「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2014・05・20

2014-05-20 14:50:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「清岡卓行氏の十年ごしの労作『マロニエの花が言った』上下二巻が同時に新潮社から出た。ずっしりと重い大冊である。たぶん三千枚を越すだろう。なかに一九三〇年当時の私が出ているのでとりあえずそのあたりを見た。
 一九三〇年は昭和五年にあたる。私は満で十五歳、今でいう登校拒否で、ほとんど口をきかないから料見が分らない。わが家はなが年の金利生活者で両親とも経済音痴である。父は昭和二年脳溢血で倒れ一年病床にいて、昭和三年、五十になるやならずで死んだ。
 母は私を持てあましていたのだろう。昭和五年長いフランス生活から一時帰国した武林無想庵がたまたま訪ねてきて、父の死を知り、そこに少年の私がいたので友だちの子なら友だと私に東京案内をさせた。古く知っている店なら行くまでもない。知らない所へ行こうと、料理屋へあがった、カフエーに行った。当時は親が子に遊び方を教えるために待合へつれていくことがあった。女将(おかみ)はほとんど無意味なおしゃべりをして、それが音楽的で大人どもはこうして遊興の気分になるのだなと傍観者である少年の私には見えた。いずれにせよ芸者が来るまでのつなぎで、芸者が来るとあとはまかせて女将はにぎやかに去った。
                                     〔『諸君!』平成十一年十一月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする