人間は、愚かであってはならない。
命は、何よりも大切なのだ。
その命を何に使うのか?が問われる。
金にのみ囚われる生き方は、愚かとも言える。
人間には宿命がある。
その宿命を嘆くのではなく、宿命を使命に転換することこそ、「賢い」選択!
自殺は、最も愚かな選択なのだ。
尊い命を何に使くかを選択してこそ、生きる意味がある。
人はとかく短絡的に陥るものだ。
そこで、熟慮に熟慮を重ねて、「賢い」選択をすることだ。
人間は、愚かであってはならない。
命は、何よりも大切なのだ。
その命を何に使うのか?が問われる。
金にのみ囚われる生き方は、愚かとも言える。
人間には宿命がある。
その宿命を嘆くのではなく、宿命を使命に転換することこそ、「賢い」選択!
自殺は、最も愚かな選択なのだ。
尊い命を何に使くかを選択してこそ、生きる意味がある。
人はとかく短絡的に陥るものだ。
そこで、熟慮に熟慮を重ねて、「賢い」選択をすることだ。
▽勇気が必要である。
勇気とは自分の弱さに打ち勝つ強さだ。
勇気がないのは、衝動と本能に引きずられた弱い生き方である。
悪しき衝動や本能を抑制できるのが人間である。
勇気の裏づけとなるのは「知性」なのである。
▽一流の人は、一流の人を見抜く。
その偉大さを心から称賛できる。
反対に、二流、三流の人は、一流が理解できなかったり、ねたみ、非難したりする。
▽うまくやろうなどと考えずに、思っていることを、思い切りぶつけてみることだ。
青春とは、<勇気ある挑戦>の連続である。
失敗を恐れて萎縮しては、何もできないし、何も残せない。
ともかく前へ前へと進むことである。
たくましい「挑戦」の心こそが、自分の可能性を広げていく。
▽<真の勝利者>とは、自分に勝つ人である。
▽青春時代は人生の土台をつくる時である。
確固たる土台があってこそ、大きなる建設ができる。
『クンドゥン』(原題: Kundun)は、ダライ・ラマ14世の半生を描いた、1997年のアメリカ映画。マーティン・スコセッシ監督、メリッサ・マシスン脚本。
1998年のアカデミー賞に於いて4部門がノミネートされた。
11月26日、午前3時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。
チベットの最高指導者ダライ・ラマ14世の、インド亡命に至るまでの前半生を描いた伝記映画で、ダライ・ラマ14世自身がさまざまなアドバイスを提供した。
出演者はダライ・ラマの甥の息子が主役を演じて、母親役もダライ・ラマの実母の親族など、俳優としては素人の亡命チベット人が大多数をしめた。
撮影は当初インド北部が予定されたが叶わず、チベット高原に見た目がよく似たモロッコで行われた。
監督はイタリア系移民の子でカトリックの教育で育ったマーティン・スコセッシ、脚本は自身がチベット仏教に帰依したメリッサ・マシスン(当時は俳優ハリソン・フォードの妻)、音楽のフィリップ・グラスもチベット仏教徒であった。
題名のクンドゥンは彼の尊称 Kundun (チベット文字:སྐུ་མདུན་; ワイリー方式:sku mdun、文字通りには「御前」)に由来する。
これはチベット人がダライ・ラマに敬愛と親愛の情を込めて呼ぶときの尊称で、「尊いもの」または「存在(Presence)」というような意味を持ち、法王、法王猊下とも意訳される。
1937年、僧侶の召使いに変装した高僧がチベット東部アムド(現・中華人民共和国青海省)の田舎にある質素な農家に立ち寄る。
その家のラモ・ドンドゥプという末っ子の幼児は高僧になつき、彼が首にかけている数珠を「これは僕のだ」と言い張る。
今度は本来の服装で家を尋ねた高僧は、誰か著名な高僧の遺品を、よく似た物品と並べてラモ(「守護者」の意)に見せると、ラモはことごとく本物の遺品を言い当てる。高僧たちは感動し、思わず「クンドゥン」と呟く。
どうやらラモは誰か高位の僧化身ラマの転生者として認定されたらしい。だがそのこと自体は、ラモの家族にとって名誉なことではあるが、そんなに珍しいことにも思えなかった。
2年後、迎えに来た僧侶たちに連れられ、ラモ少年と家族はラサへ向かう。
すでに近所の僧院で修行する身のラモの長兄は「お前は立派なお坊さんになるんだよ。怖がることはない。こうやって見つけられた子どもは今までにもたくさんいたし、これからだっている」と言う。
宿営地で頭が剃られるのをいやがって逃げ出したラモは、摂政のレティン・リンポチェのテントに逃げ込む。レティンは彼を「クンドゥン」と呼び、生きとし生けるものすべてを愛するために、またこの世に生まれ変わって来たのだと告げる。
なにやら仰々しい儀式で上座に座らされたラモに、レティンは「観音菩薩の化身、願いを叶えたもう宝珠、第14世ダライ・ラマ」と呼びかける。数珠も様々な遺品も1933年に崩御したダライ・ラマ13世の遺品であり、ラモはその転生として認定されたのだった。
ダライ・ラマになったラモは歴代法王の住居でありチベットの政治宗教の中心であるラサのポタラ宮に住むことになり、遊び相手としてすぐ上の兄と一緒に育てられる。
だが親と離され、高僧たちに囲まれ、暗く重々しいポタラに、幼いダライ・ラマはなかなかなじめない。養育係を務めるポタラ宮の給仕長ポンポは、「夏の離宮の方が気に入るでしょう」と言う。
その夏の離宮、ノルブリンカ宮には両親の家もあり、彼は動物と豊かな自然に囲まれて無邪気にのびのびと育つ。
5年後、1944年。第二次世界大戦のことも外国の雑誌やニュース・フィルムで見るくらいの、平和に見えるポタラ宮で、ダライ・ラマは仏教の哲学を学び、様々な修行を受けて利発で好奇心旺盛な少年へと成長している。
ある晩、彼は摂政のレティンと側近の高僧タクバ・リンポチェが密談しているのを聞いてしまう。
タクバはレティンに、摂政の位を辞任して隠遁するように薦めていた。ある日、ダライ・ラマ少年は西洋からの贈り物である望遠鏡で街を見ていて、ポタラ宮内の建物の屋上に足を鎖で繋がれた男がいるのを見る。
閣議でレティンの辞任が報告され、ダライ・ラマはタクバを摂政に任命する。
仏教教義の試験をダライ・ラマが受けているとき、突然銃声がポタラ宮に響く。
僧侶たちは少年の頭から袈裟をかぶせ、慌てて保護する。「あなたのお耳に入れるようなことではありません」と言う高僧たちに、少年ダライ・ラマは「なぜ僕が聞いてはいけないのか」と怒る。
