第17条5(c)及び、刑事裁判手続に係る日米合同委員会」が行われ[12]、日米地位協定については、運用を改善(改正ではない)することになり、次の通り合意された[13]

  1. 合衆国は、殺人又は強姦という凶悪な犯罪の特定の場合に日本国が行うことがある被疑者の起訴前の拘禁の移転についてのいかなる要請に対しても好意的な考慮を払う。合衆国は、日本国が考慮されるべきと信ずるその他の特定の場合について同国が合同委員会において提示することがある特別の見解を十分に考慮する。
  2. 日本国は、同国が1にいう特定の場合に重大な関心を有するときは、拘禁の移転についての要請を合同委員会において提起する。

一方、沖縄に所在する米軍基地の整理縮小については、日本本土ないしグアムへの基地機能移転を図ることで実現する方向が示された。しかし、日本本土への基地機能の移転については地元自治体の意向に関係なく日米のトップレベルで既定事項化されることに対する反発のほか、基地移転に伴う費用を日本側に大部分負担(一説ではおよそ3兆円)するように求めるなど、日本側の反発を招いているため先行きが不透明である。


米国の良心 天王山 上: 沖縄戦と原子爆弾 

2025年01月15日 04時23分45秒 | 社会・文化・政治・経済

ジョージ ファイファー (著), George Feifer (原名), 小城 正 (翻訳)

 

内容(「MARC」データベースより)

第2次世界大戦の天王山にたとえられ、15万余人が死んだ沖縄。その苛烈な戦闘の実相を、日米両軍兵士と住民、3者の目でとらえ再現。8年の歳月をかけて明らかにする、大作ドキュメント。
 
  • 沖縄戦の記録として、日米両軍、沖縄県民の人間的な声含め、時系列にそって詳細に記録した書と思います。
    著者はアメリカ人ですが、日本側の証言もボリュームとしてはこの書がもっとも充実しているのではないかと思います。実際日本でも多くの参考文献にされている様です。
     
    戦史を体系的に伝えるよりは、証言をより多く様々に盛り込んで、兵士や住民たちの過酷な状況、内面心理を生々しく伝えることを優先した書という印象を持ちました。

    日米両軍の一兵士、現地招集兵から将校、上層部にいたるまで、看護隊、鉄血勤皇隊、子供から老人にいたるまでの沖縄住民等など、驚くほど多くの証言が盛り込まれ、各戦闘や戦火の中での沖縄住民の生活、兵や住民の心理などを詳細、臨場感をもって記録しています。
     
    別の日本の戦記書の証言とつながる様な話も多く、興味深く読ませていただきました。

    訳者でもあり、体験談の提供協力もされた小城氏自らが、幸地の激戦やその後の敗残兵的な体験もされている事もあり、また、複数の沖縄戦体験者が詳細な取材協力に応じた様で、日本人も参照にしうる内容が多く含まれている様に思いました。

    元大隊長であった小城氏は、通常オブラードにつつむであろう敗残兵的な経験も本書「下巻」を通じて赤裸々、詳細にうちあけており、戦争の実態が何であったのか、いかに悲惨なものであったか、伝えようと意義ある事をされたと思いました。

    沖縄戦の全容・詳細を膨大な証言とともに記録した書としては大作と思います。
    ただ、下巻最後の「原爆」の項は言わんとしている事は分かるもののやはり同意はしかね、この項だけで本書に対する共感が下がってしまいました。
    個人的にはこの項は読み飛ばしてもよかったと思いました。
    また、特攻隊の心理分析や、日米に対する沖縄住民の心理分析は、やはり日本人や沖縄住民でないと難しい様に思いました。
     
  • 訳者の小城正さんは、実際は、沖縄戦で最もアメリカ軍に苦杯を飲ませてきた日本陸軍歩兵第22連隊の第1大隊長です。本書は、ジョージファイファー氏の沖縄戦取材記録のごった煮ですが、小城さんの回想だけを追っていけば、ひとすじの道にたどりつきます。
     
  • 日本側の描写については疑問が多く、一部の政治的に偏った人の意見のみを尊重しているように見える。広汎な取材をもとにしているものの、その信ぴょう性については全く疑うことなく、そのまま載せているように思う。そのため、悪意や政治的意図ばかりが目立ち、事実としてあったことを洗い出すのが非常に困難な本になっている。

    特に太田昌秀氏の証言が随所に見られる点について強調しておきたい。

    買ったことについて非常に後悔している。紙ごみに出す際には厳重に梱包して、少しでも人の目に触れないようにしたい。こういう政治信条の人とは思われたくない。
     
     

“レジェンド”神山雄一郎氏が競輪選手養成所の所長就任へ

2025年01月15日 04時02分12秒 | 未来予測研究会の掲示板

「立派な競輪選手を数多く送り出す」

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