創作 愛されたい願望 11)

2024年12月15日 18時38分06秒 | 創作欄

ジャンヌ徹は、取材の過程で音楽療法に着目した。

当時、TBSミュージックの係長の隅田幸助が、取材の窓口だった。

徹の先輩の佐藤重喜が「俺は別の取材があるんだ。お前にあとを任せる」と言うのだ。

そして、取材相手について、佐藤は「隅田係長は、ブな男。あんな風の男が予想外に、美人の女から好かれだ」とニヤリをする。

「お前さんも、顔が良くないから美女にもてることになるよ」先輩は微笑むが痛烈な皮肉を言うのだ。

ブ男とは、ハンサムではない、男として外見が劣る意味である。

侮辱であるが、徹は美女との出会いを願望する。

徹の妻は二人めの妊娠、出産を控えていた。

音楽療法の実演は、東京上野の東京芸大の一室で行われた。

徹は、通訳してくれた、大学院生の相川洋子に心を動かされる。

フランス人である音楽療法士の提唱者のロブソン夫人に対して、彼女は通訳として帝国ホテルまで同行してくれたのだ。

徹は、結婚後に、あろうことか、まさか出会いのなかでこれまでにない魅力を秘めた相川洋子に愛されたいと願望する。

彼女はフランス人の母親・ジャンヌに似てどこか、映画の世界のようなロマンを漂わせていた。

「お会いできて、光栄です」それはあくまでも、彼女の外交辞令に過ぎなかったのであるが、徹は我田引水となるのだ。

 

 

 

皆さんは音楽療法という言葉を聞いたことはありますか?音楽療法とは、音楽のもつ特性を利用したプログラムを通して行われる療法のこと。認知症の方や発達障害の子どもなどを対象として実施されています。

興味関心はあるけれど、具体的にどんなことをするのか知らないという方も多いかもしれません。

そこで今回は、音楽療法はどんな症状に効果があるのか、なぜ効果があるのか、実際にどのように行うのかなどについて、音楽療法士の岩井佳子さんと鈴木暁子さんに教えていただきました。

音楽療法士 ピアニスト 岩井佳子

音楽療法士 ピアニスト

岩井佳子

大阪音楽大学音楽学部卒業(ピアノ専攻) 聖徳大学大学院児童学研究科博士前期課程修了(児童学専攻)。梅花女子大学・大阪信愛学院大学非常勤講師 障がいのある成人・児童の施設および自身のカルチャ―スタジオで音楽療法を実施。

https://cs-arche.com/

 


バブル期をかき乱した女帝・尾上縫の生涯

2024年12月15日 15時38分12秒 | 事件・事故

尾上 縫(おのうえ ぬい、1930年(昭和5年)2月22日 - 2014年[1])は、日本の実業家、投資家、詐欺師。大阪府大阪市千日前にあった料亭「恵川」を経営していた。奈良県出身。バブル景気絶頂期の1980年代末には「北浜の天才相場師」と呼ばれ[2]、一料亭の女将でありながら数千億円を投機的に運用していた。しかしバブル崩壊とともに資金繰りが悪化、金融機関を巻き込む巨額詐欺事件を起こした[3]

バブル時代を象徴する人物の一人として「バブルの女帝」[4]と呼ばれ、尾上をモデルとした小説を原作とした映画『女帝』も公開された。

人物

生い立ち

奈良県磯城郡多村新口(現・橿原市)の農家の5人兄妹の次女として生まれる[3]

弟の1人は栄養失調で幼児期の内に死去するという極貧家庭であった。母は空海を熱心に崇め、尾上は毎朝般若経を唱えるのを聞いて育った。弟が栄養失調で死去したあたりから母は「狐が降りる」と祝詞のような言葉を発していた。母はさらに家事が苦手で、父は尾上が10歳の時に病死。以後、母は株の仲買人をしていた豪農の男の庇護を受けて生活していた。

1944年国民学校高等科を卒業し、地元の織物工場の女工となった[注釈 1]。いくつかの職を経た後に大阪に出て、デパート水商売で5年ほど働いたのち、19歳で結婚して一女を儲けたが25歳で離婚。離婚後にスタンドバーを経営するも上手く行かなかった。

娘を元夫に預け、大阪ミナミのすき焼き店「いろは」で仲居として働くうち、店の客である経済界の有力者の支援で、旅館「三楽」を購入。改装して30代半ばで料亭「恵川」の女将となる[3][6]。金のある客だけを嗅ぎ分ける選別眼で年配の実業家の座敷に率先して出て支援を募る尾上の努力の賜物であった。バーや1971年に開業した麻雀店、1983年に「恵川」の隣で開業した大衆料理店「大黒や」なども経営し、不動産もいくつか所有した。

しかし尾上には経営の才能がなく、経営する店舗はいずれも赤字続きであった。担当した会計事務所の証言によると、一度しか食事に来ない客にも案内状を出したり、8000円の料理を食べた客に3000円のライターを贈ったりという、広告宣伝費の浪費などの経費の無駄遣いが目立っていたという。他にも、料亭の建設改装費10億円を業者の言い値で支払った、神社の賽銭に数十万円も使った、水晶玉に8000万円を出したと伝わる。放漫経営によりいつ店が潰れてもおかしくなかったが、店舗の経営資金は強力なスポンサーなどによりどこからか調達されていたという。

1970年昭和45年)の暮れ、清風学園創設者である平岡静人により高野山金剛峯寺報恩院で得度の路を開かれ、平岡から「純耕」の得度名を授けられている。平岡一族との親交は深く、一族が主催するチベット仏教寺院・ギュメ寺(南インド)への開眼ツアーにも参加しているが、この際に尾上は2,000万円をギュメ寺に寄進した。しかし平岡一族は寄進は自身らによるものだと主張している。またそのツアーで尾上は平岡ともども宗教指導者・ダライ・ラマに面会し、平岡はその後ダライ・ラマを念仏宗無量寿寺に紹介した。

尾上は自身が女将を務める料亭の客らに対して、占い神のお告げによって株式相場の上昇や競馬の勝ち馬などを見事に言い当てるとして評判となり、そのために料亭は繁盛した(占いは「大黒や」でしていた。占いにはガマガエルの石像を使い、ガマのお告げと称していた[7])。バブル景気前夜の頃までには、それらの予想も神懸かり的なものとなった(特定の銘柄を挙げて株価の見通しを尋ねると、神がかり状態の尾上が「上がるぞよー」とか「まだ早いぞよー」とか答えたという[3])。多くの証券マンや銀行マンらが尾上に群がるようになり[2]、彼らは「縫の会」と呼ばれた。