しぶしぶ説明する側近たちによると、レティンが摂政位に復帰しようとして逮捕され、その一派の僧たちが発砲したのだと言う。「僧が銃を持ってるの?」とショックを受けるダライ・ラマ。逮捕されたレティンはポタラ宮内の牢獄に収監されたという。
「ポタラに牢獄があったのか」とさらにショックを受けるダライ・ラマに、宮内長官のパラが「ポタラには昔から牢獄があります」と言いにくそうに伝える。レティンのクーデター未遂について質問するダライ・ラマだが、パラたちは「いろいろ複雑な事情がありまして」としか言ってくれない。
ダライ・ラマはレティンに会いたいというが制止され、「彼は私を見いだしてくれた人だ。私の師だ。良い待遇をするように」としか言えない。
中国のことを訊ねても、「それもいろいろ複雑な事情がありまして」との返事。中国側がチベットを中国の一部だと主張し始めていると言われ、ダライ・ラマは「チベットがチベットだ」と言う。
タクバが「我々と中国は、その点では決して同意しないということで同意して来たのです」と説明する。
チベットと自分の置かれた複雑な政治的立場がなんとなくには分かって来た少年ダライ・ラマは、「これから多くのことを変えなければいけない」と決意する。
パラがダライ・ラマ13世が後継者に残した手紙を読み聞かせる。少年のダライ・ラマは「僕に何が出来るの? ただの子どもなのに」としか言えない。
パラは「あなたはこの手紙を書いた人であり、我々を導くために生まれ変わって来たのです」という。そしてレティン・リンポチェの服毒自殺が報告される。ダライ・ラマの父が亡くなり、鳥葬が行われる。
5年後、1949年。数え歳で16歳になったダライ・ラマに、摂政タクバ・リンポチェが中国で中華人民共和国が成立したこと、毛沢東が「チベットが中国の一部であることを認める」などの三つの条件を突きつけて来たことを報告する。
タクバはダライ・ラマに正式に元首として即位することを進言するが、彼は「私はまだ少年だから」と躊躇する。歴代のダライ・ラマは18歳で即位しているから、自分もそれまでは待って欲しい、と。
だが人民解放軍がチベットに侵攻を開始、ダライ・ラマは即位して即座にインド国境に近いドゥンカル僧院に避難することになる。
即位と同時に政治犯の恩赦と、各国と国際連合にチベット独立への支持を要請する使者を出すことを命ずるダライ・ラマだが、その使者はインドですら無視され、国連でも取り上げられない。
16歳の元首は、中国との困難な交渉に自ら向き合うことになる。子どもの頃からの世話係だったノルブに、ダライ・ラマは「レティン・リンポチェが本当に正しい転生した子どもを見つけたのか、疑ったことはないか」と訊ねる。ノルブは「私は一切ありません。あなた以外の誰に正しかったか間違いだったか分かるのか」という。
ラサを出発する別れ際に、ノルブはダライ・ラマに携帯式の電灯を贈る。
避難先で、夜、ダライ・ラマはラジオで自分の使節団が中国から十七か条協定と称するものに無理矢理合意させられたことを聞き、胸に痛みを覚えて倒れる。
人民解放軍の使節に面会するダライ・ラマは、ラサに戻るように要請されるが、なにも言わない。
身の安全が保証できないとインドへの亡命を主張する内閣に対し、パラは「インドに行かれたら、ラサにお戻りになれるかどうか保証はできません」と進言する。
その夜、夢のなかで人民解放軍の将軍たちが、毛沢東以前の中国がいかに悲惨で、人々が虐げられ、飢えていたのかを語る。
一人の将軍は、男が赤ん坊の死体を料理しようとしながら「俺が殺したんじゃない。勝手に死んだんだ!」と叫んでいた、と言う。
人民解放軍の使節の要望に応じて、ポタラ宮に戻ったダライ・ラマを、母と長兄(タクツェル・リンポチェ)が訪ねる。
「お母さん、僧院は日が落ちたら女性は立ち入り禁止ですよ」と言って母を人払いしたダライ・ラマに、長兄は人民解放軍の進駐後の体験を話し、驚くべきことを告げる。「中国人は私があなたを説得することを条件に釈放してくれました。
彼らは、もし私があなたを説得できなかった場合、あなたを殺せ、と言った。
ダライ・ラマは愕然とし、「彼らは、実の兄が弟を殺せると本気で信じているのか?」とつぶやく。
ダライ・ラマは自ら北京に向かい、毛沢東と交渉することを決意する。側近たちは共産主義に嫌悪を隠さないが、ダライ・ラマは好奇心旺盛に子どもの合唱を聴いたりしている。
毛沢東も彼を歓待し「母も仏教徒でした」と理解を示し、ダライ・ラマも一時は「仏教と社会主義には共通するところもあるから、共存は可能だ」とさえ思う。夢のなかで、タクバ、ノルブ、そして父がそれぞれに「さようなら、クンドゥン」と言って去っていく。
ダライ・ラマは思わず「誰も死んではならない」と叫んで目を覚ます。だがラサに戻る前夜に彼を招いた毛沢東は「ひとつだけあなたに忠告があります。宗教は毒です。
民族を衰えさせる毒なのです。チベットはその毒に冒されているのです」と言い、それを聞いたダライ・ラマは戦慄する。
ダライ・ラマはチベットに戻り、生家を訪ねる。かつて豊かに煙を上げていたかまどには火の気もなく、家中には「中華人民共和国万歳」「毛沢東主席万歳」といった中国語の標語や、毛沢東の写真が飾られている。
「幸せですか」とそこに住む老女に訊ねるダライ・ラマ。
老女は苦しそうに涙をこらえながら「中国共産党と毛主席のご指導の下で私たちは幸せです」と言う。ダライ・ラマはその老女の頬を思わず両手で包み込む。
ラサに戻ると、人民解放軍の食糧などの無理な要求に、チベット政府の首相も辞職するしかなくなる。
人民解放軍はチベット軍を自分たちの指揮下におき、ゲリラの掃討作戦に参加させるとまで言い出す。チベット各地から僧院が破壊され、たいした武器ももたないゲリラが人民解放軍に掃討されているという報告が届く。
さらには、僧侶や尼僧が路上で陵辱され、チベットの子供たちが自分の親を殺すことを強制させられている、と聞き、ダライ・ラマは顔を覆って崩れ落ちる。
夢のなかでノルブリンカ宮の中庭に立ち、周囲を見回すダライ・ラマ。その周囲には遥か彼方まで僧侶たちの血まみれの死体が転がっている。
人民解放軍からはダライ・ラマの誘拐や暗殺を匂わす招待状まで届けられる。それでもダライ・ラマは「私の責任は私の民衆とともにあることだ」と言って、側近の「インドに亡命すべき」という進言を退け続ける。
