を今日行なった。
私としては、急性期の病院ではあまり感じなかった麻痺した右手のむくみが気になっているのでそれについて尋ねると「脳卒中の患者には良くある症状」だという。
では「その原因は?」と聞くと「それはまだ良くわかっていない」という説明。
まあ、まだ良く解明できていないことならそれはそれで良いのかもしれないが、ただ、私が「一般的なむくみは静脈やリンパ液がスムーズに流れなくなって細胞と細胞の間に余分な水が溜まってしまうことだと思うんですけどこのむくみも仕組みは同じなのですか?」と素人知識で尋ねるとお医者さんは「そうではない」と否定する。
え?否定できるのならわかっているっていうこと...?
でも、それ以上突っ込むのはやめた。
私がもう一つ尋ねたかった療法士さんたちの治療に対する説明の不十分さも「よく言っておきます」で終わってしまった。
主治医の先生は本当にやさしく丁寧に説明はしてくださるのだが、実際に患者のリハビリの面倒を見ている療法士さんや看護士さんたちの意見や報告を集約して私に伝えている感も若干ある(リハビリ病院の主治医というのはきっとそんな役割なのかもしれないが)。
そこで、「これからの治療の行程表みたいなものを示していただけますか?」と尋ねる(原発がいつ収束するかの工程表とは意味合いが違うが、目的に向かうタイムスケジュールを知ることはとても大事なことだと思う)。
「恵子さんは他の患者さんたちのスピードよりもどちらかというと早めの回復です」と言う。
では、いつ頃こうなっていつ頃こうなっているのかといった予測はたてられますか?すごくおおまかでいいですから時期とか教えてくださいますか?と尋ねると、案の定具体的な日にちは明言しようとしない。
まあ、そうだろうなとは思う。
なので、「この病院では通常の理学療法、作業療法、言語聴覚療法以外の療法でリハビリを行ったりするつもりはこれから先ないですか?」というもう一つの質問は出せなかった(そんな質問をするような雰囲気ではなかったのが正直なところ)。
私の本当の関心は「医学と音楽」がどれだけきちんと結びつけられるのかという問いにある(つまり、本当はそこを先生に聞いてみたかったのだが)。
一般的に「胡散臭い」と思われている音楽療法が胡散臭くなくなるためには、音楽療法が医療であるという認識が音楽家にも世の中の人にも絶対に必要だと私は思っている(それがなかったら音楽療法なんてこの世に存在する価値はない)。
私は基本的には「音楽は科学だし哲学」だと思っている人間なので音楽が医療の役割を担うことに何の不思議も感じない。
むしろ、音楽が単なる鑑賞物であると考える方が私にはしっくりこない(人類の歴史の中で音楽が鑑賞物として考えられるようになってまだたかだか数百年だ)。
ここは「音楽とは一体何なのか」というそもそも論から始めなければならないだろう。
きっとこの問いかけを始めると「音楽はアートである」とか「音楽はエンターテイメントである」とかいった十年一日のごとく続いている二者択一的な不毛な議論に行き着いてしまうかもしれないので、問題をその論点で語るよりももっとそもそもの「人間になんで音楽は必要なの?」といったポイントで私はいつも考えるようにしている。
人間に音楽は必要か?
そりゃ必要だから「ある」のでしょう。
でもなぜ必要なのかの答えを用意できる人は意外と少ない(私はその答えを探すためにこれまでに何冊も本を書いてきたつもりだ)。
No life, No music というレコード屋のキャッチコピーは「音楽がないと生きられない」といったナイーブな意味あいなんかじゃけっしてなくって、単に「音楽売れないと私たち生活できません」という企業の本音でしかない。
でも、それはそれでいい。
一番大事なのは本気で「音楽のない生活」というものを想像してそこに人間がどうコミットできるかを考えることだ。
あるいはイメージすることかもしれない(そこで本気でNo life, no musicと言えるかどうかだ)。
医者と患者には一線が敷かれているべきだという権威主義的な考えを真っ向から否定して「笑い」で患者を癒していった映画『パッチ・アダムス』の主人公のような素晴らしい医者(「アメリカ版赤ひげ先生」のような人だ)のように「人生」から「権威」を取っ払った時に何が残るか、何が必要かを本気で考えるべきだろう。
「笑い」を治療に使ったパッチ・アダムスという人にも、音楽の力を信じひたすらそれを治療に使い続けているオリバー・サックスというお医者さんにも「権威」という二文字は存在しなかったはずだ。
「本気」と「権威」はけっして相容れない。
私としては、急性期の病院ではあまり感じなかった麻痺した右手のむくみが気になっているのでそれについて尋ねると「脳卒中の患者には良くある症状」だという。
では「その原因は?」と聞くと「それはまだ良くわかっていない」という説明。
まあ、まだ良く解明できていないことならそれはそれで良いのかもしれないが、ただ、私が「一般的なむくみは静脈やリンパ液がスムーズに流れなくなって細胞と細胞の間に余分な水が溜まってしまうことだと思うんですけどこのむくみも仕組みは同じなのですか?」と素人知識で尋ねるとお医者さんは「そうではない」と否定する。
え?否定できるのならわかっているっていうこと...?