尾上は日曜日には、庭の弘法大師像を拝むことを習慣にしていた。多くの証券マンも訪れて一緒に祈り、高野山や小豆島への参詣旅行にも同行した[8]

金融界のアイドル的存在であった一方で情報交換を極端に嫌い、情報交換を求められるとその会社との取引は即座に停止した。また、奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)出身と経歴詐称していた[8]。占いで得た布施は赤字続きの事業の損失を補填するために使われた。

巨額詐欺事件

自らも銀行から多額の融資を受けて株式の売買を行うようになった尾上は、バブル絶頂期の1988年には、2270億円を金融機関から借り入れ、400億円近い定期預金を持っていた。また株取引で48億円の利益を得て、1987年から日本興業銀行割引金融債ワリコーを288億円購入し、55億円の金利を受け取っていた。同時期に興銀はワリコーや同行への預金を担保に尾上に融資を始めるが、これは銀行にとっては焦げ付きのリスクが全くない旨味のある取引で、行内では「マル担融資」と呼ばれ、1989年には融資残高は586億円にのぼった[3]

金融の自由化により銀行間の競争が激しくなり、融資先の開拓に苦慮していた興銀は、個人顧客の資産管理を総合的に手伝う「プライベートバンキング」といった中小企業や個人との取引に力を入れており、尾上に対して不動産投資も勧め、1990年8月には尾上の資産管理を行なう「株式会社オー・エヌ・インターナショナル」を設立した[3]。同年、テレビ番組『なんてったって好奇心』に北浜の女相場師兼料亭女将として出演し、カバン一杯の株券や預金通帳を見せたり「神のお告げ」を披露したりした。

しかし、バブル景気に陰りが見えると運用悪化により負債が増加するようになった。1989年の延べ累計額では借入が1兆1975億円、返済が6821億円で、270億円の利息を支払った。1990年末には、2650億円の金融資産を保有していたが負債も7271億円に膨み、借入金の金利負担は1日あたり1億7173万円にも上っていた[3]

以前から手を染めていた詐欺行為を本格的に始めた尾上は、かねてより親交のあった三和銀行系の東洋信用金庫元今里支店長らと共謀して、架空の預金証書を作成させ、それを別の金融機関に持ち込み、担保として差し入れていた株券や金融債と入れ替え、それらを取り戻すなどの手口で犯行を重ねた。

1991年8月初旬に尾上は東洋信金の架空証書の件を興銀の担当者にだけ打ち明けた。興銀は自行の債権33億円を売り抜けて回収している[3]。その直後、同年8月13日に尾上は詐欺罪で逮捕された[3]

尾上は7億円の保釈金を用意して翌1992年3月に保釈され[9]、同年6月に大阪地方裁判所破産宣告を受けた[3]

逮捕の時点までに尾上らは「ナショナルリース」などノンバンクを含む12の金融機関から3420億円を詐取していた。金融機関からの借入金総額はのべ2兆7736億円、支払額はのべ2兆3060億円に達しており、拘置所で破産手続を行った際の負債総額は4300億円で、個人としては日本で史上最高額となった。

また、ノンバンク最大の貸し手であったナショナルリースの担当社員も特別背任罪で逮捕された。ナショナルリースは不良債権をグループのサービサー債権譲渡し、1998年までに親会社の松下電器が未収債権について損失負担する形となり、2001年に松下クレジットとの合併を経て2010年に住信・パナソニックフィナンシャルサービス、さらに2012年三井住友トラスト・パナソニックファイナンスとなっている。

尾上に巨額の融資を行い、支店長らが詐欺に加担していた東洋信金はこの事件により経営破綻して消滅し、預金保険機構の金銭援助を得て、1992年10月1日に三和銀行が救済合併して資産(正常債権)と一部の店舗を引き継ぎ、他の店舗網は府下の複数の信金へ譲渡された。

尾上は起訴され、裁判で1987年にワリコーを担保に25億円の借り入れを行ったことについての供述を求められると「特に必要なかったと思うのですが、頻繁に客として来てもらったので」と語った。尾上は頼まれると断れない性格であった。また金融の知識は無きに等しく、当時投資を行う者なら誰でも知っていた公定歩合という単語すら知らなかった。

尾上の弁護人は裁判で「尾上には株式の知識が全くなく、周囲に踊らされていただけであり責任能力はない」と主張したが認められず、1998年3月に懲役12年の実刑判決を受け、2003年4月に最高裁が尾上の上告を棄却し、実刑が確定した[3]

刑務所に収監後まもなく要介護状態となりひとりでは何もできなくなったものの、元気な時には毎晩拝んでいたという[4]

死去

2017年3月20日MBSテレビで放送された『激撮!直撃!!スクープ ヤマヒロ×西靖▼関西あの事件あの人は今? 4時間生放送SP』にて、一連の詐欺事件が紹介された。その時点で3年前(2014年頃)に死去し、彼女が生前建てた高野山の尾上家の墓に納骨されていたことが明かされた[10][1]

名誉毀損裁判

清水一行朝日新聞社の雑誌『月刊Asahi』1993年6月号から8月号までに連載し[11]、刊行した『女帝 小説・尾上縫』は、彼女の半生を生々しく描いた作品で、尾上については、人に頼まれると嫌といえない人物として描き、彼女に群がった証券会社や日本興業銀行の欲得ぶりに焦点をあてた[12]。作品の前半では、尾上とスポンサーの男たちとの性愛シーンが、清水独特なタッチでたっぷり描かれ、全体として、経済ものの要素がある官能小説といった出来栄えになっていた[12]。この点があだとなって、翌年、詐欺罪などで公判中の尾上から、「私生活、とりわけ異性関係をあたかも事実であるかのように興味本位で取り上げられ、プライバシー権を侵害された」として大阪地裁で訴えられ、5百万円の損害賠償と謝罪広告を求められた[12]

提訴の翌1995年、清水と朝日新聞社は、大阪地裁で尾上と和解で合意した[12]。和解条項には謝罪広告は盛り込まれず、作品の在庫は破棄し、再販しないこととされた。和解金については、双方の意向で明らかにされなかった[12]