ダライ・ラマを守るためにノルブリンカ宮の周囲にはチベットの民衆が続々と集結するが、彼らの意見も「かけがえの無いお命です、逃げてください」と「行かないで下さい」にまっぷたつに分れている
。だがノルブリンカ宮を爆撃することを匂わす脅迫めいた書簡が人民解放軍から届けられ、ラサの緊張も最高潮に達し、中国側が全面的な武力行使に打って出る危険も高まる。
ダライ・ラマはチベットの魂を守るためには、自分が亡命する以外にないと決意する。
兵士に変装したダライ・ラマはわずかな側近たちを引き連れて夜中に離宮を脱出する。
辺境地にたどりついたダライ・ラマは、中国から押し付けられた十七か条協定を改めて拒否し、チベット臨時政府の樹立と、チベットの主権の保持を宣言する。
そして、人民解放軍の追跡を逃れながらヒマラヤの険しい雪山をすり抜ける苦しい旅を続け、身も心も衰弱しながらインド国境にたどりつく。
側近から「我々は勝ったのです。自らの足でインドにお入りください」と促されたダライ・ラマは牛の背中から降り、よろよろとインドの国境検問所に歩を進める。
インドの国境警備兵から「敬意をこめてお伺いします。あなたは御仏様でしょうか?」と問われた彼は、「私はただの男、仏に仕える一介の僧侶、善を行い、自己にめざめる努力を続けている者だ」と答える。
インド政府が用意した質素な建物に落ち着いたダライ・ラマは、望遠鏡をとりだしてヒマラヤの雪山を遠望し、はるか彼方のチベットに想いを馳せる。
役名 | 俳優 | 日本語吹替 |
---|---|---|
ダライ・ラマ14世(成人) | テンジン・トゥタブ・ツァロン | 小野塚貴志 |
ダライ・ラマ14世(12歳) | ギュルメ・テトン | 亀井芳子 |
ダライ・ラマ14世(5歳) | トゥルク・ジャムヤン・クンガ・テンジン | |
ダライ・ラマ14世(2歳) | テンジン・イェシェ・パチュン | |
母 | テンチョ・ギャルポ | 種田文子 |
父 | ツェワン・ミギュル・カンサー | 星野充昭 |
チベットを自国領土とし、ダライ・ラマ14世の政治活動を認めていない中国が、この映画をチベットで撮影することを許可するはずが無く、ロケはチベット本土では当然不可能であった。このため、当初はヒマラヤ山脈を挟んだインド北部で予定されていたが、インド政府が政治的理由からなかなか許可を出さず、結果的に、撮影は主にモロッコで行われた。壮大なポタラ宮もモロッコに大掛かりなセットを組んで撮影され、外景は3Dデジタル・マット・ペインティングなどを駆使して再現された。詳細な間取りなどについては、ダライ・ラマ14世自身を含む多くの亡命チベット人への取材に基づいている。モロッコを主要なロケ地に選んだのは、マーティン・スコセッシ監督が以前にそこで『最後の誘惑』を撮影していたからでもあり、また地形的にチベット高原に似ていたからである。
作中のセリフはほぼ英語(一部はチベット語)だが、出演者のほとんどが亡命チベット人。ダライ・ラマの青年期を演じたテンジン・トゥタブ・ツァロン(Tenzin Thuthob Tsarong)はダライ・ラマ14世の甥の息子である。インド北部、ダラムサラにおかれたチベット亡命政府の文化機関の全面的な協力を受け、チベットの建築や服装、仏教儀式や民衆文化が緻密に再現されている。
登場人物の主観描写を多用するスコセッシ独特のスタイルがとくに突き詰められた作品でもあり、史実に非常に忠実でありながら、歴史的な背景の説明は最低限に押さえられ、主人公ダライ・ラマの目線でチベットの文化と歴史を体験する構造になっている。また映画のなかで三度出て来るダライ・ラマの夢のシーンのうち二つは、ダライ・ラマ本人の見た夢に基づいている。見る道具としての望遠鏡と、光を出すものであるろうそく、電灯、携帯式のランタンや懐中電灯などが、重要な象徴的小道具として繰り返し用いられる。また後半に入るとダライ・ラマを見送る人物がいつまでもじっと遠景のなかに立っているというモチーフが繰り返される。クライマックスのインドへの亡命をチベット仏教の最重要の儀式であるカーラ・チャクラと並行して見せていくモンタージュのなかには、さらに過去のシーンのバリエーションも組み込まれ、砂曼荼羅の創造と破壊と融合されるに及んで、リアリズムを離れて別れと再会、物事が変化しながらも不変でもある流転と回帰の主題が色濃く浮かび上がる。
マーティン・スコセッシ自身がもっとも愛着のある自作であることを表明しており、またこの映画を完成間近で亡くなった母キャサリン・スコセッシに捧げている。その理由を、スコセッシは「この映画は無条件の愛についての映画であり、そして私にとってもっとも身近に無条件の愛を体現していた人は母だったから」と語っている。ちなみにダライ・ラマ14世自身も後にワシントン・ポスト誌に寄稿した記事の中で「初めてわたしに愛と思いやりを教えてくれた先生は、わたしの母親でした。母親はわたしに最大限の愛を注いでくれました」と語っている。
主な出資者でありアメリカでの配給元であるディズニーには中国から強い圧力があったと言われ、アメリカ国内ではあまり広く公開されなかった。作品の輸入、上映ともに中国では禁止となっている。また、同時期に中国で公開が予定されていたディズニー制作のアニメ映画「ムーラン」は、中国からの嫌がらせにより、8ヶ月も公開を妨害された。このため、中国を舞台にした映画にも係わらず、中国における「ムーラン」の興行は、結果的に失敗となった[4]。
メイキングドキュメンタリーとして、1998年に制作された『マーティン・スコセッシとクンドゥンを探して(原題: À la recherche de Kundun avec Martin Scorsese)』という作品がある。(日本未公開)
祈り(いのり)とは、宗教によって意味が異なるが、世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。
利他の精神。自分の中の神と繋がること。
神など神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと。神の定理は各宗教による。祈祷(祈禱、きとう)、祈願(きがん)ともいう。
キリスト教において、祈りは信仰生活の中心をなす宗教行為のひとつである。
