二十代の初めの学生の頃から音楽の仕事をしていた。
だから、別に大学と仕事はあまり関係がないのでは…と思っていた。
それでも、二十代の半ばで突然アカデミックな音楽の勉強をやり直してみたくなった。
別にコンプレックスがあった訳ではない。
音楽の勉強なんか大学に行かなくったって十分できると思っていたし、げんにレコーディングスタジオでクライアントやプロデューサーに要求される通りの演奏がいつでも出きる自信はあった。
今さらアカデミックに音楽を勉強し直すことにどれほどの価値があるのだろうという気はしていたけれども、それでも「留学」という形でもう一度音楽を勉強し直してみるのも悪くないかナと思った。
まだ二十代半ば。
人生いくらでもやり直しがきくと思っていた頃だ。
アメリカで勉強していくうちに面白いことに気がついた。
音楽理論の授業だった。
品の良い中年女性が担当のクラスだった。
毎週やる小テストの答案を返される時(アメリカの大学では毎週必ずテストがありその点数の積み重ねで成績が決まるので学生は絶対に授業を休めない)、一人の学生が教師に食ってかかり始めた。
「答えはあっているのに何で点数を引かれているのか」と彼は教師に抗議していたのだ。
先生はやんわりと学生をこう諭した。
「確かに答えはあっていますが、あなたの解答の文章の英語に間違いがあります。だから点数を引いたのです」。
そう先生が言った瞬間、私は自分の答案用紙をあわてて見直した。
ネイティブの学生の英語がチェックされるんだったら外国人の私の英語はどうなのだろう?
しかし、幸い私の答案から英語のマイナス点は引かれていないようだった。
答えはあっているのに英語がおかしいと言って点数をひく先生。
それに気色ばって抗議する学生。
私がその光景を見て気がついたのは、この国(アメリカ)では例え「音楽理論」というロジックの中で行われる講義の中でも教師のロジックの方が優先されるということだった。
日本のように社会の中に存在する「暗黙のルール(見えないロジック)」にほとんどの人が従って暮らしている社会とは違い、個人のロジックがまず優先され、それがぶつかりあう社会がアメリカなんだと初めて気づかされた瞬間でもあった。
でも、これってアメリカだけじゃないのでは。
ほとんどの西欧社会はこのロジックで動いているんじゃないかナ。
だから個性的と言われ、まず個人が尊重される。
うん?でも、待てよ。
それって果たして良いことか?
何億人という地球の住人全てが個人のロジックを主張したら世界はどうなってしまうんだ?
誰がどう世界をまとめるんだ?
きっと誰もまとめられはしないのだろう。
私はアナタとは違う。だから私がいる。だから私の理屈がある。
まさに、エゴを主張する左脳の働きがそうさせるのか。
だから、地球上では戦争が絶えないのか。
常に形、論理など、境界線を作ろうとする左脳の働きがロジックを作ると言われている。
だから、ここ(左脳)から言語や記号、理屈が作られるという説明はよくわかる。
一方の右脳では全ての境界がなく、自分の肉体もアナタの肉体も地球も宇宙も全ての境がなくなり流動体のようになっているという説明を、自らも脳卒中に罹患したハーバード大学の脳科学者ジル・テイラー女史(博士)が著書の『奇跡の脳』の中でしていた。
まったく科学者らしからぬどこか神秘体験のような説明(しかも、彼女は「ニルヴァーナ(涅槃)」ということばでその状況を説明していた)は、私にはけっこうしっくりきた。
だから、音楽は全て右脳の作業で、音楽に正しいも間違ったもなく(善悪の判断は左脳の仕事で、だからここでロジックが作られる)、音楽そのものが宇宙であり人間そのものだという言い方も「きっとそうなんだろうな」と妙に納得できた。
『水戸黄門』のような勧善懲悪ドラマは、「最後に善は悪に勝つ」、だから「善こそが人を幸福に導く」というロジックで作られることが多いが、これこそが私はかなりクセものだと思っている。
この理屈があるからこそ、人類は「私たちが正しい。だから、正しくない悪者をやっつけろ」と闘いをずっとし続けて来たからだ。
多分(私にも確信はないが)、人間の「幸福感」にはこの右脳と左脳の機能の違いが関わっているような気がしてならない。
以前私が書いた『音楽はなぜ人を幸せにするのか(新潮選書)』という著者でこの部分(右脳左脳の違い)をもうちょっと突き詰められれば良かったのだが、残念ながらそこまで突き詰められてはいなかった。
多分、今ならこういう表現を付け加えるだろう。
「幸福」と「不幸」という二つのことばを、対立することば(つまり、反対語)として理解してはいけないのではないのか。