金融機関との関係

住友銀行

[編集]

1986年、三和銀行に多かった預金を担当者の熱心な勧誘により住友銀行日本一支店に移行した。尾上は同支店の支店長から上客として扱われ、週2~3回尾上の店に支店長が訪れ、接待にも使われた。さらに支店長の計らいにより支店の年末パーティに招待されたり、行員の前でスピーチを行ったりという待遇を受けた。支店長の社用車も使用したことがある。

日本債券信用銀行

日本債券信用銀行の部長は尾上の店に花を飾り、掃除を手伝う際には観葉植物の葉の裏側まで拭いていたという。

日本興業銀行

バブル景気の当時は「銀行の中の銀行」と呼ばれていた興銀は、本来は法人以外との取引は受け付けなかったが、尾上は特別に取引を許された。

また「床の間を背に座る」(常に上座にある)と言われる興銀マンを下座に従えたと伝聞され、驚きと共に溜飲を下げた人士があった。

日本勧業角丸証券、山一証券

1988年当時、日本勧業角丸証券難波支店長は尾上の店の奥の1畳ほどの部屋に午前9時から午後5時まで常駐し、各証券会社から送られてくる株式売買の報告書を整理し、帳簿を付けた。夕方に会計事務所の事務員が店に来て帳簿に基づいて支払いのための小切手を切った。後に変わって山一証券が常駐した。

尾上をモデルとした作


風邪となる

2024年12月15日 14時40分16秒 | 日記・断片

風邪もインフルエンザも家人から何度もうつされた。

家人は、毎日のように出歩き、多くの人たちと接しているのだ。

カラオケは「赤べこ」をはじめ「ドレミ」「ほたる」「めぐみ」へバイクで行っている。

さらに、ディナーショーで上野や浅草などへも。

普通の家庭主婦ではない。

 


現金給付の阿南市

2024年12月15日 13時30分52秒 | 社会・文化・政治・経済

河南市は、証券会社に勧められるまま、長期ものの債権を購入している―と批判されている。

全国1741自治体のうち基金で債権を購入しているの半数の869、基金総額に対する債権の比率は平均21%だが、河南市の60%は高すぎる。

【受付終了】阿南市定額減税補足給付金(調整給付)について

公開日 2024年08月27日

受付は終了しました

 阿南市定額減税補足給付金(調整給付)の提出につきましては、令和6年10月31日(木)をもって受付を既に終了しております。

 なお、確認書等の提出をいただいた方のうち、一定数の方について、不備等により返送をさせていただいております。必ず内容をご確認いただき、必要となる記載内容の追記・修正や不足している書類を添付のうえ、速やかにご返送ください。受付が完了しているか不明な場合は、阿南市税務課調整給付担当(市民税係)までお問い合わせください。

※ご返送いただけない場合、審査を進めることができず、給付金を支給できませんのでご注意ください。

 

概要

 令和6年分の所得税および令和6年度分の個人住民税において定額減税が実施されます。その中で、定額減税しきれないと見込まれる方につきましては定額減税補足給付金(調整給付)を支給することが決定いたしました。
 なお、この給付は令和5年の所得・控除の状況に基づき、給付額が算定されます。令和6年分の所得税額が確定した後、当初の給付額に不足があることが判明した場合は、追加で令和7年度に給付します。

 

対象

 阿南市から令和6年分推計所得税(令和6年度個人住民税より算出)又は令和6年度個人住民税が課税されている方のうち、納税義務者及び配偶者を含めた扶養親族に基づき算定される定額減税可能額(注1)が、令和6年分推計所得税額又は令和6年度分個人住民税所得割額を上回る方が対象です。ただし、納税義務者本人の合計所得金額が1,805万円を超える方は対象外となります。

 対象者には、令和6年8月下旬~9月上旬に通知文書を発送します(令和6年8月26日発送済)。

 

(注1)定額減税可能額
所得税分=3万円×減税対象人数
個人住民税所得割分=1万円×減税対象人数


【減税対象人数】
「納税義務者本人+控除対象配偶者(注2・注3)+扶養親族(16歳未満扶養親族含む)(注2)」
(注2)控除対象配偶者、扶養親族は国外居住者を除く。
(注3)控除対象配偶者を除く同一生計配偶者(国外居住者を除く)については、令和6年度個人住民税所得割の定額減税の算定に用いられないこと等を踏まえ、調整給付の算定時には考慮しない。

 

【通知の対象とならない方】

以下の条件の方は通知の対象となりません。

・合計所得金額が1,805万円を超える方

・令和6年分推計所得税及び令和6年度個人住民税所得割の両方が非課税の方

・令和6年分推計所得税及び令和6年度個人住民税所得割の両方において定額減税可能額が全額減税されている方(控除不足額が発生していない方)

  

  本給付金は国の算定ツールにより推計所得税額を算出するため、推計に用いる令和5年中の所得税額と差が発生する可能性があります。

  このことについて、令和6年中の所得税額が確定した後、調整給付額に差が発生する場合は令和7年度に不足額給付として対応させていただく予定です。なお、令和5年中の所得税の課税状況で調整給付金が発生することが明らかである場合は、確認できる書類(確定申告書、源泉徴収票など)をご持参のうえ、阿南市税務課へお問い合わせください。

 

調整給付額

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  (例)納税義務者本人が妻と子ども2人を扶養している場合

     納税義務者本人の令和6年分推計所得税額(減税前)は7万3千円、令和6年度分個人住民税額(減税前)2万5千円
     所得税分定額減税可能額:3万円×(本人+扶養親族数3人)=12万円
     個人住民税分定額減税可能額:1万円×(本人+扶養親族数3人)=4万円

 

    (1)所得税分控除不足額
       所得税分定額減税可能額:12万円-令和6年分推計所得税額(減税前):7万3千円=4万7千円

 

    (2)個人住民税分控除不足額
       個人住民税分定額減税可能額:4万円-令和6年度分個人住民税額(減税前)2万5千円=1万5千円

 

    この例の場合の調整給付額
    (1)所得税分控除不足額:4万7千円+(2)個人住民税分控除不足額:1万5千円=6万2千円

    支給額は7万円(1万円単位で切り上げ)となります。

 

支給方法

 (1)市から確認書等を送付します。

 令和6年8月下旬から9月上旬にかけて、調整給付金の支給対象と見込まれる方に確認書等を水色の封筒(長形3号)で送付します(令和6年8月26日発送済)。

 