その形は、賛美、感謝、嘆願、執成し、静聴、悔改と多様であって、これらの組合わせが、一般的に「祈り」と言われる[4]。他教の祈りと根本的に異なるのは、まず神の言葉を聞いて、それに基づいて祈ることが肝心で、単に自分の願いを披露するのではなく、自身の信仰に基づいた決意表明という点である。
その意味で、祈りと聖書を読むこととは、クリスチャン生涯では一体的な営みとされる。
祈りは神に、また教派によっては神の母マリアをはじめとする聖人に対して捧げられる。プロテスタント諸教会では、マリアあるいは聖人への祈りを偶像崇拝として排除している。
キリスト教における祈祷は、神への賛美を本来的な形とする。
祈願・罪の告白等も、究極にはそれによって神の栄光が顕わされることを願うのであり、現世利益は本来的なキリスト教の信仰が追求するものではない。
祈りの意義の最大のものは、永遠なる神との人格的な交わりにあるとされる。
また「絶えず祈る」ことがキリスト教では奨励されている。
天使たちは神への賛美を絶えることなく行っていると信じられている。これが公的な礼拝にしばしば参加すること、私的な祈祷をしばしば行うこととも解され、修道士たちが寝ずの番を交代でしながら24時間祈祷を行う不寝修道院を生むに至った。
一方、「祈り」を霊が神に向かうことと解すると、言語化されない祈りという観点が生じる。
中世の正教会では、「祈りの文言を理解せずに祈る」「祈りの文言を理解して祈る」「祈りを口にすることをまたず、すべての行為が祈りとなっている状態」の3つの祈りの形が考えられた。
第3の状態を「祈らずして祈る」といい、ヘシカズムではこれを重視し、そこに到るの段階として短い祈りを絶えず繰り返す「イイススの祈り」を奨励する。
祈りは信者の意思的・能動的行為である一方、神学的にはすでに神の力を得てその恩寵の元に行われていると考えられる。
パウロ書簡には、祈りにおいて言語化されない思いを神の霊がうめきによって表すとの考えが表明されている。
祈り、とくに公的な祈りは神への奉仕と考えられているが、一方でキリスト教には「神は人間の奉仕を必要としない」という考えがある。
また、ユダヤ教さらにはその発展であるキリスト教では、いったいに、神は人間の隠れた思いをすべて知っているという観念があり、したがって祈りが行われずとも神は人間の思いをすでに知っている。
したがって、祈りは本来的に人間の側にとって意義をもつ行為であるとも言えないことはないが、しかし、神は人間が己に立ち返って、神と交わることを喜ぶとされる。
かつ祈りによって人間は神に近づき、神との絆さらには共に祈る者としての他の人間との絆を更新することができると考えられている。
クリスチャンの祈りに形式があるとするならば、それは「キリストの御名によって」祈ると言うことである。
それは罪ある人が、聖なる神に近づくためには、キリストの十字架上の死を通してのみ可能であるという理解がある。
祈祷の主体に着目すると、集団での公的な礼拝行為(公祈祷)と私的な個人ないし集団での祈祷(私祈祷)に分かれる。祈祷の内容に注目すると、定まった祈祷文をもちいるものと、個人の自由で自発的な祈祷に任せるもの(自由祈祷)がある。
伝統的教会は、定まった祈祷文を用いることを奨励し、プロテスタント教会では自由祈祷を奨励する傾向がある。
定まった祈祷文は、各教団・教派ごとに異なる。教派でその内容・文言を精査した上で認可を与え、信者にこれを奨励する。教派を超えて用いられる祈祷文には「主の祈り」、各種の信条がある。
伝統的教会は古代から中世初期に起源をもついくつかの祈祷文を共有しているが、東西教会の分裂以降制定され、したがって特定教派にのみ行われる祈祷文も数多い。
また同じ祈祷文を用いることがあっても、それを用いる状況・時節等の定めを異にすることもしばしばみられる。定まった祈祷文を収録した本を祈祷書という。
これはギリシア語ではライトゥルギアと呼ばれ、「人々の仕事」を原義とする。
一般に公的な礼拝は、あらかじめ定められた形式・祈祷の文言に則って行われ、しばしば奏楽や歌唱を伴う。
ミサ・聖体礼儀はこのような典礼の代表的なものである。伝統的教会における典礼には、時刻を決めて行われるものがあり、これを時祷、時課等と称する。
時祷の習慣はユダヤ教から受け継がれたもので、修道院で発達し、1日に9回ないし8回の祈祷を行うのを基本の形とする。伝統的教会には、キリスト教本来の祈祷は、このような集団があらかじめ定められた形式での祈祷であるとする見解がある。
これに対して、プロテスタントをはじめ、個人の祈祷を重視する立場がある。
祈祷は、声に出して行われることもあれば、黙して行われることもありえる。
歌唱を伴うものを「聖歌」「賛美歌」等と呼ぶ。東方教会では、基本的に、すべての祈祷は歌唱を本来の形とする。
他者に神の恩寵が施されることを願う祈りを代求、執成しの祈りという。
伝統的教会における聖人への祈願は、基本的に、聖人に神への代求を願う祈りである。
プロテスタントは一般には聖人への祈りを否定している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)とは、仏教で用いられる言葉である。
「南無」はnamo(サンスクリット語)の漢語への音写語で「わたくしは帰依します」を意味し、「妙法蓮華経」の五字はサンスクリット語の「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ (saddharmapuNDariika-suutra、सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र) 」を鳩摩羅什[注釈 1] が翻訳した版の法華経の正式な題名(題目)である。
「南無妙法蓮華経」の七字で「法華経の教えに帰依をする」という意味である。
これらの文字を五字七字の題目とも呼ぶ。(浄土教系の宗派では「阿弥陀仏に帰依する」の意味で「南無阿弥陀仏」「南無不可思議光如来」「帰命尽十方無碍光如来」などと阿弥陀仏の名号を唱えることがあるが、これらの称名念仏は題目とは認められていない。)
日本では、615年には聖徳太子が著したとされる『法華義疏』の中に「妙法蓮華経(法華経)」が紹介されている。
