国の医療や介護の制度についてとやかく言い出したらキリがない。
ただ従順にそれに従っているつもりはないけれど、とりあえず、今月から恵子のリハビリが、医療保険の通院リハビリから療法士が自宅を訪問する「訪問リハビリ」に切り替わった。
訪問リハビリは、制度上介護保険を使う治療。
療法士さんがやること(やるべきこと)はまったく変わらないのに、通院リハビリでは医療保険が、訪問リハビリは介護保険が適用される。
役人の考えることだから現場のことなんか考えていないのは明らかだが、国は、なるべく医療保険は使わせずに介護保険を使わせようとする。
この流れの中での今回の「訪問リハビリ」へのシフトだ。
私としては、もしこの「訪問リハビリ」がうまくいかなかったら元の医療保険に強引に戻させるつもりで、とりあえず「様子を見よう」的なスタートだった。
ただ、恵子のリハビリの面倒を見てくれる理学療法士はとても好感の持てる男性で、まだ一回だけの治療だが恵子との相性も悪くない。
私としては、そこが一番のポイントだった。
これまでに何人もの療法士の治療を受けてきたけれども、恵子は概して男性療法士との相性が良い。
曰く、男性の方が「ハッキリ言うから好きだ」ということらしい。
彼女の性格ゆえだろう。
彼女の病気の発症からまる4年の月日が過ぎた。
今さらとやかく言うことではないが、発症直後は私も恵子もこの病気をかなり甘く見ていた。
当の本人にも病気の重大性の認識はまったくなかったようだ。
彼女は、(自分の右の手足がまったく動かなかったにもかかわらず)ひと月もすればまた仕事に復帰できるぐらいに考えていたのだから今考えるとトンデモない話だ。
私は私で、まあ悪くてもせいぜい(完治まで)一年ぐらいかナといった認識だったのだから、夫婦揃って似たり寄ったりだ。
で、この間、いろんな体験をすると同時にたくさんのことを勉強した。
目の前に起こっている「現実」はすぐさま「体験値」になる。
しかし、その理由や意味を知るにはある程度の勉強が必要だ。
この国の医療制度、介護制度から病気の知識、そして介護のノウハウまでひたすら勉強した。
しかし、いくら時間をかけても絶対に勉強できないものもある。
それは、「人の気持」。
自分自身も介護施設での音楽を仕事にするようになり、たくさんの施設を回ったり、介護に従事する人たちと交流することによって「介護の現実」を知れば知るほど私たちが「忘れている」ことにだんだん気づくようになってきた。
それは、考えれば当たり前のことだし、日本よりもはるかに福祉の先進国である北欧の福祉に対する考え方を見ればすぐにわかることなんだけれども、人はとかく目の前に起こっていることにだけに目を奪われて本質的なことを「置き去り」にしてしまう。
先日の訪問リハビリが初回ということもあり、担当のケアマネ-ジャーのKさんも一緒にリハビリを見学していた。
リハビリ最中、Kさんが、恵子の使っている車椅子の上に置かれたクッションカバーを見るとヒソヒソ声で私に話しかけてきた。
「検査受けましたか?」。クッションの上を私が透明のビニールカバーでスッポリと覆っていたからだ。
「いえ、本人が行きたくないというのでまだ行ってません。S先生には相談はしたんですが…」と私は、リハビリ病院主治医のS医師の名前を出した。
「でも、S先生は脳神経科でしょう?」とKさん。
つまり、S先生では専門外だからわからないでしょうということを彼女は暗に言っているのだが、そんなことはこっちも先刻承知だ。
だから、泌尿器科での受診を恵子本人に何度も持ちかけるのだが、恵子は頑として首をタテにふらない。
彼女は「大丈夫」としか応えない。
もちろん泌尿器科の検査はそう楽なものでも簡単なものでもない。
私もそれなりに勉強した。
女性の身体が男性よりもはるかにデリケートなものだということも十分理解した。
そして、こういう症状は女性には多かれ少なかれそれほど珍しいことではないし、特に恵子のように脳の病気にかかった人間にとってそれほど珍しい症状ではないことも十分に理解できた。
だからこそ、「検査して治療を受けた方がよいのでは」と私も思ったし、Kさんもそう思っている。
しかし、…。
私は、この問題こそ「本当の介護」にしようと思って、とりあえず保留にした。
この半年間、彼女に「泌尿器科に行こうか?」と誘っても「大丈夫」という返事が返ってくるだけ。
本人がコントロールできていないのに大丈夫も何もないと思うのだが、本人が大丈夫と言っている以上私は彼女のことばを尊重する。
