一番大切なことは何か?といつも考えている。
それこそ、仕事をしている時も、料理を作っている時も、人と話しをしている時も、TVを見ている時も、それに、こうして何かを書いたり考えている時も。
逆に、そうしなければ、何一つできないんじゃないだろうかとさえ思う。
特に、私はいろいろなメディアやいろいろな場所で文章を書くことのプロだ。そのプロがモノを書く時に一番先に考えなければいけないことは、「人間にとって一番大切なことは何か?」ということだ。
それは、どんなことがテーマの文章であっても、それを明確にしない限りすべてウソの文章になってしまう。私にはそんな気がしてしょうがない。
私が考える「人間にとっての一番大切なこと」とは、「自由」と「責任」の2つしかない。
人間が自由にモノを考え行動できること。これ以上の素晴らしい権利はないし、これが守られる社会こそが人間にとって理想的な社会だとも思っている。
でも、同時に、その「自由」には必ず「責任」が一緒になければ何の意味も持たないとも思っている。
私は仕事としてモノを書いている以上、そこに責任が発生するのは当たり前。でも、そうでなくても、自由には必ず責任が果たされなければならないはずだ。
インターネットが普及して、今私がこうしてブログに何かを簡単な形で自由に書き込めるようになってきて、いわゆるプロのモノ書きでなくても「自由」に自分の意見や考えていることを発言できるようになってきた。
でも、そうした自由をみんなが得られたおかげで、もう一方の大事なこと、「責任」はまったくどこかに置き去りにされてしまったような気がする。
プロとアマチュアのモノ書きの根本的な違いは、何を書くかといった内容の違いではなく、書いた内容に対して「責任」をとれるかどうかの違いだと私は思っている。
私は、自分が雑誌や本で書いたことの一字一句に対して責任を持っている。どこをどう突っ込まれても反論できる、あるいは、受けてたつ覚悟でモノをいつも書いている。
だから私はどんなことも自由に書けるんだと思っている。
レコード会社から頼まれたからあるアーティストのCDを誉める文章を書く、なんてことをこれまでの人生で一度もしたことはない。したくもない。そんなことをするぐらいだったら、そんな仕事自体引き受けない。
私は、それが、たとえ、こういう仕事とはまったく関係のない「独白」のような文章でも、一字一句の責任は取るつもりで書いているし、そうするのが当たり前だと思っている。
でも、今世界中にどの瞬間も飛び交っているインターネット上の文章に対して、どれだけの人が責任をとる覚悟で書いたり情報をのせたりしているのだろうか?
インターネットという、こういう通信網に自分が発言するということは、自分の電話が盗聴されているのとまったく同じだという自覚をみんな持っているのだろうか?
いまこうして書いている私のこの文章は、世界中のどの人もどの機関ものぞくことができる。つまり、盗聴されていると同じことだ。それを承知で私は書いている。だから、誰がどう突っ込んで来ても、それに対する用意は自分の中にあるし、知られて困る情報は一切出さない。当たり前のことだ。
十八世紀は大衆の時代。十九世紀は天才の時代。二十世紀はプロフェッショナルの時代。二十一世紀はアマチュアの時代と言われている。
道具が整備されれば、さほど専門的な技術を持たなくても大抵のことは普通の人でもできるようになる。今や、ビデオカメラの性能が進歩したおかげで、素人でもちょっとした映画は作れるようになった。同じように、シーケンサーなどのソフトのおかげで今や小学生だってプロ顔負けの音楽作品が作れるような時代だ。でも、待てよだ。
小学生がバッハ並の作曲をしたって、彼や彼女らが自分の作品に責任を持てるのか?
家庭で勝手にいろんな番組を編集して新しい「オリジナル番組」を作りあげたその「作品」に彼や彼女らは責任を持つことができるのか?
