怒りについて 他二篇 セネカ

2019年11月21日 09時30分00秒 | 野球
 
セネカ  (著), 兼利 琢也 (翻訳)

内容(「BOOK」データベースより)

ネロー帝に仕える宮廷の生と自決の死―帝国の繁栄と矛盾の中で運命の変転を体現したローマの哲学者セネカ(前4頃‐後65)。

絶対権力を念頭に、怒りという破壊的な情念の分析と治療法を逆説的修辞で論じる『怒りについて』。苦難の運命と現実社会の軋轢への覚悟、真の幸福を説く『摂理について』『賢者の恒心について』を併録。新訳。

その断固たる理性の行使によって負の情念を払拭し、恒久的な心の平安を実現せしめんとした、人類史上最も高潔な思想体系の一つである「ストア哲学」を代表する哲学者の一人、セネカ(※1)の随筆集。

約二千年前に著された古典にして、後世のほぼあらゆる啓発書・倫理学書を凌駕する卓越した実用性を誇り、極めて鋭利な洞察と透徹した論理、そしてその横溢する気迫によって、それを読み修めんとする者に美徳の富を増さしめる、まさしく至高の名著である。

本書にはセネカの随筆のうち、『怒りについて』『摂理について』『賢者の恒心について』の三篇(※2)が収録されており、そのどれもが、平易な文体でありながらもセネカ本来の美しい修辞を損なわない名訳によって読む者の心を奮い立たせる。

以下に、それぞれの随筆ごとの概要と抜粋を載せる。

【怒りについて】
≪概要≫
「怒り」という情念がどれほど無価値で危険で有害なものなのかを、様々な角度から実例を交えつつ明快に証明し、その予防法と治療法を具体的かつ明確に記す。
激しい憤怒から些細な苛立ちまで、我々の幸福を阻害する人生最大の障害の一つ、「怒り」を払拭するための最良の処方箋であり、その有益性は計り知れない。

≪抜粋≫
怒りは、気高い高尚なことを何も成し遂げられない。
反対に、よく心の痛みを感じるのは、膿み疲れて不幸な、弱さを自覚する精神の証拠であると私は思う。
ほんのわずか触れただけでも呻き声をあげる、傷が悪化して弱った身体と同じである。
だから、怒りはいちばん女々しくて子供っぽい悪徳なのだ。
『怒りについて(第1巻:20・3)』

誤りに対して怒るべきでないと思いたまえ。
もし誰かが、暗闇の中を覚束ぬ足取りで歩む人に怒るとしたらどうだ。
耳の聞こえない人が命令を聞いていないのならどうだ。
(中略)
一人一人に怒らないため、すべての人を許し、人類に宥恕を与えるべきである。
誤りを犯しているという理由で若者や年配者に怒るのなら、幼児にも怒らねばならない。やがて誤りを犯すのだから。
けれども、いったい誰が、まだ何も見分けられない年頃の子に怒ったりするか。
『怒りについて(第2巻:10・1-2)』

われわれは他人の悪徳に目をとめるが、己の悪徳を背に負っている。
(中略)
たいていの人間は、犯された罪にではなく、罪を犯した者のほうに怒る。
われわれは、みずからを振り返って自分自身に考察を向ければ、ずっと穏健になれるだろう。
『怒りについて(第2巻:28・8)』

怒りの原因となった出来事よりも怒りそのもののほうが、どれほど多くを彼に失わせたことだろう。
『怒りについて(第3巻:5・4)』

【摂理について】
≪概要≫
どれほど善く生きんと努力しても、時に理不尽に、一切の容赦なく襲い来る艱難辛苦。
しかし、その苦難こそ我々を鍛え上げる最良の糧であり、同時に己が実力を証明する最良の試金石となることを雄渾な筆致で説く。
いかなる逆境にも屈せず、雄々しく生き抜かんとする勇気が湧きあがる激励の書。

≪抜粋≫
無為を通して肥育されたものは弛緩しており、労苦はおろか、己の動作と自身の重みで衰弱する。
障害を知らぬ幸福は、どんな打撃にも耐えられない。
だが、絶えず逆境と格闘した者は、受けた不正で厚い皮が育ち、いかなる悪にも屈しない。
『摂理について(2・6)』