聖徳太子以来、日本における仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本には縁の深い経典として一般に考えられてきた。多くの天皇も法華経を称える歌を残しており、聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。
平安時代初期には、「妙法蓮華経(法華経)」を根本経典とする天台宗の祖である最澄も「妙法蓮華経」を至上の教えとしており、現在も天台宗においては朝の勤行に「南無妙法蓮華経」を唱えている。
鎌倉新仏教においても妙法蓮華経は重要な役割を果たした。
曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも妙法蓮華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。
臨終の時に彼が読んだ経文は、妙法蓮華経の如来神力品であった。
日蓮は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る(妙は蘇生の儀也)、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。
近世における法華経は罪障消滅を説く観点から、戦国の戦乱による戦死者への贖罪と悔恨、その後の江戸期に至るまでの和平への祈りを込めて戦国武将とその後の大名家に広く信奉されるようになった。例として加藤清正は法華経を納経している。
近代においても妙法蓮華経は、主に日蓮を通じて多くの小説家・思想家に影響を与えた教典である。
島地大等編訳の『漢和対照妙法蓮華経』に衝撃を受け、のち田中智学の国柱会に入会した宮沢賢治(詩人・童話小説家)や、高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝(革命家)、石原莞爾(軍人)、創価学会を結成することとなる牧口常三郎、戸田城聖(両者とも元教員)らがよく知られている。
▽人も自分も共に喜ぶことが「真実の歓喜」である。
人との関わりの中でしか本当の歓喜は生まれない。
▽人の心は、人の優しさと温かさによってしか、元気にしていくことができないのだ。
▽特別な人が、特別な行為をするのではなく、それぞれが身近な場所で、自分にできる「何か」を見つける。
その連続の中で生まれる力の大きさを「草の根」の連帯は教えている。
陰に隠れそうな庶民の地道な活動をたたえる。
▽とりわけ、女性に力を「与える」というより、本来女性が持つ力を「引き出す」ことに思い立っている。
▽対話とは「聞く力」だ。
相手が何を語るのか。それが自分に何をもたらすのか。
相手を決めつけたり、自分が不安になる必要もない。
そうした空間をつくることだ、全ての女性に「声」を与えることになる。
▽「利他」の実践。その行動が、人種や民族、国境といった枠を超えて、多様な人々を包摂していく。
▽それぞれが抱える現実的課題を乗り越える方途として、人間の内面的な変革が重要である。
戦争は人の憎しみの心や生命の軽視から生まれるのだから。
▽人類の平和と繁栄が危ぶまれる「危機の時代」に私たちはいる。
いかなる時代や場所でも、人間一人一人の幸せがあってこそ「世界平和」といわれる状態を実現できる。
▽戦争や紛争がなくとも人権の抑圧や慢性的貧困といった「地球的問題群」が私たちの眼前に立ちはだかっている。
▽抽象論ではなく、実際に何ができるか模索する「開かれた対話」。
人間の精神には、どんな困難な状況でも打開し、より豊かで実りある価値を創造し、平和を成し遂げる力が備わっているはずだ。
▽行き詰ったら原点に戻ることだ。
▽大事なのは裏方の存在。栄光の陰には、スポットライトの当たらない影の人の労苦がある。
▽励ましは、人の声を「聴く」ことから。
真摯に耳を傾け誠実に向き合う心が大切。
▽近隣の小さな集いに多様な人の連帯がある。
それは生命の触発の場でありオアシス。
▽真剣な一人の行動が皆の心を鼓舞する「誰か」ではない。
自分が壁を破ることだ。
▽飛躍的な成長の過程には、幾つかの苦悩の壁を破る道程である。
苦しみを乗り越えたあとには、見違えるような、広々とした挑戦の場が開けるものだ。
▽努力が報われず、希望を失いこともある。
だが、それで人生が決まるわけではない。
使命の道は他にあるかもしれまい。
遠回りをして、後で夢がなかうこともあるもだ。
大事なのは、目の前の課題にベストを尽くすこと。
今、改めて「宗教と社会」に注目が集まっている。
どこまでも眼前の他者のために差異を乗り越える対話を
全ての宗教を不安視するようなメディアやインターネットでの情報発信もあるが、元来、宗教は「より良い人生を送るもの」であり、社会と対立するものではない。
社会から離れ、閉じこもってしまう宗教も存在するが、社会と調和することが宗教の役割でもある。
また、宗教的信念は外在的に操作されるものではなく、内在的に獲得されるものであり、強制性は正しい意味での宗教的信念を生み出さない。
今日の日本社会は、戦前の国家主義、軍国主義の下で宗教に対する抑圧的体制がさなされた。
その反省から、信教の自由の理念を社会に定着させた。
宗教社会学では、日本の新宗教(近代以降に誕生した宗教群)の特徴として現世主義が指摘されている。
それは現実世界を超えたところで救済を求めるのではなく、現実の諸問題を乗り越える側面に意義を見いだした。
例えば、人間関係の悩みがあれば、そこから逃避するのではなく、自己を変革し、人生を強く生き抜く術(すべ)を仲間たちと切磋琢磨しながら、解決していくという姿である。
しかし、特に1970年代以降、現世主義が影を潜め、現実の諸問題から逃避することに重きを置く宗教が台頭してきた。
現世を逃避する志向は、現実世界は「悪」に満ちているという思考と親和性を持つ。
その結果、現実社会との接点(地域や家族)を意図的に遮断する傾向を生んだ。
現実社会に違和感を持ち、人生に苦悩する若者は、宗教的な無知から、そのそうな反社会的ともいえる宗教団体と接点を持ちはじめていったのだ。
宗教には、さまざまな理念や世界観・社会観がある。
信仰はあくまで心の問題であり、内面性は誰も強制的に干渉できない。
では、今、宗教に何が求められているのか?