不幸という感覚はおそらく全て左脳でとらえられている。
そんな気がしてならない。
なぜなら、人が不幸という感覚を認識する時そこには必ず自分と他者を区別する「境界線」があるからだ。
あの人は私よりキレい。あの人は私よりお金を持っている。あの人は私よりスタイルが良い。あの人は私より地位が上。あの人は私より楽器が上手… だから(ひるがえって)、私は不幸。
人間が自分を不幸と感じる時、必ずそこに自分と対象物との比較が存在する(嫉妬や妬みということばで表現されることもあるが)。
だから不幸、なのだ。
自分がもし世界にただ一人の存在で何も比較するものがなく宇宙そのものだと感じることができたら…(これこそ、なにやら神秘体験のような話になってくるが)…これこそが「幸福」ということなのでは、という気がしてならない。
ある音楽を聞いて幸福を感じる。
ある食べ物を食べた瞬間「幸福」を感じる。
これ自体はどんな人間にも起こることなので否定はされないだろう。
ただ、この「幸福」を感じる理由がどこにあるかで人々の意見は分かれる。
テイラー博士は、この幸福感を自分が脳卒中で倒れた時に感じたという(この辺が脳卒中を体験したことのない私にはわからないが、実際脳卒中を罹患した恵子も似たようなことを言ったことがあるので、きっと右脳と左脳には「何か」あるのではと思っているのだが…)。
テイラー博士は、その時(彼女の右脳で)感じた「幸福感」を「ニルヴァーナ」という単語で表現している。
もちろんこれは仏教用語で、一般的には「涅槃」を訳されることば。
で、それを女史は、「右脳で感じる自分とその他一切の対象物との境のない自分が流動体になってしまったかのような恍惚とした状態」と説明する。
これがもし「幸福」の正体だとしたら、私たちが音楽を聞いた時に感じる「幸福感」も食べ物を食べた時に感じる「幸福感」もなんとなく納得がいくような気が(私には)する。
つまり、時間も空間も、ある意味生きていることさえ超越してしまうような次元に一瞬にしてワープしてしまう状態(こんな稚拙な表現でいいのかナ?)が人の感じる「幸福感」の正体なのではと時々感じることがあるからだ。
これまで二百回以上訪問した介護施設でお年寄りたちが見せる「涙」や「笑顔」の正体が単に「音楽を聞いて、歌って、その音楽に関連する過去の記憶を思い出すから」という説明だけではどうも納得がいかないのだが、こうした右脳が感じる「次元を超越した普遍性」みたいなものにもし理由があるのだとすれば(私自身は)けっこう納得がいく。
とはいっても、こういうことを研究されている人は世界中探してもほとんどいない(音楽と脳に関する世界中の著作はかなり読んできたつもりだが、例えば私たちがいつも施設で感じているお年寄りたちの音楽に対する幸福感を説明している著作が現れてきてもそろそろ良い頃だと思うのだが、そんな本に巡り会ったことは一度もない)。
この数ヶ月、音楽で認知症を改善させたアメリカのドキュメンタリー映画『パーソナルソング』の自主上映会を各地でやろうと尽力してきた。
結果、今月半ばには(議員さんたちに見せるために)国会内でも上映できることになったし、その他、既に5、6カ所で実現の可能性も出てきている。
音楽こそが認知症の対策に有効!と主張する時、いつも言われるのが、科学的なエビデンスは?費用対効果は?といった問いだ。
もちろん、そういう突っ込みが来るのはよくわかるのだが、そもそも音楽がそういう「境界線のない右脳での作業」だとすれば、証明そのものが不可能なのではという気がしてならない。
だって、ロジックであれば「正しいか正しくない」かの論争があっても良いが、そもそもロジックを否定したところにある音楽がそんな「エビデンス」や「費用対効果」といった経済のロジックで議論されてよいものだろうかと思ってしまうからだ。
音楽はロジックではないからこそ、これまでの人類史で普遍的な価値を持ってきたのではなかったのか。
私たちが、本当に美味しいものを食べて幸福を感じている時に「なんで幸福なんですか。説明してご覧なさい」と言われて説明できる人がいるだろうか。
同じように、認知症(でなくても)のお年寄りが音楽を聞いたり歌ったりして幸せな顔で家族と話をされている姿を見て「なんで幸せなんですか。何を思いだしたんですか」と問いつめる必要がどこにあるのか。
右脳と左脳。
そして、音楽と認知症。
こんな視点で「老い」を見つめることが世の中の常識になる日が来るのかナ…。
毎日そんなことをラチもなく考えている。