君は偉大な男だ。けれども、もし運命が君に武勇を示す機会を提供しないのなら、どこからそれがわかるのか。
君はオリュンピア競技会に出場した。だが、君以外、誰もいない。
君は栄冠を手にしても、勝利はない。私もお祝いは述べるが、勇者としてではない。
(中略)
同じことは善き者についても言える。
もしも困難な状況が彼にみずからの精神の力を示す機会を与えなかったとしたら、「私は断ずる。君は不幸だ。不幸だったことが一度もないからだ。君は敵対者なしに人生を過ごした。君に何ができたか、誰も知らないだろう。いや、君自身、知らないはずだ。」
自分を知るには試験がいる。誰でも、自分が何をできるか、試さないでは分からない。
『摂理について(4・2-3)』

徳の証書は決してやわなものではない。
運命がわれらに鞭をふるい、ずたずたに裂く。
受けようではないか。残酷でなどない。試合だ。頻繁に出るほど、いっそう強くなれる。
(中略)
水夫の肉体は、海上での辛苦ゆえに逞しい。
農夫の手はすり減り、兵士の上腕は槍投げゆえに強く、走者の四肢は敏捷だ。
最も頑丈なのは、鍛えたところである。
精神は受難の忍耐によって受難の蔑視に到達する。
『摂理について(4・12-13)』

【賢者の恒心について】
≪概要≫
常に正しい判断を堅持する賢者には、いかなる不正も、いかなる侮辱も無効であり、その一塊の盤石が如し不動心を揺るがすことはかなわない。
読む者を、他者からの評価に振り回される愚かしさから解放する救済の書。

≪抜粋≫
害するものは害されるものより頑丈でなければならない。
だが、悪徳は徳ほど強くない。
それゆえ、賢者は害されえない。
『賢者の恒心について(7・2)』

不正を、そして不正の影とか匂いと言うべき侮辱を軽蔑することだ。
侮辱の蔑視に賢者は要らない、良識の人で済む。
彼なら、自分にこう言い聞かせるだろう。
「私にそうしたことが降りかかるのは至当なのか、それとも不当なのか。至当なら、侮辱ではなく判定である。不当なら、恥ずべきは正しくないことを行っている者の方だ」。
それに、侮辱と言われているものは何なのか。
彼は私の禿頭を、私の弱視を、細い脛を、低い背丈をからかった。
自明のことを耳にすることが、どんな侮辱になるのか。
『賢者の恒心について(16・3-4)』

大衆の賞賛も不正も、等し並に扱うべきである。
不正を悲しんでも、賞賛を喜んでもならない。
さもないと、われわれは侮辱に対する恐怖や嫌悪から多くの必要な事柄をおろそかにして、公私の義務はおろか、時には救いになることにすら配慮できなくなる。
何か心に刺さることを耳にするのでは、という女々しい心配がわれわれの胸を締めつけているうちは。
『賢者の恒心について(19・1-2)』

【注釈】
※1
ルキウス・アンナエウス・セネカ(前四頃‐後六五)
古代ローマのストア派を代表する哲学者にして政治家。元来の病弱な体質に加え、政界に蔓延る権謀術数に晒されながら過酷な人生を送るが、その類稀なる文才と高潔な人格によりいくつもの名著を後世に遺す。
疑心に駆られた暴君ネロに自決を命ぜられるも、賢者に相応しい泰然とした態度で死に赴いたその最期は、歴史家タキトゥスの迫真の筆致で記され、永遠の姿を得ることになる。

※2
この他のセネカの代表的随筆である『生の短さについて』『心の平静について』『幸福な生について』を所収する「生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)」も必読の名著である。本書と併せて読まれたい。
なお、その他の随筆及び倫理書簡集については「セネカ哲学全集(岩波書店)」(1~2、5~6巻)を参照のこと。

セネカの代表的著作のひとつであると同時に、名文のお手本。
もし、貴方に飲食する時間、睡眠を取る時間があるなら、
その代わりに本書を読みましょう。

とは云え、セネカってやっぱり地味なのですよね…。
地味、というか、カリギュラやネロが派手過ぎるのでしょうか。
貴方、全部云われた通りに従ってどうする?の地味さ。
そこが美点でもあるので、著作を否定する気にはならない。
ただ、感情論も多いので真に「自らの怒り」にお悩みの方は、
病院に行きましょう。この本は解決策にはなりません。
私は20代半ばの頃、「怒りの発作がおきます」との理由で
心療内科に赴き、「あ〜判るけど、それだけは抑える薬が
ないねえ」と云われました。医師と2人で苦笑。具体的な
対象があれば良いのに、この「発作」は対象がなかった。

