みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

男性介護者

2016-05-04 13:48:40 | Weblog

つい数日前に大阪の七十代の男性が介護していた妻の首を締めて殺害したというニュースがあった(この手のニュースは今に始まったことではなく常に後をたたない)。

私自身、この介護者とまったく同じ立場の男性介護者。

私のまわりにも同じ立場の人はたくさんいる。

それどころか、日本中、いや世界中には連れ合いを介護する立場の男性はゴマンといるだろう。

では、そんな人たちみんなに同じような悲劇が訪れるのだろうか。

まあ、(可能性が)まったくないとは言えないだろうが、普通はそうならない。

多分、この問題の立て方(男性介護者という問題)、捉え方がまず違うような気がする。

介護は確かに社会問題だし、その問題は深刻だ。

しかし、このニュースを「介護問題」とか「男性介護者の特殊な事情」みたいな形で捉えると問題の本質を完全に見誤まる。

介護に疲れたから思いあまって殺してしまった、という風にとらえると「男性が一人で介護していて相当疲れたんだろう。だから、このなったもある程度理解できる」といった同情的な論評になるがこれは絶対にしない方が良い(でも、こういう捉え方をする人は多い)。

問題は男性だから女性だからではないと思うし、介護していたからでもない。

多分、たぶん…本当に多分なのだが、男性が女性を介護する時陥りやすい罠は、多分「プライド」。

プライドと言っても「オレ様はエライんだゾ」的なプライドではなく、「なんで私がこんな目にあわなきゃいけないの」的なプライド(この思考を「プライド」と考えない人が多いが、実は「自分だけは不幸にはならないし、なるべきではない」という意味でこの思考もかなりのプライド思考だ)。

この「自分だけが不幸」という文脈で物事を考え始めると既にもうそこは悲劇の一歩手前。

だって、このニュースの男性、身体の不自由な奥さんを介護し始めてまだ一年もたっていない方らしい。

私は5年。他に10年20年なんていう男性介護者はザラにいる。

でも、この方、たった数ヶ月で(絶対に陥ってはいけない)思考に陥ってしまった。

この方、多分(ここの「多分」は「確信」に近い)覚悟があまりなかったのではないかと思う。

つまり、一種の開き直りというか、「自分だって、他の大多数の人たちと同じ人間なんだから、人生どんなことが起こるかわからない」という意味での「納得」する心がなかったのではと思う。

「どうして自分は妻を介護しなきゃいけないのか... なんで毎日家事、介護に追われなきゃいけないのか…」。

このロジックにだけは絶対に陥らない方が良い。

男性は、一般的に家事や炊事には慣れていない人が多いが、それでも皆さん一生懸命それをこなしている。

たとえ料理に不慣れでも洗濯や掃除に不慣れでも先ほどの意味で開き直ってやっている。

それに、男性はイザとなるとけっこう優しい人が多い。

日常的に素直に愛情表現できない男性でも、こうした状況(介護をしなければならない立場)になると(連れ合いの方に)とても優しく接していこうとする人を私はたくさん知っている。

男性は女性よりも社会的地位を持っていた人が多いので、その「プライド」を捨てきれない人が多いが、要はできるだけ早くこの「プライド」を捨てて「一介護者」、「一人間」になりきることだ。

だから、このニュースを「介護の悲劇」とかいった文脈で私は見たくない。

そうではなく、これは、生きていく上での一人の男性と一人の女性の悲劇なのであって、けっして「介護」という悲劇ではないのだ。

介護も子育ても、仕事も、恋愛も所詮、宇宙の中のほんのちっぽけな地球という星の中の出来事じゃん。

何が偉くて、何が問題で、何がプライドなのかと言いたくなる。

どう生きるか、どう死ぬか。

人間の問題って結局これしかないわけで、それをきちんと整理して生きられる人が「幸せな人」なのではと思う。

「片付けることにトキメキなさい」と言った片付けコンサルタント近藤麻理恵さんのことばの本質はここかナと一人合点したりする(だから、彼女は「世界で最も重要な百人」の一人に選ばれたのかナ)。

「どう生きるか」「どう死ぬのか」、ここだけ片付けられれば人生の問題って99%片付いたようなものだし…、ネ。


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