このインターネット上に、今どんな情報や文章がどんな形で飛び交っているかなんて、およそ誰も管理はできないだろう。そんな無秩序な状態に対して唯一秩序を保つ方法があるとすれば、それは一人一人が自分の「自由」に対して「責任」を持つことぐらいしかないのではと私は思っている。
無責任に飛ばす情報や文章は、時に「暴力」と同じぐらい危険だ。というか、一発の弾丸よりも深く相手に致命傷をおわせることだってできる。
どんな人も自分発することばの一つ一つに「責任」を持って欲しいと思う。
それがない限り、ある人の「自由」は、ある人の「自由」を脅かすことになるのだから。
それこそ、仕事をしている時も、料理を作っている時も、人と話しをしている時も、TVを見ている時も、それに、こうして何かを書いたり考えている時も。
逆に、そうしなければ、何一つできないんじゃないだろうかとさえ思う。
特に、私はいろいろなメディアやいろいろな場所で文章を書くことのプロだ。そのプロがモノを書く時に一番先に考えなければいけないことは、「人間にとって一番大切なことは何か?」ということだ。
それは、どんなことがテーマの文章であっても、それを明確にしない限りすべてウソの文章になってしまう。私にはそんな気がしてしょうがない。
私が考える「人間にとっての一番大切なこと」とは、「自由」と「責任」の2つしかない。
人間が自由にモノを考え行動できること。これ以上の素晴らしい権利はないし、これが守られる社会こそが人間にとって理想的な社会だとも思っている。
でも、同時に、その「自由」には必ず「責任」が一緒になければ何の意味も持たないとも思っている。
私は仕事としてモノを書いている以上、そこに責任が発生するのは当たり前。でも、そうでなくても、自由には必ず責任が果たされなければならないはずだ。
インターネットが普及して、今私がこうしてブログに何かを簡単な形で自由に書き込めるようになってきて、いわゆるプロのモノ書きでなくても「自由」に自分の意見や考えていることを発言できるようになってきた。
でも、そうした自由をみんなが得られたおかげで、もう一方の大事なこと、「責任」はまったくどこかに置き去りにされてしまったような気がする。
プロとアマチュアのモノ書きの根本的な違いは、何を書くかといった内容の違いではなく、書いた内容に対して「責任」をとれるかどうかの違いだと私は思っている。
私は、自分が雑誌や本で書いたことの一字一句に対して責任を持っている。どこをどう突っ込まれても反論できる、あるいは、受けてたつ覚悟でモノをいつも書いている。
だから私はどんなことも自由に書けるんだと思っている。
レコード会社から頼まれたからあるアーティストのCDを誉める文章を書く、なんてことをこれまでの人生で一度もしたことはない。したくもない。そんなことをするぐらいだったら、そんな仕事自体引き受けない。
私は、それが、たとえ、こういう仕事とはまったく関係のない「独白」のような文章でも、一字一句の責任は取るつもりで書いているし、そうするのが当たり前だと思っている。
でも、今世界中にどの瞬間も飛び交っているインターネット上の文章に対して、どれだけの人が責任をとる覚悟で書いたり情報をのせたりしているのだろうか?
インターネットという、こういう通信網に自分が発言するということは、自分の電話が盗聴されているのとまったく同じだという自覚をみんな持っているのだろうか?
いまこうして書いている私のこの文章は、世界中のどの人もどの機関ものぞくことができる。つまり、盗聴されていると同じことだ。それを承知で私は書いている。だから、誰がどう突っ込んで来ても、それに対する用意は自分の中にあるし、知られて困る情報は一切出さない。当たり前のことだ。
十八世紀は大衆の時代。十九世紀は天才の時代。二十世紀はプロフェッショナルの時代。二十一世紀はアマチュアの時代と言われている。
道具が整備されれば、さほど専門的な技術を持たなくても大抵のことは普通の人でもできるようになる。今や、ビデオカメラの性能が進歩したおかげで、素人でもちょっとした映画は作れるようになった。同じように、シーケンサーなどのソフトのおかげで今や小学生だってプロ顔負けの音楽作品が作れるような時代だ。でも、待てよだ。
小学生がバッハ並の作曲をしたって、彼や彼女らが自分の作品に責任を持てるのか?
家庭で勝手にいろんな番組を編集して新しい「オリジナル番組」を作りあげたその「作品」に彼や彼女らは責任を持つことができるのか?
このインターネット上に、今どんな情報や文章がどんな形で飛び交っているかなんて、およそ誰も管理はできないだろう。そんな無秩序な状態に対して唯一秩序を保つ方法があるとすれば、それは一人一人が自分の「自由」に対して「責任」を持つことぐらいしかないのではと私は思っている。
無責任に飛ばす情報や文章は、時に「暴力」と同じぐらい危険だ。というか、一発の弾丸よりも深く相手に致命傷をおわせることだってできる。
どんな人も自分発することばの一つ一つに「責任」を持って欲しいと思う。
それがない限り、ある人の「自由」は、ある人の「自由」を脅かすことになるのだから。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます