みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

音楽療法にまつわる胡散臭さを

2011-11-16 23:29:02 | Weblog
どうやったら取り除けるのか?
というよりも、現在日本にある「音楽セラピー」は確かに胡散臭いし、はっきり言ってまがいものだと思う。
メジャーのレコード会社で長い間ディレクターをやっていた友人が言った「音楽療法って、音楽家になれなかった人たちがやっているちょっとマユツバもの」という表現があたらずとも遠からずだ。
まあ、そんな風に思われているからこそ日本では普及しないしいつまでたっても音楽療法士が国家資格になることはないのでは?とも思ってしまう。
じゃあ、音楽療法なんてどうでも良いシロモノかといったら「トンデモナイ」だ。
私は、数あるセラピーの中でもピカ一だと思っているし、これが何で世の中に普及しないのか不思議だと思っているのだが、なにしろ日本での現在の音楽療法のあり方そのものがきっとこれからもこの分野の普及をいつまでも遅らせるんだろうなと思っている。

音楽療法=軍歌、ナツメロ、演歌を聞いたり演奏したりすること。
あるいは、幼稚園のようなお遊戯的な音楽遊びをする、的なイメージを持っている人が多いが(実際似たようなものだ)、本来は、「レナードの朝」の著者のオリバー・サックス博士がやっているように、一人一人の年齢や国籍、環境、そして病気の種類によって細かく処方箋を作っていかなければいけないもののはず。
なのに、日本の場合、一律に「この音楽を聞かすと効果的ですよ」的なお仕着せがまかり通っている(一体何を根拠にそんなことを言っているのだろうか?)。
挙げ句の果てが列記としたお医者さんまでが「モーツァルトの高周波の音楽が最もヒーリング効果がある」と言い出す始末。
「おいおい、冗談じゃないよ。そんなことどうやってわかるんだよ」だ。
呆れてモノも言えない。
一度完全にガラガラポンをしない限りこの音楽療法ということばそのものにつきまとう「まがいもの、まゆつば」的なイメージをぬぐい去ることはできないだろう。
私がこれからやらなければいけない仕事はきっとその辺からなのかもしれない。
本を出版するだけでなく、もっと世の中的に「違いますよ、本当はそんなものじゃありませんよ」的なプロパガンダをしっかりと行っていかなければならないのだろう。

大体において、目に見えないものに価値を見いだそうとしないのが日本人の特性だ。
基本的に「イメージ」という能力で作られるアーティスティックなもの(抽象的なもの)はお金の価値と相容れないと考える人が多いのだ。
つまり抽象的な創造物(アーティスティックなもの)にお金の価値は似合わないといった議論や主張がこの何世紀の間にまことしやかに語られみんなそれに異を唱えることをせずに「そうだそうだ、芸術でお金は稼げない」の大合唱になってしまったのだと思う。
だが、これも「ちょっと待てよ」だ。
そもそも、貨幣経済そのものがバーチャルなものなんじゃないの?
お金の価値なんか時代や国の体制でいくらでも変わるわけで、お金という存在自体がすごくあやふやで抽象的なもの。
本来、人間にとって一番確かな価値交換は物々交換しかないわけで、この方法しかお互いのニーズが満たされて本当の意味でWinwinになれるものはないはず、なのに…?
人間はこんなあやふやなもの(お金)に頼って暮らしているわけで、人間ってある意味ほんとにアホな存在としか思えない(戦後すぐの物資のない時代、お金の価値はモノの価値から見たらほとんどナッシングだったわけで、それすらも今の日本人は忘れているのかもしれない)。
現在、実体経済を伴わない資本主義経済の矛盾が露呈している、なんて難しい議論は私にはよくわからないが人間が本当にバカな存在だということだけはよくわかる。
これから高齢化と共に重篤な病を抱える人間が間違いなく増える社会(世界中の国がこの問題を第一義的に考えているはずだ)で最も大切なものは何なのかを本気で考えないと間違いなく地球は「猿の惑星」になってしまうだろう(人間が滅びる原因が何であれ)。

でも、いつも困った時は出発点(原点)に戻るに限る。
人間はもともと「何だったのだろう?」「何を求めていたのだろう?」ということを考えていけばその答えとして「お金」になんか絶対に行き着かないはずだと私は思っている。
子供?愛情?地球? 自然?
いや、きっともっと確かなもののはずだ。
水、火、土、食べ物…きっとそんな身近な当たり前のものに違いない。
そういう視点で音楽を見る時いやがおうでも気がつくのが、人間のコミュニケーションの原点にこそ音楽があった、という事実だ。
人間は言葉を発明する前から音楽をコミュニケーションの道具として使っていた。
だからこそ、音楽は人を癒す道具としてとても有効なのだ(これこそが音楽療法の最も大事なコンセプトであり、音楽という存在そのものの最も大事なコンセプトでもある)。
そこに立ち返ることしか音楽を「人に生かす」「地球に生かす」道はないと思う。
いつの頃からか、音楽は「鑑賞物」になり「技術論」で全てが割り切られるようになってしまった。
もう一度音楽の「コミュニケーションツールとしての役割」を考えることは演奏家にとっても作曲家にとってもけっして無意味なことではないはずだ。

「英国王のスピーチ」

2011-11-16 00:07:41 | Weblog
という映画を見直して気づいたことは一つや二つではなかった。
これこそまさしく日本の社会でも理解すべきリハビリテーションの正しい姿だし、単に吃音障害を直す言語聴覚士の話なんかじゃない(この映画のもとになった実話は二十世紀初頭の話だ)。
中でも重要なのは、この映画の主人公の「もぐりの」言語聴覚士(スピーチセラピスト)が吃音障害を持つ国王に歌を歌わせる場面だ。
失語症だろうがダウン症だろうがどんな言語障害を持つ患者も「ことばはきちんとしゃべれなくても歌は歌える」という事実をもっと重要に考えるべきなのでは?と思う。
これこそが音楽が人間に及ぼす作用の最も顕著な例の一つだからだ。
音楽療法は既に第一次世界大戦後からその歴史が始まっている。
『英国王のスピーチ』のモデルとなったジョージ6世の時代だ。
しかしながら日本の言語聴覚療法の現場で「うた」というのは果たして正式な治療方法の一つになっているのだろうか?
少なくとも恵子が受けた治療にそんなやり方は一回もなかったような気がする(彼女はいつも下らないクイズばかりやらされていたが、恵子以外では一般的にやられている方法なのだろうか?)。

以前にも書いたが、リハビリの現場で療法士の人たちがあまりにも若いというのは本当に気になるところ。
若いということは技術や感性は別にして経験値は圧倒的に不足しているということでもある。
医療やリハビリにおいて患者本人や家族が一番欲しいのは希望と安心だ。
この2つを専門学校を出ただけの若い療法士さんたちが与えていくことができるのだろうか?と本気で思う(専門学校でもいちおう4年間のコースではあるのだが)。
英国王のセラピストはかなり経験値の豊富な年輩の人だった(しかも元役者)。
だからこそできる部分も多いはずだ。
介護にだって同じことが言える。
そして一番大事なことは人が人をステレオタイプで見ないこと。判断しないことだ。
人間の一人一人、患者の一人一人はまったく異なる問題と解決方法を持っているはず。
それを「この病気にはこの方法、この薬」という風に機械的にマニュアル的に治療なんかできるはずがない。
だとしたら、患者を扱う人間にこそ高い見識と柔軟な対応能力が必要なのではないかと思う。
今日も恵子の手指のむくみについて療法士さんに原因と治療法を尋ねたが納得のいく応えは得られなかった。
経験不足だけで済ませられる問題でもないような気がする。