社会との調和の中で宗教が存在しているという感覚を持つことが重要である。
人間の幸福のために宗教がある。
宗教は「声なき声」に耳を傾ける特質がある。
その際、世俗倫理性と対話の必要性がでる。
理性的であることと宗教的であること矛盾しない。
むしろ、相互を高め合うことが期待されている。
教育は両者を弁証的に向上させていくものだ。
哲学性を欠如させた教育の過程で宗教を軽視する。
教育側も宗教の特徴や役割を深く考えていくことが必要だ。
「宗教」とは究極的な意味に関わる文化現象である。
その究極性は神秘的な感性と言葉で表出される。
「人間のために宗教がある」という視点を持つ限り、神秘性を用いて人々を不安に陥れることはないだろう。
宗教のために人間を利用してはならない。
国家神道(こっかしんとう)は、近代天皇制下の日本において作られた一種の国教制度、あるいは祭祀の形態の歴史学的概念である。
皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点に立つ総本山とし、国家が他の神道と区別して管理した「神社神道(じんじゃしんとう)」(神社を中心とする神道)を指す語である。
王政復古を実現した新政府は、1868年(明治元)、祭政一致、神祇官再興を布告して神道の国教化を進め、神仏判然令で神社から仏教的要素を除去した。
その後、政府主導の神道国民教化策が不振に終わると、政府は「神社は宗教にあらず」という論理で、神社を「国家の宗祀」と位置づけ、神社神道を他の諸宗教とは異なる公的な扱いとした。ここに国家神道が成立し、教化など宗教的側面にかかわる教派神道と役割が分担されることになった。
宗教が日々の生活に影響を及ぼさなくなると,わたしたちのあらゆる自由が重大な危機にさらされます。
30年以上にわたり,わたしはイエス・キリストの十二使徒の一人として奉仕してきました。わたしたちは,大管長会の指示に従い,3万余りのユニットに集うおよそ1,600万人の会員を擁する世界的な規模の教会を管理しています。
イエス・キリストの神性と神権,完全な教義について教え,証しています。
この教会独自の教義とは,啓示を受け,主の戒めを今日の状況下でどう実践すればよいかを教える預言者と使徒を,神が今も召しておられると知っていることです。
わたしは生涯を通じて,宗教の自由というテーマに興味をひかれてきました。54年前,シカゴ大学の若い法学教授だったころにわたしが初めて出した本は,アメリカ合衆国における教会と国家の関係について自ら編集したものでした。
今日では,政治,紛争の解決,経済的発展,人道支援,そのほかの分野における宗教の重要性は当時よりもはるかに高まっており,もはや無視することはだれにもできません。
世界の人口の84パーセントは特定の宗教を持っています。
しかし,世界中の77パーセントの人々は,宗教の自由に関して厳しい,または非常に厳しい制限のある国に住んでいます。
宗教を理解し,宗教と世界的な問題,および政府との関係を理解することは,わたしたちの住む世界をより良くしていくために不可欠です。
宗教の自由は,世界のほとんどの地域で理解されていませんし,理解されている地域であっても,宗教の自由は世俗主義と過激思想に脅かされています。
とは言え,宗教が守ろうとしているのは神から与えられた生来の自由であり,この自由は全国民の福利を追及する政府と補完し合いながら実現するという理想を,わたしは擁護するものです。
したがって,政府は国民の宗教の自由を確保するべきです。有名な,国連の世界人権宣言第18条には次のように述べられています。
「すべて人は,思想,良心および宗教の自由に対する権利を有する。この権利は,宗教または信念を変更する自由ならびに単独でまたは他の者と共同して,公的にまたは私的に,布教,行事,礼拝および儀式によって宗教または信念を表明する自由を含む。」
宗教の補完的な責任とは,その信者を通じて,宗教の自由を確保する国の法律を遵守し,その国の文化に敬意を払うことです。
宗教の自由が確保されるのであれば,そのような対応は,感謝の対価であり,喜んで支払われます。
こうした一般的な原則をだれもが受け入れ,実践しているならば,宗教の自由に関するこのような話し合いは必要ないでしょう。
しかし,周知のとおり,世界はこうした普遍的な原則をめぐる対立に悩まされています。例えば,現在,宗教を特別に擁護するという観点に異議申し立てをしている著名人がいます。
そのような人が書いた本に,Freedom from Religion〔『宗教からの自由』〕やWhy Tolerate Religion?〔『宗教を寛大に取り扱うのはなぜか』〕などがあります。
ほかにも,宗教的な信条を公的な場で実践することを否定し,教会,シナゴーグ,モスクで教えるという宗教の自由を制限して,宗教とその信者を排斥しようとする人がいます。
そのような試みは,もちろん,「世界人権宣言」のうたう「公的にまたは私的に」宗教や信念を表明する権利の保証に反しています。
宗教の自由な実践は,信者が,一つの共同体として,例えば,教育,医療,文化の分野における活動の一環として行動する際にも適用されなければなりません。
宗教の信条と実践は非合理的で,政府や社会が目指す重要な目標に逆行するとして批判されることもあります。わたしは,もちろん,社会にとって宗教ほど価値あるものはないという立場を守り続けます。
ある無神論者が最近出版した本で認めているように,「宗教を信じていない人でも,西洋文明の基本的価値観が宗教に根ざしていることは理解していますし,宗教が遵守されなくなるとともに,そうした価値観が衰退していくことに懸念を抱いています。」そうした「基本的価値観」の一つが,人には本来,尊厳と価値があるという概念です。
これ以外に,宗教に社会的な価値があることを示す例を7つ紹介しましょう。
1.西洋文明における最も重要な道徳的進歩の多くは,宗教的な原則に動機づけられたものであり,説教壇から説く教えに促されて,公式な採択に至ってきました。
大英帝国における奴隷貿易の廃止,アメリカ合衆国における奴隷解放宣言,過去半世紀にわたる公民権運動がそうです。
こうした進歩は世俗的な倫理が原動力となってもたらされたのではなく,道徳的に何が正しいかを宗教の観点からはっきりと判断できる人々が中心となって推進したのです。
2.アメリカ合衆国において,教育,医療,貧困者の支援など,数え切れないほど多くの価値ある慈善活動を行っている巨大な民間企業は,たいていの場合,宗教組織が母体となって宗教的な動機で始まり,維持されています。
3.西洋社会は,おもに全面的な法の拘束力によってまとめられているのではなく(この方法は非現実的でしょう),最も大切なことは,心の中に行動規範があるために強制ではなく自発的に規律に従う市民によってまとめられているということです。
そのような自発的な自己規制の源は,多くの人の場合,善悪を判断する宗教的な信念と,まだ見ぬ至高者に対する責任感なのです。
実際,西洋諸国では国の起源においても存続においても,宗教的価値観と現実の政治的な問題が非常に深くからみ合っているため,宗教が市民生活に影響を及ぼさなくなると,あらゆる自由が重大な危機にさらされます。
4.宗教組織は民間企業と協力して,個人と民間の組織を浸食する政府の力を見分け,抑制する仲介的な機関の役割を果たします。
5.宗教はそれを信じる多くの人に,周囲の人への奉仕を促し,総じて,地域社会や国々に大きな恵みをもたらします。
6.宗教は社会的なつながりを密にします。ラビのジョナサン・サックスはこう教えています。
「〔宗教は〕地域社会を築くためのこの世で最も強力な手段です。……消費者時代の個人主義に対する最良の解毒剤です。社会は宗教がなくてもやっていけるという考えが間違っていることは,歴史を振り返れば一目瞭然です。」
