映画 修道女

2023年02月23日 09時42分44秒 | 社会・文化・政治・経済

2月23日午前3時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。

修道院の腐敗を告発したディドロの原作を、数年にわたる紆余曲折の末にリベットが実現させた渾身の問題作。

アンナ・カリーナが見事な主演を見せ、教会からの反対運動を受けながらカンヌ映画祭でパルムドールにノミネートされた。没落貴族の娘シュザンヌは意に反して修道院に送られた。行く先々で出会う聖職者たちの腐敗を目にし、迫害の日々の中で自由への抵抗を続けるのだが……。

1966年製作/131分/フランス
原題:La religieuse

18世紀のフランスを舞台に、さまざまな不幸、困難に見舞われる修道女のストーリーです。
ドニ・ディドロの1760年発表の小説を元にしたジャック・リベットによるこの作品は、当時”カトリックに冒涜的”として公開禁止となりました。

宗教批判としてだけではなく社会批判、ジェンダー問題として、今見直しても興味深い1本です。

修道女は美女ばかり。

「尼寺へ行け」・・・貧乏貴族の娘は嫁に行く持参金がなければ尼寺(女子修道院)へ放り込まれるしか生きる道がなかったようだ。

親や夫の後ろ盾がないと神と結婚するしかない。

日本では江戸時代あたり大名が亡くなればその妻はまさに未亡人、仏門に入るしかない。

いや、高貴な出自の若い女性も結婚相手がなければ出家しかない。

徳川家へ降嫁の和宮だって、降嫁を受け容れなければ”尼寺へ行け”というので逃げ道がなくなったというのが事実だ。

ことほど左様に、女性にも人権があると認識されたのは、長い歴史でみると、つい近年のように思う。

女性にも自我があり、その自我に従って生きる自由があるはずだ、というのがこの映画である。

ヌーヴェルヴァーグのジャック・リヴェット監督が単なるコスチューム映画を撮っているわけではないの。

およそ想像できる、映画製作時1966年の価値観で制作された18世紀の修道女のお話という感じです。

娘を結婚させる持参金がないこともさることながら、母の密通の結果の娘であるシュザンヌは父はもちろんのこと母からも疎まれていた。

家の醜聞であり世間から隠しておきたい、修道院へ入れられた理由はそれだけれど大きなもう一つの理由は彼女が美貌であったということのようだ。

その美貌と自我の強さで運命に翻弄される、それゆえ人に愛され、また憎まれる。

映画冒頭で語られるように、無理に道を切り開こうとすれば、社会からの転落、苦界へ身を沈めるか、それとも自ら命を絶つか、生きながら死ぬか、それとも自我に従うか、そういう当時としては今日的テーマの映画であると思います。

今となっては、そういう意味での新しさ感じられません。

映画製作当時は、修道院長の人格の描き方とか、蔓延する同性愛とか、物議をかもしだし問題作品となったようです。

もとは、ドゥニ・ディドロの原作を舞台劇にしたものを映画として脚色したようで、戯曲の味わいが映画からも感じられます。

二つの教会、そしてフランスの田舎の風景、そこに修道女のグレーの聖衣、そして冒頭と終盤のパニエの入ったパステルカラーのシュザンヌの衣装、映像がとても美しい。

主演はヌーヴェルヴァーグのミューズ、アンナ・カリーナ、当時26歳、『気狂いピエロ』の翌年制作、美しい、それに鬼気迫る熱演です。

ジャック・リヴェット監督というと、とにかく長尺、『美しき諍い女』は途中リタイア、という残念な思いが残ります。 本作は、リヴェット監督長編二作目ということで130分あまり、ストーリーも起伏に富んでヌーヴェルヴァーグの映画としてはわかりやすく、文学的味わいの濃厚な映画になっています。

 

・アンナ・カリーナ(シュザンヌ)
修道女

・ミシュリーヌ・プレール(モニ)
修道院長

・フランシーヌ・ベルジェ(サン・クリスティーヌ)
後任の修道院長

・リゼロッテ・プルファー(ド・シェル) 
転院先の院長

・フランシスコ・ラバル(モレル神父)

 
 
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修道女 ジャック・リヴェット監督(1966フランス)

映画『修道女』の見どころと感想

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18世紀のパリ。貧乏貴族の三女シュザンヌは半ば売られるように修道院に送られます。
が、請願の儀式の途中で拒否するシュザンヌ。

