みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

あっちに行ったりこっちに行ったり

2011-11-03 22:18:15 | Weblog
するのが人生なのだろうとは思うけど、人間の疲れというのはどこでどういう風にたまっているのか自分でも理解できない時がある。
いや、理解できないというのはちょっとオカシイかもしれない。
疲れているという自覚はハッキリあるのだからそれを何とかコントロールする方法を自分で考えなければいけないのだけれども自分でも思いがけない方向にその疲れが出てしまう。
前にも「なにかと怒りっぽくなっている自分」を発見してちょっとそこに躊躇する自分がいたのだが、今日もちょっとしたことで「人にあたる」自分がいたような気がする。
療法士さんが恵子にあった足のギブスをオーダーするためにいろいろと悩んでいることにちょっとクレームをつけたりしてしまう。
特注品なのでそんなにしょっちゅう取り替えられないので恵子にあった品物をオーダーしようとあれこれ考えてくれているのだが、その考え方が私としてはちょっと気に入らなかったのか(ちょっと消極的に聞こえてしまったのだろう)療法士さんに「何でそういう風に考えるのですか?」的なあたり方をしてしまった。
例の膝の「引っ張られ感」をなくすための工夫をギブスに施すかどうかの選択なのだが、私は最近恵子がちょっと消極的に考えるだけでも少しあたってしまう。
もともとマイナス思考を許さない性格なので、否定的な意見にはどうしても噛み付いてしまうのかもしれない。
しかし今回の場合はもっと別の要因がある。
以前の病院で医師から聞いたことばが私のトラウマになっているのだ。
最初に担当だった外科医のことばは今でも許しがたいと私は思っている。
「この病気は百パーセント治ることはありませんから」。
これって「アンタは癌で百パーセント死にます」と言っているようなものだ。
このことばを聞いた瞬間二つの考えが同時に私の頭の中をよぎった。
「お医者さんって本当にことばを知らない人種なんだな」ということと「絶対百パーセント治ってこの医者見返してやる」ということだった。
きっとこんな「悔しさ」が私の頭の中にトラウマとして残ったために、時に看護士さんや療法士さんや時に恵子にまでやたら噛み付くようになってしまったのかもしれない。
しかも、今は疲れがピークに来ている。
今日は、恵子の夕食の後、面会時間ギリギリの8時まで病院にいた。
いつもは、義叔母の食事の世話のために恵子の夕食が終わると急いで家に帰るのが日課だったのだが、今日は叔母に宅配のお弁当が来ているので(これも介護サービスの一つだ)私は食事のことを考える必要がない。
「考えたら絶対変だよ。だってヤマネコは私の夫なんだから私とできるだけ一緒にいるのが普通なのに、なんで叔母なんかの世話で帰んなきゃならないの?」
そりゃそうだ。
別に何の血のつながりもない義理の叔母の世話を私がする理由は何もない。
きっとそんな「理不尽さ」にも私の心は腹を立てていたのかもしれない。
本当に人間の心ってどこに行くのかサッパリわからない。

「音楽は人を動かす

2011-11-03 00:03:47 | Weblog
ということはまず間違いのないこと。
なぜなら地球上のありとあらゆる宗教に「音楽がある」のもこの「人を動かす」という目的のため。
それに音楽には単に人を動かすだけでなく「集団を動かす」という力も持っている。
だからこそ軍歌や陣太鼓だけでなくワークソングも自然に生まれてきたのだろう(ゴスペルは宗教的な意味とワークソングの両方の性格を持っている音楽だ)。
人が集団で動く時その行動を揃えるために「1、2、1、2」というリズムは必要不可欠な要素でそれが単なる掛け声だけでなくいつしか「音楽」に発展して行ったのも素直に頷ける。
オリバー・サックス博士の著作の中に「人はテンポとリズムについて非常に正確な記憶を持っている」というような文章があったように記憶しているけれど、きっとかけ算の「九九」なんか単なる数字の羅列ではなくそこにリズムが一緒にあるからこそしっかりと記憶できるのではないかと思う。

恵子の歩行訓練を見ていて時々ひざが後ろに引っ張られてひざがカクンとなってしまう時がある。
以前の病院からそのことは療法士さんから指摘されていた。
このひざの「かくっ」とひき戻される感覚は普通の人でも時々ある感覚で、私も歩くリズムが悪いと時々こんな感覚に襲われる。
右足と左足がきちんと「1、2、1、2」としっかりしたリズムで出ている限りはほとんど起こらない現象だが、歩調が何らかの拍子に乱れてしまうと足は途端に歩くことに混乱し始める。
毎日平行棒での訓練や杖とギブスをはめての歩行訓練でも、この「かくっ」という揺り戻しがないかどうか気をつけてみているが、最近少しずつこれが少なくなってきているようで少し「ホッと」している。
毎日いろいろな方の歩行訓練を観察しているが、リハビリの最終段階に近い方でもこの「膝の揺り戻し」を持ったままの人も時折見かける(言い方は悪いが、いわゆるビッコに見える歩き方だ)。
これがあるとあまり「普通の歩き方」に見えず、いかにも「病み上がり」のように見えてしまう。
一定のリズムで歩いているように見えないからだ。
こんなこと通常の生活の中でそれほど意識しないことかもしれないが、逆に言うとそれだけ人間の生活の中でリズムというのがいかに大事かということの証明でもある。
私たち人間の基本的なテンポとリズムが心臓の脈拍のテンポとリズムに支配されていることは自明のこと。
一分間に70~90前後のテンポで動く心臓とそこから送り出される血液の圧力があるからこそ私たちの音楽も「モデラート(これが70~90のテンポの本当の意味だろう)」というテンポが遅くもない早くもない「中ぐらいのテンポ」として素直に感じられるわけだ。

恵子の絵日記には毎日の食事のメニューもトイレの回数も克明に書かれている。その絵日記を見て今日はトイレの回数が少ないねと聞くと「今日はリハビリがびっしりあってけっこう行きそびれちゃった」という返事が返ってきた。
今週は恵子にとってトイレのテストウィークでもあるらしい。
「ちゃんとドアは一人で開けられたか?ドアは閉められたか?下着をちゃんと一人でおろせたか?トイレはちゃんと流せたか?」など細かいチェック項目が10個ぐらいあり、トイレのたびにそれが看護士さんたちにチェックされる。
FIM(functional independent measure)というリハビリの国際規格があってそこで決められている細かいチェック項目(トイレだけではない)の点数によって退院すべき時期が決められるわけで、今週は恵子も少し緊張しながらトイレに行っている。

リハビリを観察するようになってから意識的にカカトから靴をおろしてやや大股で歩くように心がけているのだが、病院から駅までの帰り道、自分の歩幅と後ろの女性のヒールの音が妙に同期しているのを感じてちょっと不思議な気持ちになった。
きっとそんなこと本当は不思議でも何でもないのかもしれないのだが。