彼女は脳の病気になったとはいえ、その思考や記憶に関する限り極めてクリアだ。
頭脳の明晰さにかけては多分私以上だろう。
彼女が治療したければ治療するし、検査を受けたいと思えば検査を受けるだろう。
全ては彼女の気持次第ということだ。
私の言う「本当の介護」とはこういうことだ。
私は彼女のために食事も三度三度作るし(栄養のバランスと血圧、血糖値を考えてのメニュー作りは毎食の課題だ)、掃除洗濯もヒマさえあればやっている。
お風呂の介助もする。
その他いろいろ身の回りのケアも常にしているのだが、私はそんなことが介護だとは思っていないし思いたくもない。
私の言う介護とは、介護される人の気持をどれだけ考えられるかということ。
彼女には、ふだんいろいろなことで私に迷惑をかけているという意識がどこかにある(はずだ)。
時々そんな思いが堰を切ってあふれだすのか突然泣き出すこともある。
彼女の心はいつも「不安」の波でおぼれそうになっているのだ。
ちょっとでも刺激を与えればたちまちポキっと音を立てて折れてしまうぐらい彼女の心は脆弱になっている。
私にとって一番大事なことは、そんな彼女が毎日「平穏な心で楽しく暮らしていける」こと。
そして、それは私にとっても一番大事なこと。
彼女の心の平安なくして私の心の平安もない。
多分、介護ってそういうことなんじゃないかナといつも思っている。
「ああ、大変だ、大変だ!」と思うと余計に大変になってくる。
要は、どれだけ「普通に」暮らせるかということ。
世の中の認知症患者の方の家族もさまざまな問題を抱えているわけだが、そうした人たちも問題をあまり深く考えない方が良いのではと私はいつも思っている。
だって、年取りゃ人間ボケるのは当たり前。ぐらいに考えていた方が良いんだけどナ...(若年性アルツハイマーは、問題が別だが)
認知症ケアの一つにヴァリデーションケアというメソッドがある。これはおおまかに言うと、患者の気持(言動も含めて)を全てそのまま受け入れるというやり方。
実はこの方法、認知症だけでなくおそらくどの病気にも、どの介護にも有効な方法だ。
まず相手の気持を考えること。
私の場合は、まず恵子のこと。
この「基本」があれば、多分大体の問題は解決できるような気がしている。
例えば、認知症の人が「アンタ私のお金取ったでしょ」と言いがかりをつけてきたり(これはよくあること)「そこに誰かいる」と妄想を言い始めたって(これもよくある)「そんなバカな!」と反論や反発をしなければ案外「気持」はスーっと収まってしまうかもしれない。
そうした話をいつも聞かされる介護者も「ああ、またこの話か」とハナから拒絶せずに真剣に耳を貸した方がよい(認知症患者の話は、いつも同じようでいて案外微妙に変わっているからだ)。
誰かのケアをするということは、誰かの人生とつきあっていくということ。
もちろん、そこに関わる自分自身の人生もある。
だから、人をケアすることで「自分の時間が奪われる!」と思うと自分は「被害者」でしかなくなってしまうけれども、よくよく考えれば人は他者の人生から何かを得ることの方がはるかに多いのだ。
人の介護をして自分が損をしていると感じている人はこの部分を忘れているし、ひょっとして、人に何かを「してあげられる」ことの方がはるかに幸せだ、ということに気づいていないのかもしれない。
だって、人に何かをしてあげられるということは、人よりも「余計に(何かを)持っている」わけだから、それだけ自分の方が幸せってこと(じゃないのかなあ?)。
このことを北欧の国の人たちは、もう何十年も前に気づいていたのだと思う。
だから、福祉先進国のデンマークやスウェーデンでは「介護」ということばはあまり使われない。
だって、「人のお世話をすること」って、単に「人の気持を思いやれば済むこと」だったりするからだ。
「介護する」「介護される」というロジックでものごとを考えてしまうと、必ずどちらかが「被害者(犠牲者)」になってしまうけれども、もともと介護する人もされる人も同じ人間。
自分が車椅子に座って上から目線で「ああしろ、こうしろ」と言われたらどう感じるのか。
それとも、相手が車椅子の前に跪いてじっと手を握って自分の話を真剣に聞いてくれたらどう感じるのか。
そんなちょっとした「想像力」を持つだけで、介護なんて「ただの日常」に変わるのにナといつも恵子と暮らしながら思っている。