でも、それ以上突っ込むのはやめた。
私がもう一つ尋ねたかった療法士さんたちの治療に対する説明の不十分さも「よく言っておきます」で終わってしまった。
主治医の先生は本当にやさしく丁寧に説明はしてくださるのだが、実際に患者のリハビリの面倒を見ている療法士さんや看護士さんたちの意見や報告を集約して私に伝えている感も若干ある(リハビリ病院の主治医というのはきっとそんな役割なのかもしれないが)。
そこで、「これからの治療の行程表みたいなものを示していただけますか?」と尋ねる(原発がいつ収束するかの工程表とは意味合いが違うが、目的に向かうタイムスケジュールを知ることはとても大事なことだと思う)。
「恵子さんは他の患者さんたちのスピードよりもどちらかというと早めの回復です」と言う。
では、いつ頃こうなっていつ頃こうなっているのかといった予測はたてられますか?すごくおおまかでいいですから時期とか教えてくださいますか?と尋ねると、案の定具体的な日にちは明言しようとしない。
まあ、そうだろうなとは思う。
なので、「この病院では通常の理学療法、作業療法、言語聴覚療法以外の療法でリハビリを行ったりするつもりはこれから先ないですか?」というもう一つの質問は出せなかった(そんな質問をするような雰囲気ではなかったのが正直なところ)。
私の本当の関心は「医学と音楽」がどれだけきちんと結びつけられるのかという問いにある(つまり、本当はそこを先生に聞いてみたかったのだが)。
一般的に「胡散臭い」と思われている音楽療法が胡散臭くなくなるためには、音楽療法が医療であるという認識が音楽家にも世の中の人にも絶対に必要だと私は思っている(それがなかったら音楽療法なんてこの世に存在する価値はない)。
私は基本的には「音楽は科学だし哲学」だと思っている人間なので音楽が医療の役割を担うことに何の不思議も感じない。
むしろ、音楽が単なる鑑賞物であると考える方が私にはしっくりこない(人類の歴史の中で音楽が鑑賞物として考えられるようになってまだたかだか数百年だ)。
ここは「音楽とは一体何なのか」というそもそも論から始めなければならないだろう。
きっとこの問いかけを始めると「音楽はアートである」とか「音楽はエンターテイメントである」とかいった十年一日のごとく続いている二者択一的な不毛な議論に行き着いてしまうかもしれないので、問題をその論点で語るよりももっとそもそもの「人間になんで音楽は必要なの?」といったポイントで私はいつも考えるようにしている。
人間に音楽は必要か?
そりゃ必要だから「ある」のでしょう。
でもなぜ必要なのかの答えを用意できる人は意外と少ない(私はその答えを探すためにこれまでに何冊も本を書いてきたつもりだ)。
No life, No music というレコード屋のキャッチコピーは「音楽がないと生きられない」といったナイーブな意味あいなんかじゃけっしてなくって、単に「音楽売れないと私たち生活できません」という企業の本音でしかない。
でも、それはそれでいい。
一番大事なのは本気で「音楽のない生活」というものを想像してそこに人間がどうコミットできるかを考えることだ。
あるいはイメージすることかもしれない(そこで本気でNo life, no musicと言えるかどうかだ)。
医者と患者には一線が敷かれているべきだという権威主義的な考えを真っ向から否定して「笑い」で患者を癒していった映画『パッチ・アダムス』の主人公のような素晴らしい医者(「アメリカ版赤ひげ先生」のような人だ)のように「人生」から「権威」を取っ払った時に何が残るか、何が必要かを本気で考えるべきだろう。
「笑い」を治療に使ったパッチ・アダムスという人にも、音楽の力を信じひたすらそれを治療に使い続けているオリバー・サックスというお医者さんにも「権威」という二文字は存在しなかったはずだ。
「本気」と「権威」はけっして相容れない。