このことばを額面通りに信じて良いのだろうかといつも思う。
そもそも,人の「悪意」と「善意」ってどこで区別されるのだろうか。
ことば通りに受け取れば「善意」は良い心で,「悪意」は悪い心。
きっとそういうことなのだろうが,私はまずここから疑ってみたいと思っている。
数日前,今年3月恵子の大腿骨骨折の手術をしていただいた病院に三ヶ月毎の定期検診に行った。
整形外科なので,レントゲンを取った後も診察までの待ち時間は半端ではなく,午前11時のアポ時間はとうに過ぎ私たちの受付番号が呼び出されたのは午後1時近くだった(前回もそれぐらい待たされた)。
診察室に入るなり担当の医師がいきなり私たちを叱責した。
「呼ばれたらすぐに入ってくれなければ困りますよ」。
え?と私も恵子も目を丸くしたが,私たちの番号が点灯する直前(ほんの二,三分ぐらい前だろうか),まだ私たちの番号は「次の次」という状況だったので安心していたらいつの間にか「ただいまの呼び出し番号は…」と私たちの番号に変わっていた。
何が起こったのかわからずあわてて診察室に入るといきなり先ほどの叱責だ。
まあ,こちらとしても何が原因であれ多少遅れたことは事実なのだろうから,昼ご飯も食べずに頑張っている先生の虫の居所が多少悪くてもひたすら謝るしかない。
まあ,そこまでは実害はなかったのだが,その後の展開が最悪だった。
先生は,レントゲンを見ながら私たちが最も恐れていたことばをアッサリと言い放ち,私たちの気持ちを一瞬のうちに奈落の底に突き落としてしまった(そのことばは,恵子の現在の足にとって「ガン告知」にも等しいことばなのだ)。
骨が弱っている,なかなか歩行がうまく行かない,….。
いろいろな心配事を恵子の頭はたくさんかかえここ数日暗くなっていた彼女の顔色がどんどん青くなっていくのがわかった。
「では,もしそうだとしたら,私たちはふだんの生活はどういう風に送れば良いのですか? 何を気をつければ良いのですか?」等々,普通の患者だったら当然聞きたくなるような事柄を医師に尋ねるが先生の答えはあまり要領を得ない。
むしろ,後がつかえているので…と(はさすがに言わなかったが)私たちを早く診察室から追い出したいような雰囲気さえ感じた。
おまけに,言うに事欠いて「痛む時は予約なしでもすぐに来るように」とおっしゃる。
そりゃそうでしょう。
普通,人が痛みに苦しんでいたらアポがあろうがなかろうがすぐさま病院に駆けつけるはずです。
別に,先生にそう言われなくても…。
結局,この日私たちが得たものは単なる「不安」だけで,「じゃあ,どうすれば良いのか」という答えは何も得られないままだった。
この病院は,私たちがふだんリハビリに通っている病院とは別の病院だ。
設備の整った,ある意味,大きな総合病院。
通院しているリハビリ病院にも整形外科はあるが,手術をできるほどの設備はなかったので私たちは仕方なくこの総合病院に行き手術を受け二ヶ月ほど入院したのだった。
今日は,週一回のリハビリ通院の日。
私は,リハビリ病院の整形外科の医師にセカンドオピニオンを求めた。
改めてレントゲンを撮った後,リハビリ病院の医師曰く「ううん,私はまだそんな最悪の状況にはなっていないと思いますよ。大丈夫ですよ。このままリハビリを続けてください」と笑顔で言ってくれた。
私が聞きたかったのはこういうことばだ。
病気のレベルがどうであれ,大事なのは私たちがふだん「どういう生活を送るのか,送れるのか,何をすべきで何をすべきではないか」ということ。
別に,レントゲン写真を患者に見せながら「ここの骨がこうなってああなって」という医学的説明はもちろん大事だろうが,もっと大事なのは「それでは私たちはどう生活すれば良いのですか?」ということ。
そこを言ってくれないことには,本当の意味での「診療」にはならないのではないだろうか。
それとも医師の役目は,ただ単に病状の説明と治療だけで,生活面のことは「自分たちで勝手に判断しろ」とでも言いたいのだろうか。
この話をこの(総合病院の)医師をよく知っている人にしたところ「いやあ,あの先生も悪気はなかったんだと思いますよ。ただ忙し過ぎてことばが多少足りなかっただけなんじゃないですか」と弁護した。
つまり,先生に「悪意はなかった」と言いたいらしい。
しかし,私たち夫婦はその先生から「不安」だけをもらい,本来医師が患者に与えなければいけない「安心」は何もいただいてはいない。
最近の医師は患者からクレームが来るのを恐れて,病気の見通しや状況を実際の予測よりも少し「悲観的」に伝えることが多い。
