人の理解というのは、その人の知識だけでなく体験や経験、環境というのがものすごく大事な役割をしているのだなということがよくわかる。
恵子の退院以来、いろいろな方からお祝いのメールやら電話やらお手紙をいいただくが、中には現状をよく理解なさっていない方もいらっしゃる。
普通、退院イコール全治と思うが、そうでもない病気も世の中にはたくさんあるということを理解するのは案外難しい。
特に、この脳疾患系の病気というのは完治する方が珍しいので、この病気の症状とどうつきあっていくのか、どうリハビリしていくのか自体が、患者本人、家族にとっては「試練」でもある。
恵子の麻痺は相変わらず続いている。
もちろん、全体として見れば良い方に行っていることは確かなのだが、「劇的」に良くなる病気ではない。
この病気の発症から10年ぐらい経過した人でも、シビレやくみが取れない人もいる。ことばや認知に障害が残る人もいる。
そんな状況は、おそらく身近に(家族に)そういう病気の人を持ったことのある人でないとわかりにくいかもしれない。
なので、それが「理解できない」ことを責める気は毛頭ない。
しかしながら、もう既に6人に一人ぐらいの割合で発症する可能性のある脳疾患系の病気は、全ての人たちにとって「人ごと」ではない。
致死率だけの問題ではなく、リハビリをどうやっていけば良いのか、患者本人だけでなく家族はこの病気とどうつきあっていけば良いのか、体験者が多くを語る必要があると思うのだが、その発言は意外なほど少ない。
先日、通院している病院の中に「脳卒中患者の手記」のような小冊子が置いてあったのでそれをひと通り読んだのだが、本当にこれだけの「声」で良いのだろうかと思ってしまった。
脳卒中協会という社団法人がまとめた応募手記で、手記の応募総数自体が百通あまりだという。そして、掲載されていたのは10人ほどの手記。
しかも、それぞれの体験が2ページほどの短い文章にまとめられている。
それぞれの家族の「葛藤」「悲しみ」「喜び」怒り」といったドラマがたった2ページに収めきれるはずもないし、応募がたったの百とはあまりに少な過ぎる。
患者の総数は知らないが、実際に患者や家族のことばはもっともっと多いし、実にさまざまなケースがあることを私たちは知っておく必要があるのではないのか。
この手記を読んでそんな気がしてならなかった。
「うちの親がそうでした」という話もよく聞く。
そして、音楽仲間にもこの病気を患った人がいる。
みんなケースバイケースなのだが、この病気の発症は、多くの場合「失職」を意味する。
プロの音楽家が、それまでできていた楽器が出来なくなる苦痛は本人にしかわからないだろうし、それぞれその職業の人にしか理解できないだろう。
そんなさまざまなケースにある「声」がもっと世の中に出て来ていいのでは?と思う。
いつも行く病院で目にする光景がある。
患者さんが奥さんの老夫婦だ。
病院からご主人が車椅子に乗せ、そして奥さんを車椅子から背中にしょい、そのまま後ろ向きに軽自動車の座席に載せる。
それだけの光景なのだが、このご夫婦には一体どんなドラマがあるのだろうかー想像するだけで胸が締め付けられる思いがする。
でも、きっとこのご主人も奥さんも何も言わないだろうし、何も世の中には何も発言しないだろうと思う。
そんな人たちの本当の声を聞いてみたいと思うのは私だけではないはずだ。
恵子の退院以来、いろいろな方からお祝いのメールやら電話やらお手紙をいいただくが、中には現状をよく理解なさっていない方もいらっしゃる。
普通、退院イコール全治と思うが、そうでもない病気も世の中にはたくさんあるということを理解するのは案外難しい。
特に、この脳疾患系の病気というのは完治する方が珍しいので、この病気の症状とどうつきあっていくのか、どうリハビリしていくのか自体が、患者本人、家族にとっては「試練」でもある。
恵子の麻痺は相変わらず続いている。
もちろん、全体として見れば良い方に行っていることは確かなのだが、「劇的」に良くなる病気ではない。
この病気の発症から10年ぐらい経過した人でも、シビレやくみが取れない人もいる。ことばや認知に障害が残る人もいる。
そんな状況は、おそらく身近に(家族に)そういう病気の人を持ったことのある人でないとわかりにくいかもしれない。
なので、それが「理解できない」ことを責める気は毛頭ない。
しかしながら、もう既に6人に一人ぐらいの割合で発症する可能性のある脳疾患系の病気は、全ての人たちにとって「人ごと」ではない。
致死率だけの問題ではなく、リハビリをどうやっていけば良いのか、患者本人だけでなく家族はこの病気とどうつきあっていけば良いのか、体験者が多くを語る必要があると思うのだが、その発言は意外なほど少ない。
先日、通院している病院の中に「脳卒中患者の手記」のような小冊子が置いてあったのでそれをひと通り読んだのだが、本当にこれだけの「声」で良いのだろうかと思ってしまった。
脳卒中協会という社団法人がまとめた応募手記で、手記の応募総数自体が百通あまりだという。そして、掲載されていたのは10人ほどの手記。
しかも、それぞれの体験が2ページほどの短い文章にまとめられている。
それぞれの家族の「葛藤」「悲しみ」「喜び」怒り」といったドラマがたった2ページに収めきれるはずもないし、応募がたったの百とはあまりに少な過ぎる。
患者の総数は知らないが、実際に患者や家族のことばはもっともっと多いし、実にさまざまなケースがあることを私たちは知っておく必要があるのではないのか。
この手記を読んでそんな気がしてならなかった。
「うちの親がそうでした」という話もよく聞く。
そして、音楽仲間にもこの病気を患った人がいる。
みんなケースバイケースなのだが、この病気の発症は、多くの場合「失職」を意味する。
プロの音楽家が、それまでできていた楽器が出来なくなる苦痛は本人にしかわからないだろうし、それぞれその職業の人にしか理解できないだろう。
そんなさまざまなケースにある「声」がもっと世の中に出て来ていいのでは?と思う。
いつも行く病院で目にする光景がある。
患者さんが奥さんの老夫婦だ。
病院からご主人が車椅子に乗せ、そして奥さんを車椅子から背中にしょい、そのまま後ろ向きに軽自動車の座席に載せる。
それだけの光景なのだが、このご夫婦には一体どんなドラマがあるのだろうかー想像するだけで胸が締め付けられる思いがする。
でも、きっとこのご主人も奥さんも何も言わないだろうし、何も世の中には何も発言しないだろうと思う。
そんな人たちの本当の声を聞いてみたいと思うのは私だけではないはずだ。
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