 (2)確認書に必要事項を記入のうえ、返送してください

 届いた確認書に必要事項をご記入いただき、本人確認書類のコピーのほか、新たに受取口座を指定される場合は口座番号が分かる書類等のコピーを添付し、同封の返信用封筒にてご返送ください。なお、確認書等の提出期限は令和6年10月31日(木)(消印有効)ですので、ご注意ください。

※本給付金の算定に係る所得税分については、令和5年中の所得・控除の状況に基づき算出された令和6年分推計所得税額を用いるため、実際の令和5年中所得税額と差異がある場合は、差異があることを確認できる書類(確定申告書、源泉徴収票など)を添付して提出してください。

 

 (3)指定の口座に給付金を振り込みます

 返送していただいた確認書および添付書類に不備がなければ、確認書等を市が受理してから1ヶ月程度で指定の口座に給付金を振込みます。なお、振込通知はお送りしませんので、通帳記帳によりご確認ください。

 

給付金に対する課税や差押えについて

 本給付金は、所得税等の課税及び差押えの対象となりません。

 【関係する法律はこちら】

 物価高騰対策給付金に係る差押禁止等に関する法律

 物価高騰対策給付金に係る差押禁止等に関する法律施行規則

 


増える能登の関連死

2024年12月15日 13時27分32秒 | 社会・文化・政治・経済

能登半島地震の災害関連死は235人に 熊本地震の222人超える

石川県内の3つの自治体は能登半島地震のあとに亡くなった15人について、新たに「災害関連死」と認定したと発表しました。これによって能登半島地震の災害関連死は235人となり、2016年に発生した熊本地震の222人を超えました。

能登半島地震の災害関連死と新たに認定されたのは輪島市が6人。能登町が5人。穴水町が4人のあわせて15人です。

いずれも今月13日に開かれた専門家による12回目の審査会で災害関連死と認定するよう答申が出され、それぞれの市と町が22日までに認定しました。

これによって、能登半島地震の災害関連死は新潟県と富山県で亡くなった6人を含めて235人となり、2016年に発生した熊本地震の222人を超えました。

2011年に発生した東日本大震災の後の災害での関連死の人数としては、最も多くなったとみられます。

能登半島地震の死者の数はあわせて462人となり「災害関連死」が「直接死」の227人を上回る状況になっています。

石川県内の自治体にはさらに200人ほどの遺族から申請が出されていて、審査が進むと能登半島地震の死者は今後も増える可能性があります。

災害関連死とは

 

災害関連死は、時間がたってから体調を崩すなど災害が原因で死亡したケースをさします。

災害関連死かどうかは申請を受けてから審査を経て災害と死因に相当な関連があるとされた場合に認定されます。

自治体ごとに判断され、全国一律の基準はありません。

災害関連死に認定されると「災害弔慰金」が遺族に支給され、支給額は、生計を維持する人が亡くなった場合は500万円。そのほかの人が亡くなった場合は250万円です。

災害関連死が初めて公的に認定されたのは1995年の阪神・淡路大震災とされ、900人以上にのぼりました。

その後も関連死はあとをたたず、2011年の東日本大震災では3800人を超える人が認定されたほか、2016年の熊本地震では222人にのぼりました。

また、2018年の西日本豪雨や2019年の東日本台風など、地震や津波以外の災害でも多くの人が災害関連死に認定されています。

災害関連死で母親亡くした遺族「対策徹底を」

能登半島地震の災害関連死で家族を亡くした遺族は、災害関連死を防ぐ対策を徹底してほしいと訴えています。

輪島市の森田としみさん(55)は、能登半島地震の発生から3日がたったことし1月4日、市内の特別養護老人ホームに入所していた母親の高山君子さん(83)を肺炎で亡くしました。

母親は7年ほど前に発症した脳出血の後遺症で体にまひが残り寝たきりの生活でしたが、会話もできる状況で元気だったといいます。

しかし1月1日の地震の影響で施設では電気や水道を使うことができなくなり、母親は体調が悪化して死亡しました。

森田さんも地震で自宅が全壊し車中泊をしていたところ、母親の容体が悪いと連絡を受け施設に車で向かいました。

渋滞がひどく途中から歩くなどしておよそ4時間かけて施設にたどりつきましたが、到着の20分ほど前に母親は亡くなっていたといいます。

君子さんの死について輪島市は、災害との間に相当程度の関連が認められるとしてことし6月、災害関連死と認定しました。

早く支援があれば…

森田さんによりますと母親が亡くなった当時、施設では断水や停電が続いていて、数人の高齢者が入っていた1つの部屋に石油ストーブは一つという状況だったということです。

施設は発災直後の厳しい状況の中で毛布を重ねてあたたかくしたりおむつの交換をして清潔を保ってくれたりするなど、できるかぎりの対応をしてくれたと感じています。

しかし、母親が亡くなったあと、施設に入所していた高齢者は行政の支援を受けて医療機関や別の施設に移す対応がとられたということで、もっと早く支援が届いていれば死は防ぐことができたのではないかと思っています。

森田さんは「今後の災害に備えて高齢者が避難できる態勢を整備するなど対策を徹底し、助けることができる命を守ってほしいです」と話していました。

認定申請も遺族の負担に

災害関連死の認定に至る手続きも遺族の負担になっています。

森田さんは当初、災害関連死の認定に遺族の申請が必要であることを知らず報道を通じて把握したということで、遺族の中には災害関連死の制度を知らずに申請がされていないケースがあるのではないかと考えています。

また、大切な家族の命を失った遺族にとって申請を行うことは簡単ではありませんでした。

森田さんはことし1月、自分が避難生活を送っていた輪島市にある中学校の校舎で、申請に必要な「経緯書」と呼ばれる書類に母親が亡くなった経緯などをまとめました。

しかし、母親の命を守ることができなかったと自分を責める気持ちも強く、精神的にも負担が大きかったと話します。

森田さんは「母親はつらかったんだろうな、息が苦しかったんだろうなと思い起こすことは遺族として苦しいですが、地震によって命が奪われたと認めてほしいという思いで災害関連死の申請をしました。災害関連死で亡くなるのは母だけで終わりにしてほしい」と話していました。