少しでも「ぬか喜び」をさせて現実にそうならなかった時にクレームが来るのを恐れるためだろう。
でも,そうしたリスクも含めて医師は患者に適切な処置と「心の平安」を与えるのが医療従事者としての最低限のラインなのではと思ってしまう。
「先生は悪意なくそう言っただけだろう…」。
では,逆に,悪意がないということが善意なのかナとも思ってしまう。
三年前,東日本大震災が起こった直後福島のある高校の避難所に演奏に行った時そこで働いていた若いボランティアの人たちから聞いたことばがとても気になった。
「いろいろなモノを支援物資として日本中から送ってこられるんですが,中には何でこんなモノを送ってくるのだろうと首をかしげるものがたくさんあるんです」と彼ら彼女らが説明してくれたのは,「被災者に衣類を」と言ってボロボロの古着を送ってくる人がいるのだということだった。
別に新品を送れとは言わないけれど,どう考えても(捨てようと考えていたとしか考えられない)古着を被災地に送ってくる人がいるのは,「これも善意なのだろうか?」とボランティアの人たちならずとも首をかしげたくなってくる。
きっと世の中には,「悪い善意」と「良い善意」の二種類が存在しているのかもしれない。
私が好きな『鬼平犯科帳』の中の鬼平のセリフに,「人間は良いことをしようとして悪いことをしてしまい,悪いことをしたつもりが結果として良いことをしてしまうものだ」という件がある。
もちろん,作者の池波正太郎さんのことばなのだろうが,人間が一番考えなければいけないのはやはりこのことなのかナと思う。
自分の考えが「善意」であっても,それがなかなか思う通りに「善意」としては通用しない。
それは,「相手の立場」にたっていないからだ。
人と人。人と自然。人と動物であっても,コミュニケーションというのは相手の立場をどれだけ思いやれるかにかかっている。
まず「相手」,それから「自分」。
だから,私は介護現場に音楽家が(善意のつもりで)ボランティアで演奏に行くことをあまり歓迎しない。
「音楽もコミュニケーション」。
「介護もコミュニケーション」。
「自己満足」にならずに相手のことを先に考える「コミュニケーション」が取れなければ,音楽も介護もその目的を十分に果たすことはできない。
私はそう思っている。
そもそも,人の「悪意」と「善意」ってどこで区別されるのだろうか。
ことば通りに受け取れば「善意」は良い心で,「悪意」は悪い心。
きっとそういうことなのだろうが,私はまずここから疑ってみたいと思っている。
数日前,今年3月恵子の大腿骨骨折の手術をしていただいた病院に三ヶ月毎の定期検診に行った。
整形外科なので,レントゲンを取った後も診察までの待ち時間は半端ではなく,午前11時のアポ時間はとうに過ぎ私たちの受付番号が呼び出されたのは午後1時近くだった(前回もそれぐらい待たされた)。
診察室に入るなり担当の医師がいきなり私たちを叱責した。
「呼ばれたらすぐに入ってくれなければ困りますよ」。
え?と私も恵子も目を丸くしたが,私たちの番号が点灯する直前(ほんの二,三分ぐらい前だろうか),まだ私たちの番号は「次の次」という状況だったので安心していたらいつの間にか「ただいまの呼び出し番号は…」と私たちの番号に変わっていた。
何が起こったのかわからずあわてて診察室に入るといきなり先ほどの叱責だ。
まあ,こちらとしても何が原因であれ多少遅れたことは事実なのだろうから,昼ご飯も食べずに頑張っている先生の虫の居所が多少悪くてもひたすら謝るしかない。
まあ,そこまでは実害はなかったのだが,その後の展開が最悪だった。
先生は,レントゲンを見ながら私たちが最も恐れていたことばをアッサリと言い放ち,私たちの気持ちを一瞬のうちに奈落の底に突き落としてしまった(そのことばは,恵子の現在の足にとって「ガン告知」にも等しいことばなのだ)。
骨が弱っている,なかなか歩行がうまく行かない,….。
いろいろな心配事を恵子の頭はたくさんかかえここ数日暗くなっていた彼女の顔色がどんどん青くなっていくのがわかった。
「では,もしそうだとしたら,私たちはふだんの生活はどういう風に送れば良いのですか? 何を気をつければ良いのですか?」等々,普通の患者だったら当然聞きたくなるような事柄を医師に尋ねるが先生の答えはあまり要領を得ない。
むしろ,後がつかえているので…と(はさすがに言わなかったが)私たちを早く診察室から追い出したいような雰囲気さえ感じた。
おまけに,言うに事欠いて「痛む時は予約なしでもすぐに来るように」とおっしゃる。
そりゃそうでしょう。