だから、別に大学と仕事はあまり関係がないのでは…と思っていた。
それでも、二十代の半ばで突然アカデミックな音楽の勉強をやり直してみたくなった。
別にコンプレックスがあった訳ではない。
音楽の勉強なんか大学に行かなくったって十分できると思っていたし、げんにレコーディングスタジオでクライアントやプロデューサーに要求される通りの演奏がいつでも出きる自信はあった。
今さらアカデミックに音楽を勉強し直すことにどれほどの価値があるのだろうという気はしていたけれども、それでも「留学」という形でもう一度音楽を勉強し直してみるのも悪くないかナと思った。
まだ二十代半ば。
人生いくらでもやり直しがきくと思っていた頃だ。
アメリカで勉強していくうちに面白いことに気がついた。
音楽理論の授業だった。
品の良い中年女性が担当のクラスだった。
毎週やる小テストの答案を返される時(アメリカの大学では毎週必ずテストがありその点数の積み重ねで成績が決まるので学生は絶対に授業を休めない)、一人の学生が教師に食ってかかり始めた。
「答えはあっているのに何で点数を引かれているのか」と彼は教師に抗議していたのだ。
先生はやんわりと学生をこう諭した。
「確かに答えはあっていますが、あなたの解答の文章の英語に間違いがあります。だから点数を引いたのです」。
そう先生が言った瞬間、私は自分の答案用紙をあわてて見直した。
ネイティブの学生の英語がチェックされるんだったら外国人の私の英語はどうなのだろう?
しかし、幸い私の答案から英語のマイナス点は引かれていないようだった。
答えはあっているのに英語がおかしいと言って点数をひく先生。
それに気色ばって抗議する学生。
私がその光景を見て気がついたのは、この国(アメリカ)では例え「音楽理論」というロジックの中で行われる講義の中でも教師のロジックの方が優先されるということだった。
日本のように社会の中に存在する「暗黙のルール(見えないロジック)」にほとんどの人が従って暮らしている社会とは違い、個人のロジックがまず優先され、それがぶつかりあう社会がアメリカなんだと初めて気づかされた瞬間でもあった。
でも、これってアメリカだけじゃないのでは。
ほとんどの西欧社会はこのロジックで動いているんじゃないかナ。
だから個性的と言われ、まず個人が尊重される。
うん?でも、待てよ。
それって果たして良いことか?
何億人という地球の住人全てが個人のロジックを主張したら世界はどうなってしまうんだ?
誰がどう世界をまとめるんだ?
きっと誰もまとめられはしないのだろう。
私はアナタとは違う。だから私がいる。だから私の理屈がある。
まさに、エゴを主張する左脳の働きがそうさせるのか。
だから、地球上では戦争が絶えないのか。
常に形、論理など、境界線を作ろうとする左脳の働きがロジックを作ると言われている。
だから、ここ(左脳)から言語や記号、理屈が作られるという説明はよくわかる。
一方の右脳では全ての境界がなく、自分の肉体もアナタの肉体も地球も宇宙も全ての境がなくなり流動体のようになっているという説明を、自らも脳卒中に罹患したハーバード大学の脳科学者ジル・テイラー女史(博士)が著書の『奇跡の脳』の中でしていた。
まったく科学者らしからぬどこか神秘体験のような説明(しかも、彼女は「ニルヴァーナ(涅槃)」ということばでその状況を説明していた)は、私にはけっこうしっくりきた。
だから、音楽は全て右脳の作業で、音楽に正しいも間違ったもなく(善悪の判断は左脳の仕事で、だからここでロジックが作られる)、音楽そのものが宇宙であり人間そのものだという言い方も「きっとそうなんだろうな」と妙に納得できた。
『水戸黄門』のような勧善懲悪ドラマは、「最後に善は悪に勝つ」、だから「善こそが人を幸福に導く」というロジックで作られることが多いが、これこそが私はかなりクセものだと思っている。
この理屈があるからこそ、人類は「私たちが正しい。だから、正しくない悪者をやっつけろ」と闘いをずっとし続けて来たからだ。
多分(私にも確信はないが)、人間の「幸福感」にはこの右脳と左脳の機能の違いが関わっているような気がしてならない。
以前私が書いた『音楽はなぜ人を幸せにするのか(新潮選書)』という著者でこの部分(右脳左脳の違い)をもうちょっと突き詰められれば良かったのだが、残念ながらそこまで突き詰められてはいなかった。
多分、今ならこういう表現を付け加えるだろう。
「幸福」と「不幸」という二つのことばを、対立することば(つまり、反対語)として理解してはいけないのではないのか。
不幸という感覚はおそらく全て左脳でとらえられている。
