学生の影響で「恋愛リアリティ番組」を観ている。いわゆる恋愛ドラマとは異なり、「台本、脚本なし」で恋愛する人々の作り出す物語を楽しむ番組だ。20年前に放送された「あいのり」や、出演者への誹謗中傷で話題になった「テラスハウス」を連想する人もいるだろう。こうした番組は国内外を問わず大きな人気を博しており、近年では文化研究やメディア研究でも多数の研究がある(ダニエル・J・リンデマン『リアリティ番組の社会学』高里ひろ訳、青土社など)。日本の番組も海外で人気があるようで、私もオーストリアでの客員研究員時代、よく現地の学生から「『テラスハウス』観てますか?」と訊かれ驚いたものだ。
こうしたリアリティ番組の感想を見ると真っ先に「どこまで演出なんだろう」「やっぱり役者さんなのかな」と思ったりするものだが、観ていくうちにだんだんどうでもよくなることに気づく。実際、SNSやネット掲示板を見ても、いわゆる「やらせ」や演出の存在に憤る声はあまりない。例えば演者同士のカップルがその後すぐに別れても、知名度を活かしてビジネスを始めても「売名」や「やっぱりやらせだ」と批判する声はあまりなく、そういうものだよね、という感じでやり過ごしている。
恋愛ものに限らず、さまざまなリアリティ番組の「やらせ」が明らかになりその度にワイドショーや週刊誌を賑わしていた10年前や20年前と比べれば大きな違いだ。しかし、多くの人がSNSを通じてリアリティ番組のような自己演出の中で生きていて、その中ににじみ出る「素」を見たり見られたりすることに慣れていることを考えると、この感想も特段不思議なものではないだろう。SNSにアップロードしようと外食の風景を撮るとき、美味しそうに見えるよう、おしぼりのポリ袋や紙ナプキンをテーブルの端に寄せる。海に行った思い出を載せるなら、その青さが少し際立つような画像加工もするかもしれない。そしてSNSでつながっている友人たちの写真にも、そんな「加工」の後をめざとく見つける。日常的にちょっとした自己演出を生きている特に若者からすれば、リアリティ番組の中に生まれる「素」を見つけるなど造作もないことだろう。
社会学者アーヴィング・ゴッフマンは、人間が日常生活において相互行為を行う際、自らの生活の場を公的な社会的空間である「表局域」と、ごくプライベートな空間である「裏局域」に分けて振舞うと指摘した。SNSやリアリティ番組といった「裏」を見せるメディアの発達によって、私たちの「表」と「裏」を振る舞うリテラシーも大きく変容しているのだろう。
立命館大学准教授
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