みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

面会時間の終了とともに病院を後にして

2011-11-08 22:10:49 | Weblog
電車に乗っているとメールがやってきて誰かと見ると恵子からのCメールだった。
「初メール 元気?」とある。
さっき別れたばかりだ。
これまでは彼女の携帯をずっと私が預かっていたが、今日入院以来初めて彼女の病室に置いてきた。
やっと片手で携帯が操作できるので「置いておいて」という彼女のことばで携帯を置いてきたばかりだ。
もちろん、携帯を操作すること自体が以前から不可能だったわけではないが、多分その気力がなかったのだ。
でもやっと彼女に「その気」が出てきたということだろう。
「初メール」ということばがやけに嬉しかった。

リハビリは階段を一歩ずつ上っていくようなもので、何か一つステップを上がった実感を持てることが最大の喜びになる。
今日のステップ、それは一本足の杖で歩けるようになったことだろう。
これまで使っていたのは4本足の杖。
タコの足とまではいかないがいかにも頑丈に「支えてます」という風情の4本足の杖を使っていた恵子が今日は初めての一本足の杖に挑戦した。
普通、私たちが街中で見る「杖」というのはこの一本足の杖のことだが、これに「一体いつ持ち換えられるのだろう?」と思っていた矢先でこれはとても嬉しい出来事だった。
足の不自由な患者にとって4本足と1本足は天と地ほども違う(らしいがもちろん私にはその実感はない)。
それでも、恵子は一本足の杖をわりと難なくこなしていた。
腰や足そのものに大分筋肉がついてきたのだろう。
心配されるふらつきもほとんどなかったので安心した。

それにしても、それにしてもだ。
毎日リハビリの様子を観察するにつけ私のこれまでの思いは日増しに確信へと変わっていく。
「何かが足りない」
「何かが根本的にこの現場には足りない」といつも感じている。
理学療法士さんのやっていること、作業療法士さんのやっていること、言語聴覚士さんのやっていること。それらはまったく問題ないと思う。
しかし、いつも「何か違う」と感じる。
それは彼らの「若さ」にも一つ原因があるのでは?と思っている。
介護の現場でもこういうリハビリの現場でも実際に働いている人たちは本当に若い。20代30代が主流なのではないかと思う。
「若くなきゃできないよ」という側面は確かにある。
それは現実に身体の不自由な人を自分の身体を張って支えたり治療しなければならないのだからまず第一に「体力」が必要だ。
これは間違いなくそうだろう。
ただ、それだけでいいのだろうか?
ほとんど自分の祖父、祖母の年代の人たちの治療をしなければならないこの「若い人たち」に本当の意味で「患者の心のケア」ができるのだろうか?と真面目に思ってしまう。
本来、リハビリの必要な患者さんにも介護を必要な人たちにも必要なものは「生きる希望」「治る希望」なはずだ。
ケアされるご本人がこの「生きる希望」と「治る希望」を持てなくては実際に治るものも治らないし、平安な生活も過ごすことは到底できない。
にもかかわらず、私が毎日目にしている光景は、若い療法士さんたちが「暖簾に腕押し」のような形で一方的に治療を施し、「これをやってください、あれをやってください」と指示をしている光景だ。
本当にこれでいいのだろうか?と毎日思う。
本当に大事なのはご本人の「やる気」なはずなのに、リハビリの治療はそんなことはおかまいなしに淡々と続けられる。
いや、おかまいなしにというのは語弊がある。これでは療法士さんたちが無理矢理治療をしているように聞こえるが実際はそうではない。
本当に親身になって患者さんたちを治そうと努力している。
しかし、しかしだ。
この療法士さんたちと患者さんたちの間にどれだけのコミュニケーションと「心の対話」ができているのだろうか?といつも疑問に思う。

病気を治すのは薬でも医者でもないというのが私の根本的な考えだ。
本人に治そう、治りたいという「意志」が出発点でもあり最終的なゴールでもあると私は思っている。
手塚治虫の漫画の『ブラックジャック』にブラックジャックの家の縁の下に迷い込んだ猫の親子が傷ついた瀕死の子猫を母親猫がひたすら舐めて完治させてしまうという話がある。
ブラックジャックも「手遅れ」だと言ってサジを投げた猫が母親の看護で奇跡的に治った話だが、私はこの話が「医療」というものの本質を見事に表現していると思っている。
リハビリ病院だけでなく、「意志の力」というものをもっと大事にする病院がもっと増えてくれないだろうかと心から願っている。
人にとって最も大事なことを本当に忘れないで欲しいと願う。
そう思っている矢先に週刊朝日の広告の「手術が増えた<いい病院>」という見出しが目に入ってきた。
冗談じゃない。
手術が増えるのがいい病院のはずがないじゃないか。
この週刊誌の見出しをこう書き換えて欲しい。
「手術が増えた<儲けた病院>」と。
「いい病院」とは「患者に生きる希望を与える病院」に決まってるじゃないか。