専門家「状況に合わせた支援や対策を」

専門家は、災害関連死を防ぐために行政などが被災者の状況に合わせた支援や対策に取り組むことが重要だと指摘します。

災害関連死が増えていることについて、東日本大震災では関連死の審査会の委員も務めた在間文康弁護士は次のように指摘しています。

「避難生活が非常に長期にわたるなど被災者の生活環境の変化が大きく、通常の生活を取り戻すまでに長い時間がかかっている。東日本大震災も似たような状況ではあったが、それに匹敵するような状況に置かれている」

行政だけでなく専門家やNPOなども連携を

石川県によりますと県内に設置されている1次避難所と2次避難所では、22日午後2時の時点で能登半島地震の被災者あわせて107人が避難生活を続けています。

在間弁護士は本格的な冬を前に避難所での寒さへの対策など、災害関連死を防ぐ対策を改めて徹底する必要があるとしています。

そのうえで「災害関連死を防ぐ観点では人に着目した支援が必要で、お金や生活、家族、仕事の問題などがいろいろ組み合わさり、人によって状況が違ってくる。行政だけでなく専門家やNPOなどが有機的に連携し、人にあった支援をしていくことが非常に効果のある方向性なのではないか」と話しています。

遺族の負担を減らすには

また、災害関連死の認定に至るまでの遺族の負担について在間弁護士は「災害のあとに家族を亡くされた遺族は自責と後悔の思いがあり、資料を集めたり経緯書を作成したりするなど災害関連死の申請そのものに相当なハードルがある」と指摘しています。

そのうえで「災害関連死を防ぐためには今後どういうことをすればいいのか。災害関連死の認定は社会にとっても非常に大きな教訓を示してもらうことになる。申請書をもっとシンプルに『申請するだけ』という形にして、それを受け付けたうえで行政側が事実や経緯の調査を寄り添いながら一緒に行うやり方も考えられる」と話していました。

林官房長官「被害の甚大さを痛感」

林官房長官は臨時閣議のあとの記者会見で「改めて今回の災害の被害の甚大さを痛感している。頻発化や激甚化する災害に対し事前防災を徹底して人命最優先の防災立国を構築するため、『防災庁』の設置に向けた準備や避難所環境の抜本的改善などの取り組みを着実に進めていきたい」と述べました。


風船爆弾動員された女学生

2024年12月15日 13時16分49秒 | その気になる言葉
風船爆弾は、日本陸軍の登戸研究所が開発しました。
 
対人細菌兵器や牛疫ウイルスの搭載も検討していた。
風船爆弾は、太平洋戦争末期に戦況が悪化した中で、アメリカ本土を直接攻撃するために開発された兵器です。和紙とこんにゃく糊で直径約10メートルの気球を作り、そこに爆弾や焼夷弾を吊るして偏西風に乗せて飛ばしました。
 
風船爆弾は「ふ号兵器」とも呼ばれ、1944年に実用化されました。3か所の基地から放たれた約9,300個のうち、約1,000個がアメリカに到達したとされています。オレゴン州では民間人6人が死亡しました。
 
風船爆弾の製造には、多くの女学生が動員されました。女学生たちは、冬場に手をタラコのように膨らしながら、和紙をコンニャクのりで貼り合わせては乾かす作業にあたりました。体調を崩す生徒が続出したと言われています。
 
  • 風船爆弾をつくった「女の子」たち 加害への加担を繰り返さぬために
    2024/08/07 — 風船爆弾。 旧日本軍が開発した秘密兵器。 太平洋側から空に放たれ、偏西風に乗って米国本土に到達、犠牲...
     
     
  • H26-17 風船爆弾工場跡 - 越生町
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風船爆弾

2024年12月15日 13時13分17秒 | 社会・文化・政治・経済

風船爆弾 北茨城にあった基地について旧厚生省が調査した資料

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太平洋戦争末期に旧日本軍が開発した「風船爆弾」の攻撃拠点となったいまの茨城県北茨城市にあった基地について、旧厚生省が調査した資料が残されていたことがわかりました。
基地の詳細な設置計画などのほか、戦後、基地があった土地の原状回復を求めて地元の住民らが国に陳情を行っていた経緯などが明らかになりました。

「風船爆弾」は戦況が悪化する中、旧日本軍がアメリカ本土を直接攻撃しようと開発した兵器で、3か所の基地から放たれたおよそ9000個のうち300個ほどがアメリカに到達し民間人が犠牲になったとされています。
作戦に関連する資料は終戦時に処分が命じられたため、詳細な記録は残されていないとされていましたが、明治学院大学国際平和研究所の松野誠也研究員が国立公文書館に保管されていた文書を調査したところ、茨城県のいまの北茨城市にあった大津基地について旧厚生省が調査した資料が見つかりました。
資料は基地があった土地がどのように使用されてきたかをまとめたもので、このうち基地の設置や撤収に関する資料には、1944年8月におよそ70人の土地所有者からおよそ27万坪の土地を借り上げた記録や風船を放つ20か所以上の「放球陣地」などが記された配置計画図の写しが含まれています。
また、戦後になって返還された土地をめぐり、終戦から10年がたっても基地の工作物などが放置され農地として利用できないとして、土地の所有者のほかに地元の市長も加わって国に原状回復するよう求めて提出した陳情書が残されていました。
さらに、「諸般の関係から不可能」という陳情書に対する旧厚生省の回答書も残されています。
松野研究員は「何度も陳情を行っても原状回復がされず、なんとかしてほしいと切実な思いが強まって市も動いて陳情したと考えられる。戦時中だけでなく戦後にかけても戦争に翻弄された地域の実情を示した資料ではないか」と話していました。

新たに見つかった「風船爆弾」に関する資料について日本の近現代史を研究している筑波大学の伊藤純郎名誉教授は「これまでは伝聞をもとに、基地の記憶が語られてきたが、今回の資料は基地内のどこにどういう施設があるのかなど詳細が書かれているので非常に大きな発見だ。作戦の実態についてもう1回吟味する必要がある」と指摘しました。
また、戦後になって地元住民から土地の原状回復を求める陳情が出されていたことについては、「風船爆弾をアメリカに飛ばしたという意味では加害の歴史だが、地元の住民からすれば被害の歴史でもある。戦争遺構は複雑な側面を持っていて、単純に被害と加害ではなく、地元、アメリカ、国とそれぞれの立場から複眼的に見ていくことが大事なのではないか」と指摘しました。