7.最後に,末日聖徒であり,企業の経営および革新の分野における「思想的指導者」と認められているクレートン・M・クリステンセンは,「宗教は民主主義と繁栄の基盤である」と書いています。
経済の発展に寄与する宗教の役割について語れることは,まだまだあるでしょう。
わたしは,宗教上の教えや宗教に基づいた信者の行動は,自由で繁栄した社会にとって重要であり,引き続き法律によって特別に保護されるようにするべきだという立場を守り続けます
これまでわたしは宗教の信者や組織に対する政府の責任についてのみ語ってきました。これから,宗教とその信者が政府に対して負っている補完的な責任について話したいと思います。
政府の保護下にある人々に,法の遵守と,文化の尊重を求める権利が政府にあることは,明らかです。
政府の重大な関心事は,国境の安全を確保することと,国民の健康と安全を守ることです。政府には,宗教を含むすべての組織が憎しみを教えることなく,人に対する暴力など,犯罪につながる行為を避けるよう主張する権利があります。
テロを推進する組織に保護を与える必要など,どんな国にもありません。宗教の自由はこうした状況のいずれにおいても政府の力を妨げる障害とはなりません。
今日,宗教と政府の相互補完機能が,ヨーロッパで厳しい試練にさらされています。
大半がイスラム教の宗教や文化を持つ難民ですが,異なる文化と宗教の国々へ大量に流入することで,明らかに深刻な,政治的,文化的,社会的,経済的,宗教的な問題が起きています。
宗教と宗教組織は,難民や難民を受け入れてきた国々を支援するために,短期および長期で,どのような貢献をすることができるでしょうか。
確かに,専門家の中には,こうした問題に対する宗教の役割に懐疑的な人もいますし,宗教には破壊的な影響力があると考える人もいます。
わたしは自分のよく知らない事実に基づく意見に反論するつもりはありません。
末日聖徒イエス・キリスト教会の方針と経験を紹介するだけです。
そうすることで,長期的にも,短期的にも,宗教が持つことのできる,また持つべき良い影響を明らかにすることができると思います。
末日聖徒,もしくはモルモンとして知られるわたしたちは,飢えた人に食物を与え,旅人をかくまうというキリストの教えを文字どおりに解釈しています(マタイ25:35参照)。
また神から授かった近代の啓示で次のようにも命じられています。
「貧しい者と乏しい者,病気の者と苦しんでいる者を,すべてのことにおいて思い起こしなさい。これらのことを行わない者は,わたしの弟子ではないからである。」(教義と聖約52:40)
わたしたちの教会にとって,貧しい人や困っている人を世話することは,任意で行う行為でも,二次的な事柄でもありません。
わたしたちはそれを世界各地で行っています。
例えば,2015年に教会は56か国において177の緊急時対応プロジェクトを実施しました。
このほかにも,きれいな水の提供,予防接種,視力矯正など,7つの分野における支援で,何百ものプロジェクトを実施し,世界中の100万人以上に良い影響を与えました。
30年以上にもわたるこうした取り組みは,年平均4,000万米ドルに上るほどの規模です。
わたしたちは宗教団体への反対の一つを避けるために,教会の人道支援活動と世界的規模の伝道活動を厳密に切り離しています。
わたしたちは宗教にかかわりなく人道支援を行っています。権力や,食料そのほかの様々な計らいに影響されることなく,わたしたちの伝道活動を受け入れ,考慮してもらいたいからです。
国連や個々の国々にできること以外に,教会には何ができるでしょうか。この点についても,わたしたちの教会で行ってきたことを紹介しましょう。
教会員の半分はアメリカ合衆国内,残りの半分は合衆国外に分散しており,援助に必要とされる人的資源としては多くありませんが,この教会には影響力を引き出す大きな利点が3つあります。
第1に,会員の間に根付いている奉仕の伝統のおかげで,献身的かつ経験豊かなボランティアの資源があります。
数字に換算すると,2015年に教会のボランティアは,福祉,人道支援,そのほかの教会が主催するプロジェクトで,2,500万時間以上の労働を提供しています。
この数字には,個人的に奉仕した会員の時間は含まれていません。
第2に,人道支援の大義に対する教会員の財政的な貢献によって,自力で資金を賄うことができます。
わたしたちは,官僚機構や政府の資金援助から独立して運営を行う能力がありますが,最大限の影響力を発揮するために,ぜひ個々の行政機関や国連の機関と調整を図りつつ取り組んでいきたいとも思っています。
そのような機関にはますます宗教組織の力に目を向けてほしいと願っています。
第3に,わたしたちには直ちに活動できる世界的規模の草の根組織があります。例えば,難民という世界的な問題について言えば,2016年3月,教会の大管長会と扶助協会,若い女性,初等協会の中央会長は全世界の会員にメッセージを送り,わたしたちの中にいる貧しい人と「旅人」を助けるというクリスチャンの原則を思い起こすよう伝えました(マタイ25:35参照)。
この教会指導者たちは地元の地域社会で難民を助けるようすべての世代の女性に呼びかけました。
この呼びかけにこたえたヨーロッパの会員の代表的な例を挙げましょう。2016年4月のある夕方,ドイツで200人を超えるモルモンの会員とその友人たちがボランティア活動を行い,ヘッセン州とラインラント=プファルツ州にある6か所の難民センターに住む子供たちのために1,061個の「歓迎袋」を作成しました。
袋の中には新しい衣類,衛生用品,毛布,画材が入っていました。この活動を導いた女性の一人はこう述べています。「家を追われる〔難民の〕悲劇的な状況を変えることはできませんが,〔彼らの置かれた〕環境が変わるよう手助けをし,〔彼らの〕生活が変わるよう積極的に働きかけることはできます。」
教会が以前に行った世界的規模の人道支援活動について二つの例を紹介します。
2015年,LDS慈善事業団は,イギリスを本拠地とするAMAR財団と全面的にタイアップして,ISIS(アイシス〔訳注:イラクとシリアで発生したイスラム過激組織で,イスラム国と呼ばれることもある〕)の残虐な攻撃の的にされたイラク北部の少数民族ヤジディーのための一次医療センターを建設しました。
この一次医療センターには,研究室と応急手当室,薬局,超音波検査機器が完備しており,心身ともに傷ついた人々に安らぎをもたらしています。AMAR財団はヤジディーの中から医療専門家とボランティアを採用しており,彼らはヤジディーの文化に特有な方法でケアを行っています。
2004年12月26日,東南アジアで壊滅的な被害をもたらした地震と,その結果として起こった津波により,14か国で23万人の人々が亡くなりました。LDS慈善事業団は,災害発生の翌日,現地に到着し,その後5年間にわたって積極的な支援活動を行いました。
大きな被害を受けたバンダ・アチェ地域だけでも,教会の慈善事業団は定住用として900戸の家,24の村落水道システム,15の小学校,3つの医療センター,それからモスクとしても使える3つの公民館を建設しました。
さらに,それらの地域社会に住む人々の礼拝を助けるために,聖なるコーランと祈祷用の敷物を支給しました。
これは,宗教の自由を擁護するだけでなく求める文化において,宗教にどれほどの価値があるかを示す例の一部にすぎません。
わたしたちは宗教の自由こそ第一の自由だと考えているのです。
目次
(初等中等教育局児童生徒課生徒指導室) |
年々増加している不登校の生徒数ですが、現状はどのようになっているのでしょうか?