ただ従順にそれに従っているつもりはないけれど、とりあえず、今月から恵子のリハビリが、医療保険の通院リハビリから療法士が自宅を訪問する「訪問リハビリ」に切り替わった。
訪問リハビリは、制度上介護保険を使う治療。
療法士さんがやること(やるべきこと)はまったく変わらないのに、通院リハビリでは医療保険が、訪問リハビリは介護保険が適用される。
役人の考えることだから現場のことなんか考えていないのは明らかだが、国は、なるべく医療保険は使わせずに介護保険を使わせようとする。
この流れの中での今回の「訪問リハビリ」へのシフトだ。
私としては、もしこの「訪問リハビリ」がうまくいかなかったら元の医療保険に強引に戻させるつもりで、とりあえず「様子を見よう」的なスタートだった。
ただ、恵子のリハビリの面倒を見てくれる理学療法士はとても好感の持てる男性で、まだ一回だけの治療だが恵子との相性も悪くない。
私としては、そこが一番のポイントだった。
これまでに何人もの療法士の治療を受けてきたけれども、恵子は概して男性療法士との相性が良い。
曰く、男性の方が「ハッキリ言うから好きだ」ということらしい。
彼女の性格ゆえだろう。
彼女の病気の発症からまる4年の月日が過ぎた。
今さらとやかく言うことではないが、発症直後は私も恵子もこの病気をかなり甘く見ていた。
当の本人にも病気の重大性の認識はまったくなかったようだ。
彼女は、(自分の右の手足がまったく動かなかったにもかかわらず)ひと月もすればまた仕事に復帰できるぐらいに考えていたのだから今考えるとトンデモない話だ。
私は私で、まあ悪くてもせいぜい(完治まで)一年ぐらいかナといった認識だったのだから、夫婦揃って似たり寄ったりだ。
で、この間、いろんな体験をすると同時にたくさんのことを勉強した。
目の前に起こっている「現実」はすぐさま「体験値」になる。
しかし、その理由や意味を知るにはある程度の勉強が必要だ。
この国の医療制度、介護制度から病気の知識、そして介護のノウハウまでひたすら勉強した。
しかし、いくら時間をかけても絶対に勉強できないものもある。
それは、「人の気持」。
自分自身も介護施設での音楽を仕事にするようになり、たくさんの施設を回ったり、介護に従事する人たちと交流することによって「介護の現実」を知れば知るほど私たちが「忘れている」ことにだんだん気づくようになってきた。
それは、考えれば当たり前のことだし、日本よりもはるかに福祉の先進国である北欧の福祉に対する考え方を見ればすぐにわかることなんだけれども、人はとかく目の前に起こっていることにだけに目を奪われて本質的なことを「置き去り」にしてしまう。
先日の訪問リハビリが初回ということもあり、担当のケアマネ-ジャーのKさんも一緒にリハビリを見学していた。
リハビリ最中、Kさんが、恵子の使っている車椅子の上に置かれたクッションカバーを見るとヒソヒソ声で私に話しかけてきた。
「検査受けましたか?」。クッションの上を私が透明のビニールカバーでスッポリと覆っていたからだ。
「いえ、本人が行きたくないというのでまだ行ってません。S先生には相談はしたんですが…」と私は、リハビリ病院主治医のS医師の名前を出した。
「でも、S先生は脳神経科でしょう?」とKさん。
つまり、S先生では専門外だからわからないでしょうということを彼女は暗に言っているのだが、そんなことはこっちも先刻承知だ。
だから、泌尿器科での受診を恵子本人に何度も持ちかけるのだが、恵子は頑として首をタテにふらない。
彼女は「大丈夫」としか応えない。
もちろん泌尿器科の検査はそう楽なものでも簡単なものでもない。
私もそれなりに勉強した。
女性の身体が男性よりもはるかにデリケートなものだということも十分理解した。
そして、こういう症状は女性には多かれ少なかれそれほど珍しいことではないし、特に恵子のように脳の病気にかかった人間にとってそれほど珍しい症状ではないことも十分に理解できた。
だからこそ、「検査して治療を受けた方がよいのでは」と私も思ったし、Kさんもそう思っている。
しかし、…。
私は、この問題こそ「本当の介護」にしようと思って、とりあえず保留にした。
この半年間、彼女に「泌尿器科に行こうか?」と誘っても「大丈夫」という返事が返ってくるだけ。
本人がコントロールできていないのに大丈夫も何もないと思うのだが、本人が大丈夫と言っている以上私は彼女のことばを尊重する。
彼女は脳の病気になったとはいえ、その思考や記憶に関する限り極めてクリアだ。