今回見つかった資料では、1944年に陸軍が風船爆弾の攻撃拠点として基地を設置するために、当時の茨城県大津町のおよそ70人の土地所有者から田畑や山林などを借り上げたことが記録されています。
終戦後に土地は所有者に返還されましたが、それから10年あまりたった1957年に部隊が残した工作物が放置され農地として利用できないとして、基地があった土地の所有者や北茨城市長が土地の原状回復や費用負担などを国に求める陳情を出していました。
陳情の中では、返還された土地について「無慙にも荒廃と化して見る影もなく」などと記され、所有者らが国などに対して繰り返し土地の原状回復を求めたものの状況が改善されなかった経緯が記されています。
一方、陳情に対する旧厚生省の回答には、土地に現存する構築物などの撤去作業を行うことや、撤去にかかる費用を補助することは「諸般の事情から不可能」などと記されています。
基地の歴史を伝承する活動を行っている穂積建三さんは、「突然、基地として広大な土地が借り上げられ、戦後になったら全く責任を取らないで自分たちでやってくれと言われたというのは、当時の人たちからすれば非常に情けなかったと思う。当時の人たちからは自分たちで土地を掘り起こして耕地として使えるように苦労したと聞いてきたので、こうした歴史を伝えていってほしい」と話していました。


小説「土」

2024年12月15日 12時54分22秒 | 社会・文化・政治・経済

長塚 節 (著)

「娘に読ませたい」と漱石に言わしめた!
明治の農民生活のリアルさが人間の本質を訴える普遍的名作。


茨城県地方の貧農勘次一家を中心に小作農の貧しさとそれに由来する貪欲、狡猾、利己心など、また彼らをとりかこむ自然の風物、年中行事などを驚くべきリアルな筆致で克明に描いた農民文学の記念碑的名作である。
漱石をして「余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと言い募る時分になったら、余は是非この『土』を読ましたいと思っている」と言わしめた。

夏目漱石「『土』について」(本書巻末)
余はとくに歓楽に憧憬する若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、この『土』を読む勇気を鼓舞する事を希望するのである。余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募る時分になったら、余は是非この『土』を読ましたいと思っている。娘はきっと厭だというに違いない。より多くの興味を感ずる恋愛小説と取り換えてくれというに違いない。けれども余はその時娘に向って、面白いから読めというのではない。苦しいから読めというのだと告げたいと思っている。
参考の為だから、世間を知る為だから、知って己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる為だから我慢して読めと忠告したいと思っている。

長塚節(1879-1915)
1879(明治12年)、茨城県生れ。 正岡子規に師事。子規没後は同門の伊藤左千夫等と「馬酔木」を創刊、その教えを発展させるべく努力した。一方で写生文、小説も数多く発表し、長編小説『土』は夏目漱石の推薦で「東京朝日新聞」に連載された。
農民文学の代表作といわれるこの作品の完成後、結核を病んだこともあって作歌の世界にもどり、晩年の優れた作品を残した。
 
小作人の勘次一家の貧しい生活や自然、四季、人、風俗などを写実的に描く、農民文学の先駆け的な作品だ。
長塚は新聞連載の5年後に早世する。
 
常総は、茨城県の南西部に位置し、中央を鬼怒川、東側を小貝川が北から南に流れる。水に恵まれ、肥沃な土壌を生かしたた水田が広がる穀倉地帯だ。
連載が始まった間のない8月、鬼怒川と小貝川が氾濫した。

お客様のご意見

お客様はこの小説について、以下のように評価しています: 文章表現が丁寧に表現され、物語に奥行きと厚みを与えていると高く評価されています。卓越した情景描写や自然描写の凄さも高く評価されており、自然描写の美しさを称賛しています。

また、描写力も優れており、細やかな観察と精密な描写力がわが国の文学史上屈指のものだと感じています。一方で、読みやすさについては意見が分かれています。所どころ輪郭がぼやけ、口の中が砂でじゃりじゃりする場面があるという指摘もあります。茨城弁のわかりにくさも読者をめげさせます。

 

読み終えるのに大変な時間が掛ってしまった。原因の一つにきつい方言があげられる。
おそらく、現在、小説の舞台となった地域に長年住んでいる方でも、会話文の方言を100%は理解できないだろう。ましてや、この地域と縁もゆかりもない現代の読者にとっては、ほとんど意味不明である。
もう一つの原因が、今の我々は商業主義に基づいた小説を読むことが多い。基本的に作者は多くの読者に読んでもらうことを前提に小説を書いている。しかし、この小説は誰かに向けて書かれているとは到底思えない。作者のこの土地に対する執着心のみ、あるいは都会の人間に対する嫌悪に基づいて書かれているような気がする。
また、作中、盲目(めくら)や不具(かたわ)と言った差別用語が出てくる。もし、今の時代に新刊で出そうとすれば、発行禁止になるだろう。初版が昭和25年6月10日とあるので、この辺は時代を感じさせる。
細かい点を指摘するようで恐縮だが、気になる表現がある。それは、かなり頻回に小説の中で出てくる表現なのだが、例えば冒頭の僅か5頁に限っても、10個も出てくる。(擬態語と呼ばれる種類のものだろう)
以下の表現である。
”ひゅうひゅうと”、”ぞくぞくと”、”ぴりぴりと”、”ざわざわと”、”そろそろと”、”ぽたぽたと”、”がりがりと”、”そくそくと”、”ちょろちょろと”、”ひらひらと”。どちらかと言えば、これらの表現は子供向けの絵本などでお目に掛ることが多い。
これらは、現代小説では滅多に出てこない。出てきたとしてもほんの数回であるが、この小説では冒頭の5頁以降も頻回に出てくる。どうしても、他の言葉で置き換えられないなら仕方ないが、たぶん、別の表現でも問題ないだろう。これだけ多く出てくると、読んでいて「ああ、またか」となってしまう。
おそらく、作者は小説よりは短歌の方が上手なのだろうから、まあ、我慢して読み進めるしかないだろう。あるいは、こんな細かい点など気にならないで読める人が大半なのかも知れないが。

 

 

 


