みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

脳波で義手が動かせます

2011-11-07 21:12:05 | Weblog
というタイトルの新聞記事が先日朝日新聞の掲載されていてとても注目して読んだ。
要するに「頭で考えたイメージ通りに」義手が動くシステムを開発したということで、これはまさしく「脳が考えた通りに私たちの手や足や身体は動くんだ」ということ。
逆に言うならば、「人間がイメージできない動きを人間は行うことができない」ということにもなってくる。
今までこんなことはSFの世界でしか起こりえないことと思っていたことが現実に起こるようになっているのだが、これも良く考えれば「当たり前」のことなのかもしれない。
ことばを変えれば、「人間は考える葦であり」「我思うゆえに我あり」という哲学こそが科学であることの証明と言えないこともない。
ギリシャ・ローマ時代の多くの科学者は同時に哲学者でもあった。あるいは、同時に音楽家やアーティストでもあったわけで、それこそがまさしく「人の叡智」というのは「脳が考える」ということによって起こるんだということをこの新しい義手の開発は教えてくれている。
この義手の開発も当然手や足の不自由な人のためにという開発目的が当然あるわけだが、毎日病院で「右手で箸を持てるように」イメージしたり、「思い切り手を開いてパーの形を作る」ことをイメージしてもなかなか思うようにならない恵子のようなリハビリ患者にとってこの開発は一つの勇気を与えてくれる。
どう勇気を与えてくれるかというと、「身体を動かす」ということはやはり「イメージする」ことに他ならないということをこの義手が証明してくれたからだ。
「正しいイメージを持ってリハビリに臨めば」必ず結果はついてくる。
多くの療法士さんたちが、多くのリハビリ患者さんたちがそうあって欲しいと願うこのリハビリの基本コンセプトが正しかったことを確信させる開発でもある。

一方でこんな恐ろしいことも考えた。
頭の中でイメージしたことが全て具体的な動きになるのならば、「相手を殴りたい」とイメージすることが具体的なパンチになり得るのかも?とも思えるからだ。
それってゲーム?とも思えるが、これは仮想ゲームなどではなく、もっとシリアスな現実として起こりえることだ。
相手をイメージで殴るということよりも、実際は、「チャンネルを換えたいとイイメージしただけでそのチャンネルにスイッチングできたり(こんなリモコンすぐにも開発されそうだ)」玄関のドアを「開けたいとイメージする」だけで実際にドアが開くことも可能なのでは?(これもあって不思議のない装置だ)と妄想は限りなく膨らむ。
となると、人間の妄想は究極にまで発展する。
私たち人間にもはや手や足といった「身体」など必要ないのでは?
全ては脳のイメージで決まるのなら人間に必要なのは脳だけになるのでは?というそれこそSFチックな妄想が広がってくる。
昔の映画に、手と手をタッチするだけでセックスの快感が得られたり、匂いを感じたり、食べ物を食べる感覚が得られるという場面があったが、そんなことひょっとしたら現実になるような時代は来るのだろうか?
まあ、いつか来てもオカシクはないな、とこの「脳波で義手を動かす」という技術の開発の記事を読んで私は思ってしまった。