頭脳の明晰さにかけては多分私以上だろう。
彼女が治療したければ治療するし、検査を受けたいと思えば検査を受けるだろう。
全ては彼女の気持次第ということだ。
私の言う「本当の介護」とはこういうことだ。
私は彼女のために食事も三度三度作るし(栄養のバランスと血圧、血糖値を考えてのメニュー作りは毎食の課題だ)、掃除洗濯もヒマさえあればやっている。
お風呂の介助もする。
その他いろいろ身の回りのケアも常にしているのだが、私はそんなことが介護だとは思っていないし思いたくもない。
私の言う介護とは、介護される人の気持をどれだけ考えられるかということ。
彼女には、ふだんいろいろなことで私に迷惑をかけているという意識がどこかにある(はずだ)。
時々そんな思いが堰を切ってあふれだすのか突然泣き出すこともある。
彼女の心はいつも「不安」の波でおぼれそうになっているのだ。
ちょっとでも刺激を与えればたちまちポキっと音を立てて折れてしまうぐらい彼女の心は脆弱になっている。
私にとって一番大事なことは、そんな彼女が毎日「平穏な心で楽しく暮らしていける」こと。
そして、それは私にとっても一番大事なこと。
彼女の心の平安なくして私の心の平安もない。
多分、介護ってそういうことなんじゃないかナといつも思っている。
「ああ、大変だ、大変だ!」と思うと余計に大変になってくる。
要は、どれだけ「普通に」暮らせるかということ。
世の中の認知症患者の方の家族もさまざまな問題を抱えているわけだが、そうした人たちも問題をあまり深く考えない方が良いのではと私はいつも思っている。
だって、年取りゃ人間ボケるのは当たり前。ぐらいに考えていた方が良いんだけどナ...(若年性アルツハイマーは、問題が別だが)
認知症ケアの一つにヴァリデーションケアというメソッドがある。これはおおまかに言うと、患者の気持(言動も含めて)を全てそのまま受け入れるというやり方。
実はこの方法、認知症だけでなくおそらくどの病気にも、どの介護にも有効な方法だ。
まず相手の気持を考えること。
私の場合は、まず恵子のこと。
この「基本」があれば、多分大体の問題は解決できるような気がしている。
例えば、認知症の人が「アンタ私のお金取ったでしょ」と言いがかりをつけてきたり(これはよくあること)「そこに誰かいる」と妄想を言い始めたって(これもよくある)「そんなバカな!」と反論や反発をしなければ案外「気持」はスーっと収まってしまうかもしれない。
そうした話をいつも聞かされる介護者も「ああ、またこの話か」とハナから拒絶せずに真剣に耳を貸した方がよい(認知症患者の話は、いつも同じようでいて案外微妙に変わっているからだ)。
誰かのケアをするということは、誰かの人生とつきあっていくということ。
もちろん、そこに関わる自分自身の人生もある。
だから、人をケアすることで「自分の時間が奪われる!」と思うと自分は「被害者」でしかなくなってしまうけれども、よくよく考えれば人は他者の人生から何かを得ることの方がはるかに多いのだ。
人の介護をして自分が損をしていると感じている人はこの部分を忘れているし、ひょっとして、人に何かを「してあげられる」ことの方がはるかに幸せだ、ということに気づいていないのかもしれない。
だって、人に何かをしてあげられるということは、人よりも「余計に(何かを)持っている」わけだから、それだけ自分の方が幸せってこと(じゃないのかなあ?)。
このことを北欧の国の人たちは、もう何十年も前に気づいていたのだと思う。
だから、福祉先進国のデンマークやスウェーデンでは「介護」ということばはあまり使われない。
だって、「人のお世話をすること」って、単に「人の気持を思いやれば済むこと」だったりするからだ。
「介護する」「介護される」というロジックでものごとを考えてしまうと、必ずどちらかが「被害者(犠牲者)」になってしまうけれども、もともと介護する人もされる人も同じ人間。
自分が車椅子に座って上から目線で「ああしろ、こうしろ」と言われたらどう感じるのか。
それとも、相手が車椅子の前に跪いてじっと手を握って自分の話を真剣に聞いてくれたらどう感じるのか。
そんなちょっとした「想像力」を持つだけで、介護なんて「ただの日常」に変わるのにナといつも恵子と暮らしながら思っている。
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