私は、SNSでよく見かける「… なう」という文章が苦手だ(こう書く人、世の中にゴマンといるけれど)。
というより、私はこの「...なう」という文字を見るたびに「この人、一体何考えてるんだろう」とさえ思ってしまう。
なんでわざわざ自分の居場所(や、自分の行動)を、赤の他人(しかも不特定多数)に知らせる必要があるのかなと思うからだ(あまりに無防備じゃない?)。
どのみち現代に生きる私たちの行動はスマホや携帯など何らかの端末を持っている限り世界中どこにいても探知される(可能性)があることは周知の事実。
居場所をわざわざ(しかも自ずから)宣言する必要などどこにあるのか。
それでもなおかつ「私ここにいて何々してます」と(世間に対して)つぶやきたいのはなぜなのかナといつも思う。
きっと誰かとつながっていたい、ということなのか(SNSの目的は元来そこにあるのに何を今さら寝ぼけたことを言っているんだと突っ込まれるかもしれないが)。
翻って、私たちが認知症患者さんたちをケアする時の一番の難しさもまさしくここにあるのではという気がいつもしている。
通常の会話や社交であれば、普通、人と人は「ことば」でつながることができる。
しかし、ことばでつながることができない時、基本的に(人と人との関係で、国と国との関係で)問題が発生する。
私たちと認知症患者の人たちとのトラブルの原点もここにある。
患者さんとは普通に(ことばで)つながることができない(あるいは、困難だ)。
それが家族間だろうが、他人同士だろうが関係ない。
昨日まで、あるいはさっきまで普通につながっていた関係が突然何のコミュニケーションも取れなくなってしまう。
ことばによるコミュニケーションだけでなく、ごく近しい人たちの間で普通に行われていたスキンシップまでもが拒否されてしまうのが認知症ケアの深刻な問題の一つなのだ。
単に優しく身体に触れようとすることが(患者さんからは)「攻撃」と受け取られたりするし、患者の側も必要以上に攻撃的に反応する。
身体はそこにあるのに心はおよそどこにあるのか「行方不明」な状態、それが認知症ケアで日常的に私たちが直面する最も大きな問題の一つだ。
しかし、そんな一見つながりを拒否しているように見える認知症の人たちの心にも音楽ならわりと簡単に到達することができる。
頑丈な鎧でプロテクトされ閉ざされてしまっている(認知症患者の)心の扉を開くことのできる「魔法の鍵」が「音楽」なんだということに人は案外気づかない。
というのも、この心の扉を開ける鍵は一人一人違うからだ。
マスターキーでどんな扉でもガチャというようなイージーなものではない。
しかし、いったんその人にピッタリのカギ(音楽)が見つかればこんなに簡単に心の扉を開けられる道具も他にはない(今のところ、抗認知症薬で音楽以上の効果を持つものは一つもないはずだ)。
その人の心の扉を開く「魔法の音楽」とは、その人の記憶にダイレクトに届く音楽。
「記憶」というのは、その人の「人生」そのもの。
音楽が、その人の記憶(=人生)を蘇らせてくれるのだ。
カチャ。
「その音楽」が鳴った瞬間、一瞬にしてその扉は開く。
ここには(医学的な)エビデンスも(経済的な)費用対効果も必要ない(はずだ)。
しかし、私はこれまでにこの2つを明確に示せと何度要求されてきたことだろう。
つまり、「そんなに音楽に効果があるんだったらその証拠をちゃんと出せ」と言われてきたのだ(今でも言われる)。
エビデンスは単なる医学的な数字、費用対効果も単に経済的な数字に過ぎない。
そんなものが何の証拠にもならないことは、医者やエコノミストが一番よく知っている。
人の心がそんな数字で測れるんだったら苦労はない。
iPodという小さな「魔法の箱」の中におさまった音楽が認知症やさまざまな病気に悩む人たちの(閉ざされた)心を救っていくさまを追ったアメリカのドキュメンタリー映画『パーソナルソング』の上映会が昨日国会の参議院議員会館で議員さんや介護関係の方など200人近くの人たちを集めて行われた。
私が、「音楽を介護の現場で実践しているミュージックホーププロジェクトの代表者」という形で上映後の短い解説を担当した。
この映画の自主上映会を行う運動は今後も続けていくつもりだ。
なぜなら、この映画ほど音楽と認知症の関係を世の中に適確に説明してくれる道具も他にないからだ。
すると、上映後ある方からこう声をかけられた。
「今度はみつとみさんがこんなドキュメンタリー映画を作る番ですね」。
そうか。その手があったか。