家に戻ったものの3ヶ月の監禁下に置かれます。

そして母親に「不義の子」であると知らされ、あきらめて修道院に入ることに。

再び請願の儀式。が、なぜか儀式中の記憶が抜け落ちているシュザンヌ。それでも修道院長のモニのやさしさに救われながら日々をすごします。

しかし、そのモニが死去。
後任の若い院長サン・クリスティーヌは独善的で、モニが禁じていた肉体的苦行を復活させ、とりわけシュザンヌに対し厳しい迫害を加えてきます。

シュザンヌは自分に請願の記憶がないことから修道女であることを取り消す訴訟を起こすことに。
弁護士に手紙を書き準備を進める最中、指導的立場にある神父の計らいでシュザンヌは別の修道院に移籍することになります。

移り住んだ修道院は一転して明るく華やか。院長を取り囲む修道女たち。

しかしー。

なぜ神は弱き者の声をきいてくれないのか

毒親、壮絶ないじめ、セクハラ、といった不幸のオンパレードのこの話。
気の毒ではあるもののシュザンヌ自身「自分が美しいがためにこんな目に……」

転籍先の修道院の内情にピンとこない天然なところもあったりでちょっとめんどくさいところもある。

つい「あなたにも落ち度がー」と思ってしまいそう。

今にも通じるこの問題。何が救いとなるのでしょうか。

あらゆる愛想や妬みが修道院という神に仕える神聖な場に渦巻いている。

むしろ修道院だからこそ起こりうる問題にも見えます。

神はちゃんと見てくれているの? なぜ助けてくれないの? 信仰心の乏しい私はこの手の映画を見て毎度毎度、思います。

公開当初、カトリックに冒涜的と見られたこの映画。

宗教批判としてだけではなく社会そのものへの批判、抵抗として置き換えてみることもできそうです。

シュザンヌの告発によって問題は露呈したものの、お偉いさんの2世だからという理由で罰せられなかったサン・クリスティーヌ院長。窮地を救ってくれるかに見えたモレル神父がまさかのー。

世間はなぜ弱者の声を聞いてくれないのか、見て見ぬふり、助けるふりだけで、なぜ本気で助けてくれないのか、なぜ事実を隠蔽するのか。

シュザンヌのラストの行動は、自身の中途半端な信仰への罰なのか、抵抗なのか。

映画『修道女』 時代を超えた普遍的な問題を問う1本です。

 

アンナ・カリーナの迫真の演技に尽きる!こういう役も演じることが出来るのかと驚きました。一連のゴダール作品や、彼女主演の作品では断トツに好きな『ANNA』などの、コケティッシュでオシャレでキュートなイメージとは真逆の役柄。

院長先生がシュザンヌに「悪魔に取り憑かれている」と決めつけられて、何を主張しても全く理解してもらえず、議論が延々と平行線を辿って受け入れてもらえないあの絶望感は、カール・Th・ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』を思い出しました。

「一人の女のために門が少しでも開けば、大勢の者が殺到し、こじ開けられる」という身勝手極まりない大義名分で、彼女の請願を敗訴に追い込むとは・・。

マヌリ弁護士などのおかげで何とか別の修道院に移ることが出来たものの、今度は院長の同性愛的抑圧の犠牲になっていく・・。

そのあと、さらに二転三転あって衝撃的なラストを迎えるわけですが、シュザンヌが決して失うことがなかった気高い「尊厳」が、重石のように心に残りました。

 

主演の俳優さんめちゃ美しい…と言うのがいちばんの感想。
長尺だけどダレずにみられたな、という感じ、良い映画だった。
面白いかと問われると面白くはないと思ったけど。個人的には。

面白くないなと思う理由が主人公シュザンヌの躁鬱感が全然理解できなくてついていけなかったのが一個めちゃくちゃ大きい。
感情ジェットコースターすぎて今主人公がどんな思いで動いているのか掴みきれずに終わってしまった。これは私の共感力のなさ故かと思う。
主人公が反発するのも縋るのもどう言う心情を持ってしているからなのか、他人に対する好意と反意の入れ替わりも激しくてまぁわからなかった。
最終的に私は「はっ!これが傾国の美女というやつか…!」と自分を納得させることにより落ち着いた。シュザンヌの才能は人を狂わせることなのだと思えば物語の波瀾万丈も納得できた。
最初の院長先生はきっと彼女のそう言う性質を見抜いていて不安を抱いていたのだろうと思う。
最後まで彼女は清廉であったんだなぁと思うと、悲しい。サドの美徳の不幸みたいだ。

ただ全ては理解はできないけど主人公が不憫であることは理解できるので、ハピエンイフストーリーとして初代院長先生に諭され敬虔な修道女へと成長するみたいな作品を希望します。
母に捨てられた主人公が母に縋るように院長先生に心を寄せていたのはすごく理解できたので。作品頭の修道院長先生と主人公だけずっとみていたかったなという個人的願望。

 


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