茨城県 常総と水害

2024年12月15日 12時42分35秒 | 社会・文化・政治・経済
常総水害の原因は、2015年9月10日から11日に発生した「平成27年9月関東・東北豪雨」による鬼怒川の氾濫です。主な原因は次のとおりです。
  • 台風第18号から変化した低気圧に太平洋からの温かく湿った空気が流れ込み、「線状降水帯」が発生した
  • 鬼怒川流域では24時間平均雨量が410ミリに達し、国土交通省が100年に1度の確率で起きると想定していた平均雨量326ミリを大きく上回った
  • 鬼怒川の堤防が10日午前7時から翌11日の午前2時まで19時間にわたって危険度のレベル4「氾濫危険水位」を超過した
  • 堤防が耐えられる限界値である「計画高水位」をも上回った
  • 溢れた水が堤防を削る「越水破堤」によって小規模な堤防の崩壊が連続し、決壊していった
     
この水害により、常総市では市の面積の約3分の1(約40km²)が浸水し、2人が死亡、44人がけがをしました。また、家屋53棟が全壊、1591棟が大規模半壊しました。
 
鬼怒川の堤防はなぜ決壊したのか

創作 愛されたい願望 10)

2024年12月15日 11時31分42秒 | 創作欄

徹と幸恵の新婚生活は、東京北区王子本町の6畳と4畳半のアパートで始まった。

炊事に立つ幸恵は、歌を口ずさむ。

声が綺麗なことを徹は改めて知る。

「愛の賛歌」を歌う。

「心溶かす恋よ」が「心と書く恋よ」に聞こえた。

幸恵がお気に入りの音無親水公園での散歩の時も、「愛の賛歌」と歌うのだ。

「私、恋の経験がなかったけれど、段々と徹さんが好きになってきたの」と幸恵は徹の腕を抱え込む。

徹は、複雑な気持ちとなる。

実は、国会記者クラブの事務局の峯田さくらが「聞いたわ、結婚したのね。とても残念な気持ちよ」と心を吐露するのだ。

また、上野公園での社内の仲間たちによる花見の夜であった同僚の多田純子が「あなたを慕っていたの。とても、好きだったの」と酔いにまかせて打ち明けた。

彼女は涙目になっていた。

彼女は医師の娘で、千葉大学を出ていて、私大出の徹は彼女に対して心がひけていた。

「早く、言ってくれたらよかったのに」徹はその言葉を彼女に言わず、飲み込むのだ。

これも、灯台下暗しであった。

 

音無親水公園

石神井川の旧流路に整備された公園です。流路に枝垂れるもみじやさくら、水車、公園を横切るアーチの橋などが見所です。日本の都市公園100選にも選ばれています。

 
 
 

義経記』によれば源頼朝隅田川を渡河して王子板橋に至ると書かれている

江戸時代になると王子村の中心には日光御成街道(岩槻街道)が通って江戸の市街と直結され、18世紀には八代将軍徳川吉宗によって飛鳥山が植えられたことをきっかけに、江戸市民が頻繁に足を運ぶようになった。

飛鳥山の花見人気とともに、王子村の岸にある王子稲荷神社がもともと東国33ヶ国(東海道の15国、東山道の11国、北陸道の7国)の稲荷社の頭領を自認していたこともあってか参拝客が増え、料理屋や茶屋が立ち並んで、江戸郊外の手軽な行楽地として人気を集めた。狐火の伝承をもとに毎年大晦日には狐の行列が催される。

 

落語「王子の狐」などで知られる茶屋「扇屋」。

音無川(石神井用水)を挟んで庭園を持っていた。

王子は、東京都北区中央部に位置する。西で京浜東北線、中央を南北に国道122号(北本通り)がそれぞれ縦貫している。

京浜東北線・東京メトロ南北線王子駅から北本通り沿いは王子随一の繁華街である

北側で神谷隅田川を跨いで足立区新田・東で豊島・東南で堀船・南で西ケ原・西南で滝野川・西で岸町、北西で東十条と接する。

また、西の音無橋付近で僅かに王子本町と接している。

昭和40年代までは旧王子製紙(過度経済力集中排除法による会社分割前の王子製紙であり現在の同名企業とは異なる)の工場や社宅が多く立ち並んでいた。その後相次いで閉鎖され、商業施設サンスクエアや王子五丁目団地などが建設された。


創作 愛されたい願望 9

2024年12月15日 00時47分36秒 | 創作欄

徹は、恋愛経験がほとんど実ることなく、25歳で結婚に至るとは、実に皮肉というか、これが人生の帰結と思うばかりだった。

故郷の母からの徹の住む東京・北区のアパートへの電話は、見合いの要請だった。

「徹、社会に出ては、まず結婚して身をかためけなさい、いいわね」

徹は母親に幼児から威圧的に育てられてきた。

故郷の村の娘が見合い相手だったのだ。

見合いの場は、相手が住む江戸時代から続く古民家であった。

徹にとって、これまで思いを寄せた人は、皆さんが美形であったが、見合いの相手は徹の期待を裏切る人であった。

だが、相手の印象は愛想が良く心が優しい人であった。

その人は美形の母親には似ずに、如何にも田舎育ちで素朴な父親に似ていのだ。

「私の女学校時代の親友の娘さん、いい子よ」母親は見合いの動機を告げ、「とてもいい性格の娘さんなの」と徹に後押して勧めた。

 

 

 

 


利根輪太郎の競輪人間学 「たられば」の境界線

2024年12月15日 00時26分39秒 | 未来予測研究会の掲示板
利根輪太郎は、あくまでも出目作戦であるのだが、この日も貫くことが出来なかったのだ。
 
もしも、取手競輪場に、午前10時に行っていたら・・・

    前のレースは、次のレースの出目に連関する―それが輪太郎の出目作戦の核心なのだが・・・




    選手名 着差 上り 決ま
    り手
    S

    B
    勝敗因
    1 7 筒井 裕哉   12.1   小笠原乗交
    2 1 小笠原 光 1車身 12.4 B 鐘4カマシ
    3 2 竹澤 浩司 1車身1/2 11.6     叩れ急追し
      4 5 宮越 孝治 1/8車輪 11.5   S 竹澤マーク
    5 9 中田 健太 1/2車身 11.3     久樹共倒れ
      6 6 矢島 一弥 1車身 11.2     不発ライン
    7 4 久樹 克門 1/8車輪 11.5     内突詰下げ
      8 8 松山 桂輔 大差 12.1     外併走離れ
    × 3 青井 賢治         接触し転倒
     
    2

    1=5
    2,150円(11)
    2

    1=7
    1,580円(9)
    3

    1=2=7
    5,650円(27)


    1=2
    760円(11)
    1=7
    580円(7)
    2=7
    1,200円(18)
    5-1
    4,010円(20)
    7-1
    2,970円(14)
    7-1-2
    31,450円(135)