というより、私はこの「...なう」という文字を見るたびに「この人、一体何考えてるんだろう」とさえ思ってしまう。
なんでわざわざ自分の居場所(や、自分の行動)を、赤の他人(しかも不特定多数)に知らせる必要があるのかなと思うからだ(あまりに無防備じゃない?)。
どのみち現代に生きる私たちの行動はスマホや携帯など何らかの端末を持っている限り世界中どこにいても探知される(可能性)があることは周知の事実。
居場所をわざわざ(しかも自ずから)宣言する必要などどこにあるのか。
それでもなおかつ「私ここにいて何々してます」と(世間に対して)つぶやきたいのはなぜなのかナといつも思う。
きっと誰かとつながっていたい、ということなのか(SNSの目的は元来そこにあるのに何を今さら寝ぼけたことを言っているんだと突っ込まれるかもしれないが)。
翻って、私たちが認知症患者さんたちをケアする時の一番の難しさもまさしくここにあるのではという気がいつもしている。
通常の会話や社交であれば、普通、人と人は「ことば」でつながることができる。
しかし、ことばでつながることができない時、基本的に(人と人との関係で、国と国との関係で)問題が発生する。
私たちと認知症患者の人たちとのトラブルの原点もここにある。
患者さんとは普通に(ことばで)つながることができない(あるいは、困難だ)。
それが家族間だろうが、他人同士だろうが関係ない。
昨日まで、あるいはさっきまで普通につながっていた関係が突然何のコミュニケーションも取れなくなってしまう。
ことばによるコミュニケーションだけでなく、ごく近しい人たちの間で普通に行われていたスキンシップまでもが拒否されてしまうのが認知症ケアの深刻な問題の一つなのだ。
単に優しく身体に触れようとすることが(患者さんからは)「攻撃」と受け取られたりするし、患者の側も必要以上に攻撃的に反応する。
身体はそこにあるのに心はおよそどこにあるのか「行方不明」な状態、それが認知症ケアで日常的に私たちが直面する最も大きな問題の一つだ。
しかし、そんな一見つながりを拒否しているように見える認知症の人たちの心にも音楽ならわりと簡単に到達することができる。
頑丈な鎧でプロテクトされ閉ざされてしまっている(認知症患者の)心の扉を開くことのできる「魔法の鍵」が「音楽」なんだということに人は案外気づかない。
というのも、この心の扉を開ける鍵は一人一人違うからだ。
マスターキーでどんな扉でもガチャというようなイージーなものではない。
しかし、いったんその人にピッタリのカギ(音楽)が見つかればこんなに簡単に心の扉を開けられる道具も他にはない(今のところ、抗認知症薬で音楽以上の効果を持つものは一つもないはずだ)。
その人の心の扉を開く「魔法の音楽」とは、その人の記憶にダイレクトに届く音楽。
「記憶」というのは、その人の「人生」そのもの。
音楽が、その人の記憶(=人生)を蘇らせてくれるのだ。
カチャ。
「その音楽」が鳴った瞬間、一瞬にしてその扉は開く。
ここには(医学的な)エビデンスも(経済的な)費用対効果も必要ない(はずだ)。
しかし、私はこれまでにこの2つを明確に示せと何度要求されてきたことだろう。
つまり、「そんなに音楽に効果があるんだったらその証拠をちゃんと出せ」と言われてきたのだ(今でも言われる)。
エビデンスは単なる医学的な数字、費用対効果も単に経済的な数字に過ぎない。
そんなものが何の証拠にもならないことは、医者やエコノミストが一番よく知っている。
人の心がそんな数字で測れるんだったら苦労はない。
iPodという小さな「魔法の箱」の中におさまった音楽が認知症やさまざまな病気に悩む人たちの(閉ざされた)心を救っていくさまを追ったアメリカのドキュメンタリー映画『パーソナルソング』の上映会が昨日国会の参議院議員会館で議員さんや介護関係の方など200人近くの人たちを集めて行われた。
私が、「音楽を介護の現場で実践しているミュージックホーププロジェクトの代表者」という形で上映後の短い解説を担当した。
この映画の自主上映会を行う運動は今後も続けていくつもりだ。
なぜなら、この映画ほど音楽と認知症の関係を世の中に適確に説明してくれる道具も他にないからだ。
すると、上映後ある方からこう声をかけられた。
「今度はみつとみさんがこんなドキュメンタリー映画を作る番ですね」。
そうか。その手があったか。
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