そんな気がしてならない。
なぜなら、人が不幸という感覚を認識する時そこには必ず自分と他者を区別する「境界線」があるからだ。
あの人は私よりキレい。あの人は私よりお金を持っている。あの人は私よりスタイルが良い。あの人は私より地位が上。あの人は私より楽器が上手… だから(ひるがえって)、私は不幸。
人間が自分を不幸と感じる時、必ずそこに自分と対象物との比較が存在する(嫉妬や妬みということばで表現されることもあるが)。
だから不幸、なのだ。
自分がもし世界にただ一人の存在で何も比較するものがなく宇宙そのものだと感じることができたら…(これこそ、なにやら神秘体験のような話になってくるが)…これこそが「幸福」ということなのでは、という気がしてならない。
ある音楽を聞いて幸福を感じる。
ある食べ物を食べた瞬間「幸福」を感じる。
これ自体はどんな人間にも起こることなので否定はされないだろう。
ただ、この「幸福」を感じる理由がどこにあるかで人々の意見は分かれる。
テイラー博士は、この幸福感を自分が脳卒中で倒れた時に感じたという(この辺が脳卒中を体験したことのない私にはわからないが、実際脳卒中を罹患した恵子も似たようなことを言ったことがあるので、きっと右脳と左脳には「何か」あるのではと思っているのだが…)。
テイラー博士は、その時(彼女の右脳で)感じた「幸福感」を「ニルヴァーナ」という単語で表現している。
もちろんこれは仏教用語で、一般的には「涅槃」を訳されることば。
で、それを女史は、「右脳で感じる自分とその他一切の対象物との境のない自分が流動体になってしまったかのような恍惚とした状態」と説明する。
これがもし「幸福」の正体だとしたら、私たちが音楽を聞いた時に感じる「幸福感」も食べ物を食べた時に感じる「幸福感」もなんとなく納得がいくような気が(私には)する。
つまり、時間も空間も、ある意味生きていることさえ超越してしまうような次元に一瞬にしてワープしてしまう状態(こんな稚拙な表現でいいのかナ?)が人の感じる「幸福感」の正体なのではと時々感じることがあるからだ。
これまで二百回以上訪問した介護施設でお年寄りたちが見せる「涙」や「笑顔」の正体が単に「音楽を聞いて、歌って、その音楽に関連する過去の記憶を思い出すから」という説明だけではどうも納得がいかないのだが、こうした右脳が感じる「次元を超越した普遍性」みたいなものにもし理由があるのだとすれば(私自身は)けっこう納得がいく。
とはいっても、こういうことを研究されている人は世界中探してもほとんどいない(音楽と脳に関する世界中の著作はかなり読んできたつもりだが、例えば私たちがいつも施設で感じているお年寄りたちの音楽に対する幸福感を説明している著作が現れてきてもそろそろ良い頃だと思うのだが、そんな本に巡り会ったことは一度もない)。
この数ヶ月、音楽で認知症を改善させたアメリカのドキュメンタリー映画『パーソナルソング』の自主上映会を各地でやろうと尽力してきた。
結果、今月半ばには(議員さんたちに見せるために)国会内でも上映できることになったし、その他、既に5、6カ所で実現の可能性も出てきている。
音楽こそが認知症の対策に有効!と主張する時、いつも言われるのが、科学的なエビデンスは?費用対効果は?といった問いだ。
もちろん、そういう突っ込みが来るのはよくわかるのだが、そもそも音楽がそういう「境界線のない右脳での作業」だとすれば、証明そのものが不可能なのではという気がしてならない。
だって、ロジックであれば「正しいか正しくない」かの論争があっても良いが、そもそもロジックを否定したところにある音楽がそんな「エビデンス」や「費用対効果」といった経済のロジックで議論されてよいものだろうかと思ってしまうからだ。
音楽はロジックではないからこそ、これまでの人類史で普遍的な価値を持ってきたのではなかったのか。
私たちが、本当に美味しいものを食べて幸福を感じている時に「なんで幸福なんですか。説明してご覧なさい」と言われて説明できる人がいるだろうか。
同じように、認知症(でなくても)のお年寄りが音楽を聞いたり歌ったりして幸せな顔で家族と話をされている姿を見て「なんで幸せなんですか。何を思いだしたんですか」と問いつめる必要がどこにあるのか。
右脳と左脳。
そして、音楽と認知症。
こんな視点で「老い」を見つめることが世の中の常識になる日が来るのかナ…。
毎日そんなことをラチもなく考えている。
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