    戦い終わって写真

     前受けは竹澤浩司ー宮越孝治ー松山桂輔の中部勢が取って、その後ろを久樹克門と青井賢治で取り合いになり、青井が落車するアクシデント。打鐘で久樹が内から竹澤の番手まで行って粘る形になり、もつれたところを単騎の小笠原光がカマした。同じく単騎の筒井裕哉が追う形となり、最後は筒井が逆転。
     筒井は「小笠原君が行きそうな雰囲気を出していたし、何だか意思疎通ができましたね(笑い)。何もかも展開に恵まれました。前回玉野を走ったときよりも格段によくなっている。練習量が足りていないのもあったけど、セッティングに迷っていたのもあった。それがここに来てやっとまとまってきた感じですね。明日も着をまとめられるように」。
     逃げ粘った小笠原が2着。「連日、自力っていう自力を出せていなかった。今回一緒の(新山)響平さんに思い切って行った方がいい。緩んだら行った方がいいよと言ってもらったんです。周回中に前がゴチャついていて怖かったので、車間を空けて様子を見ていました。打鐘で久樹君が内に行ったので、モガき合うのかなと思ったけど、どんどん緩んだ。ここしかないと思ったし、ここからなら持つかなと思って行った。練習はできていたけど、レースが久々っていうのもあってキツかった。それでも少しずつよくなっていると思う」。




    選手名 着差 上り 決ま
    り手
    S

    B
    勝敗因
      1 7 萱島 大介   12.5   落避更に鋭
    × 2 2 荻原 尚人 1/8車輪 12.7   小原再追交
      3 8 山口 智弘 1車輪 12.5     落避け続き
    4 4 小原 唯志 1/2車身 12.9   B 叩き鐘前逃
      5 6 門田 凌 1/2車身 12.4     叩れ掬われ
    1 戸田 洋平       S 竹内続追突
    3 伊代野 貴照         赤板過追突
    5 八谷 誠賢         赤板過追突
    9 竹内 翼         赤板過接触

     

    2

    2=5
    3,870円(13)
    2

    2=7
    7,170円(17)
    3

    2=7=8
    27,820円(54)


    2=7
    2,250円(26)
    2=8
    1,660円(21)
    7=8
    2,800円(28)
    5-2
    11,200円(29)
    7-2
    23,310円(45)
    7-2-8
    332,570円(350)

     

    戦い終わって写真

     赤板過ぎに竹内翼が落車し、戸田洋平、八谷誠賢、伊代野貴照が巻き込まれて、5人でのレースに。先頭を走っていた小原唯志に荻原尚人が付き直し、ゴール前で荻原が小原を交わすも、最後は3番手から直線で伸びて来た萱島大介が1着。
     1着の萱島は「落車があって乗り上げるかと思ったけど、避けられて良かった。その後4番手になって、内が空いたので3番手に行けた。最後2センター手前くらいから踏み込んだ感じですね。S級での1着は大分久しぶりですね」。
     2着の荻原は「落車の後、後ろを見て何人いるか確認していた。連結が外れて3番手になったので、内が空かなかったら外からと思ったけど、空いたので内から行って付き直せた。小原を残したかったけど、余裕もなくて普通に早めに踏んでいた。現状はこんなもんですね」。

     

    「たられば論」とは、事実とは無関係な仮定の話や、事実とは異なることを仮定してする後悔を指す言葉です。
    「たられば」は、次のような意味があります。

    「もし… してたらとか、もし… してれば」などの意味

    過去の選択を後悔して嘆く態度や、現実にはありもしないことばかり言う態度してもしかたがない話という意味で使われることが多い
     
    「たられば」の反対語は「だから」です。

    背中に熱湯、自宅襲い暴行

    2024年12月15日 00時14分03秒 | 事件・事故

    …長期の陰湿いじめで「支配」 板橋の踏切自殺強要事件

    気温5度で防寒着なく

    「これはおかしい」

    高野さんが列車にはねられて死亡したのは昨年12月3日午前0時10分ごろ。捜査員が見た高野さんの格好は異様だった。気温5度ほどの寒空の下で、防寒着もまとわずサンダル履き。財布や携帯電話も持っておらず、身元の特定は難航した。

    高野さんは立ったまま列車にはねられており、寝込みによる事故とは考えられなかった。周辺の防犯カメラには、高野さんが2台の車に送られて線路に立ち入り、はねられた後に車が立ち去る様子が映し出されていた。

    警視庁は事件翌日には、現場周辺の防犯カメラ画像などから、高野さんが勤務していた「エムエー建装」社員の島畑明仁容疑者(34)、野崎俊太容疑者(39)が高野さんを現場まで車で送ったとみて事情を聴取。ほどなく、捜査1課が捜査に入った。

    熱湯かけ暴行

    高野さんは平成26年ごろから同社で働き始めて以降、長期間にわたり暴力を伴ういじめを受けていた。証拠として残る最も古い暴行の痕跡は令和2年ごろのもの。そのころ撮影されたとみられる画像には、熱湯をかけられたとみられる広範囲のやけどを背中に負った高野さんが写っていた。

    高野さんがSOSを発した形跡もある。昨年8月中旬、高野さんの携帯電話から「監禁されている」と110番通報があった。ただ、電話の電源はすぐ落とされ、通信指令本部が繰り返し電話をかけてもなかなかつながらなかったという。ようやくつながった電話に高野さんは「ふざけて大きな通報をしてしまった」と返答。電話はその後、つながらなくなった。

    立証にハードル

    通報の約4カ月後、高野さんは死亡した。高野さんと島畑、野崎両容疑者は現場の踏切に向かう途中、板橋区と埼玉県戸田市を結ぶ笹目橋に立ち寄っていたことも確認されている。

    捜査関係者によると、高野さんは泳げず、水が嫌いだったという。脅すつもりで立ち寄った可能性がある。野崎容疑者のスマートフォンには、笹目橋から踏切へ向かう中で録音されたとみられる「(高野さんが)川じゃいやだから電車がいいと言っている」という内容の音声も残っていた。

    捜査1課は野崎容疑者の音声をはじめ、島畑容疑者が死亡直後に高野さんの部屋を片づけて証拠隠滅を図った疑いなどを重視し、取り調べでも追及する。(内田優作、前島沙紀、梶原龍)