普通,人が痛みに苦しんでいたらアポがあろうがなかろうがすぐさま病院に駆けつけるはずです。
別に,先生にそう言われなくても…。
結局,この日私たちが得たものは単なる「不安」だけで,「じゃあ,どうすれば良いのか」という答えは何も得られないままだった。
この病院は,私たちがふだんリハビリに通っている病院とは別の病院だ。
設備の整った,ある意味,大きな総合病院。
通院しているリハビリ病院にも整形外科はあるが,手術をできるほどの設備はなかったので私たちは仕方なくこの総合病院に行き手術を受け二ヶ月ほど入院したのだった。
今日は,週一回のリハビリ通院の日。
私は,リハビリ病院の整形外科の医師にセカンドオピニオンを求めた。
改めてレントゲンを撮った後,リハビリ病院の医師曰く「ううん,私はまだそんな最悪の状況にはなっていないと思いますよ。大丈夫ですよ。このままリハビリを続けてください」と笑顔で言ってくれた。
私が聞きたかったのはこういうことばだ。
病気のレベルがどうであれ,大事なのは私たちがふだん「どういう生活を送るのか,送れるのか,何をすべきで何をすべきではないか」ということ。
別に,レントゲン写真を患者に見せながら「ここの骨がこうなってああなって」という医学的説明はもちろん大事だろうが,もっと大事なのは「それでは私たちはどう生活すれば良いのですか?」ということ。
そこを言ってくれないことには,本当の意味での「診療」にはならないのではないだろうか。
それとも医師の役目は,ただ単に病状の説明と治療だけで,生活面のことは「自分たちで勝手に判断しろ」とでも言いたいのだろうか。
この話をこの(総合病院の)医師をよく知っている人にしたところ「いやあ,あの先生も悪気はなかったんだと思いますよ。ただ忙し過ぎてことばが多少足りなかっただけなんじゃないですか」と弁護した。
つまり,先生に「悪意はなかった」と言いたいらしい。
しかし,私たち夫婦はその先生から「不安」だけをもらい,本来医師が患者に与えなければいけない「安心」は何もいただいてはいない。
最近の医師は患者からクレームが来るのを恐れて,病気の見通しや状況を実際の予測よりも少し「悲観的」に伝えることが多い。
少しでも「ぬか喜び」をさせて現実にそうならなかった時にクレームが来るのを恐れるためだろう。
でも,そうしたリスクも含めて医師は患者に適切な処置と「心の平安」を与えるのが医療従事者としての最低限のラインなのではと思ってしまう。
「先生は悪意なくそう言っただけだろう…」。
では,逆に,悪意がないということが善意なのかナとも思ってしまう。
三年前,東日本大震災が起こった直後福島のある高校の避難所に演奏に行った時そこで働いていた若いボランティアの人たちから聞いたことばがとても気になった。
「いろいろなモノを支援物資として日本中から送ってこられるんですが,中には何でこんなモノを送ってくるのだろうと首をかしげるものがたくさんあるんです」と彼ら彼女らが説明してくれたのは,「被災者に衣類を」と言ってボロボロの古着を送ってくる人がいるのだということだった。
別に新品を送れとは言わないけれど,どう考えても(捨てようと考えていたとしか考えられない)古着を被災地に送ってくる人がいるのは,「これも善意なのだろうか?」とボランティアの人たちならずとも首をかしげたくなってくる。
きっと世の中には,「悪い善意」と「良い善意」の二種類が存在しているのかもしれない。
私が好きな『鬼平犯科帳』の中の鬼平のセリフに,「人間は良いことをしようとして悪いことをしてしまい,悪いことをしたつもりが結果として良いことをしてしまうものだ」という件がある。
もちろん,作者の池波正太郎さんのことばなのだろうが,人間が一番考えなければいけないのはやはりこのことなのかナと思う。
自分の考えが「善意」であっても,それがなかなか思う通りに「善意」としては通用しない。
それは,「相手の立場」にたっていないからだ。
人と人。人と自然。人と動物であっても,コミュニケーションというのは相手の立場をどれだけ思いやれるかにかかっている。
まず「相手」,それから「自分」。
だから,私は介護現場に音楽家が(善意のつもりで)ボランティアで演奏に行くことをあまり歓迎しない。
「音楽もコミュニケーション」。
「介護もコミュニケーション」。
「自己満足」にならずに相手のことを先に考える「コミュニケーション」が取れなければ,音楽も介護もその目的を十分に果たすことはできない。
私はそう思っている。
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