また、どういったことが原因で不登校になってしまっているのか文部科学省の調査資料を元に解説していきます。
人数(前年比) | 割合 | |
---|---|---|
小学生の不登校数 | 44,841人(前年比+28.0%) | 0.7%(1学年に約1人) |
中学生の不登校数 | 44,841人(前年比+28.0%) | 3.6%(約1クラスに1人) |
高校生の不登校数 | 52,723 人(前年比+6.2%) | 1.6%(約3クラスに1人 |
現在、不登校の小学生の数は44,841人となっており、これは前年度と比較をすると28%増加しています。
小学生の不登校数の割合としては0.7%と低い数字ではありますが、100人に約1人が不登校になっており、小学生の1学年に約一人は不登校という状態です。
その原因のトップ3が以下の通りとなっています。
不登校に陥っている小学生のうち、約半数が家庭生活による原因であることが調査によって明らかになっています。
なお、いじめが原因で不登校はなっているのは、0.8%であり、小学生の不登校問題は人間関係よりも家庭の事情や生活が鍵を握っているのです。
中学生の不登校数は、119,687人で前年度と比較をすると9.8%増加しています。
割合は3.6%と100人に約4人が不登校になっており、約1クラスに1人が不登校という状態に。
また、小学校と中学校では不登校の生徒数が2.5倍に膨れ上がっています。
なお、中学生の不登校の原因トップ3は以下の結果になっています。
中学生の場合も家庭生活が原因で不登校になっている生徒が約3割と、小学生と比較をすると減少はしていますが、やはりある程度は不登校に影響していると言えるでしょう。
高校生の不登校数は52,723人で前年度と比較すると6.8%増加しています。
割合としては、1.6%と100人に約2人が不登校という状態に。
また、1クラス40人と仮定すると、約3クラスに一人が不登校になっています。
高校生の不登校の原因トップ3は、以下の結果になっています。
不登校の割合は中学生と比較すると減少します。これは恐らく進学しない生徒や、通信制などの別な高校への天佑をした生徒が多いためでしょう。
小中高と原因を合わせて見ると、“学業不振”と“いじめを除く友人関係をめぐる問題”がトップ3の中に必ず入っています。
項目の内容でも個人によってさまざまな理由がありますが、「勉強についていけない」「友達とあまり気が合わない・・・」といったことから不登校に繋がっている可能性が考えられます。
不登校問題は多少の個人差がありますが、文部科学省の調査から不登校には一定の原因があることが分かったと思います。
そこで、小中高生の不登校問題を解決する方法や防ぐための対策について解説していきます。
子どもが最近元気がない、体調不良をよく訴えるようになった、など子どもの異変に気づいた場合は、一度学校を休ませてみましょう。
また、以下のような子どもの異変はSOSのサインの場合があります。
SOSのサインを見逃すと不登校になったり、心身の状態がさらに悪化するといったことが充分にあり得ますので、異変を少しでも感じた場合は無理に学校に行かせることはせず、一度休ませてあげましょう。
子どもの話を聞いてあげることも不登校問題を解決する一つの方法と言えます。
子どもが話してくれる他愛のない話も、流さずにしっかりと聞いてあげる姿勢を持つことが大切です。
普段から会話を流してばかりいると「いつも忙しそうだから話しかけるのはやめよう」と子どもが親に遠慮をするようになります。
しかし、親がしっかりと話を聞いてあげることで、何か悩みや不安が出たときも気軽に話しやすくなります。
また親が他愛のない話を子どもとするのも大切なコミュニケーションの一つとなるので、積極的に子どもと話をするようにしましょう。
子どもに自信をつけさせてあげることも不登校の問題を引き起こしにくくなると言える対策の一つです。
子どもがしたことに対し、肯定的なことを普段から言ってあげるようにしたり、小さなことでも褒めるといったことをしてみましょう。
「こんなのできて当たり前のこと」「まだここまでしかできてないの?」など否定的なことばかりいうと、「私(僕)は、できない子どもなんだ」と自信を失いがちになります。
そうならないよう、普段から小さなことでも褒めてあげるなどをすることで、子どもに自信をつけてあげましょう。
学校以外の居場所を作ってあげることも不登校の問題の対策の一つと言えます。
習い事やフリースクールや好きなこと、興味のあることに取り組める場所に行かせてあげることで、学校以外の居場所を作れる機会を積極的に与えていきましょう。
通信制の学校を勧めてあげることも不登校問題の解決策であり、対策とも言えます。
不登校問題のトップ3 に必ず入っていたのが、“学業不振”と“いじめを除く友人関係をめぐる問題”という2点でした。
通信制の学校は勉強についていきやすいよう難易度が優しく、更にサポートの手厚い学校が多く存在します。
さらに、登校数や校風も学校によって違うので「学校自体が合わない」と思っていた小中高生も自分に合ったところを選ぶことができます。
ですので、不登校問題を抱えている小中高生に通信制の学校は通いやすく、その抱えている問題の根本を解決しやすい環境にあるのです。
▽基本的は「心の教育」が重要である。
「不寛容や差別は無知から生まれる」
相手を知らないことから来る恐れが、差異を拒否することにつながる。
▽人間の善性に語りかける草の根の対話運動こそ、世界平和への最も肝要な取り組みだ。
▽人間を蘇生させる「宗教的精神」。
「宗教的精神」とは、「路傍の草花にも、ときには何の変哲のない石にも、ともに今生きているものとしての連帯感をもてる心」である。
また、「決して出会うことのないような地球の反対側の人の幸福をも、真剣に願える心」である。
▽「分断」ではなく「連帯」を、そして「利己」ではなく「利他」を―このように志向する人の生き方こそ、世界が求めている精神の力である。
▽苦境にあえぐ人たちの苦しみを「わが事」として心を痛め、同苦する心を。