勿論、ずっと若い頃にセネカは読んだのですけれども、成人
してからは役に立たなかった気がします。そのようなわけで、
「怒り」を抱える方が本書をお読みになっても意味ないです。
そもそも、セネカは真の「怒り」を知らないでしょう。
奴隷制度の存在する時代の支配階級の「怒り」なんて、
何程のものでもない。奴隷に対する怒りを戒めつつも、
奴隷本人の「怒り」は想像だにされていないのが面白い。
「怒り」は抑えるものでも羞ずべきものでもないと思います。
人前で怒るのはカッコ悪いので自制しますけれどもね…。
「不治の病」であると同時に、生命力・行動力の発露こそが
「怒り」でもあります。「怒り」モードのときって、結構
建設的なことが出来ますから、この感情は利用するに限る。
なんて云ってると、アリストテレス信者みたいだ(笑)。

「怒りと理性」の共存はセネカ自身の問いでもありますが、
これだけは一般化出来ない。セネカは自らの「経験」から
一般化してしまいますけれど…。「怒り」の種類は「愛」のそれ
よりも多様で複雑、論じることは不可能。それ故、本編は逆説的
に「名文」と評するほかなくなってしまうのです。
短気であることは、個人の人格ではなく環境にあるんじゃない?と
思いつつも、以下のような一文に秒殺されます。
「大いなるものは同時にすべからく柔和である」。嗚呼、素敵。
(↑これは茂手木氏訳ではない…。本文中、ようやく発見)
正しくは「大なるものはなんでも、同時に柔和でなければならぬ」
むむ、当為論でありましたか。当為論こそセネカの本質なのか。
だったらもう、皇帝の暗殺に失敗して極刑、くらいのほうが
「死に花」って感じで美しいのですが、勅命?通りの死に方。
セネカ先生、貴方は、このとき「怒り」を感じなかったのですか?

いや、何かこれ、自らの怒りに悩む方が本書を
うっかり読んで絶望すると困るので、老婆心からの投稿でした。
タイトルと相違して、実用書ではないですよ?怒りと共に生きよ。
それは「不治の病」であっても「死に至る病」ではない。

自己啓発本が好きでたくさん読んできました。
その中で、ベンジャミン・フランクリンにたどり着き、最終はセネカの『怒りについて』に既着しました。

『怒りに対する最善の手段は猶予である。怒りに対して、いきなり許しを求めることはせず、熟慮を求めよ。』

『怒りというものは、それを起こさせた相手の過失よりも さらに悪いものです。』

など心に響く名言があまたちりばめられています。

ぜひご一読ください。

この本が色あせることはありません。
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています


他人に心を許すことは危険なことなのでしょうか?
仲間と思っていた人たちに裏切られ、耐えがたいほどの理不尽に打ちのめされることへの激しい怒り、失意の底で強い恨みや復讐心を生み出す強い怒り。複雑な人間関係とエゴの中で生きる私を含む現代人も、その様な情念に苛まれ、苦しまなければならない不運と背中合わせにあります。

本書には、作者の時代の現代では想像できないような残虐極まりない理不尽と、それ対する怒りの情念に打ち克つ偉大な先人たちの事例が記述されています。
その様な事例を読むにつけ私達常人には到底真似はできないと思いつつ、それに比べれば極めてつまらない些細なことに対して私達は怒り、その感情によって自分自身が苦しめられていることに気がつきます。
この二千年読み継がれた名著には、自分が怒りの情念に打ち負かされそうになった時、(私のような凡人にはなかなか難しいことではありますが)その怒りの感情を客観的に捉え、冷却し、心を整えることを助けてくれる賢人のヒントが散りばめられています。

「まるで永遠に生きるために生まれたかのように、怒りを宣言し、束の間の人生を霧消させて、何が楽しいのか。気高い喜びに費やすことが許されている日を、他人の苦痛と呵責に移して、何が楽しいのか。君の財産には損失の余地はなく、無駄にできる時間はない。」

怒りとは
莫大なエネルギーを持っているんですよね
無駄な方向に…

ノーベル賞受賞者の方は…
あれは怒りではなく
理性のなせる業ですね

怒りで自分を見失わないように心がけようと思いました。

 
 

 

 

 
 
 
 
 


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